2008年6月 1日 (日)

「何用あつて月へ行く」論の限界

「何用あつて月へ行く、月は眺めるものである」。故山本夏彦氏の言葉である。アポロ計劃か何か知らないが、莫大な豫算を投じてまで月へ人間を送つて何をしようと云ふのか。月は近くで見れば岩石が轉がるばかりの曠野に過ぎぬ。遠くから美しい姿を眺めておいた方が遙かに心の糧になるではないか。花鳥風月を愛でる事を知つてゐた日本の古人はその點偉かつた――と云つた意味である。夏彦ファンの間ではよく知られた言葉であり、私自身、以前はその着眼に感心したものだ。今でも同意出來る點がないではない。しかし同時に、所詮は底の淺い考へだと思はずにはゐられない。そのゆゑんを以下綴る事とする。

昔、アメリカにウィルバー、オーヴィルと云ふ名の兄弟がゐた。二人は牧師の子で自轉車屋を營んでゐたが、夢があつた。空を飛ぶ夢である。收入の殆どを夢の實現につぎ込み、「妻と飛行機の兩方は養へない」との理由でそろつて生涯獨身を貫いた。グライダーで何度も實驗を繰り返し、やうやく有人飛行に成功したが、その後の飛行で墜落し、オーヴィルは負傷、同乘者は死亡すると云ふ悲劇に見舞はれた。それでも諦めず、會社を興して性能向上に打込み、飛行機が兄弟の發明であると云ふ特許を勝ち取る。兄弟の姓をライトと云つた。

當初、ライト兄弟の企てはそれこそ夢物語だと嗤はれた。「機械が空を飛ぶことは不可能」と決めつける科學者すらあつた。しかし天を舞ひたいと願つた兄弟の不屈の精神はつひに實を結び、航空機の輝かしい發展に道を拓いたのである。現代に生きる我々は皆ライト兄弟の恩恵を被つてゐると云へる。飛行機に乘つた事のない者でも、空路の發展による經濟的利便を間接的に享受してゐるからだ。ライト兄弟が當時は荒唐無稽とされた夢を抱いてゐなければ、旅客機も戰鬪機も生れなかつた。

さて、「何用あつて月へ行く」と書いた山本夏彦氏がもしもライト兄弟と同時代に生きてゐたら、かう云つた事だらう。「何用あつて空を飛ぶ、空は眺めるものである」。たしかに青空は眺めてゐるだけで十分美しい。だが眺めてゐるだけでは飛行機は決して發明されない。空を飛んでやらうなどと醉狂で不遜で青臭い冒險心を抱く人間がゐなければ、飛行機に限らず、文明に進歩は無いのである。

西洋には昔から、そのやうな大それた夢を抱く人間達がゐた。そして彼らは不敬への戒めとなると同時に、英雄として稱へられた。神から火を盜んだプロメテウス。蝋で固めた翼で太陽を目指し墜落したイカロス。冒險心こそ西洋精神であるとさへ云へよう。何用あつて空を飛ぶ? 大きなお世話だ。飛びたいから飛ぶのだ。その冒險心は近現代に受け繼がれ、蒸氣機關の發明による産業革命を齎し、コンピューターの爆發的な發展につながつた。

西洋の自然科學にせよ藝術作品にせよ資本主義にせよ、その根柢に存在するのはこの不敵な冒險心である。權威や前例にとらはれず、己の頭腦と才能のみを信ずる自由な精神である。家柄門地にとらはれず貴族を批判する精神が無ければ、ボーマルシェの「フィガロの結婚」は書かれなかつたし、それに基づくモーツァルトの歌劇も生れなかつたのだ。

日本の保守派智識人は「アメリカ流資本主義」を口を極めて罵るが、アメリカ流資本主義の精神がなければ、例へばライト兄弟の發明は實現せず、從つて日本の航空自衞隊も「日の丸ジェット」も存在し得なかつた事に全く氣づいてゐない。

西洋の冒險心と書いたが、その精神は多かれ少なかれ、洋の東西を問はず人間に共通するものである。少なくもこの私は、そのやうな精神を大切にしたいと願ふ。自由否定の「哲學」を信奉する者は自らそのやうに生きればよい。だがその考へを押しつけられる事だけは御免である。

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2008年3月13日 (木)

リバタリアンの意味を御存知?

喜六郎先生より嚴しい斷罪が。

木村氏の戦争観は良く分かった。/木村氏がそういう戦争観を持つのは個人的に自由だし、木村氏の戦争観を矯正しようなどという積もりもない。/ただ、木村氏に一言言いたい。/この戦争観って、かつて「岩波文化人」とか「進歩的文化人」と呼ばれた人達のそれとどこが違うんだ?/「軍隊は個人の権利を侵害する悪いモノです」「外国が攻めてきたら個人がゲリラとなって戦えばよい」/まんま同じじゃん。/道理で西部邁氏や西尾幹二氏を目の敵にするわけだ。[中略]で、これで木村氏との言い争いは終わりにしたいと思う。/木村式道徳論の正体も分かった事だし、これ以上続けても不毛だと判断した。

上の文章を讀んでおやおやと思つてゐたところ、こんな「加筆」が數日後に。

「ゲリラ」云々の批判については、自分の勇み足だったなと今は反省しております。魂点に関しては、潔く木村氏に謝罪しようと思います。/申し訳ありませんでした。

いえいえどうも御叮嚀に。

喜六郎先生は私の事を「リバタる者は救われず」などと指彈してゐるので、リバタリアニズム(自由至上主義)やアメリカ思想についてかなり詳しく御存知なのかと思つてゐたのだが、どうもさうではなかつたやうだ。大雜把に云へば、リバタリアンとは國内政策については或る意味右翼的、外交政策については或る意味左翼的な主張をする事で知られてゐる。左右による思想の區別しか知らない日本人にとつて理解し難いのは當然で、私を「ただの左翼」と決めつけた喜六郎先生もその一人だつたに過ぎない。と云ふ事で「勇み足」については快く許して進ぜませう。時間があれば森村進教授の『リバタリアニズム讀本』でもお讀みになつてみては如何。

續きはまた今度。年度末で結構忙しい。

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2008年1月13日 (日)

地球温暖化の恩恵

武田邦彦『環境問題はなぜウソがまかり通るのか2』を買つて來た。目を引いたごく一部を要約する。

地球の氣温はこの百年で〇・七四度ほど暖かくなり、その結果、海面水位は七センチほど上昇した。過去の樣子から將來を豫測すると、氣温の變化として暖かい隣の縣に引越すくらゐのことは起こり、海面水位が三十年で十一センチほど上がることも見込まれる。しかし海面水位はもともと潮の滿ち引きだけで二メートル以上も上下するが、大きな問題は起こつてゐない。また暖かくなると腦卒中や心臟病で死ぬ人は少なくなるし、雪國では雪下ろしで死ぬ人も減る。現在の寒冷地でも農作物が多く獲れるやうになる。

温暖化(が起こるとして)によるデメリットはあるだらう。しかし物事は常にメリットとデメリットの差引勘定で考へなければならない。

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2008年1月11日 (金)

地球温暖化説なるもの

そんな快適や安樂を貪慾な迄に追及し、手に入れたのと引き換へに、我々は地球の温暖化を招來し、その果てに近しい子孫達の快適な生活環境のみならず、生存をさへ危ふくしつゝあるのではないか、との殊勝な反省が、ふと心に浮んだのだ。

NHKや朝日新聞やその他マスコミが一斉に喧傳する「地球温暖化説」なるものが本當に正しいかどうか、敬愛する臍曲がりの山人さんであれば一度お疑ひになつてみても宜しいのではないでせうか。 この説については科學者の間で賛否兩論あるやうです。

最近、と云つても一年ほど前からですが、武田邦彦『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』と云ふ本がよく讀まれてゐるやうです。池田清彦『環境問題のウソ』もお勸めします。さらに本格的にはビョルン・ロンボルグ『環境危機をあおってはいけない』がよいやうです。

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2008年1月 3日 (木)

余は如何にして自由主義者となりしか

こんな小さな發表の場しかない無名人のくせに、まるで大思想家のやうな大袈裟な信條告白を以下記したいと思ふ。正月休みで暇を持て餘していらつしやる方のみどうぞ。かなりの長文です。

最近木村は左翼みたいな事ばかり書いてゐるとお感じの方がいらつしやると思ふ。國家を非難したり、反戦主義者のやうな事を云つてみたり。それはここ數年の摸索を經て、物事の考へ方についての據り所が大きく變はつたからである。以前の據り所は大まかに云へば保守主義であつた。現在は違ふ。自由主義である。それも「大まか」な自由主義などではなく、嚴密で徹底した自由主義である。さうなつた經緯を簡單に云へばかうだ。

仕事でスイスに赴任してゐた2001年秋、例の9-11テロが勃發した。ヨーロッパは午後で、同僚からの電話に促されてテレビを點けたら、もうもうと煙を上げるニューヨークの世界貿易センタービルの映像が現れた。その後、アメリカ政府はアフガニスタンやイラクでの戰爭に突入して行く。案の定、日本を含め世界にはアメリカを非難する聲が渦卷いた。當時の私にはそれは餘りにも安易な思想的態度に思へ、大いに不滿だつた。主流メディアの主張は九分九厘、反米的な内容で、逆の意見を知りたいと思つても讀めないのだ。

そこで私はアメリカの保守派智識人たちの書いた本を讀むことにした。本來の趣旨から云へば、對アフガン・イラク戰爭を唱道した「ネオコン」智識人たちの著書を澤山讀むべきだつたのだが、何せ初學者なものだから、ふとした彈みで、「反左翼」と云ふ意味では保守派に一應分類されるが、對外干渉主義のネオコンとは思想的に對極にある智識人たちの本を手に取つて仕舞つた。それがアメリカの自由至上主義者、專門用語を使へばリバタリアンの著作だつたのだ。

私が最初に讀んだ二册のリバタリアンによる著作は、トマス・ウッズ(Thomas E. Woods Jr.)の『カトリック教會は西洋文明をいかに築いたか(How The Catholic Church Built Western Civilization)』と、トマス・ディロレンゾ(Thomas J. DiLorenzo)の『資本主義はアメリカをどう救つたか(How Capitalism Saved America)』であつたと思ふ。いづれも篦棒に面白い本だつたが、これら二人の著者はアメリカにあるミーゼス研究所と云ふシンクタンクにいづれも所屬してゐた。ミーゼス研究所の名は、オーストリア出身の自由主義的經濟學者ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスに由來する。私はミーゼス研究所のウェブサイトを閲覽したり、リバタリアン思想について勉強したりするやうになつた。

だが何か變だ。まもなくさう感じるやうになつた。私はそもそも、アメリカの對外戰爭を支へる思想を知りたくて同國保守派智識人の著作を讀み始めたはずである。たしかにネオコンの本も面白いは面白い。だがそれ以上に面白いと思つたリバタリアンたちは、どうやらアメリカの戰爭に反對してゐるやうなのだ。そしてネオコン智識人やブッシュ大統領を口を極めて罵つてゐるやうなのだ、まるで日本の左翼言論人のやうに。これは困つたことになつた。

最も當惑したのは、ミーゼス研究所と一種の共鬪關係にある「アンチウォー・ドットコム」と云ふウェブサイトの存在である。このサイトへの寄稿者はリバタリアンばかりではないのだが、いづれにせよ「反戰」と云ふそのまんまの名前と内容で、反戰思想ほど底の淺い欺瞞的な思想はないと考へて來た私は大いに戸惑つた。ある日覗いてみたら、グアンタナモ米軍基地で行はれたテロ容疑者虐待の冩眞をでかでかと掲げ、アメリカ政府を糺彈してゐるではないか。「これぢやあ左翼と同じだ」。私はさう思ひ、リバタリアンとは縁を切ることにした。そのはずだつた。

しかししばらく時が過ぎた後、私はリバタリアンと徐々によりを戻した。とりわけ2002年に日本に歸任し、やがて國内論壇で反市場主義、反自由主義の風潮が吹荒れるのを目にしてから、リバタリアンの主張が再び輝きを増して見えてきた。それは私が曲がりなりにも經濟ジャーナリズムの世界で飯を食つて來たからと云ふよりも、もともとラディカルなものに惹かれやすい性格をしてゐたからだらう。ともあれ、私は再び熱心にミーゼス研究所やその關聯組織のサイトを讀むやうになつた。「アンチウォー・ドットコム」もである。そして得心した。冷靜に考へれば、テロ容疑者を虐待するのは立派な人權侵害である。自分が容疑者と同じ立場に置かれた時の事を考へてみるがよい。

また悟つた。ここで詳しく書く餘裕はないが、自由主義は絶對平和主義ではない。自らの生命と財産を侵害する敵に對しては斷乎鬪ふ思想である。しかし自らの生命や財産が明白に侵害されてゐるわけでもないのに、わざわざ海外に出掛けて行つてやらかす戰爭に對しては極めて否定的である。かうした形の反戰思想ならばアメリカに昔からある。いはゆる孤立主義である。過去においてはロバート・タフト上院議員が有名だし、最近ではかつて大統領選にも立候補した評論家のパット・ブキャナン氏(彼はリバタリアンではないが)が知られてゐる。ちなみに今年の米大統領選には、ミーゼス研究所と縁の深いリバタリアンで、候補者として唯一イラクからの米軍撤退を唱へるロン・ポール下院議員が參戰し、健鬪してゐる。日本の新聞では殆ど紹介されないが。

ともかく現在の私は日本やアメリカで云ふ「リベラル」(左翼の別稱)なんぞではなく、眞の意味での自由主義を信奉するやうになつた。我が國の智識人は自由主義を冷笑する傾向が強いが、それも當然で、日本に自由主義の知的傳統はない。だが西洋では少なくともジョン・ロックやアダム・スミス以來の歴史がある。考へやうによつては、自由主義の源流はアリストテレスやトマス・アクィナスに遡る。要するに西洋と自由主義とは切つても切れない關係なのだ。自由主義が人間のすべての問題を解決するなどと云ふつもりはない。だが自由主義の背景にはそれを支へる優れた道徳哲學が存在し、それを含めて考究する價値は大いにあると思ふ。『國富論』を著したアダム・スミスは『道徳感情論』と云ふ著作も殘してゐるし、ミーゼスの弟子で戰後アメリカの代表的リバタリアンの一人だつたマリー・ロスバードは『自由の倫理學』と云ふ著書を書いてゐるのだ。

戰爭について云へば、正義の戰ひはある。だが正義の戰ひがあるとすれば、不正な戰ひも存在するはずだ。自由主義は兩者の峻別について一つの指針を與へるが、それに關しては追々書いて行きたい。經濟・政治・道徳問題についてもこれまで通り、だがより旗幟を鮮明にして書いて行きたいと思つてゐる。忌憚なき御批判を賜れば幸ひである。

私は、戰後日本を代表する評論家、福田恆存の一番弟子にして、英文學者・劇作家・文藝評論家・時評家である松原正先生(早稻田大學名譽教授)を深く尊敬して來たが、松原先生の思想と自由主義とは兩立できると考へてゐる。いやいや、そもそも私が自由主義を信奉するやうになつた一因は、何かと云ふと政治に頼らうとする日本人の心性を嚴しく批判されて來た松原先生の思想に接したことだと思つてゐるし、西洋思想を見る目を開いて下さつたのも松原先生なのである。 現在のこの文章の表記法も松原先生の影響が最も大きい。

それでは皆樣、ちよつと申し遲れましたが、今年もどうぞよろしくお願ひ致します。

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2008年1月 1日 (火)

「怪しからぬ不況」の悲劇

平成十九年を象徴する漢字は「」だつたさうである。要するに老舖菓子メーカーやら名門料亭やらの製造年月日僞裝が許せぬと云ふ事らしい。マスコミは勿論の事、普段はマスコミを舌鋒鋭く批判するブロガーの類も、マスコミと一緒になつて、怪しからぬ怪しからぬ日本人の道徳心も地に墜ちたと悲憤慷慨する事しきりである。

なるほど、慥かに製造年月日を僞造した會社は怪しからぬ。命に別條は無いとは云へ、當日作つたと稱して賣つた商品が實は何日も前の製品だつたとすれば、それは詐欺である。詐欺行爲を働いた業者は、そのツケをきつちりと拂つて貰はなければならぬ。だが問題はその拂はせ方である。

僞裝は今の法律でも既に違法ではあるが、更に將來、同樣の不始末を起こさぬやう、法的な規制を嚴しくした場合、どうなるであらうか。格好の見本がある。建築基準法の改正である。暫く前、食品僞裝ならぬ耐震僞裝が明らかになり、マスコミやらブロガーやらは、怪しからぬ怪しからぬ日本人の道徳心も地に墜ちたとさんざん悲憤慷慨した。それで出來上がつたのが改正建築基準法である。不逞な業者が二度と僞裝をやらかさぬやう、建築許可の審査を法律で思ひ切り嚴しくしたのである。實に立派な措置の筈であつた。

ところが忽ち問題が噴出した。審査があまりにも嚴しすぎて住宅建設が遲れに遲れ、着工件數が大幅に減つてしまつたのである。おかげで建築關係の企業の業績は惡化し、中小企業では倒産に追込まれるところが續出した。まさに羮に懲りて膾を吹くの愚を地で行くやうな話ではないか。ひよつとすると、かう云ふ官製不況(あるいは「怪しからぬ不況」)も耐震僞裝の撲滅による國民の安全確保と云ふ大義の爲にはやむを得ぬと政府を辯護する人もゐるかも知れぬ。だがその人に問ひたい。もしも着工が遲れる事によつて、國民が耐震對策の施された住宅に引つ越す事がなかなか出來ず、さうかうしてゐる間に大地震が來たらどうするのか。

福田總理自身、「(改正法施行で)かう云ふ結果が出ることを十分豫期しなかつた。經濟的な惡影響を及ぼしたことは、よく反省しなければいけない」と反省の辯を述べたと云ふ。だが反省されても倒産した企業が生返るわけではない。政府が民間に介入するとろくな事はない。これは經濟學的な眞理である。惡質業者を淘汰したければ、法で規制などせず、商道徳に任せよ。法と道徳を峻別せよ。

しかし食品僞裝についても政府は「食品表示Gメン」とか云ふわけの分からぬ組織を作るらしい。法を道徳の代用品に出來ると考へる馬鹿。その尻馬に乘つて繩張りを廣げようと企む寄生蟲。これあ、今年も景氣は良くなりさうにないな。

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2007年8月21日 (火)

法律と道徳――グラミン銀行の場合

 法律は果たして最低限の道徳になつてゐるのだらうか。アメリカの奴隸制の話を持出す迄もなく、現代日本に於いても、道徳的に甚だいかがはしい法律は少くない。その一例として、利息制限法を擧げる事が出來る。

 昨年のノーベル平和賞はバングラデシュのムハマド・ユヌス氏に與へられた。同氏は貧しい女性達に無擔保で少額の貸出しを行ふグラミン銀行を創設し、多くの人々の生活水準向上に貢獻してきた事で知られる。我國の主流メディアでは「市場原理主義」の對極に位置する、利潤を度外視した取組みとして評価されてゐるやうである。

 しかし「フィナンシャル・ジャパン」九月號所載の「グラミン銀行が日本で營業できない理由」によれば、グラミン銀行の貸出平均金利は推計で十七パーセントから二十二パーセントに達してゐると云ふ。日本の利息制限法では上限金利を二十パーセントに規制してゐるから、グラミン銀行が我國で開業するのはかなり難しいと云はざるを得ない。

 グラミン銀行の貸出金利は日本のサラ金竝と云ふ事になる(いや所謂灰色金利問題を受け、サラ金は上限金利を引下げてゐるから、サラ金以上の高金利と云ふ事になる)。しかし少しく冷静に考へてみれば、資産を持たず、いつ借金を返せなくなるかも知れない個人に對する融資、即ちマイクロクレジットが例へば年利六、七パーセントで成立つ筈が無い。ユヌス氏自身、「慈善事業は貧困問題の解決にはならない」と述べてゐると云ふ。

 道徳的に考へれば、貧しい庶民が資金繰りの手段を得て自らビジネスを興し、經濟的に自立する事は望ましい筈である。ところが日本では「サラ金から法外な利息を請求された人達が可哀相」と云ふ理由で、利息制限法なる法律が出來、その結果、自立を目指す個人が資金を調達する道を塞いで仕舞つてゐる。また、いつまで經つても自己責任と云ふ言葉を知らず、惡質な高利貸に騙される無防備な「善男善女」がゐなくならない。

 さてこのやうな法律が果たして「最低限の道徳」と呼ぶに價ひするか。私は否だと思ふ。

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2007年8月13日 (月)

法律は最低限の道徳か

  「法律は最低限の道徳である」とよく云はれる。しかしそれは本當だらうか。今から百六十年前、ある作家は次のやうな文章を書いた。私はこの主張に深く同意するものである。

 權力がいつたん人民の手に握られたとき、多數者の支配――それも長期間にわたる支配――が容認される實際的な理由は、多數者がいちばん正しいと思はれるからではなく、まして彼らが少數者に對していちばん公平であるやうにみえるからでもなく、結局のところ、彼らが腕力においてはるかにまさつてゐるからである。しかし、あらゆる場合に多數者が支配するやうな政府は――正義の觀念に對する人間の理解に照らしてみても――たうてい正義に基礎を置いてゐるとはいへない。[略]私の考へでは、われわれはまづ第一に人間でなくてはならず、しかるのちに統治される人間となるべきである正義に對する尊敬心と同じ程度に法律に對する尊敬心を育むことなど、望ましいことではない。私が當然ひき受けなくてはならない唯一の義務とは、いつ何どきでも、自分が正しいと考へるとほりに實行することである。[略]法律が、人間をわづかでも正義に導いたためしなど、一度だつてありはしなかつた。いや、法律を尊敬するあまり、善意のひとびとすら、毎日のやうに不正に手を染めざるを得ないのである。(「市民の反抗」、飯田實譯、強調木村)

 筆者は『森の生活』で有名なアメリカのH・D・ソローである。ソローは人頭税の支拂ひを拒否した廉で投獄された經驗がある。納税を拒否したのは、奴隷制を支持する政府の態度を道徳的に許し難いと考へたからである。納税拒否は明らかな違法行爲である。もし「法律は最低限の道徳である」ならば、違法行爲を犯したソローは反道徳的な人間と云ふ事になるが、果たしてさうだらうか。奴隸制が道徳的かどうかを常識に照らして考へる限り、事實は正反對であると云はざるを得ない。

  「法律は最低限の道徳である」と云ふ考へ方は、反道徳的な法律に對して無力である。ソローは「市民の反抗」でかう書いてゐる。「不正な法律が存在する。われわれは甘んじてそれに從へばよいのか、あるいは、それを修正しようとつとめながら、われわれの試みが成功するまではそれに從ふはうがよいのか、それともただちに法を犯すはうがよいのか?」。ソローは三つの選擇肢のうちどれを撰ぶかについて明確に囘答してゐる譯ではないが、少なくも「法律は最低限の道徳である」などとは口が裂けても云はなかつたに違ひない。

 我が同胞にはかう反論する人がゐる事だらう。ソローは所詮西洋人ではないか。「人の上の神」を戴く西洋人の流儀を、「人の上の人」しか戴かぬ日本人に當嵌めるべきではない。一神教特有の絶對的道徳規準を日本人は持合はせない。だから日本人は「人の上の人」が作つた法律を最大限尊重すべきなのだ――。しかしこの主張には無理がある。人と法律とは別物だからだ。我々は人の立派な振舞ひに感動する事は出來ても、法律に感動する事は出來ない。また、我々は特定の個人を尊敬し、特定の個人を輕蔑する事が出來るが、法律を最低限の道徳とする立場からは、正しい法律にだけ從ひ不正な法律には背くと云ふ取捨撰擇は出來ない。

 しかし、それならば、日本人は一體どのやうな道徳規準を據り所にすれば良いのか。かつては儒教がその役割を果たしたが、今やそれを復活させる事が可能かどうかは疑はしい。かと云つて、キリスト教道徳を新たな規準に据ゑる事はそれ以上に難しさうである。それでは神道か。佛教か。囘教か。それとも宗教以外の哲學か。この問ひに答へる事は私には出來ない。いやいや、この問題を長年追究して來た松原正氏のやうな碩學ですら、明確な囘答は持合せてゐないのだから、私なんぞに出來る筈が無い。だが間違ひなく云へる事は、ソローが喝破した如く、政治の産物に過ぎぬ法律に道徳の代役を務める事なんぞ――たとへ「最低限」であらうとも――金輪際出來ないと云ふ事である。

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2007年6月24日 (日)

介護と云ふ聖職

 六月二十日附中日新聞夕刊「社會時評」で、作家の高村薫が「『公』の姿、『民』の顏」と題する混亂した文章を書いてゐる。

 たとへば、私たちが營々と納め續けてきた國民年金や厚生年金の掛け金が、社會保險廳のコンピューターにきちんと記録されてをらず、宙に浮いてゐる件數が五千萬、六千萬にのぼるといふだけで、そんな役所はもはや信用に値しないし、そんなむちやくちやな行政を放置してきた政治も信任に値しない[略]。

 高村はこの箇所の直前に「もうそろそろ見限るべきは見限り、この國のていたらくにノーを突きつけるときかもしれない、とも思ふ」と書いてゐるのだが、現在の自公聯立政權が「ノー」を突附けられ、例へば民主黨が取つて代はつたとしても、「むちやくちやな」役所や行政が改善する見込みなど無い。社會保險廳に限らず、役所とは政權の別にかかはらず、本來非效率で無責任な存在だからである。民間に任せるべき業務を役所の手から奪はない限り、同樣の問題は何度でも起きる。

 また、生活に直結した不信では、介護保險制度の現状も例外ではない。折しも大手の訪問介護サービス會社が介護報酬の不正請求で處分されたが、そもそも營利の追求を目的とする民間企業の參入は、福祉の本質と相容れないのではないか。

 民間企業が福祉と相容れないと云ふのは事實に反する。世間には介護同樣、人間の生命に關はる仕事でも、民間が立派に擔つてゐる例は多數存在する。例へば人間は毒物を喰ふと死ぬ恐れがあるが、食品は民間の食品メーカーや商社によつて供給されてゐる。大病をして手術をしないと命にかかはるが、醫療機器は專門のメーカーによつて製造されてゐる。介護だけを特別扱ひして民間企業を排除する理由は無い。事實、コムスン問題に關する報道を見る限り、同社のサーヴィスの利用者らは口々に「ヘルパーが來なくなると困る」と不安を訴へてゐた。介護ビジネスに何も良いところが無いのなら、そのやうな發言は出ない筈である。

 そもそも高村は同じ文章の中で、年金記録に關する社保廳の「むちやくちや」を糺彈したばかりではないか。年金は介護保険同樣、福祉制度の一種である。民間の保險會社でも保險金の未拂ひ問題などは起きてゐるが、さすがに記録漏れが「五千萬、六千萬にのぼる」と云ふ篦棒な不始末をしでかしたところは無い。高村の云ふ「むちやくちや」な行政に介護を任せ切りにすれば、その結果は必ずや「むちやくちや」となる筈で、介護報酬の不正請求どころで濟まなくなるのは火を見るよりも明らかである。

 馬鹿念を押しておくが、私は民間企業が完璧だなどと云つてゐるのではない。凡そ人間の行爲に完璧などあり得ず、必ず缺陷が伴ふ。問題はその缺陷を如何に小さくするかなのである。惡質な民間企業はあるだらうが、競争相手の自由な參入が認められてゐれば、利用者にそつぽを向かれていづれ淘汰される(役所は惡質でも淘汰されない)。「公」が「むちやくちや」ならば、それよりも多少(或いは遙かに)増しな「民」に任せるしかない。ところが高村はをかしな事を云ひ出す。

 では、「民」はどうか。郵便制度をはじめ醫療、大學、そして介護など、本來は「公」であるべき性格のものが、改革の名のもとに「公」から放り出され、いまや「民」の顏をしてゐるのだが、この「民」は國民ではなく民間企業である。ここでも本來の「民」すなはち國民はほとんど置き去りである。

 企業は「本來の『民』」である國民とは無關係だと高村は云ひたいらしい。無論、企業は人ではないから國民ではない。しかし云ふまでもなく、企業に資本を出してゐるのは國民だし、企業で働いてゐるのも國民である(高村が「民間企業の元サラリーマンには介護を受ける資格は無い」などと言ひ出さない事を祈る)。

 では高村が考へる「民」とは一體どのやうなものなのか。

 思ふに、福祉とはそもそも無償の善意がなすものである。家庭や地域社會が擔ふにしろ、人のいのちを慈しむのは、ひろく公共の善意をおいてないのであり、そこに營利目的が關はる餘地は基本的にはない。むしろ、この分野での民間企業は、たとへば介護タクシーや入浴サービスのように、地域社會での支へ合ひと「公」の間で、活用されるべきものだと思ふ。そしてもちろん、私たちはやはり、それなりの物理的負擔は引き受けなければならないのである。

  「家庭や地域社會」――。大家族で先祖傳來の土地に住み續けた時代ならいざ知らず、親子が遠隔の土地で暮らす事が當り前になり、轉居や轉勤が日常的となつた現代において、介護へのビジネスの關與を認めず、家庭や地域社會で擔ふなど土臺無理である。殘念ながら、たとへ相手が親や夫、妻であつても、「無償の善意」に基づき、長期間にわたり獨力で、己を殺して奉仕し得る人間は、さう多くはないのである。

 だから「公」に支へて貰ふしかない、と高村は云ひたいのだらう。結局、福祉とは原則「公」の仕事と云ふわけである。米歐のやうな自由主義の傳統を缺く我が國では、高村のやうに考へる知識人は多數派に違ひない。彼らにとつて介護や醫療や教育は、資本主義などと云ふ汚らはしい代物とは無縁であるべき聖職なのである。

 高村は別の箇所で、福祉ビジネスのサーヴィスを享受出來るのは高級老人ホームに入れる金持ちだけだと云ふ意味の事を書いてゐるが、老人ホームであれ介護であれ、需要と供給の法則により、參入する企業が増えれば競爭で料金は安くなるし質は高くなる。介護に求められるサーヴィスはそれこそ一人一人異なるものだから、非效率な役所仕事で滿足に實行できる道理が無い。一方で社保廳の年金問題を攻撃しつつ、他方で介護が「公」の仕事だと主張する高村は、官僚と云ふものの本質を、さらに云へば人間と云ふものの本質を、理解してゐない。官僚とは人間だからである。

 官僚は質の惡い介護サーヴィスを提供しても、ボーナスが減つたり首になつたりする恐れは無い。さう云ふ環境に置かれた人間が眞劍にサーヴィスの向上に取組む可能性はまづ無い。それでも一所懸命やる眞面目な役人は一部にゐるだらう。だがそれを多數に求めるのは無理と云ふものであるし、始末の惡い事に、眞面目であるがゆゑに相手が喜びもしない「サーヴィス」を無理矢理提供して滿足する獨善的な官僚も少なくないのである。

 介護疲れの果てに親や夫、妻を殺めたと云ふ悲慘な事件は後を絶たない。さうした境遇の者(すなはち潛在的には我々の大部分)にとつて介護ビジネスは助けになり得るし、現になりつつあつた。だが今後、高村薫のやうに「公」の介入を求める知識人やメディアの聲援を受けつつ、政治家と官僚は介護ビジネスに對する締附を強める事だらう。そして介護を受ける者やその家族は、いづれ年金問題と同樣の、或いはそれを上囘る犠牲を強いられる事だらう。

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2007年6月 3日 (日)

國家に子供を託せるか

 教育と國家・社會の關係について的確な指摘。

 戦前の日本では、国家のために死ぬことが賛美され、いいことだとさえ教えられていました。それが戦争に負け、連合国軍の占領下に置かれると、国民はみんな平等という考え方に変わった。[略]国家や社会の役に立つ人間をつくるのが教育の一側面だとすれば、もし価値観や時代の要請が正反対に変わると、当然、国や社会の目的も正反対のものになります。[略]つまり、教育の目的というのは、国や社会の変化によってコロコロ変わるのです。制度としての教育や価値観などは、国家や社会の都合で変わる。あやふやで不確かなものです。極端なことを言えば、とても信用できるものではありませんし、大切な子どもを託せるものでもない。(『日本の子どもを幸福にする23の提言』 94-95頁、改行省略)

 筆者は青色發光ダイオードの發明で知られる、カリフォルニア大學サンタバーバラ校教授の中村修二氏。古巣の日亞化學工業との特許を巡る訴訟に絡み、金の亡者のやうなイメージが流布された中村氏だが、それが全くの誤解である事は、中村氏自身の著作や小川雅照『父一代の日亞化學』を讀めば分かる。

 年金の運用管理を政府に任せきりにするとどうなるか、最近の報道が如實に示してゐる。それならなぜ、教育を政府に任せるのか。教育は個人にとつて年金と同等か、それ以上に重要な仕事の筈である。

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