天皇の政治利用
政治利用、宮内庁に深まる危機感 天皇陛下と中国副主席会見問題
會見の一カ月前までに文書で正式に申請しなかつたのが問題といふが、本質的に考へれば、申請がたとへ二カ月前、半年前、一年前だつたとしても、それは政治利用だ。
そもそも現在の天皇の役割は、政治に利用されること以外の何物でもない。
民主黨はやり方が拙劣だつたにすぎない。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
政治利用、宮内庁に深まる危機感 天皇陛下と中国副主席会見問題
會見の一カ月前までに文書で正式に申請しなかつたのが問題といふが、本質的に考へれば、申請がたとへ二カ月前、半年前、一年前だつたとしても、それは政治利用だ。
そもそも現在の天皇の役割は、政治に利用されること以外の何物でもない。
民主黨はやり方が拙劣だつたにすぎない。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
「天皇を崇拜したい人は崇拜したい人の間でだけ崇拜してゐればいいんだ」と主張する人は、「天皇」を「平和主義」「民主主義」「環境保護」等々と入れ換へた主張も容認すべきである。さうでなければ自由主義・相對主義の筋が通らない。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
けふ讀んだ本。
兩書の結論が酷似するのに驚く。まづ子安本。
戰ふ國家を連續させない意志の表示であつた戰爭放棄と完全な政教分離をいふ日本國憲法の原則は、いまいつそうその意義を増してゐるといへるだらう。
「第二の靖國」の出現を防ぐには、憲法の「不戰の誓ひ」を擔保する脱軍事化に向けた不斷の努力が必要である。要するに日本國憲法第九條を守れと云ふ結論である。子安も高橋も「戰爭は惡」と云ふ命題を絶對視してゐるから、かう云ふ十年一日、いや六十年一日の如き結論にならざるを得ない。しかし戰爭はなぜ惡なのか。兩者の文章には、人間が死ぬからと云ふ理由しか見當たらない。それでは日本軍に對する中國の「自衞戰爭」も又惡だつたのか。いやいや、人間が死ぬのは戰爭に限らぬ。過去の内戰、革命、反革命鬪爭等々が全て惡であり、その惡を正當化・美化するやうな儀式・表象も盡く惡であると子安高橋が斷ずるのであれば、その思想的首尾一貫に敬意を表したく思ふ。
なほ高橋の江藤淳批判、子安の中西輝政批判には聽くべきところがある。
江藤は靖國神社を擁護するに當たり、日本文化における「死者との共生感」を根據に擧げたが、それならなにゆゑ「靖國は日本の戰死者のなかでも軍人軍屬だけを祀り、民間人戰死者を祀らないのか」。又、なにゆゑ「靖國は敵側の戰死者を祀らないのか」、就中、なにゆゑ同じ日本人であるにも拘わらず、幕末の賊軍をはじめ「天皇のゐる側に敵対した戰死者は排除する」のか。「日本文化」論を盾にする限り、これらの問ひには答へられない。古來、日本の武將は必ずといつて良いくらゐ、敵側の戰死者を祀つてゐるのだ。
江藤は靖國が佐賀の亂の叛亂軍を祀つてゐない事を氣にして、かう言つたと云ふ。「國内の戰死者であれば、請願してこれから祀つてもらへばいい」「いまならもうだいぶほとぼりも冷めたから、祀つていただけるかもしれない」。この發言を捉へて高橋は「なんと政治的な祀りであることか」と批判してゐるが、その通りである。靖國は政治的役割を負はされた神社なのである。そして私は、人間がパン無くしては生きられぬ存在である以上、政治は必要だと思ふ。政治的神社も必要だらう。高橋哲哉も子安宣邦も己が國家を率ゐる立場になれば、新たな「國家神道」を必要とするに違ひない、フランス革命時に無神論者のロベスピエールが「最高存在」と云ふ擬似神を必要としたやうに。
中西輝政はかう書いたと云ふ。
繰り返し言ふが、國の存立のために命を捧げるといふ、これ以上はない崇高な自己犠牲の精神を發揮した人々は、國家が全力をもつて顯彰し、後世に傳へていかなければならない。さうでなければ、國家としての道義心は廢れ、將來の危機において立ち上がれる日本人も期待できないはずである。人間は政治的動物であるから、宗教も政治的役割を負はざるを得ない場合がある。しかし人間は道徳的存在でもあるから、宗教は道徳的役割をも負ふべきである。そしてソフォクレスの悲劇「アンティゴネー」が示すやうに、政治と道徳とは對立する局面がある。中西の發言には、さう云ふ對立を想定した緊張感が微塵も無い。そもそも國家に道義心など無い。國家にあるのは政治だけである。政治と道徳、國家と個人の二元論に立つ靖國論を讀みたく思ふ。
| 固定リンク
| コメント (2)
| トラックバック (1)
最近買つた本。
『皇統斷絶』では高森明敕、松本健一、福田和也、中西輝政らが嚴しく批判されてゐて、比較的高く評価されてゐる數少ない保守派言論人が八木秀次である。
皇位継承者は男系男子に限るべきであると云ふ中川・八木の主張自體には贊成。
しかし、大半の日本人が天皇について深く考へようとしないぐうたらぶりこそ深刻かつ本質的な問題であらう。それは「戰後民主主義」だけが原因ではない。
中川も八木もイギリスのエドマンド・バークを近代保守主義の始祖として尊敬するのだが、萬世一系の天皇がしろしめす我が日本國は一人のバークもトクヴィルも生まなかつた。そこに問題の本質が存するのである。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
かなり長くなつて仕舞ふが、リチャード・ドーキンスの「信じてもいい理由と信じてはいけない理由」(垂水雄二譯、早川書房『惡魔に仕へる牧師』所收)から、ドーキンスの宗教觀を端的に示す件りを引用する。國語論としても讀める頗る論理的な文章だが、娘への手紙と云ふ形式で書かれてをり、表現は平易である。
私たちにとつて、なぜ傳統がそれほど重要なのかといふ理由を説明してみようと思ふのです。すべての動物は(進化と呼ばれる過程によつて)、その種類がすんでゐるふつうの場所で生き延びることができるやうにつくられてゐます。ライオンは、アフリカの草原で生き延びるのに適した體のつくりをしてゐます。ザリガニは淡水で生き延びるのに適した體のつくりをしてゐますが、ロブスターは鹽水で生き延びるのに適した體のつくりをしてゐます。人間も動物です。そして私たちの體は、……ほかの人間が一杯ゐる世界のなかで生き延びるのに適した體のつくりをしてゐます。ほとんどの人は、ライオンやロブスターのやうに自分で食べ物を捕まへたりはせず、それをほかの人から買ふのですが、その人もまた別の人から買つたのです。私たちは「人間の海」のなかを「泳ぐ」のです。ちやうど、水の中で生き延びるために、魚にエラが必要なのと同じやうに、ほかの人とうまく折り合つていくために、人間には頭が必要なのです。海が鹽水で滿たされてゐるやうに、人間の海には、憶えなければならない難しいことがいつぱいあるのです。たとへば言葉です。
君は英語をしやべりますが、友達のアン・カトリンはドイツ語をしやべります。君たちは、別々の「人間の海」で「泳ぎまはる」のに適した言葉を、それぞれしやべつてゐるのです。言葉は、傳統によつて傳へわたされていきます。それ以外のやり方はないのです。ペペは英國ではa dogですが、ドイツではein Hundになります。どちらか一方の言葉がより正しいとか、より眞實だといふやうなことはありません。どちらも、ただ受け繼がれてきただけのことです。うまく「人間の海で泳ぎまはる」ことができるために、子供は自分の國の言葉や、自分の國の人間についてのたくさんの事柄を覺えなければなりません。といふことは、とてもたくさんの傳統的な情報を、吸ひ取り紙のやうに吸收しなければならないことになります(傳統的な情報とは、おぢいさんおばあさんから、兩親、子供へと受け渡されてゐる事柄について言つてゐるだけだといふのを、覺えておいてください)。子供の腦は傳統的情報の吸ひ取り紙でなければならないのです。そして子供に、その國の言葉の單語のやうな、役に立ついい傳統的情報と、魔女や惡魔や不死の聖母マリアを信じるといつた、馬鹿げた惡い情報とを選り分けるやうに期待することはできないのです。
子供は傳統的な情報の吸ひ取り紙だから、大人の言ふことを、眞實であつても嘘であつても、正しくても間違つてゐても、何でも信じてしまひやすいといふのは、殘念なことですが、どうしやうもありません。大人の言ふことの多くは、證據に基づいた眞實であるか、少なくとも良識のあるものです。けれども、その一部が、嘘だつたり、馬鹿げてゐたり、あるいは邪惡なものでさへある場合、子供たちもそれを信じてしまふのを防ぐ方法がありません。さて、その子供たちが大人になつたとき、どうするでせうか? さうです。もちろん、彼らは、次の世代の子供たちに傳へるのです。そして、なにかがいつたん強く信じられてしまふと――たとへ、それが完全に嘘であり、そもそもそれを信じる理由がまつたくなかつた場合でさへ、永遠につづくことができるのです。
これは、宗教でおこつてきたことなのではないのでせうか? 神あるいは神々の存在を信じること、天國を信じること、マリアがけつして死なないと信じること、イエスが人間の父親をもたなかつたと信じること、祈りはかなへられると信じること、ブドウ酒が血に變はると信じること――かうした信仰のどれ一つとして、正しい證據によつて裏づけられてはゐません。でも、何百萬人といふ人々が信じてゐるのです。たぶんきつと、人々が何でも信じてしまふ幼いときに、信じるやうに教へられたからなのでせう。
ほかの何百萬人といふ人々は、子供の時に違つたことを教へられたために、まるで違つたことを信じてゐます。イスラム教徒の子供は、キリスト教徒の子供とは違つたことを教へられます。そして兩方とも、大人になつて、自分たちが正しくてあいつらは間違つてゐると、すつかり信じこんでしまふやうになります。キリスト教徒のなかでさへも、ローマ・カトリック教徒は、英國國教會員や米國聖公會員、シェーカー教徒やクエーカー教徒、モルモン教徒やペンテコステ派とは違つたことを信じてゐて、誰もが、自分たちが正しくてほかの宗派は間違つてゐると、すつかり信じこんでゐるのです。彼らは、君が英語をしやべり、アン・カトリンがドイツ語をしやべるのとまつたく同じ種類の理由によつて、違つたことを信じてゐるのです。どちらの言葉も、それぞれの國では、正しい話し言葉です。しかし、異なつた宗教が、それぞれの國で眞實だといふことはありえないのです。なぜなら、異なつた宗教は反對のことが眞實だと主張してゐるからです。マリアが、カトリックのアイルランド共和國では生きてゐるがプロテスタントの北アイルランドでは死んでゐるといふやうなことは、ありえないからです。
又、スティーヴン・ピンカー『人間の本性を考へる』(山下篤子譯、NHKブックス)によれば、アメリカの保守派知識人として名高いアーヴィング・クリストルはかう書いたと云ふ。「さまざまな種類の人にとつてのさまざまな種類の眞實がある。子どもに適した眞實、學生に適した眞實、教育のあるおとなに適した眞實、きはめて教養の高いおとなに適した眞實。だから、だれもが利用できる一セットの眞實があるべきだといふ意見は、現代民主主義の誤謬である。それはうまくいかない」。
しかし私は綾小路やクリストルとは異なり、全ての人間は社會的地位や年齡や「教養」に關はりなく、出來得る限り合理的に思考すべきだと思ふ。合理的思考こそが眞の教養だとすら考へる。合理的に考へる限り、眞實は一つであり萬人に共通でなければならない。さうした考へ方からは綾小路やクリストルが暗に指摘するやうな問題も生ずるかも知れないが、その問題も合理的精神無しに解決する事は出來まい。
合理的精神が宗教を否定するとは限らない。ウィリアム・ジェイムズは『プラグマティズム』(桝田啓三郎譯、岩波文庫)にかう書いてゐる。
プラグマティズムは、われわれの精神とわれわれの經驗とが相たづさへて作り出す結論以外の結論にはまつたく無關心であるが、頭つから神學を否定するやうな偏見をもつてはゐない。もし神學上の諸觀念が具體的生命にとつて價値を有することが事實において明らかであるならば、それらの觀念は、そのかぎりにおいて善である、そしてかかる意味で、プラグマティズムにとつて眞であるであらう。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
キリスト教徒であるといふことは神によつて愛されてゐるといふことであり、キリスト教徒でないといふことは神によつて憎まれてゐるといふことであり、神の怒りの對象であるといふことである。したがつて、キリスト教徒はただキリスト教徒だけを愛することが許されてをり、キリスト教徒以外の人を愛することが許されるのはただその人が可能的なキリスト教徒であるときだけなのである。[中略]「あなた方の敵を愛せよ」といふ命題は、ただ個人的な敵に關係するだけであつて、公けの敵・神の敵・信仰の敵・信仰をもたない人びとには関係しない。(フォイエルバッハ「キリスト教の本質」下卷百二十三頁、船山信一譯、岩波文庫)
このサイトでは西洋思想、とりわけその代表であるキリスト教思想について好意的に取り上げる事が多い。實際、例へば政治と人間との關係について、イエス、アウグスティヌス、ルター以上に深く考へた神道思想家が日本にゐたとは思へない。だから福田恆存のいはゆる「カトリックの無免許運轉」ではないが、思はず己がクリスチャンであるかのやうな調子で物を書ひて仕舞ふ瞬間が無いとは云へない。
しかし我々は矢張り時折、キリスト教徒の思考力の見事と同時に、その怖ろしさも思ひ出すべきである。フォイエルバッハが明け透けに云ふやうに、「汝の敵を愛せ」と云ふ教へは、飽く迄もキリスト教徒内部か、せいぜい「可能的なキリスト教徒」だけを念頭に置いたものであつて、キリスト教の神に刃向かふ異教徒を對象にしたものではない。さうでなければ、キリスト教國アメリカがアフガニスタンやイラクをあれほど徹底的に爆撃出來る筈は無い。
無論、アメリカに於いて宗教と政治は建前上分離されてゐるし、分離されねばならぬのだが、宗教も政治も同じ人間に係はる事である以上、何時如何なる場合も完全に分離されてゐると考へる事も亦無理であらう。アメリカの保守派女流評論家アン・コールターは書く。「アメリカが嫌ひだつて? こつちも連中は嫌ひだ。いかれたイスラム教徒に好かれたいとは思はない。やつらが死ねばいいと思ふ」。
だが此處で再び西洋精神の見事について語らぬ譯にいかない。「神が人間を造つたのではなく人間が神を造つたのだ」と喝破するフォイエルバッハの唯物論を讀んで、現代日本人の多くは「それがどうした。キリスト教の神が想像の産物に過ぎぬ事くらゐ先刻承知だ」としか感じないのではないか。しかしフォイエルバッハが生きた十九世紀のドイツで「神はゐない」と明言する事は、戰前の日本で「天皇は人間だ」と語る事以上に勇氣の要る行爲だつたのだ。事實、フォイエルバッハは大學講師時代、論文でキリスト教を批判した爲、職を追はれてゐる。強烈な絶對者を戴く文化は強烈な抵抗者を生む。我々日本人はそのどちらをも有しないのである。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
さらに付け足り。
――民主主義の世の中で「君が代」なんて歌を國歌にする事自體がそもそもをかしい。私はさう云ふ信念を持つてゐるし、それを子供に教へる事が義務だと信ずる。もし「民が代」が國歌になるとしたら大歓迎だし、それを歌はない生徒は保守反動で民主主義の敵に決まつてゐるから、歌はない事は許さないし、内申書も惡い點を付けて當然だ――。
と主張する先生がゐるかもしれない。だがその先生は、まづ上に記したやうな主張の正しさを論理的に證明する義務がある。例へば民主主義の「本家」であるイギリスには女王がゐる。無論、アメリカやフランスのやうに王のゐない民主主義國もあるが、イギリスや北歐諸國のやうに王を戴く民主主義國もある。なにゆゑ、「天皇制」と民主主義は兩立しないのか。それを納得させて呉れれば、私は喜んで先生方を應援するだらう。
天皇制は戰爭を引き起こした、だから天皇制は廃止すべきである――。それなら、アメリカの大統領制だつて戰爭を引き起こしたのだから、アメリカは大統領制を廃止すべきであると云ふ事になる。そんな馬鹿な話はない。
憲法の規定内容と「戰爭の有無」との間には、何等必然的關係はない。如何なる國家の、如何なる憲法も、好戰侵略を標榜するものはなく、又如何なる國家も、軍事組織を備へざるものもなく、戰爭をするかしないかは、君主國か共和國かの區別とも没交渉であり、専制獨裁政體か立憲デモクラシー政體かの區別とも没交渉である。和戰の決は、法の問題ではなく、政策の問題である。それも一國の國内だけの問題ではなく、國際政治の問題である。(井上孚麿『憲法研究』 昭和三十四年)井上の言ふ通り、「和戰の決」は政策の問題である。戰爭を道徳的惡事と思ひ做す愚は好い加減にすべきである。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
蛇足。
將來、君が代を排斥する先生方が民主的手續きを經て新たな國歌「民が代」を制定したとする。その時、先生方は生徒が式典で「民が代」を歌はない權利を當然認めるべきである。勿論、内申書で惡い點を付けたりしてはならない。
| 固定リンク
| コメント (1)
| トラックバック (0)
サンデー毎日七月十一日號「東京都教育委員 『言ひたい放題』全集」に曰く、
一方、鳥海[巌委員]は、「松井(秀喜選手)がヤンキースの球場で、相手の國旗に對してきちんと敬意を表してゐます。あの時に松井がベンチに座つてゐたらどうなりますか」と述べた。[中略]誰も松井選手に強制してはゐないだらう。
要するに、日の丸掲揚・君が代斉唱を生徒に「強制」する事は怪しからぬとサンデー毎日は言ひたいのである。成る程、國旗・國歌への愛着心とは己が郷里の風景を愛する心と同じであつて、法律で強制したからと云つて育まれる譯ではない。しかし、逆に言へば、生まれ育つた郷里の風景を愛する心は放つておけば通常自然に生ずるものであつて、それを無理矢理消し去らうとする行爲は、それこそ「強制」以外の何物でもない。國旗・國歌への愛着心を無理矢理消し去らうとする行爲は、それを無理矢理奮ひ立たせようとする行爲以上に、「強制」として非難されなければならない。
だが、都教育委員會の「強制」を口を極めて非難する教員は、果たしてこれまで日の丸・君が代への愛着心を無理矢理消し去らうと子供に「強制」して来なかつたであらうか。無論、否である。教室に於いては屢々、教師は政府以上の強制力を持つ。例へば、最近もこんな事があつた。
試験に「自衛隊イラク派遣」 肯定的解答は0点 愛知の県立高 (産経新聞) - goo ニュース試験に「自衛隊イラク派遣」 肯定的解答は0点 愛知の県立高
愛知県の県立高校が五月に実施した高校三年生の日本史の中間試験で、担当の男性教諭が「イラク戦争についてどう思うか」と問う記述問題を出題し、イラクへの自衛隊派遣に肯定的な解答は零点とし、否定的な解答は五点として、生徒の生活態度などを評価する平常点に配点していたことが二十五日、分かった。
愛知県教育委員会は「さまざまな考えを持つ生徒や保護者への配慮を欠いた不適切な設問だ」として、配点を無効にするよう学校側に指示した。
教師は、政府に特定の價値観の強制を許さないのであれば、自らも特定の價値観の強制をしてはならない筈である。いやいや、政府による「強制」は少なくも民主主義の手續きを踏んでなされてゐるが、個々の教師による「強制」は國民の審判を受けてゐないのだから、なほさら自らを厳しく律すべきである。愛知の縣立高校のやうに、特定の政治現象について己が價値観に反する解答を書いた生徒を不利に取り扱ふやうな馬鹿教師のゐる教育現場を、私は信ずる氣になれない。都の「右旋囘」に苦しんだからと云つて、所詮は自業自得でしかないと思ふ。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
最近のコメント