2007年8月 3日 (金)

阿久悠死す

 作詞家の阿久悠氏が亡くなつた。享年七十。

 最近の阿久氏は産經新聞紙上などで文化的・政治的に保守的な主張をし、その手の人々に人氣があつた。都はるみ「北の宿から」、八代亞紀「舟唄」、石川さゆり「津輕海峽冬景色」、河島英五「時代おくれ」など、和語を巧みに使つた、いかにも日本人の琴線に觸れるやうなしみじみした詞が多く、これも保守派の受けが良かつた一因だらう。

 しかし阿久氏の作品はそれだけではない。フィンガー5「戀のダイヤル6700」のやうにアメリカかぶれだつたり、山本リンダ「どうにもとまらない」、ピンクレディー「ペッパー警部」の如く内容が輕薄で振附も猥雜だつたり(振附は阿久氏の責任ではないが)と、保守的な人々が眉を顰めるやうな歌も數多く手掛けた。ピンクレディーの「ウォンテッド」に「あいつはあいつは大變裝」と云ふ歌詞が出て來るが、國語の傳統にうるさい人々の間で「大變裝などと云ふ日本語はない」と物議を醸した事もある。

 私は「阿久悠は保守派の皮を被つた文化破壞者だつた」などと云ひたい譯ではない。全く逆である。國語や傳統文化にうるさい人々は、何かと云ふと歌謠曲やテレヴィドラマのやうな「低俗」な文化で亂れた日本語が使はれる事を憂ひてみせる。そんな事は無用の心配である。「大變裝」などと云ふ言葉は一事流行したかもしれないが、今では誰も使はない。「大變裝」に限らず、かつて良識ある人々を嘆かせた流行語の大半は廢れて仕舞つてゐる。

 和歌や俳句でも同じだが、破格の面白さと云ふものは、正格がしつかりしてゐるからこそ成立つのである。人間とは、阿久悠氏が體現したやうに、破格を試みる冒險心や奇を衒ふ心情と同時に、正格を求める秩序感覺も持合はせてゐる。だから言語と云ふものは、自然に任せておけば論理的にも美的にも十全な發展を遂げるものだし、事實、そのやうに發展して來た。さう云ふ意味で、多くの國語關係者からはお叱りを受けるかもしれないが、私は所謂「國語の亂れ」をそれほど心配する必要は無いと考へる。本當の「國語の亂れ」は、言語に政治が介入する時にのみ起こると思ふ。戰後の「現代かなづかい」「新漢字」の押附けこそ、その典型に他ならない。

 寧ろ正しい國語を押附ける事で、自由闊達な文化の發露の場が失はれる事を私は危惧する。歌謠曲は低俗かもしれないが、少數の高尚な文化は多數の低俗な文化と云ふ土臺の上に開花するのである。何より人間は、高尚な文化だけを求める存在ではない。

 話がかなり脱線して仕舞つた。私が一番好きな阿久悠氏の作品は、ちあきなおみが歌ふ「かなしみ模樣」である。三十年以上も昔の歌で、大ヒットしたとも云ひかねるが、聽く度に心を打たれる。阿久さん、どうぞ安らかに。

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2007年6月 3日 (日)

小西甚一氏死去

 時事ドットコムより。

 小西 甚一氏(こにし・じんいち=筑波大名誉教授、俳人)26日午前0時10分、肺炎のため東京都西東京市の病院で死去、91歳。三重県伊勢市出身。葬儀は親族のみで済ませた。喪主は妻晃子(あきこ)さん。/専攻は日本中世文学、比較文学。和歌や連歌、俳諧をはじめ、物語、能楽、漢詩文など幅広く研究した。主な著作に大佛次郎賞を受けた「日本文藝史」(全5巻)など。99年、文化功労者に選ばれた。

 以前、このサイトで小西氏の著作について書いた事がある。御冥福をお祈り致します。

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2006年12月 8日 (金)

言語と經濟

 

 經濟には言語と共通するところがたくさんあるやうに思ふ――予測できないやうに自己を形成すること以外にも、多くの共通點がありさうだ。言葉は何のためにあるか? もつともらしい答へでは、コミュニケーションのためだ。それだとコヨーテの鳴き聲やシロアリのフェロモンにも當てはまる。これは言葉の機能を正當に扱かつた答へではない。かういふのはどうか? 言語は、文化およびその他多くの目的の發展を可能とする過程において、學習と學習の普及のためにもある。まさに同樣に、經濟は物質的必要を滿たすためにある。だが、それならシカの食料あさりやハゲタカの腐肉あさりについても言へる。これは經濟の機能を正當に扱つた答へではない。言語と同じやうに、經濟生活によつて、われわれは文化や目的を實現するため多くの用途を發展させることができる。そして私の意見では、それがわれわれにとつて經濟の最も意義深い機能なのだ。(ジェイン・ジェイコブズ『經濟の本質』、香西泰・植木直子譯)

 ジェイン・ジェイコブズはアメリカ生れのカナダ人思想家。市場經濟と言語の類似性はハイエクやフリードマン等の自由主義的經濟學者も指摘してゐる。どちらも政府が計劃的に拵へたものではないにもかかはらず、いや、だからこそ、自律的に、精妙に機能する。社會主義經濟は崩壊したし、人工言語エスペラントは普及しなかつた。

 ジェイコブズは上記文章で言語と經濟の「最も意義深い機能」についても觸れてゐる。經濟は食ふ爲だけにあるのではない。「文化や目的を實現するため多くの用途を發展させる」事こそ、より重要な役割なのだ。人間はパンを超える存在を求めて生きるのだから。

 同じやうに、言語は「コミュニケーション」の爲だけにあるのではない。「文化およびその他多くの目的の發展を可能とする過程」において、「學習と學習の普及」を擔ふのである。同時代人同士の「コミュニケーション」の爲だけであれば、「現代仮名遣い」「制限漢字」でも構はないかも知れないが、歴史的に形成されて來た文化を學習するには時代的斷絶の小さい表記を撰ぶべきである。

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2006年10月18日 (水)

英語は學びたい者が學ぶべし

 やや舊聞に屬するが、伊吹文明文部科學大臣が小學校での英語必修化に否定的な見解を示し、贊否兩論を呼んだ。或る人は英語よりも先づ國語をしつかり身に附ける事が先決と云ふ文相の意見に贊意を示し、或る人は語學の習得は幼少時に始めるに如くは無いから小學校での英語教育を飽く迄も實現すべきだと云ふ。私にはどちらの議論も片手落ちに見える。

 義務教育であらうが「高等」教育であらうが、英語を學ぶか學ばないかは子供自身及びその親が決めるべき事である。勉強したければすれば良いし、したくなければ止めれば良い。その結果、或る子供らや親は「英語を勉強して良かつた」「英語以外の勉強に時間を割いて良かつた」と喜ぶかも知れないし、別の子供らや親は「英語を勉強しておけば良かつた」「英語なんぞ勉強せず他の勉強に時間を割けば良かつた」と悔やむかも知れない。しかしそれで良いではないか。誰も他人の人生に責任を負つては呉れない。一度しかない人生を生きるのは自分自身しかゐない。「後悔するかも知れない」と云ふ恐れを常に抱きつつ、覺悟を決めて何かを撰び取る行爲の連續、それが人生に外ならない。

 教育の内容や學校は自由に撰擇出來るやうにすべきだ。現在の義務教育制度では學區が定められてをり、學校を撰ぶ事が出來ない。引越でもしない限り、どんな「偏向」教師や不良生徒がゐる學校でも我慢して通ひ續けなければならないし、どんな好い加減な學校でも公立なら潰れる事は無い。學校を公費で運營するのでなく、家庭に教育費を直接支給し、公立私立を含めた樣々な選擇肢から好きな學校を撰べるやうにすべきだ。それが眞の「個性尊重」ではないか。

 英語を教へる教へないも、學校によつて考へ方の違ひがあつて良い。英語を勉強したい生徒は英語の授業のある學校へ行けば良いし、他の科目に時間を割きたい生徒は他の學校を撰べば良い。さうすれば少なくとも「英語を教へるべきか教へないべきか」などと云ふ不毛な議論を國會で延々としなくて濟むやうになる。いつその事、教科書檢定などと云ふ代物も無くし、教科書を學校や學級で自由に撰べるやうにすれば、政府が「近鄰諸國」から教科書の中身について文句を言はれる心配も無くなるだらう。

 教育「制度」は政治の領域に屬する事かも知れないが、教育そのものは道徳の領域に屬する事である。どんなに立派な制度、校舍、教科書を揃へても、立派な教育が出來る譯ではない。だから義務教育を含め、政府に教育を任せるのは間違つてゐる。

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2006年8月 1日 (火)

野元菊雄氏死去

元國立國語研究所長の野元菊雄氏が死去した。

 野元菊雄氏(のもと・きくお=元国立国語研究所長、社会言語学)31日午前6時18分、肺炎のため東京都目黒区の病院で死去、83歳。神奈川県出身。自宅は東京都目黒区柿の木坂1の3の14。葬儀・告別式は未定。喪主は妻芳苗(よしえ)さん。 http://www.topics.or.jp/Gnews/news.php?id=CN2006073101003150&gid=G13

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2006年4月21日 (金)

最近の買物

 名古屋に古本屋街と呼べるやうな所は殆ど無いのだが、敢へて云へば名古屋大學の近くに良い店が數軒ある。そこで最近買つた本。譯者省略。

 *R.ウェレック他『文學の理論』
 *ルドルフ・ウィットコウアー他『數奇な藝術家たち』
 *上田辰之助『聖トマス經濟學』
 *アンナ・ドストエフスカヤ『囘想のドストエフスキー』
 *エリ・ウィーゼル他『ホロコーストの記憶』
 *福原麟太郎他編『文學用語辭典』
 *マイクル・クライトン『恐怖の存在』
 *P.F.ドラッカー『明日を支配するもの』

 全て未讀。

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2006年2月15日 (水)

moral sensibility

 英語による思考法は日本語の思考法とはまつたく別のプロセスを經て機能する。それを會得するには、まづ日本語とどう違ふかをはつきり認識してかかるのが、じつは最も近道なのである。しかしこのためには、かなり高度の日本語の知識を必要とする。日本語の水準は高ければ高いほどよい。この點私は英語の幼兒教育を重視しない。それどころか、大人になつてから英語を學ぶことに大きな利點を認めるものである。それは何かと言ふと、日本語に關するゆるぎのない自信である。自國語こそどんな人からも取りあげることの出來ない個人の財産であり、コミュニケーションの利器である。
 此處迄の件りは、藤原正彦先生が讀んで大いに喜びさうな内容である。しかしその先が全然違ふ。
 終はりに本辭典は、日本の英語研修者が英語の獨自性を探求するプロセスにおいて、英語の体質である捉はれることのないvisionと、moral sensibilityを自然のうちに感得せられることをひそかに願つて編まれたものであることを申し添へておく。
 英語を話す民族の捉はれることのない想像力や道徳的感性を日本人が自分の物に出來るかどうかは兔も角、この文章の筆者は他民族に謙虚に學ぶ姿勢を忘れてゐない。アメリカ人は經濟力軍事力だけが取り柄で道徳心は日本人の足下にも及ばない、などと書くやうな夜郎自大のナショナリストとは對照的である。引用は『日英語表現辭典』(ちくま學藝文庫)の「はしがき」より。筆者は最所フミ。  

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2005年11月12日 (土)

補足:正字正假名なら何でも良いのか

 最も分かり易い例は憲法である。現憲法は正假名で書かれてゐるが、だから即ち素晴らしい憲法であるとは云へない。戰前は詐欺師も出齒龜も正假名で文章を書いたのである。

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2005年11月 5日 (土)

正字正假名なら何でも良いのか

 當り前の話だが、正字正假名で書いた文章が全て素晴らしい譯ではないし、略字新假名で書いた文章が全て駄目だと云ふ譯でもない。松原正氏の「パソコンとハムレット」は幸ひにして正字正假名で連載中だが、假に略字新假名であつても私は必ず買ひ求め讀み耽つたであらう。
 況はんや波江某の字數歌などと云ふ代物は表向き正假名で書かれてゐても、やつてゐる事は國語破壞以外の何物でも無い。波江某は、自稱右翼でその實アナーキストの福田和也(中川八洋『福田和也と《魔の思想》』參照)と同類だと思ふ。
 正字正假名である事が唯一の取り柄である文章――。そんな物に何の意味も無い。表記は大事だが中身も大事なのである。當り前ながら。

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2005年11月 3日 (木)

最近の買ひ物

 *フローベル『三つの物語』(鈴木信太郎・辰野隆・吉江喬松譯、新潮文庫)、百圓
 *コンラッド『颱風』(三宅幾三郎譯、新潮文庫)、百圓
 *『ジャム詩集』(堀口大學譯、新潮文庫)、百圓
 *芥川龍之介『文藝的な、餘りに文藝的な』(新潮文庫)、百圓
 *ツルゲーネフ『散文詩』(中山省三郎譯、角川文庫)、二百圓
 *ピエール・ルイス『ビリチスの歌』(鈴木信太郎譯、角川文庫)、四百圓
 *ゴーゴリ『隊長ブーリバ』(平井肇譯、角川文庫)、五百圓
 *『山内義雄譯詩集』(角川文庫)、五百圓

 すべて正字正假名表記。すべて古本。

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2005年11月 2日 (水)

國語問題は政治問題か

 政治的自由は私的自由を生み出す限りにおいてのみ貴重である。この事を國語問題に當て嵌めるとどうなるだらう。
 技術的理由により一部は實現不可能であるものの、私は御覽のやうにほぼ正字正假名で文章を書き、ウェブ上で公開する事が出來る。正字正假名の手紙も自由に書けるし、その氣になれば自費出版等で本を出すことも出來るだらう。商業的理由は兔も角、政治的理由でそれが妨げられる氣遣ひは無い。又、古本屋に行けば正字正假名で書かれた書物を自由に買ひ求め樂しむ事が出來る。これほどの私的自由がありながら、國に對して不平不滿を竝べるのは贅澤ではないか。政府の惡口ばかり云ふ正字正假名派を見ると、さう思ひたくなる。
 勿論實際には、政府は内閣告示や内閣訓令の形で「常用漢字」「現代仮名遣い」「送り仮名の付け方」等を事實上強制してゐる。従つてこれらの告示や訓令を撤囘させる事は政治的目標として意味がある。だが嚴しく云へば、これらの告示訓令は「事實上」強制であつても、本來的には強制ではない。「お上に逆らはず」「長い物には卷かれろ」と云ふ情けない根性(厄介な事に長所の裏返しでもある)が日本人に無ければ、こんな告示や訓令は無視して正字正假名は生き殘つてゐた筈なのである。
 日本國憲法も略字新假名と同じやうに日本人は受け容れた。やや脱線するが、日本人は政治が大好きだから、日本國憲法を改正する段になつても、私的自由にかかはる國語表記には殆ど誰も關心を寄せず、憲法は略字新假名になるだらう。「保守派」知識人の中からも「まづは憲法改正が先決」とて表記問題を棚上げする聲が出るに違ひない。しかし實を云へば憲法の表記なんぞどうでも良い。日本人一人一人が國語表記をどうでも良いと思つてゐる時に、憲法の表記を論つて何の意味があらう。
 告示や訓令に名を籍りた政府の介入は断乎排すべきである。私的自由を可能ならしめる政治的自由を確保する爲である。しかし問題はその前、或いはその後である。日本人一人一人が正字正假名を尊重すると云ふ私的自由を自らの意志で行使しない限り、政治的目標の達成は至難だし、假に何かの拍子に達成出來たとしても、永續する見込みは無い。近年評判の芳しからぬ言葉だが、啓蒙がまづ不可缺なのである。

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2005年10月25日 (火)

出版計劃・野望篇

 若し私が正字正假名遣復權の爲の本を作るとしたら。

 (1)百頁程度のコンパクトな入門書。「正字正假名はなぜ美しいか」「正字正假名はなぜ合理的か」の二部構成とする。
 (2)正字正假名による名文撰。『本物の國語で味はふ日本の名作』『絶版文庫で味はふ本物の國語』等。
 (3)正字正假名で書かれた、兔に角面白い本。知的興奮を味はへるなら内容問はず。
 (4)正字正假名の用語辭典は、作らない。時間・勞力がかかり過ぎるし、現在市販されてゐる國語辭典(大抵正假名遣が記載されてゐる)で當座の用が足りるから。
 (5)『語源の樂しみ』。假名遣と語源の關係についてのコラム集。(1)の入門書で書くにはディープ過ぎる語源の蘊蓄話をこれでもかと云ふくらゐ詳しく書く。誰も知らない田舍の地名の由來等、思はず膝を打つ話題滿載。

 どこかの殿樣か御大盡が養つて呉れれば喜んでやるのだが。特に(1)(2)(3)。

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2005年10月24日 (月)

撰んだのは日本人

 國語問題關係者の集りで、誰だつたか「日本中のパソコンに入つてゐるファイルを全部正字正假名に變へて仕舞ふウィルスが出來ませんかね」と冗談を云ひ、思はず笑つて仕舞つた事がある。確かに新種のウィルスでも誕生してくれない限り、正字正假名が一時的にでも復活する望みはまづ無い。何故か。
 まづ政治的な手段を考へよう。正字正假名を義務づける法律を國會で作らせよう。民間まで直接縛る事は無理でも、役所が公文書の表記を正字正假名に變へ、「新聞・出版もこの表記を尊重する事が望ましい」と一言通達しさへすれば、お上に弱い日本人の事、忽ち右に倣へで正字正假名が復活するだらう、かつて略字新假名が瞬く間に廣まつたやうに……否。
 そもそも正字正假名を義務づける法律なんぞ出來る筈が無い。今は戰後のどさくさではない。大衆民主主義の世の中である。國會議員や高級官僚と雖も、大衆や、大衆を顧客とする新聞・出版界の意に反して略字新假名を廢止出來る道理が無い。裁判に略字新假名の不正を訴へても無駄だ。裁判官も大衆の便利を第一に考へるからである。
 では文化的手段に轉じよう。日本の代表的知識人や文學者、それも出來れば全員に、正字正假名で書いて貰はう。正字正假名でなければ原稿を渡さないと出版社や新聞社に通告して貰はう。知識人文學者が大衆に範を示せば、正字正假名の文章が當り前になれば、そこで初めて、政治的手段が成功する可能性も生ずる……否。
 そんな夢のやうな話が實現可能なら疾くの昔に實現してゐる。日本の知識人文學者の大部分は國語表記なんぞに關心は無い。關心が多少あつても現状を變へようとまでは思はない。或いは喰ふ爲にはそんな閑人のやうな事を言つてゐられない。福田恆存はじめ正字正假名派知識人の多くが健在だつた頃からさうだつたのだから、今更何をか云はんや。
 サミュエル・ジョンソンは云つてゐる、「人類は知的な苦勞への甚しい嫌惡を持つてゐる。しかし知識が簡單に入ると想定しても、多分大部分の人間はわづかな手數をかけてそれを手に入れるよりは、無知のままで滿足する方を撰ぶだらう」。正字正假名派はまづ、この苦い眞實を噛み締めるべきである。文部省や國語審議會や日教組が惡いから「不正字不正假名」が普及したのではない。日本人自身がそれを撰んだのだ。こんな國で正字正假名が自然に復活する事はあり得ない。
 繰り返すが、政治を動かさうとしても無駄である。まづは文化的手段に着手するしかない。個人で出來る事に限りがあるとすれば、組織でやらざるを得ない。難しいのは、明確な目的意識を持つた指導者が全體を纏めないと組織は迷走すると云ふ事である。

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2005年8月30日 (火)

横書の書式について

 先日、「戰前の書籍で、表紙の題名や頁上部の章題が『右から左』の横書で書かれてゐると讀みにくくて敵はぬ」と書いたのだが、若干修正しておきたい。讀みにくいのは、私の手元に『右から左』と『左から右』が混在してゐるからで、すべて『右から左』に書いてあれば特段讀みにくくはない。要は慣れである。

 但し、題名や章題が「右から左」でも、その他の部分が西洋流に「左から右」で書かれてゐる場合は少なくない。岩波文庫で云ふと、『古代希臘文學總説』(昭和十六年第二刷)の題名は右から左だが、卷末にある地圖の題名は「古代希臘文學總説附録地圖」と左から右に書いてある。圖中の地名も「アテナイ」「テバイ」などとやはり左から右である。『佛蘭西文學史序説』(昭和三年初刷)も同じく題名は右から左だが、卷末の索引は「アカデミイ・フランセーズ」「スタンダール」などと左から右に書いてある。

 推測的結論。「右から左」の書式は題名や章題等、使用される箇所が慣習上決まつてをり、本文、索引、附録等、その他の箇所は西洋流に「左から右」に書くのが戰前も一般的だつたのではないか。

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2005年8月27日 (土)

買物

 神田のぐろりや展で清澤冽、守隨憲治、辰野隆、森銑三らの本を買ふ。晝休みと云ふか殆ど夕方でしたが。改裝したばかりの門前仲町の朝日書店ではゲルツェン『過去と思索』(筑摩書房世界文學大系版)を買ふ。全二册で千八百圓。

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2005年8月24日 (水)

きつ目

 時々行く湘南堂ブックサーカス藤沢店の絶版文庫目録を見てゐたら、『きつ目の磅二十』と云ふ書名があつた。きつ目つて何だ。柴崎コウのやうな女か。これは『十二磅の目つき』だらう。戰前の岩波文庫なので横書きの題名が右から書いてあつたのを左から讀んで仕舞つたと見た。磅はポンドでイギリスの貨幣單位。作者は『ピーター・パン』のバリ。最近、ジョニー・デップ主演でバリを主人公とする映畫「ネバーランド」をやつた。

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2005年7月31日 (日)

野暮は論外

 ちよつと古いが、石原慎太郎都知事の「フランス語は國際語失格」發言への反應で、唯一微笑ましかつたのがこれ。フランスが好きならフランスの才氣を感じさせるやうな事をやつて呉れ。裁判なんて野暮は論外だ。

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2005年7月21日 (木)

縱書きは頭が良くなる

 石川九楊『縦に書け!』(祥傳社)を讀む。日本語は縱に書くべしと云ふ趣旨には概ね同意するが、ところどころトンデモな記述が。

 住むはずの住居や鑑賞し楽しむはずの美術品はもとより、人間と社会のための生産、サービスの組織である企業までが投資、投機の対象となり、株や債券等、金融商品という名の、ほとんど使用価値がゼロの、俗に言う「ただの紙切れ」の商品が、大手を振ってまかり通っています。(20-21頁)
 企業を投資対象とする事が許されないなら、株式會社と云ふ制度を廃止しなければならなくなるのですが。債券が怪しからぬのなら、政府は國債を發行出來なくなり、企業は社債を發行出來なくなり、經濟は滅茶苦茶になつて仕舞ふのですが。
 最近の新聞では、知りたい情報が読めて、「なるほど」と納得できる記事が少なくなっています。不十分なデータのような記事が多く、また、独りよがりで、書いている記者だけが楽しんでいるようなコラムもよく目につきます。これは新聞記者の質が低下したということではなく、パソコンを使って記事を書くようになったせいです。(118頁)
 確かに、手で書いてゐた昔の新聞記事は良かつた。戰前の朝日新聞なんかもう最高でした。
 私は、以前、会社勤めをしていたことがありますが、そのときに、経営計画や企画書は縱書きにすべきだと思いました。[中略]当時の経営者も社員も、計画を立てるとなると、奇想天外と思えるほど楽観的な右肩上がりの図を描くのです。事実、過大なベースアップと将来を見越しての大量採用の翌年は、利益が激減し、ベースアップゼロというおかしな結末を迎えました。これも経営計画が横書きされるが故に出現する問題点です。縱書きにしていれば、もう少し抑制が働くのですが、横書きになると、歯止めがきかず、どんどんと昂揚し、先走り、舞い上がってしまうのです。(169-170頁)

 と云ふ事は、今のやうにバブルが破裂して元氣の無い時代は、横書きを獎勵すべきですね。縱に書く悲觀的な社員は首。それから、縱書きで企劃書を作つてゐたお蔭で經營が成功した會社はあるのでせうか。あるならホリヱモンに教へてやらないと。さて最後に極めつけ。

 こんなことを想像してください。漢字の元になった甲骨文には、およそ四千ほどの文字がありますが、もしその頃にワープロがあったとしたら、いまはどんな社会となっていたでしょう。正答は、現在もなお神権的王が絶対的権力を有する古代社会を脱けてはいなかったということになります。書くことで字数を増やし、表現力を高め、それに応じて社会のあり方を変えてきたのですから、文字が最初に登録した四千字のままで止まった社会は、古代そのままで何も変わりません。(53頁)

 古代社會にワープロがあつたら、今はどんな社會になつてゐたか――。誠に深遠な問ひですが、私の囘答は石川先生と少々異なります。多分、電源が無くて右往左往する古代人の樣子を描いた壁畫が發見されるでせうね。なほ、原文は勿論すべて縱書き。

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2005年6月12日 (日)

國語の破壞についての簡潔な報告

 最近の、と云つてももう大分前からだが、岩波文庫の國語表記は非道い。黄帶(日本文學[古典])・緑帶(現代日本文學)で文語文の著作は歴史的假名遣で表記する事になつてゐるが、振假名は「現代かなづかい」が大半である。

 たけき者も遂[つい]にはほろびぬ、偏[ひとえ]に風の前の塵に同じ。(『平家物語(一)』 1999年7月16日第1刷)

 歴史的假名遣は「つひに」「ひとへに」である。

 よしや惜[おし]むとも惜みて甲斐なく止めて止まらねど、仮令[たとえ]ば……(幸田露伴『五重塔』 1995年11月15日第89刷)
 歴史的假名遣は「をしむ」「たとへば」である。

 これが青帶(日本思想、東洋思想等)になるともう無法地帶で、文語文の著作でも「現代かなづかい」で表記されてゐる。

 諺にいわく、腹は背に替え難し。(福沢諭吉『文明論之概略』 1996年12月10日第3刷)
 歴史的假名遣では「いはく」「替へ」である。
 秀吉の信長に仕えたるは天文の末、弘治の始にてその齢二十前後の時にあるべし。(山路愛山『豊臣秀吉(上)』 1996年2月16日第1刷)
 歴史的假名遣では「仕へ」である。この『豊臣秀吉』では御叮嚀に、愛山が引用した古文書まで「現代かなづかい」に改められてゐる。例へば次は「吉田物語」の一節。
 一には信長の野心限りなく、漸く国境を犯されんとするを危く思い、義昭の依頼を好機会として喧嘩に名義を附けたる事情もあるべし。毛利家既に敵となりたる上は信長再び包囲攻撃の逆境に陥りたるものなれば、本願寺も此に生気を吹き返えし更に敵対の色を顕わしたり。
 歴史的假名遣では……面倒なのでもう書かない。

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「正」字の擁護

 當ウェブサイトの副題「正漢字・歴史的假名遣による硬派の言論サイト」を「正漢字・正假名遣による~」に變更。漢字・假名遣とも「正式な書式」に隨ふ旨を明確にする爲。

 「正」と云ふ字を使ふと何故かいきり立つ人が時々ゐるが、正漢字・正假名遣の「正」は、「正義」の正にあらず、「正式」の正である。「正座」の正と云つても良い。誰でも改まつた場では膝を折り曲げ踵を尻の下に入れて座る。その座り方を正座と呼ぶが、「正しい座り方」とは怪しからん、胡座を差別するのか、と怒る人はゐない。だから怒らないやうに。

 漢字の場合、活字の新字も手書きでは傳統的な正式の字體だつたり、活字の手本となつた康煕字典に結構好い加減な字體が多かつたりと云ふ事情があり、假名遣に比べ「正式な書式」が定まりにくい嫌ひはある(正假名遣の決め方にも微妙な部分はあるのだが)。それでも、「正字」と云ふ呼稱を排除するには及ばないと愚考する。例外はあるものの、「正字」は概ね正統的字體を表してゐる。私は「正漢字」と云ふ言葉に、「漢字には正式な字體と云ふものがあり、現行の新字はそこから逸脱してゐる」と云ふ啓蒙的メッセージを込めたいと思ふ。

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2005年5月10日 (火)

質問封殺法

 村田宏雄『オルグ學入門』(勁草書房、昭和五十七年)を讀む。「相手の質問に對し、答に困つた時」の對處法を述べてゐるが、身も蓋もない内容で笑へる。以下要約。

 (1)認識操作 「どんな事實にもとづいてそのやうな質問をするのか」と質問で切り返した後、相手の述べた事實について「自分はその事實をそのやうには認識しない。認識に相違がある以上、答へられぬ」と突つぱねる。

 (2)爭點操作 質問の意味を勝手にすりかへ、囘答しやすい質問に直し、それを聽く相手があきれると共に聽くことで疲勞退屈し、再度の質問をする意欲を失はせる方法。「今の質問は、このやうな意味かと考へる」云々。納得せぬ相手が再度囘答を促してきた場合にも、相變はらず同じやうな的外れの囘答を續けるのが祕訣。

 (3)前提操作 「その質問に對する答を理解するには、それ以前にあなたの側に何々と云ふ事實あるいは理論についての知識を持つてゐてもらふ必要があるが、知つてゐるか」と相手の知らぬ事實や理論を持ち出し、相手が知らぬと答へたら「それを勉強してから來い」と突つぱねる。

 (4)次元操作 「あなたは現在のみを問題にしてゐるが、私は將來を問題にしてゐる。次元を異にする質問には答へられぬ」

 (5)立場操作 「あなたは少數のリーダーの立場に立つてゐるが、私は大衆の側に立つて思考してゐる。大衆の立場に立つ限り、あなたのやうな質問は出ない。よつて答へる必要がない」

 (6)戻し質問・リレー質問 「もしあなたが私の立場ならどう答へますか」と逆に質問を返す。時には質問者本人でなく、質問者の仲間を指名して囘答を促す。答へられなかつた時、「質問者自身ですらわからない質問に答へるわけにゆかない」と突き放す。

 (7)本心操作 「そのやうな質問をするひとの心のなかは、大體見當がついてゐる。そのやうな否定的態度をとるひとに對しては、何を答へても無駄である。時間もないので、もつと前向きの心を持つてゐるひとの質問に對してのみ答へることにしたい」と、相手の質問を封殺する。

 よし今度からこの手で行かう。

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2005年1月 7日 (金)

記事削除のお知らせ

 1月2日付「『國語問題論爭史』に就いて」の記事は、情報の入手・公開の方法に不適切な面がありましたので削除致しました。關係各位には御迷惑をおかけ致しました。お詫び致します。

 (1月8日追記)不適切な「情報の入手・公開の方法」とともに、事實認識にも正確を缺く部分があつた事を申し添へます。重ねてお詫び申し上げます。

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2004年12月22日 (水)

差異と普遍

 このやうな驚くべきことがどのやうにして可能となるのだらうか。言語學者と認知科學者は、若干の嫉妬も込めて、子どもは生まれながらにして、スタート地點がかなり有利なのだといふ結論に達した。もともと、子どもは言語を學ぶための特別のしくみをもつてゐるやうに見える。このやうな特別のしくみがどのやうなものからできてゐるかは誰にもわからない。おそらく、人間の言語はどのやうなものかといふ知識と、どのやうな音と構造が言語には含まれてゐるのかといふ知識、それにそのやうな音と構造を認識する策略が關はつてゐるのだらう。言語學者はこのやうな生まれながらのスタート地點を「普遍文法」と呼んでゐる。(マーク・ベイカー『言語のレシピ――多樣性にひそむ普遍性をもとめて』、郡司隆男譯、岩波書店)

 恐らくノーム・チョムスキーの唱へた「普遍文法」は正しい發見なのだらう。彼の政治的信條がどうであらうと。人間はどの國に生まれても生後せいぜい二年でその國の言葉をほぼ文法の誤り無く話せるやうになる。人間の多樣な言語の背景に普遍的な法則が存すると考へるのが自然であらう。相對主義を正義とした近現代の人文・社會科學は民族間の差異を強調し過ぎた。アメリカ人もサモア人もドイツ人も支那人も日本人も、同じ人間である以上、何らかの普遍的な性質を共有する筈である。人類の普遍性を忘れるべきではない。

 にも拘はらず、民族間の差異は依然として重要である。人間は互ひの集團的差異を非常に氣に懸ける動物だからだ。支那語も日本語も所詮同じ法則に基づく言語なのだから日本人はこれから支那語を公用語にすれば良い、と云ふ話にはならないだらうし、その逆も然りだらう。人間の頭骸骨はどれでも同じやうなものなのだからお前と俺の女房を取り替へよう、と云ふ話にならないのと同じである。人間について考へる際には、普遍性と差異性の雙方をしつかりと見据ゑるべきなのである。

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2004年12月17日 (金)

引用とは何か

 「現代かなづかい」で書かれた文章を正假名遣ひに直して引用する事への反對意見には、主に(1)原文の表記が正假名遣ひであるかのやうな誤解を招くから(2)原著者の氣持ちを害するから――と云ふ二つの論據があるやうである。一部繰り返しになるが、それぞれの論據について反論を加へておく。

 まづ(1)であるが、そもそも文章を讀む者は、引用時に表記の變更があり得る事こそ常識だと辨へるべきである。私が繰り返し引き合ひに出す外國語からの飜譯を伴う引用はその端的な例だが、日本語にしても、例へば萬葉集から「ささの葉はみ山もさやにさやげども吾は妹おもふ別れ來ぬれば」と引用されてゐるのを見て、「萬葉集は漢字假名交じり文で書かれてゐる」と思ひ込む讀者もゐるだらう。勿論、實際には全て萬葉假名、すなはち漢字で書かれてゐる。それでは人麻呂の歌を漢字假名交じり文に直して引用した筆者は責められるべきなのか。斷じて否。

 此處で反論があり得よう。「『原文は全て漢字』と斷り書きを入れるべきである」。それは文章全體の趣旨による。參考書や古典入門書の類であれば入れた方が良い場合もあろう。しかし、或る程度教養のある讀者、或いは「これは原文通りでないかもしれない」と察する常識を持つ讀者を想定した文章で、一々「原文は全て漢字」などと書くのは、讀者を馬鹿にした行爲であり、徒に煩雜なばかりである。

 「教養や常識の無い讀者も讀むかもしれないではないか」と食ひ下がる向きがあるだらうか。それには一言、「教養や常識の無い者にどこまでも水準を合はせると云ふ思考、それこそ現代日本の病理である。『現代かなづかい』の横行もその一症状である」と答へよう。

 ところで私は萬葉集の原典を見て人麻呂の歌を引用したのではない。佐佐木信綱編の岩波文庫版から引用したのである。但し、文庫本では「さやげども」の箇所を振假名附で「亂げども」と表記してある。引用に當たり、讀みやすいやうに表記を變更したのである。私の主張を讀者に效果的に傳へると云ふ目的の爲に、必要かつ正當な表記變更であると判斷したからである。「亂げども」では讀み方が氣になつて思考の働きを邪魔するだらうし、「亂(さや)げども」では圓滑に讀み進めず思考の流れが滯るだらう。さらに、原典を讀みやすい現代國語に改めて一般讀者の利用に供すると云ふ佐佐木信綱自身の方針に鑑みて、「亂げども」を「さやげども」と書き改めて引用する行爲は許容され得る。引用とは、少なくもこの程度の判斷と決斷を伴ふ知的行爲なのである。

 引用は原文の單なる紹介ではない。引用者自身の主張を效果的に傳へると云ふ目的の爲に行ふものである。明確な目的意識を持つ筆者は(優れた筆者は必ず明確な目的意識を持つのだが)決して機械的な「原文尊重」には滿足し得ない。いやいや、そんな極端な「原文尊重」主義者は存在し得ない。誰だつて外國語や古典は自分達の都合に合はせ、現代國語に直して引用してゐるのである(飜譯書や古典全集の類からの引用は、他人に「現代國語に直す」行爲を肩代はりさせてゐるに過ぎない)。ならば何故、假名遣ひの變更だけが非難されねばならぬのか。そのやうな非難に正當な根據は無い。

 (2)原著者の氣持ちを害するから、については後日。

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2004年12月10日 (金)

國語と權力

 ――お前は頻りに言論の自由を強調するやうだが、「現代かなづかい」による言論の自由も認めるのか。

 認める。のみならず、「瞬間」を「とき」と讀んだり、「シクラメンのかをり」を「シクラメンのかほり」と書いたり、著作權者の諒解が取れればローマ字で福田恆存著作集や松原正著作集を出版したりする自由も認める。

 ――それはお前の持論と矛盾するのではないか。

 矛盾しない。「瞬間」を「とき」と讀んだり、「かをり」を「かほり」と書いたり、日本語をローマ字で表記したりするのは愚劣だと思ふが、愚劣か否かと云ふ事と、その言論を法的に封じるべきか否かと云ふ事は次元を異にする問題である。自由には「愚行をやらかす自由」も含めるべきである。勿論、愚行を批判する自由も確保されてゐればの話だが。

 ――愚劣な國語表記が罷り通つても良いのか。

 良いとは思はない。國語表記は正しく書くべきである。間違つた表記・表現を推獎する積もりは無い。だが抑も國語表記とは法律や國家權力で押し附けるべきものではない。日本人は何かと云ふとお上の權威に縋り附きたがるが、國語に限らず、凡そ文化とは權力で押し附けるべきものではない。

 ――福田恆存は愚劣な國語表記に反對したではないか。

 福田恆存が政府やその提燈を持つ知識人を攻撃したのは、國家が國語を捩ぢ曲げようとしたからである。國家が國語に對して狼藉を働いたからその介入を排すべく已むなく立ち上がつたのであつて、國家權力を以て特定の國語表記を押し附けようとした譯ではない。言論を以て國民を説得せんとしたのだ。

 ――國語が亂れた時には國家の介入も必要ではないか。

 否。カイザルの物はカイザルへ、神の物は神へと云ふ言葉があるやうに、政治と文化は別の領域に屬する。權力の力を頼む者はいづれ必ず權力に媚びる事になる。權力依存は兩刃の劍である。

 ――では現在の國語政策を放置すれば良いのか。

 違ふ。國家が權力を嵩に正しい國語表記を妨げる場合には斷乎抗議すべきである。しかし權力によつて或る表記の使用を人に強制する事は出來ない。偶々強制出來たとしても何處かに變調を來す。人が或る表記で讀み書きする事を本心から撰ぶ爲には權力以外の何かが必要である。知識人の役割は其處にある。

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2004年12月 7日 (火)

歌の文句

 歌詞が愚劣だからと云つて、必ずしもその歌が詰まらぬとは限らない。サザンオールスターズの歌には普通の文章なら不必要な英語がこれでもかと出て來るが、あれは民謠の「エンヤートット」「ヤッショーマカショ」の類だと思へば腹も立たない。まあ何事にも限度はあるが。

 輕薄な流行歌とは對極にあると思はれてゐる軍歌が必ずしも立派な國語で書かれてゐるとも限らない。「父よあなたは強かつた」と云ふ歌があるが、全うな日本人なら、自分の父親を「あなた」などとは呼ばないものである。ついでに云へば私は軍歌は餘り好かない。建前しか歌はれてゐないからである。本居宣長が軍歌を聴いたなら、「まごころ」が無いと斷じて疎んずるに違ひない。いつの時代も建前は必要だが、少なくも建前だけの宣傳役を藝術と呼ぶ事は出來ない。

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歌詞の引用

 ところで歌の文句を引用する際、手元に歌詞カードが無く、耳で聽いた言葉だけを頼りに引用した場合、もしそれが歌詞の表記と食違つてゐたら、無禮な行爲をやらかした事になるのだらうか。

 流行歌には「瞬間」を「とき」だの、「幻影」を「ゆめ」だの、「シクラメンのかをり」を「シクラメンのかほり」だの、愚劣極まる宛字・表記が頻出するのだが、これを「時」「夢」「かをり」と「正しく」表記したら、無禮呼ばはりされなくてはならないのだらうか。たとひ歌詞の原文を知つてゐても、「こんな愚劣な表記では書けない」と斷つたうへで「正しい」表記に改めて引用する事は無禮なのであらうか。私には作詞者の方が國語に對して無禮な行爲をやらかしてゐるとしか思へないのだが。

 「現代かなづかい」で書かれた文章も同じく愚劣である。だから私はせめて引用する際にはまともな國語に直してゐるのだが、原文尊重主義者には此が氣にいらぬらしい。これ以上書くとまたぞろ喧嘩になるから止めておく。

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2004年11月25日 (木)

再論・引用時の假名遣ひ變更

 「現代かなづかい」で書かれた文章を正假名遣ひに改めて引用する事や、その逆の行爲は正當か。私、木村は正當だと考へる。この問題は何故か熱い論爭に發展しやすい。最近の論爭についてはhttp://www.geocities.co.jp/Bookend-Kenji/8991/inyo/inyo.htmlを參照されたい。今囘は問答形式で異論を檢討する。

 ――そもそも何の爲に假名遣ひを變更するのか。素直にそのまま引用すれば良いではないか。

 理由は色々ある。私の場合、(1)「現代かなづかい」は不合理で讀みにくいから(2)地の文と引用文とで表記が異なると讀みにくいから(3)他人の文章といへども引用した以上は自分の著作物の一部だから(4)假名遣ひの變更と不變更を意識的に使ひ分ける事で表現上の效果が得られるから、等々。

 ――その程度の理由で假名遣ひを變へる必要があるのか。

 必要と信ずるからやるのである。例へば日本人の大半は高校レヴェルの英語を解するが、それでも英文のまま引用する事は少ない。英語は讀みにくいと云ふ、「その程度の理由で」日本語に書換へるのである。假名遣ひの書換へも同じだ。

 ――原文の假名遣ひを誤解される恐れがある。

 その恐れは否定しないが、己が表現の自由を犠牲にしてまで避けるべき誤解だとは思はない。 

 ――原著者の假名遣ひを變更する事自體、無禮ではないか。

 それなら外國の物書きの文章を似ても似つかぬ日本語に飜譯して引用する方が餘程無禮と云ふ事になる。外人には無禮を働いても構はないのか。

 ――假名遣ひは變へなくても意味が分かる。だが英語は兎も角、大抵の外國語は飜譯しなければ意味が分からない。

 意味が分かる分からないは日本人の勝手な都合だ。禮を盡くす事がそれほど大切ならば、引用の度に一々先方の了承を得るか、飜譯を伴ふ引用は一切愼むかするのが筋だらう。

 ――極論だ。

 極論は主張の論理性を檢證する有效な手段である。

 ――それでは一歩讓らう。表現の自由を犠牲にしない範圍で、禮を盡くすべきだ。

 その「範圍」は誰が決めるのか。私は他人の價値觀を押し附けられたくはない。

 ――法律や暴力で押し附けるわけではない。話し合ひでやれば良い。

 物事が全て話し合ひで濟むなら警察も裁判所も軍隊も要らぬ。

 ――自分の文章を「現代かなづかい」で引用されても構はないのか。

 構はない。私は他人の表現の自由を認める。

 ――木村は「現代かなづかい」派だと誤解する讀者がゐるかも知れない。

 誤解されたからと云つて別段困る事は無い。私の假名遣ひに關心のある讀者は原文を確かめる筈だ。確かめない讀者は誤解し續けるだらうが、それは當人の落ち度である。

 ――私は他人の假名遣ひを一切變更しない。

 それは勿論自由だし一つの原則だが、だからと云つて相手にも同樣の行動を求めたり期待したりする事は出來ない。見返りを期待した禮は僞物である。

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2004年11月 2日 (火)

憂慮すべき事

 「文語の苑」http://www008.upp.so-net.ne.jp/bungsono/index.htmlより。

 陸奧宗光著『蹇蹇録』の緒言である。 http://www008.upp.so-net.ne.jp/bungsono/Okazaki/Okazaki.html
 「である」は口語。「緒言なり」とすべきである。
 しかれどその裏にて眞の戰意欠くれば、ただのこけ威しと墮する。 http://www008.upp.so-net.ne.jp/bungsono/Okazaki/Okazaki3.html
 「堕する」は文語では連體形。「堕す」と終止形にすべきである。
 「この囘答は外形において毫も圭角(けいかく)を露(あらは)さざれども、畢竟外交的筆法を以つて婉曲に露國の勸告を拒絶したるものなれば、露國がこれに滿足すべきや否や更に待つべき所」であつたが、ロシアは取り敢へずこの囘答を受諾し、即時反論の機を逸せり。 http://www008.upp.so-net.ne.jp/bungsono/Okazaki/Okazaki9.html
 「であつたが」は「なりしも」とすべきである。

 私に文語を書く能力は無いが、その私でも指摘できるやうな初歩的な誤りである。トップページで「先人の磨き上げし文語の消え行くは、見るに忍びざるものあり」と嘆いてみせる「文語の苑」で公表する以上、せめて文法的に正しい文章を書くべきではないか。よしんば筆者が氣づかなかつたとしても、「文語の苑」には發起人が六十一人もゐるではないか。筆者と同じ幹事もゐるではないか。「文語の苑」參加者は、世間から文語が消え行く事よりも、自らの主張を裏切るやうな誤りを放置してゐる失態をまづ憂慮すべきである。

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2004年8月16日 (月)

「英語=日本語」説

bat[バッツ]=伐 [バツ] (うつ・たたく・きる) 伐という漢字は、討伐ということばで知っているでしょう?伐は、うつ・打つ・たたく・叩く・きる・切るという意味なのです。英語のbat(野球のバット)やスポーツのバトルロイアルやテレビ映画でもよく知られたコンバット(戦闘)などのbatは、まったく同じ発音、同じ意味ですね。このように似ている英語と漢字は、無数に有るんですが、正しく比べないと、大変な目にあいます。私が、何百も、きちんと比較し解明してあります。kanntann

かつて金田一春彦が「日本語=韓國語」なる珍説を批判する爲、「boy=坊や」その他の豐富な“實例”を擧げて「英語=日本語」説を展開してみせた事を思ひ出す。その種の冗談を大眞面目に信じてゐる輩がゐたとは。日本は廣い。自説を本氣で批判した人間には「100万円の懸賞」を呉れるとあるが、實際に批判した人は100萬圓どころか、別口の馬鹿に絡まれて「大変な目」に遭つて仕舞つたやうだ。トンデモも馬鹿も、死んでも直らない。