2009年12月14日 (月)

戰爭は平和である

オバマ米大統領ノーベル平和賞受賞演説はすばらしかった。

巧みな演説は人をいとも簡單に醉はせる。だからこそ政治家は演説に異常なほどに力を注ぐ。ブッシュの演説を唾棄した人々が、オバマに拍手喝采する。話の内容もやつてゐることも同じなのに。

ジョージ・オーウェルの小説に出てくる有名な言葉こそ今囘の受賞に最もふさはしい。 戰爭をやらかしてゐる最中の大統領が平和賞を貰ふのだから。

戰爭は平和である

私も以前は、アメリカは己の信じた正義のために戰つてゐるのだから、それでイラクやアフガニスタンの市民が死んでもやむを得ないと思つてゐた。しかしそれはやはり誤りだ。どんな正義を信じてゐようと、無關係な者を殺してよい理由にはならないからだ。

もしもハムレットがクローディアスに復讐しようと、そこに居合はせた罪もない男女や子供もろとも手榴彈で吹き飛ばしたとしたら、我々はハムレットの正義感を稱へるだらうか。答は言ふまでもない。

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2008年11月18日 (火)

國家と友情

田母神俊雄前航空幕僚長は腹の据わつた立派な人なのだらうと思ふ。戰後、長きにわたり左翼的な史觀の押しつけに辟易してゐた人々が快哉を叫ぶのも無理はない。とりわけ例へば渡部昇一氏の著作を愛讀するやうな人なら、「日本は矢張り惡くない」とて諸手を舉げて田母神氏に百パーセントの賛意を示した事だらう。

しかし私が田母神氏に聞いてみたいのは、次のやうな事である。あなたが國を裏切るか友を裏切るかと云ふ瀬戸際に立たされた時、どちらを選びますか。イギリスの作家、E.M.フォースターは「迷ふことなく國を裏切る」と云つたと云ふ。私もフォースターに百パーセント同意する。人間にとつて一番大切なのは、國家ではない。

おそらく私のやうな人間は、勲章を貰へるやうな兵士にもスパイにもなれないだらう。しかしそれでよいと思ふ。

田母神さん、そして自衞官の皆さん。國家と友情と、どちらを選びますか。この問ひを避けて通る保守系雜誌の論文や「軍事ブログ」「政治ブログ」なんぞ、讀む價値は無いと思ふ。

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2008年9月 8日 (月)

レマルクの問ひ

レマルク『西部戰線異状なし』(秦豐吉譯、新潮文庫)の284頁以下で、戰場に赴いたドイツの兵士たちが戰爭や國家について議論を交はす場面がある。大いに讀む價値のある箇所なので拔粹して紹介したい。

「おれたちはここにかうしてゐるだらう、おれたちの國を護ろうつてんで。ところがあつちぢやあ、またフランス人が、自分たちの國を護ろうつてやつてるんだ。一たいどつちが正しいんだ」 「どつちもだらう」 「だがドイツの豪え學者だの坊さんだの新聞だのの言つてるところぢや、おれたちばかりが正しいんだつて云ふぢやねえか。だがフランスの豪え學者だの牧師だの新聞なんかだつて、やつぱり自分たちばつかりが正しいんだつて、頑張つてるだらう。さあそこはどうしてくれる」
「(そもそも戰爭が起こるのは)一つの國が、よその國をうんと侮辱した場合だな」 「なに、一つの國だつて。一たいドイツの山がフランスの山を侮辱するなんてことは、できねえ話ぢやねえか」 「そんな意味ぢやねえ。ある國民がよその國民を侮辱した場合だ……」 「そんならおれたちはここで何も用がねえぢやねえか。おれはちつとも侮辱されたやうな氣がしてねえものな」
「國民といつたつて、全體だよ。つまり國家つてやつだよ……」 「なにが國家だい。憲兵のよ、警察のよ、税金のよ、それが貴樣たちのいふ國家だ」 「國家といふものと故郷と云ふものは、こりや同じもんぢやねえ。確かにそのとほりだ」 「だがそいつは兩方とも一つものにくつついてゐるからなあ。國家のねえ故郷といふものは、世の中にありやしねえ」

長くなるのでこれくらゐにしておかう。『西部戰線異状なし』は文藝作品としての價値はともかく、その反戰思想から右派智識人の間で反感を買つてゐるが、それではレマルクが作中人物を通して提起した問ひにきちんと答へられる者が果たして何人いるだらうか。外國から「侮辱された」と感じてもゐない人間がなぜ、見も知らぬ他國人を殺すために銃を取つて戰場に赴かなければならないのか。自分の故郷を護るためになぜ、國家の命令に從はなければならないのか。

左翼が幅を利かせてゐた頃、右派智識人は論壇で冷飯を喰はされてゐたが、今では形勢はすつかり逆轉した。しかし論壇に屡々登場する右派智識人たちが書くのは相も變はらず左翼の惡口ばかり(最近は右派の内輪揉めも増えてゐるやうだが)で、國家や戰爭や道徳について本質的な疑問に答へてくれる議論は全然見當たらない。いづれ日本が戰爭をやらかすことになれば、日本の「豪え學者だの坊さんだの新聞だの」はまたぞろ「自分たちばつかりが正しい」と連呼するのだらう。嗚呼。

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2008年3月 1日 (土)

軍隊と防衞

喜六郎氏は案の定、ヘタマゴ問題について反論できず、次の話題に轉じたやうである。一つの問題についてじつくり議論する能力がないからと云つて、次から次へと話題を變へないで貰ひたいものだ。

国家・政府の強制が没道徳的で駄目だというのであれば、「脱走兵の自由」を認めるという中途半端な主張ではなく、「軍隊の廃止」を主張するのが筋であろう。/なぜ木村氏はそれを主張しないのか?

なぜ? 以前からそれを書かう書かうとしてゐるのだが、喜六郎氏が「後付け」だの「ヘタマゴ」だので因縁をつけてくるものだから、それに對應せざるを得ず、なかなか前に進まないのである。他人をさんざん引張り囘しておいて「なぜ主張しないのか」もないものだ。

人間は自らを守る爲に武裝し反撃する權利がある。しかしそれを國家に代行して貰ふ理由はない。むしろ掛替へのない自分だからこそ、その防衞を政治家と官僚の牛耳る國家などに任せず、個人の意思と權利を直接反映し得る道を探るべきなのだ。公的年金の慘状は良き反面教師である。私は立派な自衞官や元自衞官を個人的に存じ上げてゐるが、社會保險廳にも立派な人はきつとゐるだらう。にもかかはらず年金問題は起こつたのである。

國軍の廢絶は防衞の廢絶とイコールではない。しかしこの問題はとても短い文章で書ききれるものではない。眠いので寢る。後日期待されたし。

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2008年2月21日 (木)

書いてゐますが…

前囘の記事に對し喜六郎氏より反論があつた。私が「政治と道徳とは別物であると同時に、分かちがたく結びついてゐる」と書いた事に對し、次のやうに「突っ込みを入れて」くれてゐる。

これは後付けだね。 こういう事はもっと前から言っておくべきだった。今ごろになって姑息に軌道修正するのはみっともないと思う。後からだったら何とでも言える。

「もっと前から言っておくべきだった」……? それなら例へば二年も前に書いたこの文章は何なのだ。

政治と道徳は究極的に分け得ない部分も殘ると思ひますが、まづ分けて考へない事には、分け得ない部分も理解出來ないでせう。

それから、三年前に書いたこれ

人間は政治的動物であるから、宗教も政治的役割を負はざるを得ない場合がある。しかし人間は道徳的存在でもあるから、宗教は道徳的役割をも負ふべきである。そしてソフォクレスの悲劇「アンティゴネー」が示すやうに、政治と道徳とは對立する局面がある。
(註)「政治と道徳とは對立する局面がある」と書いた以上、「對立しない局面もある」と云ふ事を私は認めてゐる譯である。どう考へても。

もう一つ、松原正先生の講演の紹介から。

イエスは「神の物は神へ、カイザルの物はカイザルへ」と述べ、カイザルの物(政治)以外に神の物(信仰・道徳等)が存在する事を強調した。神の物とカイザルの物との對立は容易に解決出來ないが、一方に偏せず、雙方に關はつて生きるのが全うな人間なのだ。

いづれの文章も、政治と道徳が「別物であると同時に、分かちがたく結びついてゐる」事を前提に書いてゐる、
いやいや、事實上同じ意味の事を書いてゐるとしか讀めないと思ふのだが。

自由主義者の私としては、誰もが自由に物を書ける日本は本當に良い國だと思ふが、他人のブログをろくに讀みもせずにテキトーな事を書くのは出來ればやめて貰ひたいなあと感じたりする今日この頃である。

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2008年2月19日 (火)

道徳は政治に先行する

政治と道徳とは別物であると同時に、分かちがたく結びついてゐる。だからこそ「アンティゴネー」の昔から、兩者が密接に關はり合ふ事象について、多くの議論が重ねられて來た。その典型が戰爭である。

どのやうな場合であれば、ある人間が他人に物理的暴力を振るふ事が道徳的に是認されるだらうか。それは他人から物理的暴力を振るはれた場合、あるいは正に振るはれさうになつた場合であらう。前者は報復であり、後者は自衞である。報復はさらなる暴力の行使を防ぐ效果があるから、結局は自衞に含めてよからう。要するに、他人への物理的暴力が道徳的に是認されるのは、自衞の場合に限られるのである。

さて私の親なり妻なり子なりがAと云ふ責任能力ある人間から虐殺されたとして、私が報復の爲に、自ら、或いは現實的には國家と云ふ代理人を通じ、Aを殺す事は、道徳的に是認されるべきか。當然是認されるべきであらう。しかしAと一緒にゐた無關係な群衆まで機關銃で撃ち殺して仕舞つたとしたら、まづ許されないだらう。たとへ群衆がAと同じ國籍を有し、同じ言語を話し、同じ宗教を信仰し、あまつさへ私に對して罵詈雜言を浴びせてゐたとしても。

國家が互ひの國民を總動員して行ふ闘爭、すなはち戰爭は、個人をこのやうな反道徳的行爲に追ひやる危險を常に孕んでゐる。とりわけ我が國もかかはる「對テロ戰爭」のやうに、他國にわざわざ出掛けて行つてやらかす戰爭となると、無關係な者を殺すと云ふ反道徳行爲を犯す恐れは格段に大きくなる。

かうした考へ方は感傷に過ぎないのだらうか。戰爭は冷徹な政治の領域に屬する事柄なのだから、「無關係な者を殺す事は惡である」と云ふやうな甘つちよろい道徳を持ち出すのは筋違ひなのだらうか。

さうは思はない。道徳は政治と同格ではなく、政治に先行する領域である。從つて政治的行爲の是非も、究極的には道徳によつて判斷されるべきなのだ。

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2008年1月18日 (金)

脱走兵の自由

戰爭が道徳的であるための條件は何だらうか。幾つかあると思はれるが、まづ自由意思との關はりについて考へてみよう。

ある行爲を道徳的と呼ぶには、自由意思に基づいて爲される必要がある。

強制されて行ふ行爲が道徳的であるかのやうに見える場合はある。そのやうな行爲も社會を維持する上でそれなりの意義はあるかも知れないが、眞の意味で道徳的であると云ふことは出來ない。例へば、何の罪もないのに拳銃で脅されて仕方なく金を出し、それが結果的に恵まれぬ人に寄附されたとしても、金を出した人間が自らの意思で行つたのでない以上、眞に道徳的な行爲とは云へない(この譬へを敷衍すれば、嫌々拂つた税金で結果的に困つた人を助けても道徳的とは云へない。つまり大半の場合、税とは沒道徳的な制度なのである。閑話休題)。

さて、この理屈を戰爭に當嵌めるとどうなるであらうか。敵と云ふ名の人間を殺すことが道徳的であるかと云ふ問題はひとまづ措くとして、少なくとも國家や上官から暴力で脅されて戰地に赴いたり敵を殺したりしても道徳的とは呼べないと云ふことになる。いつでも戰場から自分の意思で離脱できると云ふ環境があり、それでもなほかつ自らの意思で戰鬪に參加して初めて、道徳的である爲の條件の一つを滿たすことになるのである。

つまり、脱走兵となる自由を認める戰爭でなければ、道徳的とはなり得ないのである。

無論、さう云ふ自由を認める軍隊が勝てるかどうかは分からない。だが人間が道徳的になり得るかどうかと云ふ話と、戰爭に勝てるか勝てないかと云ふ話は、そもそも別物なのである。

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2007年12月28日 (金)

集團自決と左右の淺薄なる人間觀

沖繩戰集團自決の歴史教科書への記述に關する問題がひとまづ決着したやうである。今囘の騒動で、「左」の人々は「日本軍の強制があつた」と云ふ記述を削るのは怪しからぬと云ひ、「右」の人々は記述削除は當然だと主張した。どちらに軍配を上げるべきかを判斷する歴史的智識を私は持ち合はせないが、改めて痛感したのは、本來學問的に追究すべき事柄に對し、ひとたび國家が介入すると、何とも愚劣で醜惡な事態に陷ると云ふ事である。それに氣づかぬ限り、右も左も國家主義者と云ふ同じ穴の狢に過ぎない。

沖繩の集團自決がすべて強制によるものであつたと主張する「左」の意見に私は勿論與しない。しかしだからと云つて、自決者全員が自らの正義に對する絶對の自信を抱いて死んだと云はんばかりの「右」の主張にも全く同意できない。どちらも人間に對する無智に基づく一面的な見方でしかないからである。人間とは、生命を賭しても正義に殉じようと意を決した次の瞬間、血腥い大義なんぞとは無縁の場所で平和に暮らしたいと願ふものである。あまりにも當たり前の事だが、自決した沖繩住民の多くも、出來れば生きてゐたいと望んだに違ひない。

そして實のところ、アメリカ兵もさうだつたに違ひない。ヨーロッパ戰線での話だが、記者から「いまアメリカからいちばん送つてほしいものは何?」と聞かれた兵士の一人はかう答へたと云ふ。

ちよつと言つておきたいことがある。ここはもう、笑ひ事ぢやなく大變なんだと、ホットドッグやらベイクトビーンズやらがなつかしいなんて言つてられないんだとぐらゐは傳へてくれ。毎分毎分、兵隊が死んだり負傷していくんだ。慘めで、苦しくて、痛いんだと傳へてくれ。そちらでは絶對わからないくらゐ、笑ひ事ぢやないんだと傳へてくれ……(ポール・ファッセル『誰にも書けなかつた戰爭の現實』445頁)

ここまでしやべつたところで、兵士の喉から嗚咽が漏れた。そして彼は更に、聞き取りにくい、苛立つた聲でかう續けたと云ふ。「死ぬほど辛いつて、すごく辛いつて、傳へてくれ。笑ひ事ぢやない辛さだつて。それだけ。それだけだ」

アメリカ兵は「鬼畜米英」。さう教へられ、信じ、だから自決を選んだ沖繩住民は少なくなかつた筈である。だがアメリカ兵も「慘めで、苦しくて、痛い」と感じ、「死ぬほど辛い」と涙する人間だつたのである。私は平和主義者ではないが、なぜかくも多くの命が失はれなければならなかつたのかと考へる時、やはり暗然とならざるを得ない。

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2007年11月11日 (日)

戰爭・アメリカ・文明

 戰爭について最近いろいろ考へてゐるのだが、きちんと書く時間がないので、本の紹介だけしておきたい。いづれも飜譯書。著者のうち、S・ハワーワスとW・H・ウィリモンはアメリカのデューク大學神學部教授、クリス・ヘッジズはハーヴァード大學神學部出身の戰場ジャーナリスト、そしてルートヴィヒ・フォン・ミーゼスはナチスを避けアメリカに渡つたオーストリア出身の經濟學者である。

 それにしても言へることは、ベトナム戰爭は、ただ一國の愚かさやひとつの失敗と云ふのではなく、むしろ、最も心の深いところに抱いてゐたアメリカ人の自己過信に由來してゐると云ふことである。わたしたちは、どこかで、世界がうまくいくやうに考へ、物事を正しく整へ、民主主義や自由をいたるところに擴めたいと考へてゐる。また、アメリカは他の國々とは違つてゐることを眞劍に信じようとしてゐる[略]。わたしたちは、利己心によつて行動したのではなく、理想によつてさうしたと信じたいのである。(S・ハワーワス、W・H・ウィリモン『旅する神の民』、211-212頁)
 戰爭にまつはる魅力は決して失はれることがない。破壞と大殺戮がともなふが、生涯かけても手に入らなかつたものを、簡單に投げ與へてくれるからだ。それは生きる目的、意味、生きる理由である。[略]戰爭こそは魅惑の萬能藥。決斷とか大義とかを意識させてくれるのが戰爭だ。(クリス・ヘッジズ『戰爭の甘い誘惑』、16頁)
 戰爭と征服が過去に於て最も重要だつたこと[略]を、敢へて否定する經濟學者はだれ一人なかつた。人類の現状決定要因の一つは、數千年の武力鬪爭があつたといふ事實である。しかし、現在にもなほ殘つてゐるもの、人類文明の本質であるものは、軍人から受け繼いだ遺産ではない。文明は「ブルジョア」精神の業績であつて、征服精神の業績ではない。掠奪を捨てて勞働を選ばなかつた野蠻人たちは、歴史の舞臺から姿を消した。(ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス『ヒューマン・アクション』、657-658頁)

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2007年10月 2日 (火)

日本人の「品格」

 横綱朝青龍が巡業を休んでサッカーに興じてゐた事が露顯した時、世間は「横綱としての品格に缺ける」「詰まるところは文化の違ひ」などと指彈した。成る程、朝青龍と云ふモンゴル人横綱に日本的な「品格」があるかどうかは意見の分かれるところだらう。しかしどう考へても、新弟子によつてたかつて暴力を揮ひ、擧句の果てに殺して仕舞ふやうな日本人力士や日本人親方の「品格」の方が立派であるとは云へまい。

 時津風部屋での今囘の事件を聞いて、私は舊軍の新兵いぢめの話を聯想した。新兵いぢめと云ふものはどの國にもあるのだらうが、日本の軍隊でのいぢめが實に陰濕であつた事は、誇張はあるにせよ、多くの戰爭文學にも克明に描かれてゐる。戰後は軍隊が絶對的に否定された時代だつたから、「軍隊でのいぢめは陰濕だつた」などと云ふ話も虚實取混ぜて嫌と云ふほど聞かされたわけだが、最近は寧ろ、軍隊をやたらと美化する風潮が目についてならない。云ふまでもない事だが、軍人も人間である。人間である以上、美徳と同時に惡徳も間違ひなく持合はせてゐる。そして私や讀者諸子と同樣、日本人獨特の嫌らしい面も持合はせてゐるだらう。その點において、新弟子を嬲つた力士も親方も、新兵をいぢめた舊軍の上官も兵士も、變はるところはない。

 忘れ去られてゐた栗林忠道や硫黄島戰が關心を集めるのは結構な事だが、それが「やはり日本人は偉い」「日本人の品格は外人とは違ふ」と云つた夜郎自大の議論につながらぬとは限らないし、現につながりつつあると思ふ。幸ひにして、『常に諸子の先頭に在り』の著者、留守晴夫教授はそのやうな安易な日本人禮讚とは正反對の主張をお持ちの方である。是非その著作に触れ、出來るなら講話も聽いて戴きたいと思ふ。

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