2006年11月25日 (土)

道徳と文學

「道徳と文学ゥゥゥゥ!!」

 人間には道徳的な部分と、反道徳的な部分(たとえば、誰かを殺したいという衝動にかられたりとか、いい女を犯してみたい、とか…)があると、自分なんかは思うんだけど、そういう人間の「負の部分」を「正確に描」いたら、野嵜氏が言うところの「道徳的に正し」い文学になるんだろうか?/文学に疎い自分には、とんと理解不能。/大学の文学部では、そういう風に教えるんだろうか? 教えて偉い人。

 別に「偉い人」ではありませんが、御參考迄。

 例へば「罪と罰」と云ふ作品は、主人公の青年による金貸しの老婆殺しと云ふ「人間の負の部分」を實に「正確に描」いてゐます。これだけで終れば唯の犯罪小説でせう。しかし作者ドストエフスキーは寧ろ殺人をやり遂げた時點から出發して、主人公の道徳的煩悶を克明に描いてゐます。だから「罪と罰」は、道徳とは何かを眞摯に追究した文學であり、言ひ替へれば道徳的に正しい文學なのです。

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2004年4月29日 (木)

大西巨人氏公式サイト

 舊臘から「足掛け二世紀越し」で讀んでゐるのは、大西巨人『三位一體の神話』(光文社)。現在、上卷を終へ、下卷に入つたところである。既にこの欄で書いたが、大西氏は政治信條的には左翼であり、それゆゑ私は一時、(愚かにも)氏の著作を敬遠してゐたのだが、最近、また熱心に讀んでゐる。大西氏の文學に關する該博な知識・道徳に對する眞摯な考究は、そんぢやうそこらの保守派知識人が束になつても敵ふものではない。

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大西巨人氏の三島評

 『春秋の花』(光文社文庫)の96頁で、大西巨人氏は三島由紀夫の短篇小説『眞夏の死』から以下の件りを紹介してゐる。(三島に限らず、同書の引用は原文通りの歴史的假名遣ひ)

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ザ・コメンテーター/ドストエフスキーの卷

テーマ曲が流れ、番組スタート。
くめ 皆さん今晩は。全く新しいニュース解説番組『ザ・コメンテーター』の始まりです。司會は私、くめもんた。親愛なるパートナーは……。

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僕、ボールぢやないよ

 早期漢字教育で知られる「石井式」の繪本を購入し、三歳の娘が寢る前に讀んでやつてゐる。これは決して決して親馬鹿ではないのだが、いやあ、よく字を覺える。將來は劇團昴の看板女優にしようか、それとも早稻田大學英文科の教授にしようかと、決して決して親馬鹿なんかではなく、惱む今日この頃である。

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10月1日では遲すぎる

 フレッド・ホイルの長篇SF『10月1日では遲すぎる』(伊東典夫譯、ハヤカワ文庫)を一氣に讀了。SFと云つても硬軟樣々であるが、本篇はハードもハード、天文學者でもある作者が現代物理學の知識を動員して描いた本格的な「時間物」である。物理學(のみならず科學全般)にはからきし弱い私だが、時間物SFは好きである。以前讀んだバリントン・J・ベイリー『時間衝突』(大森望譯、創元SF文庫)は、時間が未來から過去に逆流する世界をテーマとしてゐたが、『10月1日』は、地球上に樣々な時代が同時に出現すると云ふ内容である。

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船戸與一を讀まなくなつた理由

 私は十年ほど前、『山猫の夏』『夜のオデッセイ』など、冒險小説作家の船戸與一氏のかなりの作品を愛讀した。だが、或る出來事をきつかけに、ふつつりと讀まなくなつた。

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トムは眞夜中の庭で

 「そのときから、ここへきて住んでるの?」
 「そのときからぢやない。バーディとわたしは、低地地方でくらしてゐて、たいへんしあはせでね。子どもは、男の子がふたり生まれた。ふたりとも大戰――いまでは第一次世界大戰といつてゐるやうだが、あの戰爭で戰死してしまつた。」おばあさんは泣かなかつた。むかし、泣いて泣いて涙をぜんぶ流してしまつたのだらう。
(フィリパ・ピアス『トムは眞夜中の庭で』 高杉一郎譯、岩波少年文庫)

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遠くにありて

「西崎くん。17歳の時つきあつてた子つて、だれ?」
「……クラブのマネージャーやつてた子。」
「好きだつた?」
「そりやあ、その時はね。」
「もどりたいわね、17歳の時に。」
「さうかな、おれは今でいいや。人生やり直すのめんどくさい。」
「(私は、もどりたい。こはいもの知らずの、なまいきな17歳にもどりたい。)」(中略)「(17歳にもどつて、西崎くんを好きになりたい。)」
(近藤ようこ「遠くにありて」第2卷 ビッグコミックス 小學館)

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ミヒャエル・コールハースの運命

 『エリオット評論選集』(早稻田大學出版部)の譯者あとがきにおいて、臼井善隆氏はかう強調してゐる。

 アメリカや英國が[木村註:灣岸戰爭で]戰つたのは、國益のためでもあるが、畢竟、サダム・フセインの侵掠と暴虐が許せぬといふ正義感からである。彼等を動かしたのは、畢竟、得ではなく徳であつた。けれども、森鴎外が言つてゐるやうに、西洋人が「徳義の民」であるといふことくらゐ日本人にとつて理解し難いことはない。

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小林秀雄と柄谷行人

 小谷野敦『バカのための讀書術』(ちくま新書)には「小林秀雄の本はほとんど全て讀んではいけない」と書いてあるさうである。理由は「小林氏の評論が日本の文藝評論を非論理的にした元兇だから」。小谷野氏の本は未讀なので斷言は出來ないが、隨分と亂暴な事を云ふ。

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短歌衰亡

戦わぬ男淋しも昼の陽にぼうっと立っている夏の梅 (佐佐木幸綱)
ガス弾の匂い残れる黒髪を洗い梳(と)かして君に逢いゆく (道浦母都子)
ハンバーガーショップの席を立ち上がるように男を捨ててしまおう (俵萬智)

 上掲の三首の歌だけ比べれば、俵の作が一番増しである。何も秀歌だと云ひたいのでなく、それほど他の二首が非道いと云ふ事である。

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支那文學者の見識

 漢文の訓讀文は文語なのだから、當然、歴史的假名遣ひで書くべきである。ところが現在は、訓讀文を「現代かなづかい」で書くことの方が多い。吉川幸次郎氏が監修乃至編者を務めた「中國古典選」(朝日新聞社)、「唐詩選」(ちくま學藝文庫)はいづれも「現代かなづかい」である。吉川氏は、どこかで「訓讀文を歴史的假名遣で書く意味は無い」と云ふ主旨の事をちらつと述べてゐたと記憶するが、今、その出典を探し出せない。

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