2008年5月16日 (金)

人間は信頼出來ない(但し政府關係者を除く)

喜六郎氏の不思議な主張

言うまでもなく、私はリバタリアニズムは断固として否定する。/私は木村氏ほど、市場を形成する人間の良心というものを信頼していないからである(信頼したいという気持ちはあるが)。

人間の良心はそれほど信頼出來るものではない、と云ふ意見には私も同意する。しかしそれなら何故、喜六郎氏は次のやうな腦天氣な事を書けるのだらうか。

そこで必要なのが、政府による規制である。

「政府」を運營してゐるのは誰だらうか。天使だらうか、神だらうか。云ふまでもなく人間である。喜六郎氏はどうして、政府を運營する人間の良心だけは信頼出來るのだらうか。隨分底の淺い人間觀である。人間が信頼出來ないのなら、極力權力を持たせず、自由な市場で互ひに監視し合ふ方が害が少ないではないか。

あと木村さんは、/政府と勞働組合が結託して最低賃金と云ふ規制を設定してゐる所爲で、もつと安い賃金でも働きたいと云ふ人々の就業機會を奪ひ、働きたいのに働けず、貧困層の増加につながつてゐると云ふのが定説なのですが。/なんて書いてるけど、こんな定説聞いたことないんですが。/まぁいかにもリバタリアンが言いそうなことではあるが。

こんな定説聞いたことない……。經濟學教科書の定番の一つ、『マンキュー經濟學・マクロ篇』(東洋經濟新報社)の舊版250頁にはかうある。「最低賃金法によつて、需要と供給が一致する水準よりも上方に賃金が引き上げられると、均衡水準に比べて勞働供給量が増加し、勞働需要量が減少する。したがつて、勞働には餘剩が發生する。仕事の數よりも働きたい勞働者の數のはうが多いので、失業が發生する」。ちなみに筆者マンキューはアメリカ政府の要職を務めた事もある穩健な主流派經濟學者であり、エキセントリックな「リバタリアン」などではない。

まあ喜六郎氏の反市場主義は、私の市場主義なんぞより遙かに廣汎に流布した「宗教」であり、その教祖も小林よしのりとか雨宮処凛とか西部邁とか佐高信とか藤原正彦とか関岡英之とか佐藤優とか左右を問はず錚々たる面々が控へてゐるので、説得は無理だと分かつてはゐるが。

(追記)マンキューの同書舊版45頁にある「政策提言と經濟學者の賛同率」によれば、「最低賃金の引上げは、若年勞働者と未熟練勞働者の失業率を引上げる」との指摘に對し、79%の經濟學者が同意してゐる。無知な喜六郎氏が「聞いたこと」あらうがなからうが、要するに「定説」なのである。

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2008年5月 9日 (金)

まだゐた朝日岩波文化人

腹が立つと書きたくなる男の獨白。

人間不在の経済論」より。

>松原信者は全般的に経済に無関心な人が多い。/そんな中で果敢に「正しい経済」について論じているのが、経済記者である木村貴である。

御指名有難う御座います。松原信者經濟擔當の木村です。但し無免許運轉。

>木村の経済観というものは、M.フリードマン流の市場原理主義・リバタリアニズムを主軸としたものである。

細かい話ですが、私はフリードマン信者ではありません。ミーゼス信者です。リバタリアニズムにお詳しい喜六郎さんは當然御存知でせうが、リバタリアニズムには大きく二つの流れがあつて、一つはミルトン・フリードマン、ジョージ・スティグラー、ゲイリー・ベッカーらに代表されるシカゴ學派、もう一つはメンガー、ベーム=バヴェルク、ミーゼス、ハイエク、ロスバードらを中心とするオーストリア學派です。このうち、金融政策を含め一切の政府介入を排する徹底した「市場原理主義」を唱へるのが私の好きなオーストリア學派です。テストに出るかもしれないのでよく覺えておくやうに。

>かつて小泉純一郎・竹中平蔵コンビが積極的に推し進めた構造改革も、市場原理主義・リバタリアニズム的な改革であり、規制緩和による富裕層への優遇・「小さな政府」志向による都市重視と地方軽視政策・郵政事業を始めとする民営化政策などにより、日本景気は一時的に回復の兆しを見せたものの、反面、ワーキング・プアやネットカフェ難民などといった新たな貧困層の出現や、北海道夕張市に代表される地方の衰退、民営化による外資系ハゲタカファンドの跳梁など構造改革(リバタリアニズム改革)の負の面が露わになってきた。

小一時間問詰めたいくらゐの突込みどころがあります。例へば……
●規制緩和がどうして富裕層優遇なのですか。例へばコメの輸入の規制緩和でコメの値段が下がれば、最も恩恵を受けるのはコメばかり食べてゐる貧困層ではありませんか。
●小さな政府がどうして地方輕視なのですか。多くの自治體の首長は皆、小さな中央政府を要望してゐるではありませんか。
●貧困層出現の原因が規制緩和であると云ふ根據を具體的データで示して下さい。あなたの嫌ひな筈の朝日岩波文化人の主張を鵜呑みにしてゐませんか喜六郎さん。いやひよつとしてあなたは匿名の朝日岩波文化人ですか。經濟學的には、例へば、政府と勞働組合が結託して最低賃金と云ふ規制を設定してゐる所爲で、もつと安い賃金でも働きたいと云ふ人々の就業機會を奪ひ、働きたいのに働けず、貧困層の増加につながつてゐると云ふのが定説なのですが。
●地方の衰退の原因が規制緩和であると云ふ根據を(以下同文)
●日本における外資系ハゲタカファンドの「跳梁」がなぜ惡いのですか。日本企業の大半は海外で「跳梁」して利益を稼いでゐるのですが、それは怪しからぬ事なのでせうか。

>そのような状況の中で、「愚かな民衆が嫌うリバタリアニズムこそが正義である!」と反民衆主義を唱える木村の経済観が如何なるものかを検証していきたい。

ははあ、すると喜六郎さんは「愚かな民衆」、つまり愚民の身方な譯ですね。西部邁大先生が聞いたらさぞ歎く事でせう。笑ひ。

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2008年2月28日 (木)

ヘタマゴすればウィキ荒らし

喜六郎氏より有益な情報。

たとえば木村貴氏。/彼は以前、自分のブログにて福田逸氏が「ヘタマゴ」という語句を使用した事を槍玉に挙げ、「ヘタマゴなる愚劣な言葉を書き連ねて平気な福田逸は馬鹿だ」とゴチエイ気取りで居丈高に非難したことがあった。/その後ウィキペディアに何者かが"「ヘタマゴ」という珍妙な言葉を使う。"と記入し、それを見た福田逸氏が「ヘタマゴ」という語句は自身の造語ではなく、国語辞典にも載っている語句だということを論証された。
早速確認。たしかに福田逸氏、次のやうにお書きになつてゐる。
最近ウィキペディアを見て吹き出したことがある。項目は、こともあらうに、私の名前である。[略]大筋では問題ないのだが、項目説明の最後に、誰かの手により、いつの間にか一行加へられてゐる。/何が加えられたかといふと、≪ブログ「福田逸の備忘録」で「ヘタマゴ」という珍妙な言葉を使う。≫といふ一文。吹き出したといふのはここである。/当然このブログを読みに来た人物が書き加へたことは言ふまでもないが、≪「ヘタマゴ」という珍妙な言葉≫と書いたといふことは、「へたまご」といふ言ひ回しを知らないといふことだらう。「へたをまごつく」――略して、ヘタマゴ。「ヘタマゴすれば民主党の政権が出来かねない」、などと使ふ。この言ひ回し、無意識に使ふ程度には私の頭に入つてゐる。今まで辞書で調べたこともなかつたが、小学館の日本国語大辞典(第二版)を引いたら、「下手なふるまいをする。ぐずぐずとまごつく」といふ説明を載せてゐる。

ああ、載せてゐる辭書もあるかもしれない。 ところで、それが何か。もう一度私の文章を見て貰ひたい。

しかし傳統を守れと聲高に叫ぶ言論人が「噂を信じちやいけないよ」だの「ヘタマゴ」だの「ガラガラクシャ」だのと愚劣な言葉を書き連ねて平氣でゐるやうなら日本文化は、つまり日本は、いづれ滅びる。

私は「ヘタマゴ」を「愚劣な言葉」とは書いたが、「珍妙な言葉」などとは書いてゐないし、辭書に載つてゐないとも書いてゐない。「噂を信じちやいけないよ」だつて、「噂」「信じる」「いけない」と分ければ當然ながら辭書にちやんと載つてゐるし、「ガラガラクシャ」だつて、擬音語擬態語辭典の類を引けば載つてゐ……ないだらうな、さすがにこれは。兎も角、それらの言葉はいづれも愚劣、下品、輕薄であることに關して變はりはない。まあ、「ヘタマゴ」と云ふ言葉だけを取り出して、「噂を信じちやいけないよ」や「ガラガラクシャ」には一言も觸れない喜六郎氏の高等戰術だか、「木を見て森を見ぬ」讀解力の高さだかについては、「お見事。とても眞似できません」 と云つておかう。

と云ふことで喜六郎氏はまたしても論破されてしまつたわけだが、經驗上、堂々と反論して「言論責任」を明らかにしてくれるなどとは全く期待してゐない。それは別に構はないのだが、好い氣になつてこんな事まで書くのは、他人に責任ある言論を求めるお方として如何なものか。

ウィキペディアに例の一文を記入したのが木村氏であるとは残念ながら断定は出来ない。なぜならば、状況証拠(福田逸氏の「ヘタマゴ」に言及してたのは木村氏だけ)はあっても決定的証拠は無いからである。

私はウィキペディアへのログインの仕方も知らないのだが、それこそヘタマゴすればウィキ荒らしの濡衣を着せられかねない。桑原桑原。喜六郎氏に知つておいて貰ひたい諺がある。七度尋ねて人を疑へ

それにしても事の發端になつた福田逸氏の文章、郵政民營化への賛否などは勿論別にして、何度讀んでも愚劣極まる。この愚劣が分からぬ人間に何を説いても無駄だらう。

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2007年6月24日 (日)

體系的ならざる論

 「言葉の救はれ」で“連載”中の「宿命の國語」170囘を眺めてゐて何だか見覺えがあるなと思つたら、昨年十一月に公開された119囘と全く同じ文章だつた。それで思ひ出したが、以前公開された136囘123囘と同じだつたし、133囘120囘と同一だつた。

 今年二月に掲載された「祝 アクセス件數3萬件突破」にはかうある。

  「言葉の救はれ――宿命の國語」は既に135囘になつたが、まだ3分の1である。體系だつた論ではないが、國語を宿命として受入れることが、時間の最尖端にゐる私たちの役割であり、さうしてこそ言葉の生命に觸れ、臺無しにされた言葉を復活させることができるといふ思ひで書いてゐる。

 國語が宿命かどうかは分からないが、同じ文章が何度も登場する「宿命の國語」が「體系だつた論ではない」事だけは確かである。

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2007年6月13日 (水)

警察も呼べない松原信者

 喜六郎さんより。

 野嵜氏は、「もう何も言はない」と宣言したにも関わらず、説明も何もなく何食わぬ顔で発言を再開ことを非難されると、「法には触れていない」と宣ったのである。/つまり、道徳的怠惰を指摘されたのに法を盾に自己正当化を図ったのである。/普段、「法と道徳の峻別」を何とかのひとつ覚えのように訴えていたのは野嵜氏ら松原信者ではなかったのか?/さらに野嵜氏の盟友である木村貴氏は、盟友の知的怠惰を批判することもなく野嵜氏擁護をする始末である。/「法と道徳の峻別」を唱えて、前田嘉則氏や加地伸行氏や私を居丈高に非難していたのは何処の誰でしたっけ?/自分たちの世間の外に居る人達には偉そうに批判して、身内の人間の知的怠惰は見て見ぬふり。/松原信者は西欧の「先進性」を称揚し、日本の「後進性」を痛罵するくせに、こういう世間べったりな所は実に日本的である。

 時間が無いので詳しくは後日論ずるとして、取敢へず喜六郎さんが何を勘違ひしてゐるか、そのヒントだけ擧げておきます。

 ●ウェブで「騙り」をはじめとする嫌がらせをさんざんやられたのに嫌気が差し、堪りかねて「もう何も言はない」と宣言した後、發言を再開する事は「道徳的怠惰」なのでせうか。例へば、喜六郎さんが好きなワーキングプアの人が職場でさんざん嫌がらせをされて、「もう二度と働かない」と周圍に宣言し、その後、再び働き始める事は「道徳的怠惰」なのでせうか。

 ●「道徳的怠惰」でもない事を「道徳的怠惰」呼ばはりする滅茶苦茶な輩に對し、自らの權利を守る爲に法律を持出す事は許されないのでせうか。例へば、日頃道徳と法の峻別を説くワーキングプアの人が「もう二度と働かない」と宣言して仕舞つたばつかりに、周りの人間から「お前云つたよな、二度と働かないつて云つたよな、それでまた働きますつて云ふのは、お前の常日頃指彈する道徳的怠惰だよな。さうだよな。二度と會社に顏出すなこのボケ!」と因縁をつけられた時に、勞働は憲法や勞働法で認められた權利であると主張する事は、言行不一致の怪しからぬ行爲なのでせうか。

 ●そもそも「法と道徳の峻別」「政治と道徳の峻別」を説く人間は、法的・政治的權利を主張する事自體がをかしいと喜六郎さんはお考へなのでせうか(さうとしか讀めませんが)。すると私や野嵜さんは強盜に遭つても警察を呼ぶ事は許されないと云ふ事ですか。もう一つ云へば、喜六郎さんはひよつとして、「峻別」と「否定」を同じ意味だと思つてゐませんか。

 ●塗炭さんが指摘されてゐるやうに、「法と道徳の峻別」と云ふ表現は誤解を招く恐れがありました。なぜなら、「法」には大きく二つの種類があるからです。すなはち自然法と實定法です。自然法とは「殺すなかれ」「盜むなかれ」に代表されるやうに、法律が出來る前から存在してゐた正不正の基準です。これは道徳に等しいと云へるでせう。實定法とは「自動車が右を走つたら道交法違反」「インサイダー取引は證取法違反」「無斷コピーは著作權法違反」のやうに、單に國會でさう決まつたから從へと云ふ類の法律、つまり行政法や經濟法の大部分です。これは政治に等しいと云へるでせう。従つて、政治と法と道徳との關係について深く考へた事もない喜六郎さんが誤解して譯の分からぬ事を書いて仕舞ふのも無理からぬ話で、これは私の反省材料です。誰でも分るやうな文章を書かないと。

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2007年6月 8日 (金)

みかんさん、宜しく

 「みかん」さんと云ふ人が偉い劍幕で野嵜さんに詰寄つてゐます。

 「もう何も言わない」といっていたのにまたしゃしゃり出て来た理由はなんなのだ。答えろ。

 これに對し野嵜さんが「一度默つたら二度と口を利いてはいけないと云ふ法が何處にあるのですか。典拠を御示し下さい」と仰つたところ、

 法ではない。ただウェブ上で公言したことはいわば読者に対する約束。要するに、野崎は約束なんか守ろうが破ろうが俺の勝手だ、知ったことか、と言っているわけだ。これでよく判ったよ。

 なるほど。みかんさんは、野嵜さんがウェブ上で公言した「読者に対する約束」とやらを破つた事が許せないわけだ。それぢやあ野嵜さんにそのうち試して貰ひたい事があるのですが、「言葉 言葉 言葉」のトップページに「これからは毎日更新する」と書いてみて下さい。一日でも休めば、みかんさんが「約束を破るな!更新しろ!」と矢のやうに催促して呉れる事でせう。我々讀者は大いに助かります。みかんさん、どうぞ宜しく。

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2007年6月 7日 (木)

をかしなをかしなニート批判

 「いちご」さんと云ふ人が、誠に勇ましいニート批判を書いてゐます。經濟學的な啓蒙に格好の素材なので、少しく詳しく論評しませう。

 生活保護受給世帯よりも低収入の「ワーキング・プア」が急増している。それらの人たちが国の世話にならずに、貧しいながらも働いているのは、ひとえに彼らの人間としてのプライドの故だろう。

 人間は何の爲に働くのでせうか。「プライド」などと云ふ腹の足しにならないものの爲よりも、より多くの收入を得て生活水準を高める爲でせう。ワーキング・プア諸氏が現在貧しくとも働いてゐるのは、さうする事によつて將來の收入を「生活保護受給世帯」以上に高め得ると判斷してゐるからでせう。御承知のやうに、仕事と云ふものは「兔に角やつてみる」事でしかスキルを高められないし、能力を認めて貰ふ事も出來ません。例へば、無名のロックバンドは、極端な話、ノーギャラでも良いから兔に角舞臺に立たない限り、聽衆に認知して貰ふ事すら不可能でせう。しかし一旦認めて貰へれば、スターにはなれなくとも、それなりのギャラを手にするチャンスが生れます。要するにワーキング・プア諸氏も、いちごさんや私同樣、普通の人間として自分なりの予測や期待に基づいて就勞と云ふ行爲を選擇してゐるに過ぎず、それを「プライド」などと云ふ言葉を使つて賞揚するのは、無用のおべつかであり、倒錯した「弱者崇拜」であり、まるで動物園のパンダ扱ひするやうな甚だ無禮な態度であるとさへ云へます。

 そういう人たちにこそ、手厚い救済策が施されるべきだ。その乏しい収入からも、容赦なく所得税は徴収されているのである。

 經濟に無知な論者に典型的な主張です。「手厚い救済策」の内容が何であれ、政策として實施する以上、原資は税金以外にあり得ません。覺えておいて貰ひたいのは、政府が民間からより多くの税金を取立てれば、その目的がたとへ貧者救済であらうとも、その徴収先がたとへ貧者以外であらうとも、結局は貧者自身をさらに貧しくすると云ふ事です。なぜなら政府が税金を徴收した分、企業は設備投資や技術開發に充てる資金が少なくなり、個人は消費に囘すお金が足りなくなり、全體として經濟が停滯する事になるからです。經濟全體が停滯すれば、勤勞者の取り分が小さくなり、その中でワーキング・プアの取り分が現在よりもさらに小さくなるのは火を見るよりも明らかでせう。ワーキング・プアから所得税が容赦なく徴收されてゐる事は確かに理不盡ですが、その理不盡をさらなる税金徴收で解決しようと云ふのは全くの見當違ひです。ワーキング・プアを救ひたいと本心から願ふのなら、ワーキング・プアを含むあらゆる人の税負擔を減らす方策を考へるべきなのです。


 その一方で、親のすねをかじりながら、「ワーキング・プア」が支払った税金で整備された社会資本の恩恵を、のうのうと享受するニートどもがいる。

 「ニート憎し」の感情のせゐか、論理展開がますますをかしくなつてゐます。まづ、すねをかじる行爲は、かじられる親とかじる子の合意の上に成立つてゐるのですから、他人がとやかく云ふ筋合ひのものではありません。ニート太郎やニート花子が親のすねをかじつたからと云つて、いちごさんや私の財産が減るわけではないでせう。次に、いちごさんはニートが所得税を納めてゐない事が氣に喰はないやうですが、働いてゐないのだから所得が無いのは當然で、所得が無ければ所得税を納めないのも當然です。どこが問題なのでせうか。ニートは所得税を納めないと云ふ利便と引換に、自由になる金が少ないと云ふ不便も甘受してゐるのです。もしもニートの經濟的境遇(利便と不便の差引)がそれほど素晴らしいものならば、そこそこの收入のある親を持つ日本人全員がとうの昔にニートに“轉職”してゐる筈ですが、さうなつてゐないのは、大半の人がニートの經濟的境遇を羨ましいと考へてゐない證左でせう。それから、「社会資本」(多分道路や橋やダムの事でせう)の整備に使はれた税金のうち、ワーキング・プアが納めた部分は恐らく微々たるものであつて、大部分は金持ちや中産階級が納めたものでせう。だとすれば、いちごさんが賞揚するワーキング・プア諸氏も、ニートほどではないにせよ、金持ちや中産階級の「税金で整備された社会資本の恩恵を、のうのうと享受」してゐる不逞の輩の一派と云ふ事になつて仕舞ひます。やはりいちごさんはワーキング・プアの事が本當は嫌ひなのでせう。

 奴らは言う。「俺は秋葉原で美少女アニメのキャラクターグッズをたくさん買って、その分消費税を支払っているんだ! 所得税だなんだとガタガタ抜かすな!」と。しかし、根本的に間違ってるよな。

 どこが「根本的に間違ってる」のでせうか。所得税も消費税も同じ税金です。賣つた商品が高級外車だらうがパソコンだらうがポルノ雜誌だらうが、その稼ぎから拂ふ所得税はすべて貴重な血税であるのと同樣、買つた品物が美少女アニメのキャラクターグッズだらうが有機野菜だらうが哲學書だらうが、拂ふ消費税はすべて血税です。

 そんな連中が一知半解の政治論議をネットで展開しても、説得力なんてまるでない。

 一知半解の經濟論議をネットで展開する手合ひは、ニートであらうがなからうが、困つたものです。

 日本国憲法で定められた「勤労の義務」も満足に果たせない連中が、現行憲法無効論などを主張するのだから笑止千万だ。

 いちごさんこそ、日本國憲法で定められた「言論の自由」について何も分つてゐないやうです。
 


 昔福田恆存が「弱者天国」という論文を書いていたはずだが、今の日本は「無職天国」「ニート天国」だろう。次の参院選では、これらの倒錯した労働環境の改善を目指す政党の躍進を望む。ニートは断じて、現代社会の犠牲者や被害者などではない。彼らを甘やかして遊ばせているその親たちの税金や保険料を値上げするなど、懲罰的な政策をぜひ実現に移してほしい。

 參院選ねえ……そもそも參議院て必要なんでせうか。いちごさんは餘程税金や政治や懲罰が好きなやうですね。私もニートが政治家や役人や一部の學者の出世の道具になりつつある現状を憂いてゐますが、それに對する處方箋はいちごさんと全く異なります。ニートを無理矢理働かせようとする政策など税金の無駄遣ひ。親の税金や保険料を上げれば經濟全體が停滯するばかり。働きたくない人は放つておけば宜しい。その代はり、税金による生活費補助などは一切やらない。そのうへで彼らがささやかな(親の收入によつては結構な額の)小遣ひで秋葉原に買物に出掛けて行つたとして、何を咎める必要があるでせうか。他人の世話を燒くのは止めて、自分の頭の蠅を追へ、と云つておきませう。

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2007年6月 2日 (土)

木村は僞「松原信者」?

 どつちなんでせう。

>松原信者の巨魁、木村貴さん

>木村さんの言う「政治と○○の峻別」というのは、単なる規制緩和という意味でしかない。それを松原正風に言い換えることによって、持論が松原思想にさも忠実であるかのように装ってるだけである。

 私は「松原信者の巨魁」なのでせうか、それとも「松原思想にさも忠実であるかのように装ってるだけ」の新自由主義者なのでせうか。頭の良過ぎる人の議論にはついて行けません。苦笑。

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2007年3月26日 (月)

公共心の缺如・續

 喜六郎さんから反論。

 案の定、木村さんが噛みついてきたけど、誰も「堀江は公共心の欠如で逮捕された」などと書いてないんだけどね。(投稿者:kirokuro 2007/3/24 22:11

 もう一度讀んでみませう。

 裁判長の説諭要旨はどうかと思うが、妥当な判決だと思う。/今は堀江被告に限らず、公共心が欠如した富裕層が本当に増えたと思う。(「堀江貴文被告に実刑判決!」)

 さて、喜六郎さんが「妥当な判決」だと考へる根據は一體何なのでせう。それが示されてゐない以上、私のやうにわざと、いやいや、うつかり「公共心の欠如」がその根據だと誤讀する讀者がゐても仕方ありますまい。

 小林亮一氏の「東京地裁の堀江判決を批判する」によれば、裁判所はライブドアの利益計上が合法か違法かと云ふ「公認会計士ですら判断に迷う問題」について直接の判斷を避け、「投資組合は脱法目的で設立され違法」とだけ述べたさうです。しかしこれは小林氏が指摘する通り、「すべての起訴事実の土台となっている事実について法判断を回避し、『脱法目的の団体を通じてやったことだからいけないよね』というイメージだけで構成された判決」と云へないでせうか。

 私は專門家ではないのでこれ以上の事は云へませんが、喜六郎さんは「妥当な判決」と判斷する法的知識をお持ちなのでせう。どうぞそれをお聞かせ下さい。こんな事は無いと思ひますが、萬が一、それをお示しになれない場合、「何だ結局、『法的根據はよく分らないけど、ホリエモンは公共心が缺如してゐる奴だから有罪!』と云つてゐるのと同じぢやないか」と思はれかねませんから、御注意下さい。

 とにかく出鱈目でもいいから、人を叩きたくて仕方ないんだろうな。

 「人を叩きたくて仕方ない」のはお互ひ樣。但し當方は、「公共心が缺如してゐるから有罪」と云ふ本音を思はず行間に漏らして仕舞ひ、それを指摘されると「そんな事は書いてゐない」といきり立つやうな「出鱈目」をやらかす度胸はありませんけどね。

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2007年3月22日 (木)

公共心の缺如

 法と道徳を峻別出來ない日本人、その一例。

 裁判長の説諭要旨はどうかと思うが、妥当な判決だと思う。/今は堀江被告に限らず、公共心が欠如した富裕層が本当に増えたと思う。(「堀江貴文被告に実刑判決!」)

 「公共心の缺如」と云ふのは刑法の何條に違反するのか、教へて貰ひたいものである。恐らくその刑法の條文には「富裕層にのみ適用し、中産層以下はお咎め無し」とも書いてあるのだらう。喜六郎さんは素朴な正義感の持主だと想像するが、「罪刑法定主義」とか「法の下の平等」とか云ふ言葉も知つておいた方が良いと思ふ。

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