國家は國語から手を引け
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作詞家の阿久悠氏が亡くなつた。享年七十。
最近の阿久氏は産經新聞紙上などで文化的・政治的に保守的な主張をし、その手の人々に人氣があつた。都はるみ「北の宿から」、八代亞紀「舟唄」、石川さゆり「津輕海峽冬景色」、河島英五「時代おくれ」など、和語を巧みに使つた、いかにも日本人の琴線に觸れるやうなしみじみした詞が多く、これも保守派の受けが良かつた一因だらう。
しかし阿久氏の作品はそれだけではない。フィンガー5「戀のダイヤル6700」のやうにアメリカかぶれだつたり、山本リンダ「どうにもとまらない」、ピンクレディー「ペッパー警部」の如く内容が輕薄で振附も猥雜だつたり(振附は阿久氏の責任ではないが)と、保守的な人々が眉を顰めるやうな歌も數多く手掛けた。ピンクレディーの「ウォンテッド」に「あいつはあいつは大變裝」と云ふ歌詞が出て來るが、國語の傳統にうるさい人々の間で「大變裝などと云ふ日本語はない」と物議を醸した事もある。
私は「阿久悠は保守派の皮を被つた文化破壞者だつた」などと云ひたい譯ではない。全く逆である。國語や傳統文化にうるさい人々は、何かと云ふと歌謠曲やテレヴィドラマのやうな「低俗」な文化で亂れた日本語が使はれる事を憂ひてみせる。そんな事は無用の心配である。「大變裝」などと云ふ言葉は一事流行したかもしれないが、今では誰も使はない。「大變裝」に限らず、かつて良識ある人々を嘆かせた流行語の大半は廢れて仕舞つてゐる。
和歌や俳句でも同じだが、破格の面白さと云ふものは、正格がしつかりしてゐるからこそ成立つのである。人間とは、阿久悠氏が體現したやうに、破格を試みる冒險心や奇を衒ふ心情と同時に、正格を求める秩序感覺も持合はせてゐる。だから言語と云ふものは、自然に任せておけば論理的にも美的にも十全な發展を遂げるものだし、事實、そのやうに發展して來た。さう云ふ意味で、多くの國語關係者からはお叱りを受けるかもしれないが、私は所謂「國語の亂れ」をそれほど心配する必要は無いと考へる。本當の「國語の亂れ」は、言語に政治が介入する時にのみ起こると思ふ。戰後の「現代かなづかい」「新漢字」の押附けこそ、その典型に他ならない。
寧ろ正しい國語を押附ける事で、自由闊達な文化の發露の場が失はれる事を私は危惧する。歌謠曲は低俗かもしれないが、少數の高尚な文化は多數の低俗な文化と云ふ土臺の上に開花するのである。何より人間は、高尚な文化だけを求める存在ではない。
話がかなり脱線して仕舞つた。私が一番好きな阿久悠氏の作品は、ちあきなおみが歌ふ「かなしみ模樣」である。三十年以上も昔の歌で、大ヒットしたとも云ひかねるが、聽く度に心を打たれる。阿久さん、どうぞ安らかに。
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經濟には言語と共通するところがたくさんあるやうに思ふ――予測できないやうに自己を形成すること以外にも、多くの共通點がありさうだ。言葉は何のためにあるか? もつともらしい答へでは、コミュニケーションのためだ。それだとコヨーテの鳴き聲やシロアリのフェロモンにも當てはまる。これは言葉の機能を正當に扱かつた答へではない。かういふのはどうか? 言語は、文化およびその他多くの目的の發展を可能とする過程において、學習と學習の普及のためにもある。まさに同樣に、經濟は物質的必要を滿たすためにある。だが、それならシカの食料あさりやハゲタカの腐肉あさりについても言へる。これは經濟の機能を正當に扱つた答へではない。言語と同じやうに、經濟生活によつて、われわれは文化や目的を實現するため多くの用途を發展させることができる。そして私の意見では、それがわれわれにとつて經濟の最も意義深い機能なのだ。(ジェイン・ジェイコブズ『經濟の本質』、香西泰・植木直子譯)
ジェイン・ジェイコブズはアメリカ生れのカナダ人思想家。市場經濟と言語の類似性はハイエクやフリードマン等の自由主義的經濟學者も指摘してゐる。どちらも政府が計劃的に拵へたものではないにもかかはらず、いや、だからこそ、自律的に、精妙に機能する。社會主義經濟は崩壊したし、人工言語エスペラントは普及しなかつた。
ジェイコブズは上記文章で言語と經濟の「最も意義深い機能」についても觸れてゐる。經濟は食ふ爲だけにあるのではない。「文化や目的を實現するため多くの用途を發展させる」事こそ、より重要な役割なのだ。人間はパンを超える存在を求めて生きるのだから。
同じやうに、言語は「コミュニケーション」の爲だけにあるのではない。「文化およびその他多くの目的の發展を可能とする過程」において、「學習と學習の普及」を擔ふのである。同時代人同士の「コミュニケーション」の爲だけであれば、「現代仮名遣い」「制限漢字」でも構はないかも知れないが、歴史的に形成されて來た文化を學習するには時代的斷絶の小さい表記を撰ぶべきである。
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やや舊聞に屬するが、伊吹文明文部科學大臣が小學校での英語必修化に否定的な見解を示し、贊否兩論を呼んだ。或る人は英語よりも先づ國語をしつかり身に附ける事が先決と云ふ文相の意見に贊意を示し、或る人は語學の習得は幼少時に始めるに如くは無いから小學校での英語教育を飽く迄も實現すべきだと云ふ。私にはどちらの議論も片手落ちに見える。
義務教育であらうが「高等」教育であらうが、英語を學ぶか學ばないかは子供自身及びその親が決めるべき事である。勉強したければすれば良いし、したくなければ止めれば良い。その結果、或る子供らや親は「英語を勉強して良かつた」「英語以外の勉強に時間を割いて良かつた」と喜ぶかも知れないし、別の子供らや親は「英語を勉強しておけば良かつた」「英語なんぞ勉強せず他の勉強に時間を割けば良かつた」と悔やむかも知れない。しかしそれで良いではないか。誰も他人の人生に責任を負つては呉れない。一度しかない人生を生きるのは自分自身しかゐない。「後悔するかも知れない」と云ふ恐れを常に抱きつつ、覺悟を決めて何かを撰び取る行爲の連續、それが人生に外ならない。
教育の内容や學校は自由に撰擇出來るやうにすべきだ。現在の義務教育制度では學區が定められてをり、學校を撰ぶ事が出來ない。引越でもしない限り、どんな「偏向」教師や不良生徒がゐる學校でも我慢して通ひ續けなければならないし、どんな好い加減な學校でも公立なら潰れる事は無い。學校を公費で運營するのでなく、家庭に教育費を直接支給し、公立私立を含めた樣々な選擇肢から好きな學校を撰べるやうにすべきだ。それが眞の「個性尊重」ではないか。
英語を教へる教へないも、學校によつて考へ方の違ひがあつて良い。英語を勉強したい生徒は英語の授業のある學校へ行けば良いし、他の科目に時間を割きたい生徒は他の學校を撰べば良い。さうすれば少なくとも「英語を教へるべきか教へないべきか」などと云ふ不毛な議論を國會で延々としなくて濟むやうになる。いつその事、教科書檢定などと云ふ代物も無くし、教科書を學校や學級で自由に撰べるやうにすれば、政府が「近鄰諸國」から教科書の中身について文句を言はれる心配も無くなるだらう。
教育「制度」は政治の領域に屬する事かも知れないが、教育そのものは道徳の領域に屬する事である。どんなに立派な制度、校舍、教科書を揃へても、立派な教育が出來る譯ではない。だから義務教育を含め、政府に教育を任せるのは間違つてゐる。
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元國立國語研究所長の野元菊雄氏が死去した。
野元菊雄氏(のもと・きくお=元国立国語研究所長、社会言語学)31日午前6時18分、肺炎のため東京都目黒区の病院で死去、83歳。神奈川県出身。自宅は東京都目黒区柿の木坂1の3の14。葬儀・告別式は未定。喪主は妻芳苗(よしえ)さん。 http://www.topics.or.jp/Gnews/news.php?id=CN2006073101003150&gid=G13
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名古屋に古本屋街と呼べるやうな所は殆ど無いのだが、敢へて云へば名古屋大學の近くに良い店が數軒ある。そこで最近買つた本。譯者省略。
*R.ウェレック他『文學の理論』
*ルドルフ・ウィットコウアー他『數奇な藝術家たち』
*上田辰之助『聖トマス經濟學』
*アンナ・ドストエフスカヤ『囘想のドストエフスキー』
*エリ・ウィーゼル他『ホロコーストの記憶』
*福原麟太郎他編『文學用語辭典』
*マイクル・クライトン『恐怖の存在』
*P.F.ドラッカー『明日を支配するもの』
全て未讀。
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英語による思考法は日本語の思考法とはまつたく別のプロセスを經て機能する。それを會得するには、まづ日本語とどう違ふかをはつきり認識してかかるのが、じつは最も近道なのである。しかしこのためには、かなり高度の日本語の知識を必要とする。日本語の水準は高ければ高いほどよい。この點私は英語の幼兒教育を重視しない。それどころか、大人になつてから英語を學ぶことに大きな利點を認めるものである。それは何かと言ふと、日本語に關するゆるぎのない自信である。自國語こそどんな人からも取りあげることの出來ない個人の財産であり、コミュニケーションの利器である。此處迄の件りは、藤原正彦先生が讀んで大いに喜びさうな内容である。しかしその先が全然違ふ。
終はりに本辭典は、日本の英語研修者が英語の獨自性を探求するプロセスにおいて、英語の体質である捉はれることのないvisionと、moral sensibilityを自然のうちに感得せられることをひそかに願つて編まれたものであることを申し添へておく。英語を話す民族の捉はれることのない想像力や道徳的感性を日本人が自分の物に出來るかどうかは兔も角、この文章の筆者は他民族に謙虚に學ぶ姿勢を忘れてゐない。アメリカ人は經濟力軍事力だけが取り柄で道徳心は日本人の足下にも及ばない、などと書くやうな夜郎自大のナショナリストとは對照的である。引用は『日英語表現辭典』(ちくま學藝文庫)の「はしがき」より。筆者は最所フミ。
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最も分かり易い例は憲法である。現憲法は正假名で書かれてゐるが、だから即ち素晴らしい憲法であるとは云へない。戰前は詐欺師も出齒龜も正假名で文章を書いたのである。
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當り前の話だが、正字正假名で書いた文章が全て素晴らしい譯ではないし、略字新假名で書いた文章が全て駄目だと云ふ譯でもない。松原正氏の「パソコンとハムレット」は幸ひにして正字正假名で連載中だが、假に略字新假名であつても私は必ず買ひ求め讀み耽つたであらう。
況はんや波江某の字數歌などと云ふ代物は表向き正假名で書かれてゐても、やつてゐる事は國語破壞以外の何物でも無い。波江某は、自稱右翼でその實アナーキストの福田和也(中川八洋『福田和也と《魔の思想》』參照)と同類だと思ふ。
正字正假名である事が唯一の取り柄である文章――。そんな物に何の意味も無い。表記は大事だが中身も大事なのである。當り前ながら。
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