西尾幹二『江戸のダイナミズム』を斬る
五月十七日に「經濟の牙――西尾幹二氏の珍論」と云ふ文章を書いたところ、その後、どこのどなたか知らないが、この記事に海外ポルノサイトへのトラックバックを大量に附けて呉れるやうになつた。現在までに約百八十囘。恐らくこれは、ブログ更新をさぼつたりせず、西尾氏の惡口をもつと書けと云ふ叱咤激勵に違ひない。どうも有難う御座います。
さてリクエストにお應へしてと云ふ譯でもないが、國語問題協議會の會報「國語國字」の最新號に、西尾氏の近著『江戸のダイナミズム』をこき下ろす拙文「理不盡な兩成敗」を載せて貰つた。以下はその冒頭部分である。
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西尾幹二氏は近著『江戸のダイナミズム』(文藝春秋)の第十七章「万葉仮名・藤原定家・契沖・現代かなづかい」で、「現代かなづかい」を批判する一方、歴史的假名遣ひにも「無理」があると苦言を呈してゐる。この「兩成敗」は一見公平さうだが、實際はバランスを失した理不盡な主張である。
現代かなづかいには拙速が生んだデタラメがあります。旧仮名すなわち歴史的仮名遣いには、福田恆存が述べている通り、文法上の一定の合理性があります。しかし一方に以上見た通り使用上の無理もあります。(四五一頁)
その「無理」とは何か。西尾氏は例として「小用(せうよう)、従容(しょうよう)、称揚(しょうやう)、賞揚(しゃうやう)」や「公使(こうし)、行使(かうし)、公私(こうし)、光子(くゎうし)」等を擧げる。そして歴史的假名遣ひはこのやうな「煩雑な区別」を「国民に要求していたのです」と告發するのである。
しかしこれらは全て漢語の音の假名遣ひ、すなはち字音假名遣ひである。西尾氏は「要求」と云ふ言葉の意味を曖昧なまま使用してゐるが、それが「使用を強ひる」と云ふ意味であれば、事實であるとは到底認められない。少なくも一般國民の日常生活に於いては、戰前も戰後も漢語は漢字で書くものであり、わざわざ假名で書いたり一々振假名を振つたりする習慣は無いからである。
*********(轉載終了)*********
續きに關心のおありの方は、國語問題協議會事務局から會報を取寄せてお讀み下さい。
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