人間がある信念を奉ずる事は自由である。しかしその信念は飽く迄も個人として貫くべきであり、他人に政治的に強制してはならない。日本國憲法九條に基づく平和主義を道徳的信念、いや宗教的信念として鼓吹する『憲法九条を世界遺産に』(集英社新書)の二人の著者のうち、中沢新一はさうした道理に全く氣附いてゐないか氣附かない振りをしてゐる。太田光は多少氣附いてゐるがそれ以上考へる努力を抛棄してゐる。
己の個人的信念の爲に他人が死んでもよいと云ふ主張ほど道徳的におぞましいものはない。端的なのは中沢の次の發言である。
中沢 [略]日本が軍隊を持とうが持つまいが、いやおうなく戦争に巻き込まれていく状態はあると思います。平和憲法護持と言っていた人たちが、その現実をどう受け入れるのか。そのとき、多少どころか、かなりの犠牲が発生するかもしれない。普通では実現できないものを守ろうとしたり、考えたり、そのとおりに生きようとすると、必ず犠牲が伴います。僕は、その犠牲を受け入れたいと思います。覚悟を持って、価値というものを守りたいと思う。(146-147頁)
「僕は、その犠牲を受け入れたいと思います」と中沢はさも神妙さうに語る。だが中沢自身、「多少どころか、かなりの犠牲が発生するかもしれない」と述べてゐるやうに、その「犠牲」は中沢個人に留まらない。中沢をはじめとする平和主義者が憲法九條の護持に成功し、その結果、彼らが敵國に攻撃されるがままに死んでゆくとしても、それは正しく「覚悟」の上なのだからやむを得ない。しかし爆彈は人間の政治的信條を區別して落ちてはくれない。戰爭になれば、九條護持に反對した日本人やその子供らも殺されてゆくのは必至だが、それについて中沢はどう考へるのか。
上の引用部分で、中沢は「かなりの犠牲」を「受け入れたい」とはつきり語つてゐて、これは字義通りには「自分の信念の結果、他人が卷添へになつて死んでも仕方ない」と云ふ意味にしか取れない。これではオウム眞理教と同じである。かつて麻原彰晃を賞賛した中沢だけに、これが正しい解釋なのかも知れないが、幾ら何でも非人間的な主張だから、本意は異なると信じたい。だが滿足すべき囘答は、この本のどこにも見當たらない。それどころか中沢は「憲法九条は修道院みたいなもの」(75頁)だとか、「北朝鮮が日本人を拉致した。こんな国家的暴力にどう対処するんだと憲法に問いかけても、憲法は沈黙するばかりです。いつだって神々は沈黙するんですよ」(79頁)だとか、文字通り神がかつた發言を繰返すばかりで、何だか背筋が寒くなる。
相手方の太田も「日本国憲法の誕生というのは、あの血塗られた時代に人類が行った一つの奇蹟」(56頁)などと、すつかり醉拂つて仕舞つてゐる。冷めた頭の「お笑い芸人」であれば、例へばかう「突込む」べきだつた。「僕達のように憲法九条を守ろうと決意した人間が殺されるのは仕方ないけれど、そうでない人たちにまで『殺される覚悟』を求めるのは酷だし、傲慢ではないでしょうか」。さう云ふ平和主義の根幹にかかはる問ひが皆無の本書は、「稀に見る熱い対論」(カバー見返しの文章)どころか、ぬるいだけの仲良し對談であり、戰爭と平和を考へる上で裨益するところは何もない。
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