2004年4月29日 (木)

呉智英氏の思ひ出(8) 手紙

 スイスに來て二年目、すなはち平成十一年の新春である。仕事や生活がやうやく落着いたのを機に、勇を鼓し、私は呉氏に初めて手紙を書いた。宛先は、呉氏の著作を多く出してゐる双葉社編輯部氣附である。永年の愛讀者である事、「噂の眞相」への投稿を著作で紹介して貰つた事、大學時代に講演を聽いた事などを、緊張しながらも懷かしい氣持で認めた。

 その後で、呉氏の主張に對する感想と云ふ名目で、實質的には質問を以下の如く書き連ねた。字句を一部改めた以外、原文のままである。思ひ出に殘る手紙と思ひ、コピーを取つておいたのである。

 天皇制度の擁護。先生は昔、「話の特集」誌のインタヴューで「民主主義は駄目だが共和制は良い」との趣旨の事を述べられ、最近のシンポジウムでは「私は天皇制廢止論者」と明言されました。私は、T・S・エリオットや加地伸行氏が云ふやうに、人間が道徳的・文化的に生きる爲には宗教が必要であり、日本人にとつて天皇を祀り主とする「先祖教」(天皇制度)は不可缺と考へます。先生の理想とされる封建制社會の下でも天皇(王)の存在は不可缺ではないでせうか。王と云ふ「時代錯誤」な存在を缺いた社會は全く無味乾燥ではないでせうか。

 フランス革命を起源とする「人權」とは別の「人權」概念を救ひ出す必要は無いか。山路愛山は「日本の歴史に於ける人權發達の痕跡」で、皇室による日本統一以來、明治維新後に到るまで、人民が自己の存在を主張し、自己の權利を擴大して來たと説いてゐるさうです。

 「人權」の概念無くして、刑事手續における被疑者、被告の保護は可能か。

徳治主義の現代における有效性。韓非子は「五蠹篇」において、「孔子の徳は世界がこれを讚美したが、門人となつて附從つた者はわづかに七十人に過ぎなかつた」と、徳治主義の限界と法治主義の優位を説いてゐます。

 呉先生のおつしやる「封建主義」における靈魂觀。人は死後、佛教が説くやうに西方淨土に行くのか、儒教が云ふやうに消えてなくなるのか、柳田國男や平田篤胤が信じたやうに「故郷の山の高み」にとどまるのか。

 今讀返すと、隨分と不躾であるし、己が不勉強を棚に上げて答へを聽かうとする蟲の好い根性がありありである。質問の仕方が拙劣な箇所もあつた。それでも、さすがに「是非とも御返事ください」と書けるほど私の心臟は強くなかつた。勿論本音を云へば、呉氏の意見は是非知りたい。だが何と云つても先方は有名な評論家であり、こちらは一讀者に過ぎない。返事を貰へるとは期待しなかつた。歸國して、いづれまた講演でも聽く機會があれば、その時にあらためて尋ねよう――。そんな風に考へてゐた。

 ところが、呉氏は早速返事をくださつたのである。半月後、やや嵩張る航空便が屆いた。茶封筒を開くと、中には當時の最近著『ロゴスの名はロゴス』があつた。本には航空便用の薄い便箋が挾まつてをり、私の疑問に對し、簡潔だが丁寧な返事が記されてゐた。

 ここで手紙の内容を詳らかにする事は出來ないが、失禮を承知で、私の最大の疑問であつた天皇制度に關する見解だけは紹介したい。呉氏は、きつぱりと次のやうに記してゐた。

 天皇制について。民衆(近代國民國家の國民)には必要かもしれない。明治始めに作られたぐらゐだから。しかし、私には不要。(このことは最終的に、賢者・愚民問題にゆきつく)

 ここで呉氏の考へにさらに異論を述べる準備は無い。寧ろ、自戒の意味も込めて、呉氏の遠慮のない發言に反撥するであらう人たちに云つておきたい。呉氏の意見を簡單に却ける事は出來ない。たとへ知識人で無くとも、西洋近代の平等思想を一度知つて仕舞つた我々現代日本人は、御先祖樣と異り、天皇の權威を素直に認める事が極めて難しくなつてゐるからである。もう手後れかもしれないのである。その事實に眼を瞑り、安直な「尊皇節」を唱へる事は、知的怠惰に他ならない。

 呉氏の手書きの文章は、歴史的假名遣で、漢字は略字體であつた。「正字正假名がいいと思ひますが、書く時は正字は面倒なので正假名のみにしてゐます」。ここにも率直で飾らない性格が表れてゐると思ひ、私は嬉しかつた。同封された本については、「廢棄したオールナイターズのチケット代のつもりです」とあつた。

 昔と今とで、呉氏の思想に對する私の考へ方は變つて來た。だが、私は、今後も呉氏の讀者であり續けるであらう。(了) (平成13年4月29日)

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呉智英氏の思ひ出(7) 疑義

 平成十年頃だつたと思ふ。呉氏は、保守派論客によるシンポジウム(「新しい教科書をつくる會」關係だつたかもしれぬ)にゲストとして招かれた席上、「私は天皇制廢止論者である」と發言し、物議を釀した。激しい左翼批判で知られた呉氏の「反天皇發言」は、言論界では意外に受け止められたやうである。私は討論會に行かなかつたので、詳しい發言内容は知らない。しかし以前の「話の特集」のインタヴューを思ひ出し、「ああ、矢張り」と得心したのである。

 呉氏が昨今の安直なナショナリズムに與せず、しかも保守派言論人やその贊同者たる聽衆の面前で、堂々と「反天皇」の持論を開陳した事は、立派であると思ふ。それでも私は、簡單に「天皇反對」と云ひ切つて仕舞ふ事には抵抗がある。森鴎外は明治四十五年に發表した短篇小説「かのやうに」に於て、「神話と歴史とをはつきり考へ分けると同時に、先祖その外の神靈の存在は疑問になつて來るのである。さうなつた前途には恐ろしい危險が横はつてゐはすまいか」と書いた。鴎外が「神話」と書く時、天皇を念頭に置いてゐたのは確實である。私は、天皇と云ふ存在を政治的・社會的な意味で放逐して仕舞つたならば、「さうなつた前途には恐ろしい危險が横はつてゐますまいか」と懼れる。呉氏には、そのやうな危惧は無いのだらうか。

 既に少しく觸れたが、私は、松原正氏の著作に親しむやうになつて以來、呉氏との思想の相違を比較しては色々と思ひを巡らすやうになつた。松原氏は、時代を超えた道徳や文化の重要性を説きつつも、「日本は鎖國してゐた昔には戻れない」と屡々強調する。その師たる福田恆存氏も同樣の思想的立場であり、あへて亂暴を承知で呼べば、「近代化論者」である。これに對し、呉氏の「封建主義」を名稱から判斷して、「復古的」と呼ぶ事は單純すぎよう。それでも呉氏には、「歴史の時計の針を逆に戻す」事を、福田松原兩氏ほど難しいとは考へてゐないやうに見受けられる場面がある。

 第一囘で紹介した「オールナイターズから奪つた八十人の聽衆」に、こんな件りがある。呉氏は一橋大學での講演の直前、同學教授で、マルクス主義歴史學者の佐々木潤之介氏が「封建主義の復權などと云ふ不可能事を主張するとは無責任」と、強く批判してゐる事を知る。佐々木氏が來場して議論でも吹つかけて來たらどう邀撃するか。「よし、ウルトラマンのスペシウム光線でいかう」。奧の手の「スペシウム光線」とは、論戰の最後の最後に佐々木氏に放たうと心に祕めた、以下のやうな反論である。

 封建主義の復權が不可能だとおつしやるのはご自由だが、共産主義の實現にかぎつて、どうして不可能ぢやないんですか、たかが主義の復權より、もつと不可能なはずの、主義の實現を信じる歴史學者は、無責任ぢやないんですか、と。

 呉氏らしい小氣味好いレトリックである。しかし、よく考へると、この反論はやや苦しい。共産主義は、曲がりなりにも舊ソ聯や東歐諸國や現在の中華人民共和國などに於て、少なくも或程度實現した「實績」がある。だが、世界のどこにも、いまだ「封建主義革命」に成功した國もなければ、抑もそんな革命に乘出した國も無いのである。成る程、呉氏が『封建主義、その論理と情熱』で書いたやうに、イラン革命によりイスラムの神權政治が復權した。だがそのイランも今や「民主化」の壓力と無縁ではゐられず、國内で男女平等や政治的自由を求める運動が高まつてゐる。かうした世界の實情を見ると、舊い主義の「復權」が新しい主義の「實現」よりも容易だとは、おいそれと云へさうにない。

 呉氏は『封建主義者かく語りき』において、『鎖國の經濟學』の著者たる經濟學者、大崎正治氏の名を擧げ、絶讚する譯ではないが、積極的に評價した。だが資源保護の觀點から自給自足經濟の效用を説く大崎氏の主張に對しては、呉氏の弟子筋に當たる淺羽通明氏ですら、「北朝鮮の例を見よ」と『ニセ學生マニュアル』の中で批判した。不景氣でよたよたしてゐるとは云へ、まだまだ金滿國の日本が、勝手に鎖國する事を、アメリカをはじめとする諸外國が許す筈がない。鎖國してゐた昔には戻れないのである。

 呉氏自身、「封建主義」の實現が可能だと安直に信じてゐる譯ではあるまい。單純な近代否定論者でもない。數年前、「正論」誌上だつたと思ふが、「新しい歴史教科書をつくる會」の藤岡信勝氏との對談で、呉氏は「現實的には、民主主義を正しく使つて行くしかない」と云ふ意味の發言をしてゐた。呉氏と云へども、「さらば、民主主義よ」とは簡單に行かないのである。ならば、「さらば、天皇よ」とも簡單には行かないのではないか。(平成13年4月29日)

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呉智英氏の思ひ出(6) 豫兆

 のつけから云ひ譯めくけれども、今囘の原稿を書くに當り、本來ならば參照すべき資料にもかかはらず、紛失したり、現在手許に無かつたりするものが、過去二囘の場合以上に多數存在する。參照出來ない部分は記憶だけを頼りに書いてゐる爲、事實の細部や前後關係には誤りも多いかと思ふ。本筋にかかはる勘違ひ記憶違ひは無いと信ずるが、拙文の誤りや、不明な箇所の正しい情報について御指摘くださると幸ひである。

 これまで鏤々述べたやうに、私は呉智英氏の永年の讀者である。一頃は、單行本のみならず、呉氏の文章が載つてゐさうな雜誌を書店で片端から物色したものである。現在は廢刊となつたNHK出版の月刊雜誌「Be-Common」を都内の書店でふと立讀したら、呉氏の連載コラムを發見し、喜んだ思ひ出がある。そのコラムは單行本『サルの正義』に「シニカルな暴論」として収録されてゐる。その外にも、「朝日ジャーナル」「寶島30」「コミック・ボックス」「ガロ」……なぜか、今は無くなつて仕舞つた雜誌が多いのであるが、兎に角熱心に讀んだ。呉氏が漫畫評論を長期連載中の「ダ・ヴィンチ」も、「危ない」と云ふ噂を數年前に本屋の親爺から聞いた事があるが、これは何とか頑張つてゐるやうだ。

 さて、「話の特集」も、現在は姿を消した雜誌の一つである。編輯長(矢崎泰久氏だつたか)とゲストとの對談が目玉で、表紙には和田誠氏描くゲストの似顏が毎號載つてゐた。呉智英氏の似顏が表紙を飾つたのは、『バカにつける藥』が出て間もない頃、すなはち昭和六十三年だつたと思ふ。タイトルに曰く、「『バカにつける藥』 呉智英、大いに語る」。書店で見つけた私は、早速立讀した(それにしても私は立讀ばかりだ。この雜誌も買はなかつたのが今になつて惜しまれる)。

 印象に殘つた發言が幾つかある。まづ、西部邁氏を批判した件りがあつた。「西部氏は、馬鹿も賢者も同じ一票の投票權しか持たないのはをかしいと云ふ理由で民主主義を批判するが、そんな事は、どこにでもある不條理の一つに過ぎない」。かねての持論通りに西部氏を一應は高く評價したうへで、このやうに批判したのが新鮮であつた。この時以外、呉氏が西部氏を批判した文章を讀んだ事が無い。私が知らないだけなのかもしれないが、西部氏が『國民の道徳』を出版して脚光を浴びてゐる今こそ、呉氏による本格的な西部批判を讀みたいものである。

 呉氏が影響を受けたと云ふ三人の學者の名も覺えてゐる。小島祐馬、島田虔次、荒木見悟。いづれも支那思想が專門である。私は早速、神田の支那關係書籍專門店に通ひ、小島祐馬氏の『支那思想史』やら、荒木見悟氏の陽明學や禪宗に關する分厚い本やらを何册も買込んだものである。難しくて齒が立たず、今では殆ど手放して仕舞つたが……。

 私が最も注目したのは、政治體制に關する發言である。「私は、共和制は好いと思ふ」。呉氏はかう發言してゐた。私は驚いた。共和制とは、天皇の存在を政治的には否定すると云ふ事である。呉氏は「封建主義者」を名告つてゐるが、その理想とする封建社會は「天皇のゐない封建社會」なのか。しかし、天皇のゐない社會を果して「封建社會」と呼べるのか。恰度その頃、松原正氏の著作を熱心に讀むやうになり、後には「絶對神を戴かない日本人は天皇不在でやつて行けるのか」と云ふ疑問も浮んだが、インタヴューを讀んだ直後はそこまで深く考へた譯ではない。月日は過ぎ、それから約十年後、私は、天皇に關する呉氏の明確な判斷を知る。(平成13年4月29日。16年4月29日修正)

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呉智英氏の思ひ出(5) 反論

 岡庭昇氏は私と保坂氏との投稿に對し、次號三月号の投書欄で早速反論してきた。「汚れ切つた政治的動物どもに」と云ふ凄まじい題名である。私に對する批判の部分を引用する。

 ① 木村貴氏への質問。あなたは呉智英先生の文章を讀んでゐないと公言してゐるが、讀んでゐないものをあれこれ論じられるといふ神祕的な自信の根據は何なのか。なぜ、投稿する前に讀まうとしなかつたのか。だからこそ、君は、ここで誰でもわかるウソを堂々とついてゐる。

 “呉氏の「バカ」といふ言葉に激昂のあまり”といふデマだ。呉智英さんは、岡庭のことを、一言もバカとは言つてゐない。從つて、君の書いてゐるやうなことは、ありえません。讀んだことのないものは批評できない。常識ですね。君の最低限のモラルは一體どうなつてゐるのですか。

 木村君。あなたは、平氣でさらにウソを重ねてゐる。岡庭さんが、一體これまでどれほど”三浦辯護における自らの立場”を”公の場で明確に”してきてゐるか、本誌の讀者レベルなら誰だつて知つてゐる話ではないか。わたしはすくなくとも二册の書籍においてこのテーマを全面的に展開し、「創」誌三年の連載においても、おりに觸れて論じてゐます。だからこそ、鮎川信夫氏が「諸君!」でわたしの論を批判し、「諸君!」大好きの呉智英君が、鮎川さんを利用したわけぢやないか。すぐばれるやうなウソをついてまで、呉先生をかばはうとの志も結構ですが、さういふのをヒイキの引き倒しといふのです、覺えておきなさい。それに、何が起こつてゐるのかもわからないままに、文章を書かないこと、ママにきいてごらん。きつと、さういふからね。ともかくウソは上手について、アマチュアの論客らしくやつてください。

 さすがに岡庭氏は、「十二月號の『折々のバカ』を讀んでゐません」と云ふ私の屁放り腰の文章を見逃さなかつた。アメリカのある高名な辯護士は、訴訟に勝つ最大の祕訣は「正直に話す事」だと著作に書いたと云ふ。成る程、裁判で小さな嘘をついたばかりに他の事實や證言との辻褄が合はなくなり、却つて心證を損なふ場合は多からう。私は詰まらぬ動機で不正直な事を書いたばかりに、岡庭氏に恰好の攻撃材料を提供して仕舞つたのである。「立讀みで讀んだ」と堂々と書けば良かつたと、後悔したもう一つの理由とはこれである。

 私は岡庭氏から甘いガードを衝かれ、「讀んでゐないものをあれこれ論じられるといふ神祕的な自信の根據は何なのか」と鋭いジャブを食らつた。だが、マットに埋められはしなかつた(と自分では判定した)。幸ひ、岡庭氏の二の矢、三の矢が急所を外した所ばかりに飛んで來たからである。まづ岡庭氏は「君は、ここで誰でもわかるウソを堂々とついてゐる」と極附けたが、その根據は「呉智英さんは、岡庭のことを、一言もバカとは言つてゐない」からだと云ふ。これはをかしい。確かに、十二月號のコラムの本文には、岡庭氏を直接「バカ」と呼んだ箇所は無い。しかし、そもそもコラムの題名が「折々のバカ」ではないか。「バカ」を取上げて批判するのがコラムの趣旨であり、その中で岡庭氏が批判された以上、呉氏は岡庭氏を「バカ」と言つたと同じである。私は呉氏の文章を實際には讀んでゐたが、この程度の事なら讀まなくともわかる。

 それに、次の一月號、すなはち岡庭氏が私への反論を寄せる二ヶ月前の「折々のバカ」において、呉氏ははつきりと書いてゐる。「世の中には、もう一つ輪をかけたバカがゐる。珍左翼である。」この文章に岡庭氏の名は出ないが、呉氏は十二月號のコラムで「上野昂志は、岡庭昇と竝ぶ珍左翼の巨魁である」と書いてゐたのだから、呉氏に據れば「岡庭氏=珍左翼=バカ」の等式が成り立つのは明白である。

 續いて、岡庭氏はこれまで樣々な機會に「”三浦辯護における自らの立場”を”公の場で明確に”してきてゐる」と述べ、私が「岡庭氏が公の場でまづ明確にすべきことは、三浦辯護における自らの立場でせう」と書いた事を非難した。私は確かに岡庭氏の著作を讀む努力を怠つた。その點は反省すべきである。しかし致命的な越度だつたとは思はない。著作を讀んだところで、呉氏の根底的な批判を想定した「自らの立場」が説明してある可能性はまづ皆無だからだ。それは岡庭氏が最初の投稿で呉氏に論理的に反駁せず、ただヒステリックな罵詈雜言ばかりを竝べたてた事を見ても想像がつく。だからこそ私は岡庭氏に對し、呉氏の批判を踏まへた「自らの立場」を「噂の眞相」投稿欄(=「公の場」)で明らかにするやう求めたのである。現在進行中の論爭の場で具體的な反論を示さず、「他の著作や雜誌にもう書いた」とだけ云つても、説得力は無い。

 呉氏は岡庭氏を「バカ」と罵倒したが、それは呉氏なりに筋道立てた(そして私にも正しいと思はれる)論證を經たうへでの結論である。「バカ」は論理的思考能力の缺如を端的に示す言葉であるから、珍妙な理屈を振りかざす人間を「バカ」と呼ぶ事は正しい。だが、何の論證もせず「顏が貧しい」だの「オカマ」だのと相手を侮辱する事には、如何なる正當性も存在しない。

 以上のやうな岡庭氏に對する反論は、當時は結局書かず仕舞ひであつた。岡庭氏から「讀んでゐないものをなぜ論じられるか」と痛いところを衝かれ、今更「實は立讀みで讀みました」と言ひ出せなかつたのと、岡庭氏の劍幕に恐れをなして戰闘意欲を喪失したと云ふのが正直な所である。今頃になつてこんな場所に反論を書くのは卑怯かもしれないが、岡庭氏自身が「木村貴氏への質問」と書いたのだから、十三年ぶりの「囘答」として御容赦願ひたい。もし岡庭氏がこの文章をお讀みになつたならば、どうか再反撃して頂きたいと思ふ。

 呉智英氏は「噂の眞相」における論爭の顛末を、單行本『バカにつける薬』に書いた。そこには岡庭氏や私の文章も再録されてゐる。『バカにつける薬』の單行本が雙葉社から發賣されたのは平成元年一月である。既に社會人となつてゐた私は、東京・神田驛前の書店で久しぶりの呉氏の新刊を見つけて買つた。さうして、「オールナイターズ」の裏番組になつた講演會の話とともに、「噂の眞相」への投稿が載つてゐるのを發見した。だから『バカにつける薬』は呉氏の著作の中でも最も思ひ出深い本の一つである。しかし單行本は今手許に無い。「本はどんどん處分せよ」と云ふ呉氏の教へに忠實に從ひ、文庫版を購入した後で古本屋に賣つて仕舞つたからである。當時の「噂の眞相」は、自分の投稿が載つた號も含め、とつくに捨てて仕舞つた。すなはち以上の文章中の引用は、總て『バカにつける薬』(雙葉文庫版)を參照して書寫したものである。投稿を著作に再録してくださつた呉氏に厚く感謝致します。

 追記:『バカにつける薬』(雙葉文庫版)で『金魂卷』が誤つて『金塊卷』となつてゐるのを發見。上の文章では「魂」に改めた。(ここまで平成12年8月13日)

 追記二:その後、帰郷した際、家の本棚で當時の「噂の眞相」を發見した。捨てたと思つたのは勘違ひだつたのである。(平成16年4月29日)

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呉智英氏の思ひ出(4) 投稿

 呉智英氏が月刊誌「噂の眞相」にエッセイ「折々のバカ」を一年に渡り連載し始めたのは昭和六十一年秋、私は卒業を控へた大學四年生になつてゐた。

 同年十二月號に載つた第三囘は、渡邊和博著『金魂卷』に對する上野昂志氏の論評を俎上に載せ、上野氏及び岡庭昇氏らによる「ロス銃撃事件」三浦和義容疑者の擁護論にも言及しつつ、上野岡庭兩氏に代表される「珍左翼」(呉氏の造語)の珍妙なる理論を批判する内容であつた。これに對し、岡庭氏が「噂の眞相」六十二年一月號の投書欄に「呉智英さん、ありがたう!」と云ふ「反論」を寄せた。一部引用する。

 “折々のプッツン”こと、呉智英サンが、わたしが三浦和義サンを擁護してゐるのは《”人殺し”を辯護して世の中を混亂に落とし入れ、それに乘じて革命を起こさうといふ”二段階革命論”である》(本誌前<86年十二月>號)とお書きになつてゐる。(中略)それにしても、かういふビンボー人に限つて、一億總中産階級は現實であるなんていひたがるんだから、ほんとチャンチャラをかしいよなあ。相變らず、新書本讀んぢや、インテリになれたと、ウットリしてゐるのかい? ドブ板めくつちや、幻想のアカ狩りに夜も日もあけず、オマハリさんに言ひつけつこしてるのかな? それとも、ラブホテル街の裏口のぞいてまはつては、”いけませんよー、SMは女性差別ですよー”と、例の金切り聲をあげてゐるのかしら、ネ。あんたを見てゐると、往年の奧むめを女史をおもひだすよ。愛國婦人會から主婦聯まで、半世紀にわたつて”パーマをかけてはいけません”と叫びつづけた、あつぱれ非轉向のオバサンさ(安心しなよ。あんたの名古屋で、あんたそつくりの顏をした教師が傳統をまもつてゐるさ)。(中略)男でありながら(オカマだつたらゴメン--他の人だつたらこんな氣づかひしないけどね…筆者註)主婦聯の志に生きるといふ、もうそれだけですばらしいぢやありませんか。呉智英さん、どーもありがたう!(東京都・岡庭昇・43)

 これは非道いと思つた。投稿の經驗は殆ど無かつたが、「呉智英批判に一言」と題する拙い文章を書き、「噂の眞相」編輯部に送つた。それは同じ學生である保坂博氏の「プッツンは差別語」と云ふ投稿とともに、二月號の投書欄に掲載された。私の投稿は以下の通りである(原文は略字現代かなづかひ)。

 一月號の本欄で岡庭昇氏が呉智英氏に反論されてゐますが、それについて少し自分の考へを述べたいと思ひます。

 私は、十二月號の『折々のバカ』を讀んでゐませんので、岡庭氏が引用されてゐる部分がどのやうな文脈で書かれたのかわかりません。ただ、私がこれまで讀んだ呉氏の著書などから判斷して、呉氏が、「三浦和義氏を辯護すること」自體を非難してゐるとは考へられません。むしろ、岡庭氏が”珍左翼”活動の一環として三浦問題を捉へてゐることを批判したのだと思はれます(岡庭氏が本當に”珍左翼”か、といふ議論はここでは置きます)。

 呉氏の本旨が右のやうなものだとすると、岡庭氏が公の場でまづ明確にすべきことは、三浦辯護における自らの立場でせう。その點から言ふと、一月號の同氏の「反論」はやや不滿でした。

 また、岡庭氏は呉氏の言論的立場を少し誤解(あるいは曲解)されてゐるやうに思ひます。例へば、呉氏が主婦聯的なSM反對論者であるかのやうに非難されてゐますが、これは全くの的外れとしか思へません。おそらく、岡庭氏は、呉氏が『封建主義、その論理と情熱』の中でSMに關聯して岡庭氏を批判した部分を指してゐるのでせうが、前後の文脈から判斷すれば、呉氏の立場が主婦聯的なものとは正反對であることは明らかです。

 呉氏の「バカ」といふ言葉に激昂のあまり、岡庭氏の文章中には「顏の貧しい」「金切り聲」「オカマ」等、感情的な言葉が多過ぎるやうに思ひます。

 プロの論客らしい、堂々たる論爭を今後に期待します。(埼玉縣志木市・木村貴・學生22)

 岡庭氏の口汚ない文章に憤つたとは云へ、向かうは曲がりなりにもプロの評論家、こちらは一介の學生に過ぎない。いざ書く段になると、遠慮が先に立つて隨分とおとなしい文章になつて仕舞つた。また、この文章中には不正確な部分がある。「私は、十二月號の『折々のバカ』を讀んでゐません」と云ふ件である。實は私は十二月號の「折々のバカ」を讀んでゐた。但し、本屋での立讀みである。投稿文に「立讀みでしか讀んでゐません」と書くのは何か恥づかしいし、「立讀みでしか讀んでゐないのに正確に批判出來るのか」と突込まれるのも嫌だつたので、いつそ、讀んでゐない事にしようと考へたのである。今にして思へば無意味な小細工であつた。事實、投稿が掲載された後、正直に書くべきだつたと後悔した。理由は二つあり、一つは後述するが、もう一つは、呉氏が昭和五十八年に別の場所(「本の雜誌」)に書いた岡庭批判の中で、次のやうに正直に記してゐるのを知つた事である。(強調は木村)

 私は「噂の眞相」誌の岡庭の駄文を立ち讀みではあるけれど正しく讀んでゐる(もし、私の言及がでつち上げだと主張するなら、正々堂々と反論なさつたらいかがかな)。

 確かに、立讀みでも文章の主旨を正確に理解したのなら何の問題も無い。かう云ふ事を堂々と書ける呉氏の飾らない性格と腹の坐り具合とを、私は立派だと思つた。飾らない性格と云へば、呉氏は「拾ひ讀み」が得意だと書いた事がある。「拾ひ讀み」と云つても、本を所々讀む通常の意味の「拾ひ讀み」ではなく、文字通り、驛のゴミ箱などに捨ててあるマンガ雜誌を拾つて讀むのである。これなら多數のマンガ雜誌に經濟的に眼を通せると云ふ譯だ。「拾ひ讀み」の話は、たしか講談社現代新書の隨筆集『東京情報コレクション』に収められてゐたと記憶するが、買はなかつたので確かめられない。私は「拾ひ讀み」の眞似を一二囘やつてみたが、永續きしなかつた。(平成16年4月29日)

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呉智英氏の思ひ出(3) 講演

 『封建主義、その論理と情熱』を讀んで數ヶ月後、大學の學園祭に呉氏が講演者として招かれる事を知り、その偶然に驚いた。呉氏の話を直接聽けるのは非常に嬉しく、是非行かうと思つたが、一つだけ困る事があつた。當時テレビの深夜番組「オールナイトフジ」で人氣を博してゐた女子大生タレントグループ、「オールナイターズ」が呉氏の講演と同じ時間に歌を披露する事になつてゐて、私はそのチケットをすでに買つてゐたのである。確か二千圓くらゐだつた。

 當時私は郷里の關係の學生寮に住んでゐたが、土曜の夜になると仲間數人とテレビを持つ友人の部屋に入浸つて、だべり乍ら「オールナイトフジ」を樂しんでゐた。二千圓はさして惜しくはなかつたが、學園祭を訪れたオールナイターズの山崎某や松尾某の顏を拜んでみたいと云ふミーハーな氣持ちはやや斷切りづらかつた。

 しかし今や私は、呉氏の著作によつてインテリゲンツィアの使命に目覺めた男である。ここは福澤諭吉も説いたやうに、痩我慢こそ肝要だ。オールナイターズの入場券をポケットに入れたまま、私は講演會場となる教室へと向かつた。後で友人に話したら、しつかり者のその友人は「勿体無い。誰かにチケットを賣れば好かつたのに」と言つた。成る程。しかし小心者の私は、切符を買つて呉れる人を探し囘つて賣附ける事なんぞ、思ひ附いても實行出來なかつただらう。

 講演が始まつた。私は椅子代りの木のベンチと長机とを竝べた教室の中ほどに座り、呉智英氏を初めて身近に見た。『インテリ大戰爭』の著者近影に比べ幾らか老けて見えたが、印象は事前に想像した通りであつた。痩身、への字に結んだ口、細縁眼鏡の奥の二重瞼と鋭い眼。呉氏は立つたまま、少し甲高いよく通る聲で、轉向論、柳田國男、朝鮮の反日運動等について語つた。文章と同じく、明瞭な話し振りであつた。

 呉氏は雜誌「朝日ジャーナル」西暦1984年11月23日號で、講演の模樣についてかう記してゐる。私は後日、單行本でこの文章を初めて發見した。

 會場は、つめて座れば百二十人ほど入る教室である。參加者數は約五百人(主催者側發表)。といふのは冗談で、客觀的に言へば、八十人か九十人ほどであつた。學生數四千人弱とかいふ大學の學園祭の講演會としては盛況である。/私の話は、次のやうな流れで展開した。/現在の保守化の眞因は、政治力學的解釋によつて探られるのではなく、思想の内容・思想の有効力を考へなければならないこと。そこで參考になるのが、轉向論である。(中略)/反應はまづまづ。話を終へて質疑應答に移ると、反應はさらに活發になつた。人物評、ニューアカデミズム觀、マンガ論。(『バカにつける藥』より「オールナイターズから奪つた八十人の聽衆」)

 質疑應答で私は質問しなかつた。間拔けな發言で呉氏や聽衆から失笑を買ふのが恐ろしかつたのである。しかし、呉氏の話を直接聽いた八十人の一人になれた事には深く滿足した。その後、「オールナイトフジ」と同じ土曜深夜(と云ふか日曜未明)のテレビ番組「朝まで生テレビ」で討論する呉氏の姿を見掛けるやうになつたが、現在までのところ、私が呉氏と間近に接したのは十六年前の大教室での一度切りである。講演が終り、少し肌寒い戸外に出ると、それまで微かに聞えた音樂が止んでゐた。オールナイターズだつたのだらうか。私はチケットを捨てた。(平成12年7月31日)

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呉智英氏の思ひ出(2) 熱中

 『封建主義…』の後、『インテリ大戰爭』や『大衆食堂の人々』なども讀むうち、すつかりファンになつて仕舞つた。呉氏の思想が徐々に理解出來るやうになつた事もあるが、同じくらゐ魅力に感じたのは文章である。主張は明確、表現は明晰で紛れが無い。「逃げ隱れしない男らしい文章だ」と私は感服した。そのうへ讀者を笑はせるサービス精神が旺盛である。

 好例を一つ引かう。實在の狂人「芦原將軍」をモデルにした芦原金次郎「都立松澤大學」教授と呉氏との架空對談である。「トンデモ本」ブームの發信源にもなつた雜誌「寶島30」連載當時、私はこのブラックユーモアに滿ちた問答を眞先に讀んだ。

芦原  君の『サルの正義』、讀みました。そこに収録されてゐる死刑論、つまり、死刑を廢止して復讐を認めよといふ主張は、それなりに面白い。通俗的な死刑是非論とはちがふからね。だが、まだ踏み込みが足りぬやうだ。

 おそれいります。

芦原  まあ、死刑についてはベッカリア君などもいろいろ研究をやつてゐたやうだな……。イタリア留學時代からずつと會つてをらんが、最近は元氣なのかね、あまり噂も聞かないが。

 ずつと前に亡くなりました。

芦原  えつ、死んだのか。ミラノ大學の學食ではよく一緒にスパゲッティやマカロニを食つたものだつた。さうか、ベッカリア君も死んだか。

 のちにはミラノ大學の教授にまでなられたやうですよ。フランス革命の頃ですけど。

芦原  惜しい男を亡くしたものだ。私とは考へは違つてゐたがね。(中略)

 なるほど。出典は韓愈でしたか。その韓愈にも、先生は留學中にお會ひになつてゐらつしやいますか。

芦原  バカか、君は。唐の時代の思想家に、どこへ留學したら會へるのかね。君は韓愈も知らないと見える。

 お恥づかしい次第です。(『賢者の誘惑』より)

 呉氏は『知の収穫』の小林よしのり論において、宮武外骨の言葉を引き、小林マンガの主人公を「過激にして愛嬌あり」と評してゐる。寧ろこの評言は呉氏自身にこそ當嵌まる。(平成12年7月31日)

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呉智英氏の思ひ出(1) 邂逅

 九州から上京し、大學に通ひ始めて間も無い頃だつた。國分寺驛前の本屋で何か面白さうな本は無いかと物色してゐると、題字の背景が赤で、虎と竹林と黒い兜の武士(恐らく加藤清正であらう)の漫畫が描かれた表紙が眼に入つた。『封建主義、その論理と情熱』。版元は情報センター出版局で、同じシリーズの椎名誠氏のベストセラー、その名も『さらば國分寺書店のオババ』と竝べて平積みしてある。私は虎の繪の本を手に取つた。派手な表紙だけが理由でなく、刺激的な副題に引かれたからである。そこには「さらば、さらば民主主義よ!」と記されてあつた。「さらばオババ」と「さらば民主主義」とでは偉い違ひである。私は迷はず購入した。豫想以上に面白かつた。否、私の讀書人生と物の考へ方とを變へる本の一つになつた。

 あれから十六年、椎名誠氏の本は依然として買つた事が無いが、『封建主義、その論理と情熱』(その後『封建主義者かく語りき』と改題)の著者、呉智英氏の著作は全て讀んで來た。『封建主義…』は呉氏の初めての單行本であつた。

 「面白かつた」と云つても、初めて讀んだ時には隨分驚いたり、理解に苦しんだりした部分もあつた。「さらば、民主主義よ!」と云ふ副題に引かれて本を買つたくらゐだから、私自身も民主主義乃至民主主義禮讚の風潮に對し漠然たる疑問を抱いてゐたのは確かである。しかし呉氏の根元的な民主主義批判には膽を抜かれた。

 ファシズムは民主主義である!/このきはめて明白な事實をあまりにも多くの人が知らないのには、私は、怒りを通り越して絶望感さへ覺える。

 谷岡ヤスジの飄々とした插繪が附いた頁を繰り乍ら、こんな「過激」な文章を私は繰返し讀んだ。「呉智英」が筆名であり、夢野久作の長篇小説「ドグラマグラ」の主人公に由來する事は、暫く後に知つた。

 餘談だが、雙葉文庫版『封建主義者かく語りき』の「改題増補版 あとがき」によると、『封建主義、その論理と情熱』と云ふ書名も、虎の繪の裝訂も、呉氏の本意では無かつたらしい。呉氏が當初望んだ書名は『封建主義宣言』『封建主義者かく語りき』のいづれかであつた。だが出版社側が代案として奇を衒つた書名を次々に持出した爲、「一種の妥協案として」、『封建主義、その論理と情熱』を提起したと云ふ。英文學者・批評家の松原正氏が著作の題名を『この世が舞臺』或いは『賢者の毒、愚者の蜜』にしたいと望んだが容れられず、『人間通になる讀書術』(徳間書店)に落着いたと云ふ插話を、私は想ひ起こした。

 裝訂については、さすがに呉氏も「もう代案を提起する氣力もなく、出版社の言ふがままに任せてしまつた」。雙葉文庫版の表紙は、デューラーの「パウムガルトナー祭壇畫」をあしらつた重厚なものである。これが呉氏の本來の好みであらう。さらに餘談だが、私は今年、ミュンヘンの美術館アルテ・ピナコテークを訪れ、雙葉文庫版の表紙で好きになつた「パウムガルトナー祭壇畫」の實物を觀る事が出來た。想像通り、異樣な迫力に滿ちた繪であつたが、實は二年前に不屆者に酸を浴びせられ、最新技術で修復される迄は無慘な姿だつたらしい。(平成12年7月31日)

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