2008年3月 1日 (土)

軍隊と防衞

喜六郎氏は案の定、ヘタマゴ問題について反論できず、次の話題に轉じたやうである。一つの問題についてじつくり議論する能力がないからと云つて、次から次へと話題を變へないで貰ひたいものだ。

国家・政府の強制が没道徳的で駄目だというのであれば、「脱走兵の自由」を認めるという中途半端な主張ではなく、「軍隊の廃止」を主張するのが筋であろう。/なぜ木村氏はそれを主張しないのか?

なぜ? 以前からそれを書かう書かうとしてゐるのだが、喜六郎氏が「後付け」だの「ヘタマゴ」だので因縁をつけてくるものだから、それに對應せざるを得ず、なかなか前に進まないのである。他人をさんざん引張り囘しておいて「なぜ主張しないのか」もないものだ。

人間は自らを守る爲に武裝し反撃する權利がある。しかしそれを國家に代行して貰ふ理由はない。むしろ掛替へのない自分だからこそ、その防衞を政治家と官僚の牛耳る國家などに任せず、個人の意思と權利を直接反映し得る道を探るべきなのだ。公的年金の慘状は良き反面教師である。私は立派な自衞官や元自衞官を個人的に存じ上げてゐるが、社會保險廳にも立派な人はきつとゐるだらう。にもかかはらず年金問題は起こつたのである。

國軍の廢絶は防衞の廢絶とイコールではない。しかしこの問題はとても短い文章で書ききれるものではない。眠いので寢る。後日期待されたし。

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2008年2月21日 (木)

書いてゐますが…

前囘の記事に對し喜六郎氏より反論があつた。私が「政治と道徳とは別物であると同時に、分かちがたく結びついてゐる」と書いた事に對し、次のやうに「突っ込みを入れて」くれてゐる。

これは後付けだね。 こういう事はもっと前から言っておくべきだった。今ごろになって姑息に軌道修正するのはみっともないと思う。後からだったら何とでも言える。

「もっと前から言っておくべきだった」……? それなら例へば二年も前に書いたこの文章は何なのだ。

政治と道徳は究極的に分け得ない部分も殘ると思ひますが、まづ分けて考へない事には、分け得ない部分も理解出來ないでせう。

それから、三年前に書いたこれ

人間は政治的動物であるから、宗教も政治的役割を負はざるを得ない場合がある。しかし人間は道徳的存在でもあるから、宗教は道徳的役割をも負ふべきである。そしてソフォクレスの悲劇「アンティゴネー」が示すやうに、政治と道徳とは對立する局面がある。
(註)「政治と道徳とは對立する局面がある」と書いた以上、「對立しない局面もある」と云ふ事を私は認めてゐる譯である。どう考へても。

もう一つ、松原正先生の講演の紹介から。

イエスは「神の物は神へ、カイザルの物はカイザルへ」と述べ、カイザルの物(政治)以外に神の物(信仰・道徳等)が存在する事を強調した。神の物とカイザルの物との對立は容易に解決出來ないが、一方に偏せず、雙方に關はつて生きるのが全うな人間なのだ。

いづれの文章も、政治と道徳が「別物であると同時に、分かちがたく結びついてゐる」事を前提に書いてゐる、
いやいや、事實上同じ意味の事を書いてゐるとしか讀めないと思ふのだが。

自由主義者の私としては、誰もが自由に物を書ける日本は本當に良い國だと思ふが、他人のブログをろくに讀みもせずにテキトーな事を書くのは出來ればやめて貰ひたいなあと感じたりする今日この頃である。

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2008年2月19日 (火)

道徳は政治に先行する

政治と道徳とは別物であると同時に、分かちがたく結びついてゐる。だからこそ「アンティゴネー」の昔から、兩者が密接に關はり合ふ事象について、多くの議論が重ねられて來た。その典型が戰爭である。

どのやうな場合であれば、ある人間が他人に物理的暴力を振るふ事が道徳的に是認されるだらうか。それは他人から物理的暴力を振るはれた場合、あるいは正に振るはれさうになつた場合であらう。前者は報復であり、後者は自衞である。報復はさらなる暴力の行使を防ぐ效果があるから、結局は自衞に含めてよからう。要するに、他人への物理的暴力が道徳的に是認されるのは、自衞の場合に限られるのである。

さて私の親なり妻なり子なりがAと云ふ責任能力ある人間から虐殺されたとして、私が報復の爲に、自ら、或いは現實的には國家と云ふ代理人を通じ、Aを殺す事は、道徳的に是認されるべきか。當然是認されるべきであらう。しかしAと一緒にゐた無關係な群衆まで機關銃で撃ち殺して仕舞つたとしたら、まづ許されないだらう。たとへ群衆がAと同じ國籍を有し、同じ言語を話し、同じ宗教を信仰し、あまつさへ私に對して罵詈雜言を浴びせてゐたとしても。

國家が互ひの國民を總動員して行ふ闘爭、すなはち戰爭は、個人をこのやうな反道徳的行爲に追ひやる危險を常に孕んでゐる。とりわけ我が國もかかはる「對テロ戰爭」のやうに、他國にわざわざ出掛けて行つてやらかす戰爭となると、無關係な者を殺すと云ふ反道徳行爲を犯す恐れは格段に大きくなる。

かうした考へ方は感傷に過ぎないのだらうか。戰爭は冷徹な政治の領域に屬する事柄なのだから、「無關係な者を殺す事は惡である」と云ふやうな甘つちよろい道徳を持ち出すのは筋違ひなのだらうか。

さうは思はない。道徳は政治と同格ではなく、政治に先行する領域である。從つて政治的行爲の是非も、究極的には道徳によつて判斷されるべきなのだ。

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2008年1月18日 (金)

脱走兵の自由

戰爭が道徳的であるための條件は何だらうか。幾つかあると思はれるが、まづ自由意思との關はりについて考へてみよう。

ある行爲を道徳的と呼ぶには、自由意思に基づいて爲される必要がある。

強制されて行ふ行爲が道徳的であるかのやうに見える場合はある。そのやうな行爲も社會を維持する上でそれなりの意義はあるかも知れないが、眞の意味で道徳的であると云ふことは出來ない。例へば、何の罪もないのに拳銃で脅されて仕方なく金を出し、それが結果的に恵まれぬ人に寄附されたとしても、金を出した人間が自らの意思で行つたのでない以上、眞に道徳的な行爲とは云へない(この譬へを敷衍すれば、嫌々拂つた税金で結果的に困つた人を助けても道徳的とは云へない。つまり大半の場合、税とは沒道徳的な制度なのである。閑話休題)。

さて、この理屈を戰爭に當嵌めるとどうなるであらうか。敵と云ふ名の人間を殺すことが道徳的であるかと云ふ問題はひとまづ措くとして、少なくとも國家や上官から暴力で脅されて戰地に赴いたり敵を殺したりしても道徳的とは呼べないと云ふことになる。いつでも戰場から自分の意思で離脱できると云ふ環境があり、それでもなほかつ自らの意思で戰鬪に參加して初めて、道徳的である爲の條件の一つを滿たすことになるのである。

つまり、脱走兵となる自由を認める戰爭でなければ、道徳的とはなり得ないのである。

無論、さう云ふ自由を認める軍隊が勝てるかどうかは分からない。だが人間が道徳的になり得るかどうかと云ふ話と、戰爭に勝てるか勝てないかと云ふ話は、そもそも別物なのである。

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2007年12月28日 (金)

集團自決と左右の淺薄なる人間觀

沖繩戰集團自決の歴史教科書への記述に關する問題がひとまづ決着したやうである。今囘の騒動で、「左」の人々は「日本軍の強制があつた」と云ふ記述を削るのは怪しからぬと云ひ、「右」の人々は記述削除は當然だと主張した。どちらに軍配を上げるべきかを判斷する歴史的智識を私は持ち合はせないが、改めて痛感したのは、本來學問的に追究すべき事柄に對し、ひとたび國家が介入すると、何とも愚劣で醜惡な事態に陷ると云ふ事である。それに氣づかぬ限り、右も左も國家主義者と云ふ同じ穴の狢に過ぎない。

沖繩の集團自決がすべて強制によるものであつたと主張する「左」の意見に私は勿論與しない。しかしだからと云つて、自決者全員が自らの正義に對する絶對の自信を抱いて死んだと云はんばかりの「右」の主張にも全く同意できない。どちらも人間に對する無智に基づく一面的な見方でしかないからである。人間とは、生命を賭しても正義に殉じようと意を決した次の瞬間、血腥い大義なんぞとは無縁の場所で平和に暮らしたいと願ふものである。あまりにも當たり前の事だが、自決した沖繩住民の多くも、出來れば生きてゐたいと望んだに違ひない。

そして實のところ、アメリカ兵もさうだつたに違ひない。ヨーロッパ戰線での話だが、記者から「いまアメリカからいちばん送つてほしいものは何?」と聞かれた兵士の一人はかう答へたと云ふ。

ちよつと言つておきたいことがある。ここはもう、笑ひ事ぢやなく大變なんだと、ホットドッグやらベイクトビーンズやらがなつかしいなんて言つてられないんだとぐらゐは傳へてくれ。毎分毎分、兵隊が死んだり負傷していくんだ。慘めで、苦しくて、痛いんだと傳へてくれ。そちらでは絶對わからないくらゐ、笑ひ事ぢやないんだと傳へてくれ……(ポール・ファッセル『誰にも書けなかつた戰爭の現實』445頁)

ここまでしやべつたところで、兵士の喉から嗚咽が漏れた。そして彼は更に、聞き取りにくい、苛立つた聲でかう續けたと云ふ。「死ぬほど辛いつて、すごく辛いつて、傳へてくれ。笑ひ事ぢやない辛さだつて。それだけ。それだけだ」

アメリカ兵は「鬼畜米英」。さう教へられ、信じ、だから自決を選んだ沖繩住民は少なくなかつた筈である。だがアメリカ兵も「慘めで、苦しくて、痛い」と感じ、「死ぬほど辛い」と涙する人間だつたのである。私は平和主義者ではないが、なぜかくも多くの命が失はれなければならなかつたのかと考へる時、やはり暗然とならざるを得ない。

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2007年11月11日 (日)

戰爭・アメリカ・文明

 戰爭について最近いろいろ考へてゐるのだが、きちんと書く時間がないので、本の紹介だけしておきたい。いづれも飜譯書。著者のうち、S・ハワーワスとW・H・ウィリモンはアメリカのデューク大學神學部教授、クリス・ヘッジズはハーヴァード大學神學部出身の戰場ジャーナリスト、そしてルートヴィヒ・フォン・ミーゼスはナチスを避けアメリカに渡つたオーストリア出身の經濟學者である。

 それにしても言へることは、ベトナム戰爭は、ただ一國の愚かさやひとつの失敗と云ふのではなく、むしろ、最も心の深いところに抱いてゐたアメリカ人の自己過信に由來してゐると云ふことである。わたしたちは、どこかで、世界がうまくいくやうに考へ、物事を正しく整へ、民主主義や自由をいたるところに擴めたいと考へてゐる。また、アメリカは他の國々とは違つてゐることを眞劍に信じようとしてゐる[略]。わたしたちは、利己心によつて行動したのではなく、理想によつてさうしたと信じたいのである。(S・ハワーワス、W・H・ウィリモン『旅する神の民』、211-212頁)
 戰爭にまつはる魅力は決して失はれることがない。破壞と大殺戮がともなふが、生涯かけても手に入らなかつたものを、簡單に投げ與へてくれるからだ。それは生きる目的、意味、生きる理由である。[略]戰爭こそは魅惑の萬能藥。決斷とか大義とかを意識させてくれるのが戰爭だ。(クリス・ヘッジズ『戰爭の甘い誘惑』、16頁)
 戰爭と征服が過去に於て最も重要だつたこと[略]を、敢へて否定する經濟學者はだれ一人なかつた。人類の現状決定要因の一つは、數千年の武力鬪爭があつたといふ事實である。しかし、現在にもなほ殘つてゐるもの、人類文明の本質であるものは、軍人から受け繼いだ遺産ではない。文明は「ブルジョア」精神の業績であつて、征服精神の業績ではない。掠奪を捨てて勞働を選ばなかつた野蠻人たちは、歴史の舞臺から姿を消した。(ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス『ヒューマン・アクション』、657-658頁)

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2007年10月 2日 (火)

日本人の「品格」

 横綱朝青龍が巡業を休んでサッカーに興じてゐた事が露顯した時、世間は「横綱としての品格に缺ける」「詰まるところは文化の違ひ」などと指彈した。成る程、朝青龍と云ふモンゴル人横綱に日本的な「品格」があるかどうかは意見の分かれるところだらう。しかしどう考へても、新弟子によつてたかつて暴力を揮ひ、擧句の果てに殺して仕舞ふやうな日本人力士や日本人親方の「品格」の方が立派であるとは云へまい。

 時津風部屋での今囘の事件を聞いて、私は舊軍の新兵いぢめの話を聯想した。新兵いぢめと云ふものはどの國にもあるのだらうが、日本の軍隊でのいぢめが實に陰濕であつた事は、誇張はあるにせよ、多くの戰爭文學にも克明に描かれてゐる。戰後は軍隊が絶對的に否定された時代だつたから、「軍隊でのいぢめは陰濕だつた」などと云ふ話も虚實取混ぜて嫌と云ふほど聞かされたわけだが、最近は寧ろ、軍隊をやたらと美化する風潮が目についてならない。云ふまでもない事だが、軍人も人間である。人間である以上、美徳と同時に惡徳も間違ひなく持合はせてゐる。そして私や讀者諸子と同樣、日本人獨特の嫌らしい面も持合はせてゐるだらう。その點において、新弟子を嬲つた力士も親方も、新兵をいぢめた舊軍の上官も兵士も、變はるところはない。

 忘れ去られてゐた栗林忠道や硫黄島戰が關心を集めるのは結構な事だが、それが「やはり日本人は偉い」「日本人の品格は外人とは違ふ」と云つた夜郎自大の議論につながらぬとは限らないし、現につながりつつあると思ふ。幸ひにして、『常に諸子の先頭に在り』の著者、留守晴夫教授はそのやうな安易な日本人禮讚とは正反對の主張をお持ちの方である。是非その著作に触れ、出來るなら講話も聽いて戴きたいと思ふ。

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2007年8月16日 (木)

反戰の條件

 毎年恆例ながら、あちこちのテレヴィで戰爭についての討論番組をやつてゐる。今夜のNHKでは一般市民が口角泡を飛ばして「憲法九條を守れ」「變へろ」と論じ合つてゐた。

 私は必ずも反戰と云ふ選擇を否定しない。それどころか、首尾一貫した思想が背後にあるのであれば、反戰を積極的に支持したいとすら考へてゐる。これはいつかきちんと論じなければならないが、松原正氏は「戰爭は無くならない」とは書いたが、決して「戰爭をやるべきだ」とは主張してゐない。萬々が一、反戰主義者が松原氏の著作を手に取る事があるとして、そこから學ぶべきなのは、もしも本氣で戰爭を無くしたい、減らしたいと思ふのならば、時として戰爭を熱狂的に望む人間の本質を知らなければならないと云ふ事である。

 ある人間が個人的に憎んでもゐない別の人間を殺す。ジョージ・オーウェルが書いたやうに、それはやはりおぞましい事なのだ。だから私は「國益」の爲には自衞隊を海外にどんどん送れだの、日本でも徴兵制を敷けだのと云つた主張には全く同意出來ない。左翼のやうな事を云つて恐縮だが、威勢の良い事ばかり云つてゐる我が同胞は、戰爭とは人間を殺す事なのだと云ふ基本的事實をもつと認識すべきである。

 テレヴィの騷がしいだけの討論番組を見てゐて私が不滿なのは、さうした番組では決して「戰爭はなぜ起こるか」と云ふ本質について論じないからである。ある事象を無くしたいと思ふのならば、まづその原因を究明しなければならない。ところがテレヴィに出て來る一般市民だけでなく、知識人も、決して戰爭の本質的原因を本格的に論ずる事が無い。なぜか。論ずれば論ずるほど、戰爭を無くすと云ふ事がどれだけ絶望的かが明らかになつて仕舞ふからだ。司會者が最後に「本日の議論の結果、戰爭は無くならないと云ふ事が分りました」では、視聽者を暗い氣持ちにさせるばかりであらう。それでは視聽者第一主義であるテレヴィ局として甚だまづい。

 戰爭を無くしたいのなら、理性を働かせ、論理を突き詰め、歴史の教訓を學び、考へ拔くべきである。さうすれば、戰爭を無くす事が不可能だと云ふ事が分かるかも知れない。さうしたら再び理性の力で次善の策を講ずるべきなのだ。

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2007年6月 3日 (日)

憲法九條を殘す道

 先日、太田光・中沢新一『憲法九条を世界遺産に』をこき下したが、私は九條を殘す事に必ずしも反對しない。但し條件がある。政府による軍備や戰爭を禁ずる代りに、個人による武裝や武器使用を認める事である。

 政府が個人に成り代はつて防衞の權利を行使する事を認めないのであれば、個人にその權利を直接保持させなければ筋が通らない。九條は「國權の發動たる戰爭[中略]は、永久にこれを放棄する」と述べてゐるだけで、「人權の發動たる自衞」の放棄を求めてはゐない。いや、生命身體の自衞こそは最も基本的な人權であるから、憲法と雖もその放棄を命ずる事は出來ない。要するに、憲法九條を殘したままで自衞の權利を政府から個人に移す事は理窟の上では可能だし、寧ろその方が九條の“理念”に近いと云ひたいのである。

 勿論、權利の保持と行使は別物であるから、中沢新一のやうな平和主義者は權利を行使しなくても構はない。丸腰のまま慫慂として自らの信念を貫いたならば、皮肉でも何でもなく、私は心から尊敬する事だらう。一方、太田光は九條擁護を主張しつつも、もし自分の家族が殺されたら殺した敵兵と敵國の指導者の二人を必ず殺すと述べてゐる。丸腰では無理だが、もし武裝の權利が個人に移管されてゐれば、實現可能性は高まるだらう。

 個人と云つても、一人よりも複數で集まつた方が自衞には好都合だから、武裝した自警團のやうなものがあちこちに出來るかも知れない。いやいや、素人が武裝するよりはプロに任せた方が良いと云ふ事になるかも知れない。防衞權が個人に移管された日本で自衞隊は解散してゐるが、優秀な元自衞官たちの作つた「防衞NPO」や「防衞會社」は引張りだこになる事だらう。事實上の自衞隊民營化である。

 國防が民營可能か否かは、リバタリアンと呼ばれる自由絶對主義者の間でさへ議論が分れてゐるから、ここで輕々に結論を出すのは控へよう。しかし自衞權移管論は、自衞權を政府にも個人にも認めない丸腰主義に比べれば遙かに人間の本性に即してゐるし、論理的整合性を有してもゐるのである。

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2007年5月 1日 (火)

神としての憲法九條

 人間がある信念を奉ずる事は自由である。しかしその信念は飽く迄も個人として貫くべきであり、他人に政治的に強制してはならない。日本國憲法九條に基づく平和主義を道徳的信念、いや宗教的信念として鼓吹する『憲法九条を世界遺産に』(集英社新書)の二人の著者のうち、中沢新一はさうした道理に全く氣附いてゐないか氣附かない振りをしてゐる。太田光は多少氣附いてゐるがそれ以上考へる努力を抛棄してゐる。

 己の個人的信念の爲に他人が死んでもよいと云ふ主張ほど道徳的におぞましいものはない。端的なのは中沢の次の發言である。

 中沢 [略]日本が軍隊を持とうが持つまいが、いやおうなく戦争に巻き込まれていく状態はあると思います。平和憲法護持と言っていた人たちが、その現実をどう受け入れるのか。そのとき、多少どころか、かなりの犠牲が発生するかもしれない。普通では実現できないものを守ろうとしたり、考えたり、そのとおりに生きようとすると、必ず犠牲が伴います。僕は、その犠牲を受け入れたいと思います。覚悟を持って、価値というものを守りたいと思う。(146-147頁)

 「僕は、その犠牲を受け入れたいと思います」と中沢はさも神妙さうに語る。だが中沢自身、「多少どころか、かなりの犠牲が発生するかもしれない」と述べてゐるやうに、その「犠牲」は中沢個人に留まらない。中沢をはじめとする平和主義者が憲法九條の護持に成功し、その結果、彼らが敵國に攻撃されるがままに死んでゆくとしても、それは正しく「覚悟」の上なのだからやむを得ない。しかし爆彈は人間の政治的信條を區別して落ちてはくれない。戰爭になれば、九條護持に反對した日本人やその子供らも殺されてゆくのは必至だが、それについて中沢はどう考へるのか。

 上の引用部分で、中沢は「かなりの犠牲」を「受け入れたい」とはつきり語つてゐて、これは字義通りには「自分の信念の結果、他人が卷添へになつて死んでも仕方ない」と云ふ意味にしか取れない。これではオウム眞理教と同じである。かつて麻原彰晃を賞賛した中沢だけに、これが正しい解釋なのかも知れないが、幾ら何でも非人間的な主張だから、本意は異なると信じたい。だが滿足すべき囘答は、この本のどこにも見當たらない。それどころか中沢は「憲法九条は修道院みたいなもの」(75頁)だとか、「北朝鮮が日本人を拉致した。こんな国家的暴力にどう対処するんだと憲法に問いかけても、憲法は沈黙するばかりです。いつだって神々は沈黙するんですよ」(79頁)だとか、文字通り神がかつた發言を繰返すばかりで、何だか背筋が寒くなる。

 相手方の太田も「日本国憲法の誕生というのは、あの血塗られた時代に人類が行った一つの奇蹟」(56頁)などと、すつかり醉拂つて仕舞つてゐる。冷めた頭の「お笑い芸人」であれば、例へばかう「突込む」べきだつた。「僕達のように憲法九条を守ろうと決意した人間が殺されるのは仕方ないけれど、そうでない人たちにまで『殺される覚悟』を求めるのは酷だし、傲慢ではないでしょうか」。さう云ふ平和主義の根幹にかかはる問ひが皆無の本書は、「稀に見る熱い対論」(カバー見返しの文章)どころか、ぬるいだけの仲良し對談であり、戰爭と平和を考へる上で裨益するところは何もない。

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2007年4月 6日 (金)

戰爭・平和・英雄

史上最悪のプロジェクトに挑む~硫黄島決戦と栗林中将から学ぶ・その1

「唯一可能な方法」を合理精神で追及~硫黄島決戦と栗林中将から学ぶ・その2

過去の教義を捨て、新戦術を編み出す~史上最悪のプロジェクトに挑む・その3

 「近代科學を生み出した西洋の思想的・文化的基盤の本質」は西欧のあらゆる領域に浸透しており、太平洋戦争や硫黄島における米軍の活動にも同一の本質が伺える。というより、戦争という一大プロジェクトにおいて、思想的・文化的基盤の本質が色濃く出る。一方、日本には同一の基盤は当時も今もない。「都合の良い各分野を個々別々に撮(つま)み食ひ」して戦争に臨んだが、米国に完膚なきまで叩かれた。61年後の今、日本は米国と戦争をせずに済んでいるが、経済や技術の領域では激しい競争を繰り広げている。しかし、「豊かになつた今も、本格的な近代化を沮(はば)む宿命的な要因が残存」したままである。玉砕したとはいえ、栗林中将と硫黄島守備隊は、米軍と互角に渡り合った。最悪の状態でなぜそのようなことができたのか。その本質を考えてみることが戦死者2万人への供養と思う。

 是非御一讀を。ところで法哲學者の森村進は「戦争は民間人を含む多くの人にとって、平和時には不可能なような英雄的行為をなしとげる機会を提供し、そして現実になしとげる人もいる」(『自由はどこまで可能か』)と書いてゐる。これは正しい。栗林中將はそのやうな「英雄的行為」を見事に實行した人である。だが森村は直後に續けて「だからといってそのことは、平和よりも戦争を選ぶ理由にはならない」とも指摘する。これも正しい。

 これら二つの正しい指摘の關係について深く考へて行く事が、自分の課題の一つだと思つてゐる。

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2007年1月20日 (土)

『憲法九条を世界遺産に』

 太田光・中沢新一『憲法九条を世界遺産に』(集英社新書)の惡口を書かうと思つて拾ひ讀みしてみたら、太田が良い事を云つてゐた。


 太田 『国家の品格』(藤原正彦・新潮新書)を読むと、今の日本人は昔の日本人が持っていた美しい武士道精神を失いつつあると書いてあります。でも、そういうことは昔から言われていることなんですよね。僕は司馬遼太郎が好きでよく読んだんですが、『竜馬がゆく』は、江戸末期のころの幕府の侍たちは、長い鎖国の中でみんな平和ボケしていて、昔の武士道精神を失ってしまっていたというニュアンスで書かれています。そこから、坂本竜馬や高杉晋作のような、骨のある武士道を持った人間が下から出てきて明治維新を起こした。/坂本竜馬や高杉晋作は、武士道を完遂した人たちだと思うんですが、じゃあ江戸時代の日本人が武士道を崇高なものだと思っていたかというと、それは違う気がします。あの時代のほとんどの日本人は、武士道というものをちょっと茶化して考えていた印象が、僕にはあるんです。[中略]昔から日本には武士道もあったけれど、落語の文化も一緒に持っていて、うまくバランスを取ってきたんじゃないかと。日本人がこれは正義だと信じる美しい武士道精神がある一方で、「いや、ちょっと待てよ」とそれを茶化す文化も同時にあったわけです。武士道の危うさを茶化して薄める芸というか、僕がやらなければならないのは、そこかなと思っているんです。

 また、『国家の品格』についてかうも發言してゐる。

 太田 ホリエモンみたいな人間はかつていなかったと決めつけているのも、ひっかかります。そんなことはないですよ。古典落語に『千両みかん』というネタがあります。[中略]こんな落語が古典として残っているということは、江戸時代にもホリエモンはいたということです。

 太田の主張の全てに同意出來るとは思はないが、少なくとも上の引用部分については、太田は借物でない自分の頭で物を考へ、『国家の品格』の杜撰を見事に批判してゐる。讀了後に改めて感想を書く事にしよう。

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2006年6月13日 (火)

W杯放送を中止せよ

日頃ナショナリズムや愛國心を必要以上と思はれるほど警戒する一部のマスコミが、ワールドカップとかオリンピックとかになつた途端、ナショナリズム丸出し・愛國心萬歳の報道をやらかして平氣なのはどう云ふ譯だらう。本氣でナショナリズムや愛國心を危險だと思つてゐるのなら、W杯や五輪の期間中、ナショナリズムを徒に刺激しかねない國際試合を一切報じるべきではなからう。或いはせめてもの事、日本の試合だけは報じないくらゐの見識はあつてしかるべきだ。と云ふのは不可能を承知の上での冗談だが。

外國チームで活躍する日本人撰手、日本で活躍する外國人撰手は年々増えてゐて、一見スポーツには國境が無くなつたやうな樣相を呈してゐるが、ひとたび「國對國」の戰ひになれば、我々はなほ「頑張れニッポン」と熱狂する。男だけでなく、女も。

戰爭はスポーツではないが、似た側面もある。私は反戰論者ではないが、戰爭が厄介な一面を持つ事を否定しない。戰爭は人間がやる事であり、人間は厄介な存在だからだ。

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2006年4月22日 (土)

青臭いぞ私は

 内田樹・小田嶋隆・平川克美・町山智浩『9条どうでしょう』(毎日新聞社)を迷つた末買ふ。まだ斜め讀みしかしてゐないが、内田樹の「憲法がこのままで何か問題でも?」の中にこんな件がある。 

 ときには人を殺さなければならない場合があることは事実である。しかし、そのことと「人を殺してもよい条件を確定する」ことのあいだには千里の逕庭がある。/殺人について私たちが知っているのは、「人を殺さなければならない場合がある」という事実と「人を殺してはならない」という禁令が同時に存在しているということである。そして、その二つの両立不可能の要請の間に「引き裂かれてあること」が人間の悲劇的宿命であるということである。/矛盾した二つの要請のあいだでふらふらしているのは気分が悪いから、どちらかに片づけてすっきりしたい、話を単純にしてくれないとわからないと彼らは言う。/それは「子ども」の主張である。「武装国家」か「非武裝中立国家」かの二者択一しかないというのは「子ども」の論理である。ものごとが単純で氣持が悪いというのは「子ども」の生理である。/「大人」はそういうことを言わない。

 引用した文章の後で、「外交の要諦は『バクチ』をすることではない。国益を損なうリスクをできる限り排除することである」と述べてゐる事からも分かるやうに、内田氏は自分が現實主義者(大人)だと云ひたいらしい。日本國憲法を戴く日本は世界から見れば「変わった国」かもしれないが、「世界史上でも例外と言えるほどの平和と繁榮」を維持する爲には、「普通の国」なんぞでなく、これまで通り「変わった国であるほかない」し、「この病態を選んだ先人の賢明さを多としたいと思う」とすら言ひ切る。護憲派は空想的平和主義者だと揶揄されがちだが、實は「リアル」な世界と「国益」を見据ゑた現實主義者(大人)なのであつて、現實派ぶる改憲派こそ世間知らずの非現實派(子ども)なのだ、と印象附けようとしてゐる。だが「過去さうだつたから今後も同樣の方針が正しい」とは決して云へない。要するに内田氏は戰前の神懸かり的な國粹主義者と同じで、日本は特別な國でなければならぬと根據も無く述べてゐるに過ぎない。危險極まる。因みに私は改憲派でも護憲派でもない「現憲法無效論者」だが、それに就いては後日論じたい。

 さて内田氏に限らず、「大人」と云ふ言葉が殺し文句になると信ずる言論人が右派左派ノンポリを問はず存在する。例へば或る文藝評論家は己が師匠に就いて「子供だからな」と論評したさうだが、つくづく愚かしいと思ふ。「大人」である事がそんなに偉いのか。若しガリレオが「大人」だつたなら世間を騷がすやうな地動説なんぞ唱へなかつただらうし、若しモーツァルトが「大人」だったなら聽衆が困惑するやうな「ピアノ協奏曲ニ短調」なんぞ書きはしなかつただらう。若し人間が皆「大人」だつたなら、文學も藝術も科學も存在せず、それらを飯の種にする評論家と云ふ職業なんぞ抑も生れやうが無かつただらう。

 内田樹から見れば、大昔から「平和と繁榮」なんぞそつちのけで戰爭ばかりやらかして來た歐米の人間は幼稚極まる「子ども」なのだらうが、その歐米人は正義だとか眞理だとか云ふ青臭い事柄を人一倍氣に懸ける連中で、それゆゑ多くの戰爭をやらかし、同時に多くの優れた哲學者や文學者や科學者を生んだ。若し歐米人が皆現實主義の「大人」だつたとすれば、内田氏がフランス哲學で飯を食ふ事も出來なかつたのである。内田氏の主たる研究対象であるレヴィナスが平和主義者だとしても同じである。戰爭が無ければ平和主義者が注目される事は無いからだ。さらに云へば、歐米諸國は「平和」は兔も角、日本に劣らぬ「繁榮」を享受してゐるのである。内田氏よ、不思議ではないか。

 自分で云ふのも何だが、私は大變大人しい性格である。それだからこそ鍵括弧附の「大人」なんぞ糞喰らへだと思ふ。青臭いぞ私は。

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2005年6月29日 (水)

美輪明宏氏の新刊

 岩波書店の「圖書」を眺めてゐたら、美輪明宏『戰爭と平和 愛のメッセージ』の廣告。

 「正義の戰爭なんて、ありやせんのですよ」 戰中・戰後を經驗し、時代の變化と不變の眞理を見据えてきた著者が、不穩な雰圍氣を増す現代日本社會に警鐘を鳴らす。人類が平和に、よりよく生きるために必要なのは、眞の教養、文化、そして愛――。心に染みる言葉の數々を、美しい裝ひの本でお屆けします。

 美輪氏はしばらく前、産經新聞の「心の肖像畫」で國語問題について全うな意見を述べてゐたが、この廣告文を讀んで忽ち幻滅。もしも美輪氏に自衞戰爭をも否定する論理的一貫性があるのなら別だが、十中八九さうではないだらう。確かに正義は相對的だが、人間誰しも正義が己に存すると信じずにはゐられない。美輪氏の「正義の戰爭なんて、ありやせん」と云ふ主張自體、一つの「正義」に基づいてゐるではないか。愚かなハリウッド俳優連の例を引くまでもなく、藝人は政治的發言をすべきでない。ファンを幻滅させたくなければ。

 輕薄化の進む岩波文庫の七月新刊に村井弦斎『食道樂(上)』(緑帶)と云ふのが入つてゐるが、どうせまたぞろ新字新假名なのだらう。美輪氏は知つてか知らずか。

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2005年6月24日 (金)

愛國心とは道理も無きこと

 愛郷心 愛國心とは妙なものにて道理もなきことなれど 能くもこの日本といふやうな結構な國に生れたと思ふこと度々あり 何故日本がよきとも思はざれども 赤髯よりは緑髮の方が何となくよき心地するなり また小さくいへばよく伊豫松山といふやうなよき處に生れ よく我内に生れ よくも我親の子となり 能くも我身に生れたるよと思ふことあり 勿論理屈上よりいへば最少し金滿家に生れ 最少し才智ある者に生れたらばと思ふことなきにあらねど 感情の上にてはやはり我身を愛し 我故郷を愛し 我親を愛すること奇妙なり 多くの人も皆かかる感情あらんと思はる

 正岡子規の言葉。岩波文庫『筆まかせ 抄』(39頁)より。

 守るに價する國だから守るのではない。故國だから守る、それだけの事である。

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2005年1月11日 (火)

米CBS、大統領の軍歴疑惑報道で幹部4人を解雇

 【ニューヨーク=篠原洋一】ブッシュ米大統領の軍歴疑惑報道に誤りがあつたとして米CBSテレビが強い批判を浴びてゐる問題で、CBSは10日、この報道に關與したプロデューサーなど幹部4人を解雇したことを明らかにした。この問題の背景を調べてゐた第三者委員會は同日、「過熱した特ダネ競爭が誤りを引き起こした」とする調査報告書を公表した。 /問題の報道はブッシュ大統領のベトナム戰爭時の軍歴疑惑が大統領選の爭點に浮上してゐた昨年9月に放映されたが、CBSはその後、内容に誤りがあつたとの聲明を出す事態になつてゐた。調査報告書は「報道の根據となる資料が本物か確認することを怠つた」と斷じた。その背後には一刻も早く報道しないと他局に負けるとの意識があつたと分析してゐる。/この問題を番組でリポートしたCBSの看板キャスター、ダン・ラザー氏は今年3月に降板する意向を表明してゐる。 http://www.nikkei.co.jp/news/main/20050111AT2M1100L11012005.html

 CBSの尻馬に乘つてブッシュ大統領を攻撃した日本のキャスターや評論家は、どうするのだらう。裏を取らないと後で困りますよと云ふお話。

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2004年11月16日 (火)

新國務長官にライス女史

 アメリカの新國務長官にライス大統領補佐官。
http://www.drudgereport.com/
http://abcnews.go.com/US/story?id=254647

 ライス補佐官が以前書いた文書より。

 共和黨政權の外交政策は間違ひなく國際主義的なものになる。共和黨の有力な大統領候補者たちの國際主義者としての實績は申し分ない。だがわれわれの國際主義は、幻想に過ぎない國際社會の利益ではなく、米國の國益といふ確固たる基盤から導きだされるものでなければならない。米國は横柄になることなく權力を行使し、他國を犠牲にしたり亂暴な態度に訴へることなく、國益を摸索するだらう。米國の中核的な價値を共有する國々と協調しつつ、權力を行使し國益を摸索すれば、世界はより繁榮し、平和で民主的になる。これこそ過去において米國に課せられた特別な役割だつたわけだし、二一世紀に向けて、再びわれわれはその責務を擔はなければならない。 (ロナルド・A・モース編著『「無條件勝利」のアメリカと日本の選擇』(時事通信社、二〇〇二年一月刊)

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2004年11月11日 (木)

プライドだけは一人前

 遲ればせながらブッシュ米大統領再選に關聨して。

 「アメリカのケツの穴を舐める」のは國辱物だと憤る平和主義者が多いのは不思議な事である。人間が他人の「ケツの穴を舐める」事を屈辱と感じ、それを強いる相手に抵抗しようとするからこそ、戰爭が起こるのである。平和主義を貫かうとするなら、嫌でも他人のケツの穴を舐める度量を養ふべきである。

 「アメリカのケツの穴を舐める」のは國辱物だと憤る國家主義者が多いのは不思議でない。しかし弱者たる日本はアメリカの「ケツの穴を舐め」なければ生きて行けない。國家主義者が日本滅亡に道を開くやうな主張をするのは矛盾である。

 左翼にも右翼にも、アジアと手を結べだのヨーロッパと組めだの主張する論客がゐるが、噴飯物である。アメリカのケツの穴は臭いが、アジアやヨーロッパのケツの穴は香しいとでも云ひたいのだらうか。アジアやヨーロッパは日本の都合に合はせて日本のケツの穴を喜んで舐めて呉れると信じてゐるのだらうか。

 弱者は常に強者に嫉妬し、強者を憎む。それは人間の性である。日本人もこの例に漏れぬどころか、軍事力がからきし無い癖にプライドや強者への憎惡だけは一人前である。身の程知らずの日本人はいづれアメリカと無謀な戰爭をやらかすかも知れない。戰爭は精神論だけでは勝てないと云ふ事をあれほど學んだにも拘はらず。

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2004年5月17日 (月)

日露戰爭勝利百年

「日露戦争勝利100年も忘れないで」 麻生総務相 - asahi.com : 政治

麻生総務相は15日、福岡県飯塚市での講演で「日本は(明治になった)1868年から37年で、帝政ロシアに戦争をやって勝った。来年は戦勝100年。(太平洋戦争の)敗戦60年の話ばかりする不思議な国だが、戦勝100年のことも忘れないで欲しい」と語った。  さらに「日露戦争勝利はここ500年ぐらいの間で有色人種が白人に勝った最初の例として、世界中の有色人種に勇気を与えた」とも述べた。

日露戰爭で「白人に勝った」その後どうなつたか。

 

「こんな顔をして、こんなに弱つてゐては、いくら日露戰爭に勝つて、一等國になつても駄目ですね。尤も建物を見ても、庭園を見ても、いづれも顔相応の所だが、――あなたは東京が始めてなら、まだ富士山を見たことがないでせう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれより外に自慢するは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあつたものなんだから仕方がない。我々が拵へたものぢやない」といつてまたにやにや笑つてゐる。三四郎は日露戰爭以降こんな人間に出逢ふとは思ひも寄らなかつた。どうも日本人ぢやないやうな氣がする。
 「しかしこれからは日本も段々発展するでせう」と辯護した。すると、かの男は、すましたもので、
 「亡びるね」といつた。(夏目漱石『三四郎』)

大東亜戰爭を思ひ出して本心でもない「反省」をして見せるのは愚かだが、日露戰爭に勝つた事を思ひ出して空景気をつけようとするのも同じくらゐ愚かである。

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2004年5月14日 (金)

客観的事實を傳へよ

毎日インタラクティブより。

MSN-Mainichi INTERACTIVE アフリカ・オセアニ
イラク人虐待:
米国防長官 延命へイラクを電撃訪問

この見出しでは、ラムズフェルド長官のイラク訪問は政治的「延命」が目的であると斷定してゐる。ところが、記事を最後まで読んでも、どこにもその根拠が書いてない。むしろ、見出しとは異なる説明しかない。例へば、
虐待事件の報告を受け、対応を協議したとみられる。

また、
「訪問が(虐待事件の)火消しだと思う人がいれば、それは誤り」と強調。

他の新聞ははるかに素直である。朝日は、次の通り。
ラムズフェルド国防長官、バクダッドを突然訪問 - asahi.com : 国際
ラムズフェルド国防長官、バクダッドを突然訪問

讀賣は次の通り。
YOMIURI ON-LINE / 国際
米国防長官らイラク電撃訪問、米兵激励と虐待調査で

毎日は事實の報道めかして主観的な願望を表明するな。願望を裏付ける事實があるならそれを明確に報じよ。

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2004年5月 5日 (水)

ソロスのブッシュ批判

 「論座」五月號はフォーリン・アフェアーズに掲載されたジョージ・ソロスの會見内容を卷頭に轉載し、表紙にも「ジョージ・ソロスのブッシュ批判」と見出しを掲げてゐる。ブッシュ大統領の惡口なら何でも歡迎する朝日新聞社の雜誌とは云へ、如何にも破格の扱ひである。成る程、國際的に知名度の高い投資家ソロスまでがブッシュ大統領を批判したとなれば、日本のサラリーマン讀者に與へる衝撃も大きいと計算しての編輯であらう。

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2004年4月30日 (金)

強者は辯明せず――「南京虐殺」問題

題名: 強者は辯明せず~南京虐殺論議に思ふ~

日時: 00/05/23 TO : dennohshotohki@egroups.co.jp

こんにちは、木村です。

「動向」今年五月號掲載の中村粲教授「屈辱外交からの脱出(下)」より。

私はあつたことはあつたとして認めるべきだと思ふのです。それは實は日本だけでなく、どこでもあるんです。捕虜の不法處斷といふことは、どこでもやつてゐるのですから、日本人もそれはあつたと認めていいと思ふのです。私はそのことは中國大使館に行つたときに言つたのです。私は特に捕虜の不法殺害とか虐殺はあつたと思ふ。しかしながら、無かつたことは無かつたと言ふほかはない。私はさういふ立場なのだといふことを向うにも言つたのです。

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