2007年8月 2日 (木)

西尾幹二『江戸のダイナミズム』を斬る

 五月十七日に「經濟の牙――西尾幹二氏の珍論」と云ふ文章を書いたところ、その後、どこのどなたか知らないが、この記事に海外ポルノサイトへのトラックバックを大量に附けて呉れるやうになつた。現在までに約百八十囘。恐らくこれは、ブログ更新をさぼつたりせず、西尾氏の惡口をもつと書けと云ふ叱咤激勵に違ひない。どうも有難う御座います。

 さてリクエストにお應へしてと云ふ譯でもないが、國語問題協議會の會報「國語國字」の最新號に、西尾氏の近著『江戸のダイナミズム』をこき下ろす拙文「理不盡な兩成敗」を載せて貰つた。以下はその冒頭部分である。

*********(以下轉載)*********

 西尾幹二氏は近著『江戸のダイナミズム』(文藝春秋)の第十七章「万葉仮名・藤原定家・契沖・現代かなづかい」で、「現代かなづかい」を批判する一方、歴史的假名遣ひにも「無理」があると苦言を呈してゐる。この「兩成敗」は一見公平さうだが、實際はバランスを失した理不盡な主張である。

 現代かなづかいには拙速が生んだデタラメがあります。旧仮名すなわち歴史的仮名遣いには、福田恆存が述べている通り、文法上の一定の合理性があります。しかし一方に以上見た通り使用上の無理もあります。(四五一頁)

 その「無理」とは何か。西尾氏は例として「小用(せうよう)、従容(しょうよう)、称揚(しょうやう)、賞揚(しゃうやう)」や「公使(こうし)、行使(かうし)、公私(こうし)、光子(くゎうし)」等を擧げる。そして歴史的假名遣ひはこのやうな「煩雑な区別」を「国民に要求していたのです」と告發するのである。
 しかしこれらは全て漢語の音の假名遣ひ、すなはち字音假名遣ひである。西尾氏は「要求」と云ふ言葉の意味を曖昧なまま使用してゐるが、それが「使用を強ひる」と云ふ意味であれば、事實であるとは到底認められない。少なくも一般國民の日常生活に於いては、戰前も戰後も漢語は漢字で書くものであり、わざわざ假名で書いたり一々振假名を振つたりする習慣は無いからである。

*********(轉載終了)*********

 續きに關心のおありの方は、國語問題協議會事務局から會報を取寄せてお讀み下さい。

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2005年12月26日 (月)

トリビア坪内の素晴らしきムダ知識

某月某日(岡田俊之輔の頁【掲示板】)

 坪内祐三氏と云へば、「『文藝春秋』八十年傑作選」の編輯後記をわざわざ正假名で書いてゐたが、あれこそ「コス・プレ」と呼ぶに相應しい行爲である。古い文章を集めた特輯だから編輯後記も「古い」假名遣ひで書いてみました、と云ふ譯である。

 坪内氏の文章から得るものはある。文壇とか古本屋とか東京とかに關するどうでも良いトリビア情報では、現在坪内氏の右に出る者はゐない。例へば次のやうな奴。

 江藤淳や佐伯彰一をはじめとして、小林秀雄を『アクセルの城』で知られるアメリカの批評家エドマンド・ウィルソンと比較して論じる人は多い(『アクセルの城』と言えば、「様々なる意匠」の次に収められている伊藤整の「新心理主義文学」の冒頭にいきなりこの評論集の名前が登場するが、一九三一年に出たこの評論集が、翌年にすぐ、単なる研究者ではなく文学者によって言及されるその文学伝達のスピードに注目したい。しかも、それがただの紹介文ではなく、自らの文学の課題として共有されていることに)。 (『日本近代文学評論選【昭和篇】』「解説」、岩波文庫)

 上記引用中で強調した「文学伝達」は、原文では傍點が打つてある。坪内氏の文章にはこの手の思はせ振りなばかりで意味の乏しい傍點が矢鱈と出て來て辟易するのだが、それ以上に恐れ入るのは、西洋人の文學的課題を日本人が「自らの文学の課題として」いとも簡單に「共有」出來ると信じたり、新幹線の速さに興奮する子供よろしく文學的話題の「伝達」の「スピード」を重要なものとして「注目」したりする、そのお目出度さ加減である。西洋人の文學的課題を簡單に理解出來る日本人が偉いのなら、理解出來ない事を氣に病んで精神衰弱にまでなつた夏目漱石は最低の文學者であらう。又、私が「日本は世界有數の文化國家です。それは日本の『文学伝達』のスピードが世界有數だからです」と眞顏で話したら、坪内氏はきつと居酒屋の上座から握手をして呉れるに違ひない。

 繰り返さう。坪内氏の文章から得るものはある。しかし感動を得たいとか人間について深く考へたいとか思ふのなら、他の人の本を讀む方が良い。

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2005年8月10日 (水)

危ふきに近寄らず

 福田逸氏のブログへのコメントより。
 

劇団昴主催者である福田逸先生たるものが自民党造反議員の小泉総理に対するうさんくさいゴシップネタを掲載するとはがっかりしました。私の想像ではおそらく平沼某か堀内某がネタ元だと思います。(総合学としての文学子の投稿)

 政治の世界は百鬼夜行と云ふではないか。昨日の友が今日の敵、自民黨主流派、造反議員、野黨それぞれが眞僞を問はず、己が勝つ爲ならどのやうな情報でも流す。初心な言論人が鵜呑みにすると碌な事は無い。昔の人は良い事を云つた。君子危ふきに近寄らず。しかし萬が一、福田氏が書いた「噂」(小泉首相がナポリでオペラ三昧の日々を計劃してゐるとか、元夫人の大手不動産會社への就職を斡旋したとか)が眞實ならば、その政界通ぶりに潔く脱帽しよう。眞實ならば。

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2005年8月 8日 (月)

ヘタマゴすれば日本文化は滅びる

 福田逸氏、實に下らぬ事を書いてゐる。

 ただ、否決は間違ひないとの事、ヘタマゴすれば、漸く覚醒を始めた我が国は再び悪夢の、そして最後の漂流を始めるであらう。

 國鐵が民營化されて日本が滅びたか。電電公社が民營化されて日本が滅びたか。郵便局が民營化されようがされまいが日本が滅びる事は無い。しかし傳統を守れと聲高に叫ぶ言論人が「噂を信じちやいけないよ」だの「ヘタマゴ」だの「ガラガラクシャ」だのと愚劣な言葉を書き連ねて平氣でゐるやうなら日本文化は、つまり日本は、いづれ滅びる。愚にもつかぬ噂話をさも重大事のやうに書き附ける神經もどうかしてゐる。政治主義に盲ふるとはかくも恐ろしき事か。

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2005年2月 6日 (日)

國民新聞「年頭所感」

 國民新聞一・二月合併號掲載「年頭所感」の寄稿者とタイトルは以下の通り。

 入江隆則 日本の弱体化を図る中共
 小田村四郎 国辱亡国声明を廃棄せよ
 荒木和博 本当の「戦争責任」
 出雲井晶 昭和天皇さま、有難う
 遠藤浩一 「靖国問題」は、やはり国内問題だ
 潮匡人 わが国も原潜の保有を
 小堀桂一郎 教育勅語の公的復活を
 黄文雄 特殊任務担う中国人留学生
 小林秀英 中印国境紛争と中共の権力闘争
 豐源太 経済団体の国益と支那の一党独裁
 北村淳 中国の覇権主義的海洋進出戦略
 相林 死んで初めて自由を得た趙紫陽氏
 田久保忠衛 やるべきは「富国強兵」
 玉木正光 日露戦争講話の裏話
 土田龍太郎 若人よ、伝統継承を志せ
 中村粲 敵性国家には武力で備へよ
 中澤伸弘 表現の行方
 奈須田敬 「反米の愚」初夢物語
 西村眞悟 日本孤立化が中国の戦略
 宮崎正弘 今年は対中国外交の正念場
 ペマ・ギャルポ 李登輝氏へのビザ発給は小泉内閣最大の功績
 屋山太郎 日本人の精神構造壊すために靖国参拝反対を言う中国
 湯澤貞 小泉首相に御親拝の水先案内を願ふ
 廬千惠 人類は自由、平等、正義の道を進む
 宗像隆幸 台湾の生存の為に台湾憲法が必要

 以上。

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2004年11月 4日 (木)

八方美人を賤しむ

 出久根達郎「行藏は我にあり」(文春新書)の後書だけ立ち讀み。題名は勝海舟の言葉に由來する。舊幕臣でありながら維新政府の要職に就いて富貴を極めた勝を、福澤諭吉は「痩我慢の説」で「斷然世を遁れて維新以来の非を改め」よと嚴しく批判した。それに對する勝の返答が「行藏は我に存す、毀譽は他人の主張、我に與からず我に關せずと存候」、すなはち、世で働くか隱退するかは自分で決める、他人がどう云はうと知らぬと云ふものであつた。

 勝の言葉は一見堂々としてゐるやうだが、福澤の批判に何も答へてゐない。同じく福澤から詰め寄られた榎本武揚は、現在多忙なのでいづれ返事するとだけ答へ、結局反論しなかつたが、最初から答へる氣の無かつた勝に比べれば、まだしも道徳的に見える。

 ところが出久根達郎は、この一件について「居直つた」勝が好きであり、「逃げた」榎本も好きだと云ひ、のみならず、彼らを批判した「青つぽいところのある」福澤も好きだと云ふ。好き嫌ひに理窟は無いから誰からも文句は付けられまいと安心して書いてゐるのだらうが、「痩我慢の説」を讀んで、榎本は兔も角、「居直つた」勝が好きだなどとどうして書けるのか。福澤は破廉恥と云ふ言葉こそ使つてゐないが、要するに勝を破廉恥な男だと指彈してゐるのである。それを出久根は何の説明も無しに好きだと云ふ。どんな破廉恥漢でも居直つた姿が堪らなく好きだと云ふ特殊な趣味の持主でもない限り、出久根の文章は誰も理解出來ないであらう。

 重ねて云ふが、好き嫌ひを述べるのに精確な論證は不要だし、「好き」の方だけ擧げておけば誰からも苦情を云はれる心配が無い。しかし、道徳が關はる問題は、好き嫌ひだけで片付ける譯には行かない。いやいや、全うな物書きなら、道徳が關はる面倒な問題こそ、單純な好き嫌ひの話で終らせず、その意味をじつくり考へようとする筈ではないか。

 福澤は「内國の事にても朋友間の事にても、既に事端を發するときは敵は即ち敵なり」と書いた男である。「勝も好きだがあんたも好きだよ」と揉手しながら近付いて來るやうな八方美人を、誰よりも烈しく輕蔑したに違ひない。

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2004年10月13日 (水)

デリダ死す

 フランスの著名哲學者ジャック・デリダさんが8日深夜から9日未明にかけて、膵臟がんのためパリの病院で死去した。74歳だつた。AFP通信などが傳へた。/1960年代以降、プラトンからニーチェ、ハイデッガーまでの西洋哲學全體を尖鋭的に批判・解體し、西洋中心主義を問ひ直す「脱構築」の思想を展開。テキストを異なる視點から讀み替へる手法は、世界の思想・文學などの研究に大きな影響を與へた。(「佛哲學者のジャック・デリダさん死去」)

 デリダの文章は例へば次のやうなものである。

 資本主義理論を檢證しようとすれば、ひとつの選擇に直面する。ネオテクスト的な唯物論を斥けるか、それとも社會は客觀的な價値をもつと結論するかといふ選擇である。もし辨證法的な脱状況主義に固執するならば、われわれはハバーマス的なディスクールとコンテクストのサブテクスト的パラダイムとのあひだで選擇をしなければならない。主體が、眞理を實在として含むテクスト的國家主義のコンテクストに組み込まれてしまふのだといふことができる。ある意味で、コンテクストのサブテクスト的パラダイムと云ふ前提は、實在が集合的無意識に由來すると述べてゐるのである。

 ……この素晴らしい文章に關しては後で記さう。新刊書店の哲學書の棚を覗いたら、何新聞か不明だが訃報のコピーが掲げてあつて、淺田彰のこんな談話が載つてゐた(メモ帳に急いで書き寫したが、間違ひは無い筈)。

 ニヒリスティックな言葉遊びではないかといふ批判を呼んだが、やむなくさうなつてゐたのであつて、要約の暴力に逆らつた點は尊敬に値する。

 「要約の暴力」とはよく云つたものだ。慥かに上に掲げたやうな文章を他人がどのやうに要約してみせても、デリダは「俺の云ひたい事はそんな事ではない」と幾らでも言ひ逃れ出來よう。要するに、要約出來ないのである。それにしても、上の談話を讀む限り、淺田は結論としてはデリダの文章を「ニヒリスティックな言葉遊び」と認めて仕舞つてゐるが、それで良いのだらうか。褒め殺しと云ふ奴だらうか。

 ところで、「資本主義理論を檢證しようとすれば」で始まる上の華麗なる文章だが、實はデリダの文章ではない。生物學者のリチャード・ドーキンスが「ポストモダニズム・ジェネレーター」なるコンピューター・プログラムを利用してでつち上げた、出鱈目な文章なのである。「これはデリダの文章ではない」と看破つた讀者がゐたら御聯絡ください。別に何も上げませんが。ドーキンスによれば、この文章の「製造法」は下記の如くである。

 http://www.elsewhere.org/cgi-bin/postmodern/といふサイトを訪れるたびに、それは、非の打ち所のない文法的原則を使つて、自動的に、今まで見たこともない、とてもすばらしいポストモダンの論述をつくりだす。そこにちよつと立ち寄つてみたところ、それは私のために、「ケンブリッジ大學英文學科のデイヴィッド・I・L・ヴァーサーとルドルフ・ドゥ・ガルバンディエ」(そこには詩的正當性がある。なぜなら、ジャック・デリダに名譽學位を與へるのがふさはしいとみなしてゐたのはケンブリッジ大學だつたからである)による「資本主義理論とコンテクストのサブテクスト的パラダイム」と題する六〇〇〇語の論文をつくりあげた。(「假面を剥がれたポストモダニズム」、『惡魔に仕へる牧師』所收、早川書房)

 ケンブリッジ大學云々とは、デリダが一九九二年に同大學から名譽博士號を授與された事を切掛けにその業績に對する賛否両論が巻き起こつた經緯を指す。ポストモダニズムの徒らに晦澀なばかりで空疎な文章をパロディでからかつてみせたドーキンスは、さらに辛辣にポストモダニズムの知識人を批判する。

 あなたは、とくに言ふべきことをもたない知的詐欺師なのだが、學間の世界で成功し、崇めてくれる弟子連中を集め、あなたの著書のぺージを叮嚀に黄色のマーカーで塗りたくる學生を世界中にもちたいといふ強い野心をもつてゐると假定してみてほしい。あなたはいかなる文體をつくりあげるだらう? 明快な文體でないのは確かだらう。なぜなら、明快さは、中身のなさを露呈させてしまふからだ。おそらくあなたは、次のやうな類の文體をつくりだすことになるだらう。

 この後、引用されるのはフェリックス・ガタリの文章である。デリダで肩透かしを喰はせて仕舞つたので、「本物」を紹介しておかう。

 ここに明らかなとほり、線上に竝んだ有意的な鎖の環、あるいはこの著者たちのいはゆる原エクリチュールと、この多指示的・多次元的な機械状の觸媒作用との間には、一對一の對応關係はいつさい存在しない。尺度の對稱性、横斷性、それらの擴張の非論證的な直感的性質――これらすべての次元が、われわれを排中律の論理から脱出させてくれるし、先ほど糺彈の的とした存在論的な二項對立を斷念するわれわれの立場を強化してくれる。

 さらにジル・ドゥルーズ、ジャック・ラカンと云つた「知的詐欺師」の大物達の文章が俎上に載るが、頭がをかしくなりさうなのでもう止める。ドーキンスの文章は、數年前に岩波書店から邦譯の出たアラン・ソーカルとジャン・ブリクモンの『「知」の欺瞞』に對する好意的な書評である。その岩波がいまだに「ポストモダン・ブックス」などと云ふシリーズを續々と出してゐるのは、ポストモダニズムの巨頭を「崇めてくれる弟子連中」や「著書のぺージを叮嚀に黄色のマーカーで塗りたくる學生」が後を絶たないからなのであらう。さすが日本は先進國である。

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2004年8月30日 (月)

マイケル・ムーア・スーパースター

 地下鐵で、雜誌「アエラ」九月六日號の中吊廣告が目に止まる。例の駄洒落惹句に曰く、「話題作だから込ムーァ。」 馬鹿か。マイケル・ムーアとその監督映畫「華氏911」の特輯をやるらしい。見出しに「小泉とブッシュの共通點」云々とあるから、反ブッシュ主義者ムーアを禮讚する内容である事は中身を讀む迄もなく分かる。

 アメリカは日本と政治的經濟的にこれほど關係の深い國であるにもかかはらず、日本に紹介されるアメリカの知識人は非常に偏つてゐる。新刊書店の棚を覗いてみるがよい、飜訳本の著者は、十中八九、反米反ブッシュ派である。ノーム・チョムスキー、エドワード・サイード、スーザン・ソンタグ、そしてこのマイケル・ムーア。たまに親米親ブッシュ派の本が出ると、ローレンス・カプランとウィリアム・クリストルの「ネオコンの眞實――イラク戰爭から世界制覇へ」(原題「イラクを巡る戰爭――サダムの暴政とアメリカの使命」)、フランス人だがジャンフランソワ・ルヴェルの「インチキな反米主義者、マヌケな親米主義者」(同「反米病」)のやうに原題とは似ても似つかぬ反米的な題名に改竄されて仕舞ふ。異樣である。

 さてマイケル・ムーアはドキュメンタリー映畫監督としてアカデミーやカンヌ映畫祭で高く評價され、それによる名聲をアエラなど日本の左派メディアはブッシュ・小泉政權攻撃の材料として最大限に利用しようとしてゐるのだが、ムーアは本當にそれほど立派なジャーナリストなのか。著作家としてのムーアの代表作「アホでマヌケなアメリカ白人」(柏書房)に次のやうな箇所がある。

 日曜日の朝のこと、俺はコラムニストで右翼雜誌の編輯者でもあるフレッド・バーンズが、アメリカの教育事情に關する泣き言を埀れ流してゐるのを聞いてゐた。教育の質がこれほど落ちたのは、教師とその組合のせゐだといふ。 「今の子供たちは、『イリアス』や『オデュッセイア』すら知らんのです!」と彼は吼えた。他のパネリストたちは、フレッドの高尚な嘆きに感じ入つてゐる。  翌朝、俺はフレッド・バーンズのワシントンのオフィスを訪ねた。「フレッド」と俺は言つた、「教へてくれよ。『イリアス』と『オデュッセイア』てのは何なんだ?」  彼は何やらごによごによ言ひ始めた。「あー、それはだな……その……何だ……ほれ……ええい、ああさうさ。お前の勝ちだ――俺ァそんなの、何も知らねえよ。うれしいか、ああ?」  いや、ちつともうれしくなんてないよ。君はアメリカを代表するTVコメンテイターぢやないか。

 これが眞實ならバーンズは大耻である。ところが、デヴィッド・ハーディとジェイソン・クラークの近著「マイケル・ムーアはデブでマヌケな白人」(ハーパーコリンズ社)によると、事實はかうだつたと云ふ。

 「ニュー・リパブリック」誌のアラン・ウルフが眞僞を問ひたださうとすると、バーンズは「あり得ない」と答へ、かう説明を續けた。「第一に、私はマイケル・ムーアと話したことが無い。第二に、私は『イリアス』と『オデュッセイア』を讀んだことがある。大學に入るまでは讀んだことがなかつたが、確かに讀んだ」

 バーンズは古典教育を重んずるヴァージニア大とハーバード大で學んだインテリであり、ホメロスの作品を知らないと考へる方が不自然である。要するに、ムーアの記述はでつち上げだつた可能性が濃い。また、ハーディとジェイソンの著書では、ムーアが映畫「ボウリング・フォー・コロンバイン」で全米ライフル協會會長の俳優チャールトン・ヘストンの發言を都合良く編輯して使用した手口が事細かに暴かれてゐる。これでもムーアは賞讚さるべきジャーナリストと云へるであらうか。

 「マイケル・ムーアがよくわかる本」(寶島社)収録のインタヴューで、デーヴ・スペクターがムーアをかう批判してゐる。

 『華氏911』では現役の議員たちに、子供たちをイラクへ行かせないのかと聞いて囘るシーンがありましたけど、アメリカは今、志願制ですからそれを言つてもねえ。で、貧困層の人たちが入隊するとムーアは思つてるらしいけど、そればつかりぢやない。各家庭で代々傳統的に行く人もゐるし、最高の技術を身につけるために志願する人もゐるし、エリートコースの人もゐる。彼はわざと反體制みたいに見せかけてゐるんですよね。だからプロパガンダだと言はれちやう。

 政治的な敵を貶める爲ならば如何なる嘘や誤魔化しでも正當化されると云ふ信念の持主、それはジャーナリストではなくプロパガンディストである。全うなジャーナリズムならば、ムーアを嚴しく批判すべきであつて、稱揚するなどとんでもない。アエラよ、耻を知れ。

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2004年8月29日 (日)

中島義道、裸で歩け

「新潮45」九月號の連載「罵事討風」で小谷野敦が中島義道と福田和也に嚙み附いてゐる。

 この形式での連載も今回が最後になるようだ。そこで出血大サービス、いつも私の隣で書いている中島義道先生を批判しよう。八月号「明狂死酔」で中島は、世間の人は本当のことを言わない、と言い、あたかも自分は本当のことを言っているかのように喧伝している。だが、中島の言っていることなどというのは、せいぜい苦笑を誘う程度のものでしかない。しかも、福田和也さんのゼミで話をした、と書いている。福田に対して、右翼だか左翼だか分からない二股膏薬のインチキ野郎、などとは決して言わないのだ。「大衆評論家」の加藤諦三は批判しても、いま現在論壇の覇権を握っている人には決して攻撃を加えない。イラク人質三人組に関しても、朝日新聞的な意見を言っていただけである。こんな姑息な処世術を駆使しながら、「ぐれる」なんて、ちゃんちゃらおかしい。
 「右翼だか左翼だか分からない二股膏薬のインチキ野郎」の仲間には、宮崎哲彌や坪内祐三も入れるべきだと思ふ。さて小谷野が批判した中島の八月號の文章を引張り出して讀んでみると、確かに非道い。こんな件りもあつた。
 それにしてもおもしろいのは、テレビ出演者は、これほど性的ゴシップが好きなのに、誰も彼もが「まじめな」インタヴューでは、慎重に性的発言を避けることである。オリンピックで金メダルを取ったりノーベル賞授賞式から帰国した英雄たちに「お疲れでしょうが、いま何をしたいですか?」という質問が必ず出るが、誰も「無性にセックスしたいです」とは答えない。いまは、スピーカー轟音を撒き散らす参議院選挙運動の真っただ中であるが、本日のテレビ特別番組で、司会者が各党幹事長に独自の健康法を聞いていた。出てきた回答は「よく寝ること」「晩酌すること」など。「セックスすること」という回答はなかった。興味深いのは、もしそう答えると、みんな(たぶん)あっと驚くことである(私はセックスが大好きなわけではありません、これ「本当のこと」です、念のため)。
 たしかに「苦笑」するしかない。中島に進言する。どうして人間は風呂の中で裸になつて體を伸ばすのが好きなのに、往來では誰も彼もが服を着て歩くのだらうか。中島はきつと疑問に思つてゐるに相違ない。構はないから裸で歩け。

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2004年7月25日 (日)

蟷螂に斧

西尾幹二のインターネット日録

ついに終わったのです。嬉しくてたまらない。壮大なテーマで、
私には蟷螂に斧でした。

それを云ふなら「蟷螂の斧」。しかも「私には蟷螂に斧でした」とは、幾ら何でも滅茶苦茶だらう。

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