2008年3月13日 (木)

リバタリアンの意味を御存知?

喜六郎先生より嚴しい斷罪が。

木村氏の戦争観は良く分かった。/木村氏がそういう戦争観を持つのは個人的に自由だし、木村氏の戦争観を矯正しようなどという積もりもない。/ただ、木村氏に一言言いたい。/この戦争観って、かつて「岩波文化人」とか「進歩的文化人」と呼ばれた人達のそれとどこが違うんだ?/「軍隊は個人の権利を侵害する悪いモノです」「外国が攻めてきたら個人がゲリラとなって戦えばよい」/まんま同じじゃん。/道理で西部邁氏や西尾幹二氏を目の敵にするわけだ。[中略]で、これで木村氏との言い争いは終わりにしたいと思う。/木村式道徳論の正体も分かった事だし、これ以上続けても不毛だと判断した。

上の文章を讀んでおやおやと思つてゐたところ、こんな「加筆」が數日後に。

「ゲリラ」云々の批判については、自分の勇み足だったなと今は反省しております。魂点に関しては、潔く木村氏に謝罪しようと思います。/申し訳ありませんでした。

いえいえどうも御叮嚀に。

喜六郎先生は私の事を「リバタる者は救われず」などと指彈してゐるので、リバタリアニズム(自由至上主義)やアメリカ思想についてかなり詳しく御存知なのかと思つてゐたのだが、どうもさうではなかつたやうだ。大雜把に云へば、リバタリアンとは國内政策については或る意味右翼的、外交政策については或る意味左翼的な主張をする事で知られてゐる。左右による思想の區別しか知らない日本人にとつて理解し難いのは當然で、私を「ただの左翼」と決めつけた喜六郎先生もその一人だつたに過ぎない。と云ふ事で「勇み足」については快く許して進ぜませう。時間があれば森村進教授の『リバタリアニズム讀本』でもお讀みになつてみては如何。

續きはまた今度。年度末で結構忙しい。

| | コメント (22) | トラックバック (1)

2008年1月13日 (日)

地球温暖化の恩恵

武田邦彦『環境問題はなぜウソがまかり通るのか2』を買つて來た。目を引いたごく一部を要約する。

地球の氣温はこの百年で〇・七四度ほど暖かくなり、その結果、海面水位は七センチほど上昇した。過去の樣子から將來を豫測すると、氣温の變化として暖かい隣の縣に引越すくらゐのことは起こり、海面水位が三十年で十一センチほど上がることも見込まれる。しかし海面水位はもともと潮の滿ち引きだけで二メートル以上も上下するが、大きな問題は起こつてゐない。また暖かくなると腦卒中や心臟病で死ぬ人は少なくなるし、雪國では雪下ろしで死ぬ人も減る。現在の寒冷地でも農作物が多く獲れるやうになる。

温暖化(が起こるとして)によるデメリットはあるだらう。しかし物事は常にメリットとデメリットの差引勘定で考へなければならない。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年1月11日 (金)

地球温暖化説なるもの

そんな快適や安樂を貪慾な迄に追及し、手に入れたのと引き換へに、我々は地球の温暖化を招來し、その果てに近しい子孫達の快適な生活環境のみならず、生存をさへ危ふくしつゝあるのではないか、との殊勝な反省が、ふと心に浮んだのだ。

NHKや朝日新聞やその他マスコミが一斉に喧傳する「地球温暖化説」なるものが本當に正しいかどうか、敬愛する臍曲がりの山人さんであれば一度お疑ひになつてみても宜しいのではないでせうか。 この説については科學者の間で賛否兩論あるやうです。

最近、と云つても一年ほど前からですが、武田邦彦『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』と云ふ本がよく讀まれてゐるやうです。池田清彦『環境問題のウソ』もお勸めします。さらに本格的にはビョルン・ロンボルグ『環境危機をあおってはいけない』がよいやうです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月 3日 (木)

余は如何にして自由主義者となりしか

こんな小さな發表の場しかない無名人のくせに、まるで大思想家のやうな大袈裟な信條告白を以下記したいと思ふ。正月休みで暇を持て餘していらつしやる方のみどうぞ。かなりの長文です。

最近木村は左翼みたいな事ばかり書いてゐるとお感じの方がいらつしやると思ふ。國家を非難したり、反戦主義者のやうな事を云つてみたり。それはここ數年の摸索を經て、物事の考へ方についての據り所が大きく變はつたからである。以前の據り所は大まかに云へば保守主義であつた。現在は違ふ。自由主義である。それも「大まか」な自由主義などではなく、嚴密で徹底した自由主義である。さうなつた經緯を簡單に云へばかうだ。

仕事でスイスに赴任してゐた2001年秋、例の9-11テロが勃發した。ヨーロッパは午後で、同僚からの電話に促されてテレビを點けたら、もうもうと煙を上げるニューヨークの世界貿易センタービルの映像が現れた。その後、アメリカ政府はアフガニスタンやイラクでの戰爭に突入して行く。案の定、日本を含め世界にはアメリカを非難する聲が渦卷いた。當時の私にはそれは餘りにも安易な思想的態度に思へ、大いに不滿だつた。主流メディアの主張は九分九厘、反米的な内容で、逆の意見を知りたいと思つても讀めないのだ。

そこで私はアメリカの保守派智識人たちの書いた本を讀むことにした。本來の趣旨から云へば、對アフガン・イラク戰爭を唱道した「ネオコン」智識人たちの著書を澤山讀むべきだつたのだが、何せ初學者なものだから、ふとした彈みで、「反左翼」と云ふ意味では保守派に一應分類されるが、對外干渉主義のネオコンとは思想的に對極にある智識人たちの本を手に取つて仕舞つた。それがアメリカの自由至上主義者、專門用語を使へばリバタリアンの著作だつたのだ。

私が最初に讀んだ二册のリバタリアンによる著作は、トマス・ウッズ(Thomas E. Woods Jr.)の『カトリック教會は西洋文明をいかに築いたか(How The Catholic Church Built Western Civilization)』と、トマス・ディロレンゾ(Thomas J. DiLorenzo)の『資本主義はアメリカをどう救つたか(How Capitalism Saved America)』であつたと思ふ。いづれも篦棒に面白い本だつたが、これら二人の著者はアメリカにあるミーゼス研究所と云ふシンクタンクにいづれも所屬してゐた。ミーゼス研究所の名は、オーストリア出身の自由主義的經濟學者ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスに由來する。私はミーゼス研究所のウェブサイトを閲覽したり、リバタリアン思想について勉強したりするやうになつた。

だが何か變だ。まもなくさう感じるやうになつた。私はそもそも、アメリカの對外戰爭を支へる思想を知りたくて同國保守派智識人の著作を讀み始めたはずである。たしかにネオコンの本も面白いは面白い。だがそれ以上に面白いと思つたリバタリアンたちは、どうやらアメリカの戰爭に反對してゐるやうなのだ。そしてネオコン智識人やブッシュ大統領を口を極めて罵つてゐるやうなのだ、まるで日本の左翼言論人のやうに。これは困つたことになつた。

最も當惑したのは、ミーゼス研究所と一種の共鬪關係にある「アンチウォー・ドットコム」と云ふウェブサイトの存在である。このサイトへの寄稿者はリバタリアンばかりではないのだが、いづれにせよ「反戰」と云ふそのまんまの名前と内容で、反戰思想ほど底の淺い欺瞞的な思想はないと考へて來た私は大いに戸惑つた。ある日覗いてみたら、グアンタナモ米軍基地で行はれたテロ容疑者虐待の冩眞をでかでかと掲げ、アメリカ政府を糺彈してゐるではないか。「これぢやあ左翼と同じだ」。私はさう思ひ、リバタリアンとは縁を切ることにした。そのはずだつた。

しかししばらく時が過ぎた後、私はリバタリアンと徐々によりを戻した。とりわけ2002年に日本に歸任し、やがて國内論壇で反市場主義、反自由主義の風潮が吹荒れるのを目にしてから、リバタリアンの主張が再び輝きを増して見えてきた。それは私が曲がりなりにも經濟ジャーナリズムの世界で飯を食つて來たからと云ふよりも、もともとラディカルなものに惹かれやすい性格をしてゐたからだらう。ともあれ、私は再び熱心にミーゼス研究所やその關聯組織のサイトを讀むやうになつた。「アンチウォー・ドットコム」もである。そして得心した。冷靜に考へれば、テロ容疑者を虐待するのは立派な人權侵害である。自分が容疑者と同じ立場に置かれた時の事を考へてみるがよい。

また悟つた。ここで詳しく書く餘裕はないが、自由主義は絶對平和主義ではない。自らの生命と財産を侵害する敵に對しては斷乎鬪ふ思想である。しかし自らの生命や財産が明白に侵害されてゐるわけでもないのに、わざわざ海外に出掛けて行つてやらかす戰爭に對しては極めて否定的である。かうした形の反戰思想ならばアメリカに昔からある。いはゆる孤立主義である。過去においてはロバート・タフト上院議員が有名だし、最近ではかつて大統領選にも立候補した評論家のパット・ブキャナン氏(彼はリバタリアンではないが)が知られてゐる。ちなみに今年の米大統領選には、ミーゼス研究所と縁の深いリバタリアンで、候補者として唯一イラクからの米軍撤退を唱へるロン・ポール下院議員が參戰し、健鬪してゐる。日本の新聞では殆ど紹介されないが。

ともかく現在の私は日本やアメリカで云ふ「リベラル」(左翼の別稱)なんぞではなく、眞の意味での自由主義を信奉するやうになつた。我が國の智識人は自由主義を冷笑する傾向が強いが、それも當然で、日本に自由主義の知的傳統はない。だが西洋では少なくともジョン・ロックやアダム・スミス以來の歴史がある。考へやうによつては、自由主義の源流はアリストテレスやトマス・アクィナスに遡る。要するに西洋と自由主義とは切つても切れない關係なのだ。自由主義が人間のすべての問題を解決するなどと云ふつもりはない。だが自由主義の背景にはそれを支へる優れた道徳哲學が存在し、それを含めて考究する價値は大いにあると思ふ。『國富論』を著したアダム・スミスは『道徳感情論』と云ふ著作も殘してゐるし、ミーゼスの弟子で戰後アメリカの代表的リバタリアンの一人だつたマリー・ロスバードは『自由の倫理學』と云ふ著書を書いてゐるのだ。

戰爭について云へば、正義の戰ひはある。だが正義の戰ひがあるとすれば、不正な戰ひも存在するはずだ。自由主義は兩者の峻別について一つの指針を與へるが、それに關しては追々書いて行きたい。經濟・政治・道徳問題についてもこれまで通り、だがより旗幟を鮮明にして書いて行きたいと思つてゐる。忌憚なき御批判を賜れば幸ひである。

私は、戰後日本を代表する評論家、福田恆存の一番弟子にして、英文學者・劇作家・文藝評論家・時評家である松原正先生(早稻田大學名譽教授)を深く尊敬して來たが、松原先生の思想と自由主義とは兩立できると考へてゐる。いやいや、そもそも私が自由主義を信奉するやうになつた一因は、何かと云ふと政治に頼らうとする日本人の心性を嚴しく批判されて來た松原先生の思想に接したことだと思つてゐるし、西洋思想を見る目を開いて下さつたのも松原先生なのである。 現在のこの文章の表記法も松原先生の影響が最も大きい。

それでは皆樣、ちよつと申し遲れましたが、今年もどうぞよろしくお願ひ致します。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年1月 1日 (火)

「怪しからぬ不況」の悲劇

平成十九年を象徴する漢字は「」だつたさうである。要するに老舖菓子メーカーやら名門料亭やらの製造年月日僞裝が許せぬと云ふ事らしい。マスコミは勿論の事、普段はマスコミを舌鋒鋭く批判するブロガーの類も、マスコミと一緒になつて、怪しからぬ怪しからぬ日本人の道徳心も地に墜ちたと悲憤慷慨する事しきりである。

なるほど、慥かに製造年月日を僞造した會社は怪しからぬ。命に別條は無いとは云へ、當日作つたと稱して賣つた商品が實は何日も前の製品だつたとすれば、それは詐欺である。詐欺行爲を働いた業者は、そのツケをきつちりと拂つて貰はなければならぬ。だが問題はその拂はせ方である。

僞裝は今の法律でも既に違法ではあるが、更に將來、同樣の不始末を起こさぬやう、法的な規制を嚴しくした場合、どうなるであらうか。格好の見本がある。建築基準法の改正である。暫く前、食品僞裝ならぬ耐震僞裝が明らかになり、マスコミやらブロガーやらは、怪しからぬ怪しからぬ日本人の道徳心も地に墜ちたとさんざん悲憤慷慨した。それで出來上がつたのが改正建築基準法である。不逞な業者が二度と僞裝をやらかさぬやう、建築許可の審査を法律で思ひ切り嚴しくしたのである。實に立派な措置の筈であつた。

ところが忽ち問題が噴出した。審査があまりにも嚴しすぎて住宅建設が遲れに遲れ、着工件數が大幅に減つてしまつたのである。おかげで建築關係の企業の業績は惡化し、中小企業では倒産に追込まれるところが續出した。まさに羮に懲りて膾を吹くの愚を地で行くやうな話ではないか。ひよつとすると、かう云ふ官製不況(あるいは「怪しからぬ不況」)も耐震僞裝の撲滅による國民の安全確保と云ふ大義の爲にはやむを得ぬと政府を辯護する人もゐるかも知れぬ。だがその人に問ひたい。もしも着工が遲れる事によつて、國民が耐震對策の施された住宅に引つ越す事がなかなか出來ず、さうかうしてゐる間に大地震が來たらどうするのか。

福田總理自身、「(改正法施行で)かう云ふ結果が出ることを十分豫期しなかつた。經濟的な惡影響を及ぼしたことは、よく反省しなければいけない」と反省の辯を述べたと云ふ。だが反省されても倒産した企業が生返るわけではない。政府が民間に介入するとろくな事はない。これは經濟學的な眞理である。惡質業者を淘汰したければ、法で規制などせず、商道徳に任せよ。法と道徳を峻別せよ。

しかし食品僞裝についても政府は「食品表示Gメン」とか云ふわけの分からぬ組織を作るらしい。法を道徳の代用品に出來ると考へる馬鹿。その尻馬に乘つて繩張りを廣げようと企む寄生蟲。これあ、今年も景氣は良くなりさうにないな。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年8月21日 (火)

法律と道徳――グラミン銀行の場合

 法律は果たして最低限の道徳になつてゐるのだらうか。アメリカの奴隸制の話を持出す迄もなく、現代日本に於いても、道徳的に甚だいかがはしい法律は少くない。その一例として、利息制限法を擧げる事が出來る。

 昨年のノーベル平和賞はバングラデシュのムハマド・ユヌス氏に與へられた。同氏は貧しい女性達に無擔保で少額の貸出しを行ふグラミン銀行を創設し、多くの人々の生活水準向上に貢獻してきた事で知られる。我國の主流メディアでは「市場原理主義」の對極に位置する、利潤を度外視した取組みとして評価されてゐるやうである。

 しかし「フィナンシャル・ジャパン」九月號所載の「グラミン銀行が日本で營業できない理由」によれば、グラミン銀行の貸出平均金利は推計で十七パーセントから二十二パーセントに達してゐると云ふ。日本の利息制限法では上限金利を二十パーセントに規制してゐるから、グラミン銀行が我國で開業するのはかなり難しいと云はざるを得ない。

 グラミン銀行の貸出金利は日本のサラ金竝と云ふ事になる(いや所謂灰色金利問題を受け、サラ金は上限金利を引下げてゐるから、サラ金以上の高金利と云ふ事になる)。しかし少しく冷静に考へてみれば、資産を持たず、いつ借金を返せなくなるかも知れない個人に對する融資、即ちマイクロクレジットが例へば年利六、七パーセントで成立つ筈が無い。ユヌス氏自身、「慈善事業は貧困問題の解決にはならない」と述べてゐると云ふ。

 道徳的に考へれば、貧しい庶民が資金繰りの手段を得て自らビジネスを興し、經濟的に自立する事は望ましい筈である。ところが日本では「サラ金から法外な利息を請求された人達が可哀相」と云ふ理由で、利息制限法なる法律が出來、その結果、自立を目指す個人が資金を調達する道を塞いで仕舞つてゐる。また、いつまで經つても自己責任と云ふ言葉を知らず、惡質な高利貸に騙される無防備な「善男善女」がゐなくならない。

 さてこのやうな法律が果たして「最低限の道徳」と呼ぶに價ひするか。私は否だと思ふ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年8月13日 (月)

法律は最低限の道徳か

  「法律は最低限の道徳である」とよく云はれる。しかしそれは本當だらうか。今から百六十年前、ある作家は次のやうな文章を書いた。私はこの主張に深く同意するものである。

 權力がいつたん人民の手に握られたとき、多數者の支配――それも長期間にわたる支配――が容認される實際的な理由は、多數者がいちばん正しいと思はれるからではなく、まして彼らが少數者に對していちばん公平であるやうにみえるからでもなく、結局のところ、彼らが腕力においてはるかにまさつてゐるからである。しかし、あらゆる場合に多數者が支配するやうな政府は――正義の觀念に對する人間の理解に照らしてみても――たうてい正義に基礎を置いてゐるとはいへない。[略]私の考へでは、われわれはまづ第一に人間でなくてはならず、しかるのちに統治される人間となるべきである正義に對する尊敬心と同じ程度に法律に對する尊敬心を育むことなど、望ましいことではない。私が當然ひき受けなくてはならない唯一の義務とは、いつ何どきでも、自分が正しいと考へるとほりに實行することである。[略]法律が、人間をわづかでも正義に導いたためしなど、一度だつてありはしなかつた。いや、法律を尊敬するあまり、善意のひとびとすら、毎日のやうに不正に手を染めざるを得ないのである。(「市民の反抗」、飯田實譯、強調木村)

 筆者は『森の生活』で有名なアメリカのH・D・ソローである。ソローは人頭税の支拂ひを拒否した廉で投獄された經驗がある。納税を拒否したのは、奴隷制を支持する政府の態度を道徳的に許し難いと考へたからである。納税拒否は明らかな違法行爲である。もし「法律は最低限の道徳である」ならば、違法行爲を犯したソローは反道徳的な人間と云ふ事になるが、果たしてさうだらうか。奴隸制が道徳的かどうかを常識に照らして考へる限り、事實は正反對であると云はざるを得ない。

  「法律は最低限の道徳である」と云ふ考へ方は、反道徳的な法律に對して無力である。ソローは「市民の反抗」でかう書いてゐる。「不正な法律が存在する。われわれは甘んじてそれに從へばよいのか、あるいは、それを修正しようとつとめながら、われわれの試みが成功するまではそれに從ふはうがよいのか、それともただちに法を犯すはうがよいのか?」。ソローは三つの選擇肢のうちどれを撰ぶかについて明確に囘答してゐる譯ではないが、少なくも「法律は最低限の道徳である」などとは口が裂けても云はなかつたに違ひない。

 我が同胞にはかう反論する人がゐる事だらう。ソローは所詮西洋人ではないか。「人の上の神」を戴く西洋人の流儀を、「人の上の人」しか戴かぬ日本人に當嵌めるべきではない。一神教特有の絶對的道徳規準を日本人は持合はせない。だから日本人は「人の上の人」が作つた法律を最大限尊重すべきなのだ――。しかしこの主張には無理がある。人と法律とは別物だからだ。我々は人の立派な振舞ひに感動する事は出來ても、法律に感動する事は出來ない。また、我々は特定の個人を尊敬し、特定の個人を輕蔑する事が出來るが、法律を最低限の道徳とする立場からは、正しい法律にだけ從ひ不正な法律には背くと云ふ取捨撰擇は出來ない。

 しかし、それならば、日本人は一體どのやうな道徳規準を據り所にすれば良いのか。かつては儒教がその役割を果たしたが、今やそれを復活させる事が可能かどうかは疑はしい。かと云つて、キリスト教道徳を新たな規準に据ゑる事はそれ以上に難しさうである。それでは神道か。佛教か。囘教か。それとも宗教以外の哲學か。この問ひに答へる事は私には出來ない。いやいや、この問題を長年追究して來た松原正氏のやうな碩學ですら、明確な囘答は持合せてゐないのだから、私なんぞに出來る筈が無い。だが間違ひなく云へる事は、ソローが喝破した如く、政治の産物に過ぎぬ法律に道徳の代役を務める事なんぞ――たとへ「最低限」であらうとも――金輪際出來ないと云ふ事である。

| | コメント (12) | トラックバック (0)

2007年6月24日 (日)

介護と云ふ聖職

 六月二十日附中日新聞夕刊「社會時評」で、作家の高村薫が「『公』の姿、『民』の顏」と題する混亂した文章を書いてゐる。

 たとへば、私たちが營々と納め續けてきた國民年金や厚生年金の掛け金が、社會保險廳のコンピューターにきちんと記録されてをらず、宙に浮いてゐる件數が五千萬、六千萬にのぼるといふだけで、そんな役所はもはや信用に値しないし、そんなむちやくちやな行政を放置してきた政治も信任に値しない[略]。

 高村はこの箇所の直前に「もうそろそろ見限るべきは見限り、この國のていたらくにノーを突きつけるときかもしれない、とも思ふ」と書いてゐるのだが、現在の自公聯立政權が「ノー」を突附けられ、例へば民主黨が取つて代はつたとしても、「むちやくちやな」役所や行政が改善する見込みなど無い。社會保險廳に限らず、役所とは政權の別にかかはらず、本來非效率で無責任な存在だからである。民間に任せるべき業務を役所の手から奪はない限り、同樣の問題は何度でも起きる。

 また、生活に直結した不信では、介護保險制度の現状も例外ではない。折しも大手の訪問介護サービス會社が介護報酬の不正請求で處分されたが、そもそも營利の追求を目的とする民間企業の參入は、福祉の本質と相容れないのではないか。

 民間企業が福祉と相容れないと云ふのは事實に反する。世間には介護同樣、人間の生命に關はる仕事でも、民間が立派に擔つてゐる例は多數存在する。例へば人間は毒物を喰ふと死ぬ恐れがあるが、食品は民間の食品メーカーや商社によつて供給されてゐる。大病をして手術をしないと命にかかはるが、醫療機器は專門のメーカーによつて製造されてゐる。介護だけを特別扱ひして民間企業を排除する理由は無い。事實、コムスン問題に關する報道を見る限り、同社のサーヴィスの利用者らは口々に「ヘルパーが來なくなると困る」と不安を訴へてゐた。介護ビジネスに何も良いところが無いのなら、そのやうな發言は出ない筈である。

 そもそも高村は同じ文章の中で、年金記録に關する社保廳の「むちやくちや」を糺彈したばかりではないか。年金は介護保険同樣、福祉制度の一種である。民間の保險會社でも保險金の未拂ひ問題などは起きてゐるが、さすがに記録漏れが「五千萬、六千萬にのぼる」と云ふ篦棒な不始末をしでかしたところは無い。高村の云ふ「むちやくちや」な行政に介護を任せ切りにすれば、その結果は必ずや「むちやくちや」となる筈で、介護報酬の不正請求どころで濟まなくなるのは火を見るよりも明らかである。

 馬鹿念を押しておくが、私は民間企業が完璧だなどと云つてゐるのではない。凡そ人間の行爲に完璧などあり得ず、必ず缺陷が伴ふ。問題はその缺陷を如何に小さくするかなのである。惡質な民間企業はあるだらうが、競争相手の自由な參入が認められてゐれば、利用者にそつぽを向かれていづれ淘汰される(役所は惡質でも淘汰されない)。「公」が「むちやくちや」ならば、それよりも多少(或いは遙かに)増しな「民」に任せるしかない。ところが高村はをかしな事を云ひ出す。

 では、「民」はどうか。郵便制度をはじめ醫療、大學、そして介護など、本來は「公」であるべき性格のものが、改革の名のもとに「公」から放り出され、いまや「民」の顏をしてゐるのだが、この「民」は國民ではなく民間企業である。ここでも本來の「民」すなはち國民はほとんど置き去りである。

 企業は「本來の『民』」である國民とは無關係だと高村は云ひたいらしい。無論、企業は人ではないから國民ではない。しかし云ふまでもなく、企業に資本を出してゐるのは國民だし、企業で働いてゐるのも國民である(高村が「民間企業の元サラリーマンには介護を受ける資格は無い」などと言ひ出さない事を祈る)。

 では高村が考へる「民」とは一體どのやうなものなのか。

 思ふに、福祉とはそもそも無償の善意がなすものである。家庭や地域社會が擔ふにしろ、人のいのちを慈しむのは、ひろく公共の善意をおいてないのであり、そこに營利目的が關はる餘地は基本的にはない。むしろ、この分野での民間企業は、たとへば介護タクシーや入浴サービスのように、地域社會での支へ合ひと「公」の間で、活用されるべきものだと思ふ。そしてもちろん、私たちはやはり、それなりの物理的負擔は引き受けなければならないのである。

  「家庭や地域社會」――。大家族で先祖傳來の土地に住み續けた時代ならいざ知らず、親子が遠隔の土地で暮らす事が當り前になり、轉居や轉勤が日常的となつた現代において、介護へのビジネスの關與を認めず、家庭や地域社會で擔ふなど土臺無理である。殘念ながら、たとへ相手が親や夫、妻であつても、「無償の善意」に基づき、長期間にわたり獨力で、己を殺して奉仕し得る人間は、さう多くはないのである。

 だから「公」に支へて貰ふしかない、と高村は云ひたいのだらう。結局、福祉とは原則「公」の仕事と云ふわけである。米歐のやうな自由主義の傳統を缺く我が國では、高村のやうに考へる知識人は多數派に違ひない。彼らにとつて介護や醫療や教育は、資本主義などと云ふ汚らはしい代物とは無縁であるべき聖職なのである。

 高村は別の箇所で、福祉ビジネスのサーヴィスを享受出來るのは高級老人ホームに入れる金持ちだけだと云ふ意味の事を書いてゐるが、老人ホームであれ介護であれ、需要と供給の法則により、參入する企業が増えれば競爭で料金は安くなるし質は高くなる。介護に求められるサーヴィスはそれこそ一人一人異なるものだから、非效率な役所仕事で滿足に實行できる道理が無い。一方で社保廳の年金問題を攻撃しつつ、他方で介護が「公」の仕事だと主張する高村は、官僚と云ふものの本質を、さらに云へば人間と云ふものの本質を、理解してゐない。官僚とは人間だからである。

 官僚は質の惡い介護サーヴィスを提供しても、ボーナスが減つたり首になつたりする恐れは無い。さう云ふ環境に置かれた人間が眞劍にサーヴィスの向上に取組む可能性はまづ無い。それでも一所懸命やる眞面目な役人は一部にゐるだらう。だがそれを多數に求めるのは無理と云ふものであるし、始末の惡い事に、眞面目であるがゆゑに相手が喜びもしない「サーヴィス」を無理矢理提供して滿足する獨善的な官僚も少なくないのである。

 介護疲れの果てに親や夫、妻を殺めたと云ふ悲慘な事件は後を絶たない。さうした境遇の者(すなはち潛在的には我々の大部分)にとつて介護ビジネスは助けになり得るし、現になりつつあつた。だが今後、高村薫のやうに「公」の介入を求める知識人やメディアの聲援を受けつつ、政治家と官僚は介護ビジネスに對する締附を強める事だらう。そして介護を受ける者やその家族は、いづれ年金問題と同樣の、或いはそれを上囘る犠牲を強いられる事だらう。

| | コメント (16) | トラックバック (1)

2007年6月 3日 (日)

國家に子供を託せるか

 教育と國家・社會の關係について的確な指摘。

 戦前の日本では、国家のために死ぬことが賛美され、いいことだとさえ教えられていました。それが戦争に負け、連合国軍の占領下に置かれると、国民はみんな平等という考え方に変わった。[略]国家や社会の役に立つ人間をつくるのが教育の一側面だとすれば、もし価値観や時代の要請が正反対に変わると、当然、国や社会の目的も正反対のものになります。[略]つまり、教育の目的というのは、国や社会の変化によってコロコロ変わるのです。制度としての教育や価値観などは、国家や社会の都合で変わる。あやふやで不確かなものです。極端なことを言えば、とても信用できるものではありませんし、大切な子どもを託せるものでもない。(『日本の子どもを幸福にする23の提言』 94-95頁、改行省略)

 筆者は青色發光ダイオードの發明で知られる、カリフォルニア大學サンタバーバラ校教授の中村修二氏。古巣の日亞化學工業との特許を巡る訴訟に絡み、金の亡者のやうなイメージが流布された中村氏だが、それが全くの誤解である事は、中村氏自身の著作や小川雅照『父一代の日亞化學』を讀めば分かる。

 年金の運用管理を政府に任せきりにするとどうなるか、最近の報道が如實に示してゐる。それならなぜ、教育を政府に任せるのか。教育は個人にとつて年金と同等か、それ以上に重要な仕事の筈である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年5月24日 (木)

自由の哲學 讀書案内

 木村は新自由主義者であるなどと一部で怪しからぬ事を云ふ人がゐるやうです。

 人聞きの惡い。違ひます。私は自由主義者です。

 私の好きな自由主義者を擧げませう。ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスフリードリヒ・ハイエクヘンリー・ハズリットマリー・ロスバードウォルター・ブロックアイン・ランドミルトン・フリードマンデヴィッド・フリードマンスティーヴン・ランズバーグラッセル・ロバーツポール・ヘイントマス・ソーウェルなど。え? そいつらこそ新自由主義者だつて? ああさう。

 ところで、彼らには共通點があります。彼らの本を讀みもせず、朝日新聞とか世界とか文藝春秋とか正論とかゴーマニズム宣言とかを片手に、「新自由主義は怪しからん」などと云つてゐる連中に比べ、話にならないほど頭が良い事です。上に擧げた中にはノーベル賞を貰つた人もゐますしね、約二名。頭の良い人の話には一度じつくり耳を傾けてみては如何でせう。推薦圖書は人名をクリック。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2007年5月17日 (木)

經濟の牙――西尾幹二氏の珍論

 関岡英之他編 『アメリカの日本改造計画』(イースト・プレス)と云ふ國粹主義的な本がよく賣れてゐるやうだ。掲載されてゐる論文や對談すべてを斬りたくなるが、とりわけ滅茶苦茶な西尾幹二「保守論壇を叱る――経済と政治は一体である」について書いておく。

 日本の経済には牙がない。私が言いたかったのはこのことだ。日本の経済が政治の代行をしていたというのは嘘である。経済が牙を持たない限り、すなわち経済が国家の権力欲や利己心を表現する政治の表現にならない限り、経済が自分を維持することさえ難しくなる隘路に、次第に追い込まれるだろう。

 經濟に牙なんぞあるわけがない。經濟行爲とは、少なくも日本におけるやうな市場經濟では、人間同士による自發的交換を意味する。例へば私がコンビニで二百圓拂つて缶ビールを買ふ。この時、私は二百圓を手放して缶ビールを手に入れ、コンビニの店主は缶ビールを手放して二百圓を手に入れる。この交換は政府や他人から強制されたものではなく、自發的である。そして互ひに自分の欲しい物を手に入れるのだから、雙方に利益をもたらす。交換は平和的である。もし相手を牙ならぬピストルで脅して缶ビールを手に入れたら、それは經濟行爲ではなく、犯罪である。

 それなら經濟行爲を通じて莫大な金錢的利益を蓄積すれば、牙になるのだらうか。否。世界一の大富豪たるマイクロソフトのビル・ゲイツ會長も、暴力による脅しを用ゐる事は勿論、客の頬を札ビラで叩いてソフトを買はせる事も出來ない。もしもビル・ゲイツが私に分厚い封筒を渡しつつ「これでVISTAに乘替へろ」と凄むやうな事があれば、喜んで從はうと思ふが、それでは商賣になるまい。私とマイクロソフトの雙方が互ひの利益を期待して自發的に合意しない限り、製品の賣買と云ふ經濟行爲は成立しない。それゆゑ西尾氏の次の記述も意味をなさない。

 日米間の関係が特殊になったのは、まずは貿易量のせいである。戦後の日本にアメリカが与えてくれたものは大きく、その寛大さが日本の対米関係の性格、片務性、依存性を決定的にした。しかるにアメリカの経済と政治は一体であって、政治だけでなく経済にも牙があるのだが、この当たり前なことが、牙に守られている内側にあった冷戦下の日本人には次第に意識されなくなった。

 たしかに戰後、日本はアメリカに大量の纖維や鐵鋼や自動車を賣つた。だがそれは斷じて「片務性」を意味しない。日本企業が大量の製品を賣る事が出來たのは、それらをアメリカ人が買ひたいと思つたからである。アメリカの競合企業や政府は日本の「集中豪雨的」な輸出を非難したが、アメリカの消費者は日本製品を集中豪雨的に買ひたがつたのである。「賣買」と云ふ言葉が端的に示すやうに、經濟行爲は常に雙務的である。「依存的」と云ふ批判もをかしい。依存と云ふ言葉を使ふなら「相互依存的」と云ふべきである。 

 ソ連との戦いにケリをつけた後のアメリカは、今度は牙を本気で日本に向け始めた。一九八九~九〇年の日米構造協議が「第二の占領政策」といわれ、二〇〇五年の郵政民営化問題にまでまっすぐにつながっているのは、アメリカ経済の牙が戦略的に日本経済を標的として見定めた一大契機となっているからである。アメリカは対日戦略に本腰を入れ始めた。

 冷戰と商賣の話を同列に論ずる論者は西尾氏に限らないが、これこそ平和惚けの最たるものである。アメリカが本氣で日本に牙を向けようと決めたのなら、テーブルを挟んでちまちま協議なんぞせず、キューバ危機の折にソ聯にやりかけたやうに、核ミサイルの一發もぶち込めば濟む話ではないか。將來有望な客を殺す馬鹿な商賣人がどこにゐるだらうか。

 小売店をやめて大店舖にせよ、などという流通改革から、社長の小遣いの出し入れまで問題にした人間の暮らし方への干渉は、日本再占領の趣きがあつた。系列における株の持ち合い、談合、行政指導、労使協調、年功序列、終身雇用といった無言の了解のもとに行われる日本的な「和」の経営法を、アメリカは一挙に破壊しようとした。

 同じ日本人である納税者の金を喰ひ物にする談合のどこに「和」の精神があるのか理解出來ないが、それは兔も角、アメリカが日本の商慣習に苦情を言つたのは事實だとしても、日本もアメリカの貯蓄率が低いだの財政赤字を減らせだのと文句をつけたではないか。関岡英之氏や小林よしのり氏が大騒ぎしてゐる「年次改革要望書」にしても、アメリカが日本に要望してゐるだけでなく、日本からもアメリカに要望してゐる。お互ひ樣ではないか。もしアメリカの要望が通りやすく、日本の要望が通らないとすれば、それは正しく彼我の政治力の違ひを示してゐるに過ぎない。日本は政治の領域において自らの「分際」を辨へなければならない。「經濟力に見合つた政治力を持つべきである」などと云ふ主張は完全に見當外れである。經濟「力」とは他人に對する「力」ではないからだ。 

 人間は經濟の領域にゐる限り、「牙」、すなはち他人への強制力を持つ事は出來ない。繰返しになるが、經濟行爲は自發的だからである。では「牙」はどこにあるのか。政治の領域にある。「政治經濟」などと云ふ言葉があるので、政治と經濟は同質だと誤解する人が少なくないが、兩者はある一點において根本的に異なる。經濟に權力はないが、政治にはある。ビル・ゲイツが稼いだ金のかなりの部分をアメリカ政府は合法的に奪ふ事が出來る。税金である。納税を拒否すればゲイツ氏でも監獄にぶち込まれる。政治が牙を剥き出す瞬間である。但し對内的な發動であるが。

 政府が國民の富を税金として徴收し、その金で例へば軍備を増強すれば、對外的な「牙」になる。だから經濟的に豐かな國ほど大きな「牙」を持ちやすいとは云へる。しかしそれは經濟の「牙」ではない。政治の「牙」である。經濟は國家に屬さない。西尾氏は政治と經濟の區別を理解してゐない。すなはち經濟を理解してゐない。それでゐて經濟について自信たつぷりに語る。アメリカによる改造計劃なんぞより、このやうな言論界の現状こそ憂ふべきである。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2007年5月 9日 (水)

官立遊園地の悲劇

 大阪萬博公園のジェットコースターで死亡事故。遊園地「エキスポランド」の運營主體は民間企業の泉陽興業だが、所有者は財務省管轄の獨立行政法人、日本萬國博覽會記念機構である。ネット上の情報によれば泉陽興業と云ふ會社自體、政治的な色彩を帶びてゐるやうで、それはそれで問題だが、それ以上に、そのやうな會社に運營を「丸投げ」してゐた行政の責任を問ふ聲が少ないのは不可思議である。

エキスポランドを運営する「泉陽興業」とは (大阪民国NEWS

 民間の遊園地でも事故は起きる。但しそれが官立の遊園地と決定的に違ふ點は、深刻な事故を起こせば客が來なくなり、下手をすれば倒産すると云ふ事である。官立企業は絶對に倒産しない。そのやうな樂な環境に置かれた經營者や社員が眞劍に利用客の安全を考へる筈が無い。今囘の事故を受け、政府は遊園地への規制を嚴しくするらしいが、無意味であり税金の無駄遣ひである。官立企業が官立である限り、類似の過ちは必ず繰返される。過ちの囘避を最優先する動機がないからだ。民間企業はそのやうな規制がなくとも、長期的な費用と收益を天秤に掛けて自主的に安全対策を実施する。

 民主主義國家に於いては政治家の票になる法令しか作られないから、票にならない分野のルールは放置され放しになる。今囘の事故の遠因も、遊園地にメリーゴーラウンドくらゐしかなかつた時代の古い安全基準が、「絶叫マシン」全盛の現在に到るまで見直されないままだつた事にある。こんな事は民間企業ではあり得ない。政府は全ての官立遊園地を公正な手續きで民間に売却し、遊園地事業から手を引くべきである。政府に個人の安全の面倒を全てみて貰ふと云ふ發想から、日本人は好い加減に拔出さなければならない。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

2007年5月 5日 (土)

檢察の暴走

 平成山人さんのブログで紹介されてゐた魚住昭『官僚とメディア』(角川ONEテーマ21)を買つて來た。「特搜檢察はいまブレーキの壊れた車のやうに暴走し始めてゐる」と云ふ一文で始まる第六章「檢察の暴走」では、ライブドア・村上ファンド事件を取上げてゐる。魚住氏はかう指彈する。

 一見華やかでも、搜査の中身は疑問だらけだ。これほど無理筋の經濟事件は戰後檢察史にもほとんど例がない。新聞やテレビではあまり報じられないが、「強制搜査に値する犯罪が本當にあつたのか。特搜の權力濫用ではないか」と言ふ法曹界や經濟界の關係者は多い。今や、檢察の公正さに對する信頼は音を立てて崩れつつあると言つてもいい。(130頁)

 搜査の具體的な問題點について、「證券取引法の專門家として知られる大學教授」はかう語る。

 檢察はライブドア側が投資事業組合で先行取得してゐたのを隱してゐたとか、買收時の價格算定が不公正だつたとか言つてますが、投資事業組合で先行取得しておいて、その後で株式交換して傘下に収めるのがいけないといふルールはどこにもありません。買收の價格算定にしても、ついこの間までみづほグループの三行統合のやうに合併比率を互ひのメンツを尊重して一對一對一などとやつてゐたわけでせう。それに、今の東證のTDネットに開示される各社のニュースリリースのうち嚴密な意味で完璧なのがどれだけあるんですかね。あの程度で僞計とか風説の流布と言ふのは無理があるんぢやないでせうか。(135-136頁)

 また、元特搜檢事で桐蔭横濱大學コンプライアンス研究センター長の郷原伸郎教授はかう指摘してゐる。

 特に起訴事實の中心となつた(1)[“自社株食ひ”と呼ばれる會計處理]は、從來の刑事處罰の對象となつてきた粉飾決算事件とは明らかに性格が異なつてゐます。要するに『儲かつたか、儲からなかつたか』『財産が増えたか、減つたか』ではなく、『儲けた金をどう會計處理するか』といふ會計處理上の技術的な問題なのです。しかも、最近のファイナンス理論では、自社株賣却益も本業による利益と本質的な違ひはなく、売り上げとして計上することも必ずしも違法ではないといふ考へ方もあり得ます。こんな會計處理上の微妙な問題について、法律や會計が專門ではない堀江[貴文]被告が違法性を認識してゐたことを立證するのは容易ではないでせう。(138頁)

 魚住氏のこの著作や大鹿靖明『ヒルズ默示録・最終章』(朝日新書)などを讀む限り、ライブドア・村上ファンド事件における檢察の主張には、やはり相當無理があるやうである。根據も無く「妥当な判決だと思う」などと斷言して仕舞ふ人は、マスコミに洗腦されてゐる可能性が大なので御用心。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2007年4月29日 (日)

道徳・歴史教育なんていらない

 中央教育審議會の山崎正和會長が記者會見で「道徳教育・歴史教育は必要ない」と發言。

 山崎氏は「人の物を盗んではいけないかは教えられても、本当に倫理の根底に届くような事柄は学校制度になじまない」と話した。妊娠中絶や、競争社会で勝者と敗者が出ることなどを例に挙げ「学校で教えられるような簡単な問題ではない」と述べ、安易な道徳強化論にくぎを刺した。その上で、「代わりに順法精神、法律を教えればいい」と話した。/山崎氏は「歴史教育もやめるべきだ。わが国の歴史はかくかくしかじかであると国家が決めるべきではない」とも指摘。「歴史がどうであったかは永久に研究の対象」と述べ、同じ事柄を正反対に記述した歴史文学2冊を読み比べさせることを提唱した。(東京新聞

 政府による公教育を前提とすれば、山崎氏の主張は基本的に正しい。道徳的・歴史的問題に政府がかかはると碌な事はない。專門家の間でも永久に解決がつかないかも知れない問題について、政府が「正しい」判斷を出來る道理がないし、無理に一定の見方を強制すれば教育現場が政治的に紛糾する事は證明濟みだ。道徳教育・歴史教育は即刻廢止すべきである。奈良の大佛は誰が造らせたかとか、徳川家康はいつ幕府を開いたかとか、日本はどの國と戰爭したかとか、さう云つた事柄なら本やテレビで幾らでも自習出來る。

 私學であれば教育内容は自由だし自由であるべきだから、やりたければ道徳教育・歴史教育をやつて構はない。歴史の時間を全て從軍慰安婦問題に費やさうが、道徳の時間で教育勅語を暗唱させようが、學校經營者の責任に於いて勝手にやればよい。尤も生徒が集まるならの話だが。

 もし私が私學の經營者なら、日本語、英語、數學の三教科だけを、たつぷり時間をかけて教へる學校にする。理科は數學の應用として一部教へるかも知れないが、歴史・道徳・美術・體育は一切やらない。教育が政府の規制から完全に自由になれば、歴史・美術・體育を專門に教へる學校も出て來るかも知れない。それはそれで良い事だと思ふ。

 山崎正和氏に云ひたい事は一つだけ。そもそも中央教育審議會などと云ふ代物が不要なのである。もちろん、文部科學省も。政府は教育から手を引け。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年4月19日 (木)

「銃社會」は亂射事件の原因か

 三十二人が殺害されたヴァージニア工科大での銃亂射事件をきつかけに、「銃社會アメリカ」を批判し、銃規制の強化を求める聲が高まつてゐる。しかし銃所有は本當に亂射事件の原因なのだらうか。アメリカのある自由主義的コラムニストは、寧ろ銃規制こそが今囘の悲劇を惹起こしたのだと論ずる。

 二〇〇六年、ヴァージニア州の州立大學の學生と職員に銃の攜行を認める法案が、州議會で否決された。ヴァージニア工科大の代表者は「廢案によつて、保護者、學生、教員、訪問者はキャンパスが安全だと感じるだらう」と述べた。/多分、多くの人が安全だと感じたのだらう。だが今や皆が明白な事實として認識しなければならないのは、犯罪者は法に從はないと云ふ事だ。殺人を禁ずる法に服する氣の無い者は、武器の攜行を禁ずる法の前でたじろいだりしない。銃規制で銃を一掃出來ると云ふ考へはお伽噺に過ぎない。實の所、銃規制は法に從はうとする人から武器を取上げ、犯罪者に對して無防備にして仕舞つてゐる。銃規制は學生を無力にし、殺人者を食ひ止めるには何の役にも立たなかつたのである。(アンソニー・グレゴリー「保護・武裝解除・大虐殺」)

 そもそも自らの安全確保は個人の基本的權利である。その權利を政府が人々から奪ひ、個人による自衞を許さない事を多くの市民は不思議に思はないが、それはをかしな事ではないか。アンソニー・グレゴリーはかう續ける。 

 今日、アメリカ人は政府が自分達を守つてくれると信じてゐる。だがそれは全くの見當違ひだ。一九九九年、コロラド州コロンバイン高校で二人の生徒が十二人のスクールメイトと一人の教師を射殺した時、犧牲者が失血死しそうだと云ふメモを生徒が窓に掲げてゐたにもかかはらず、警察特殊部隊は建物に突入するまでの重要な時間、二の足を踏んでゐた。「9.11」の同時テロでは、ハイジャックに遭つた犧牲者らが勇敢に反撃し、被害の擴大を防いだが、乘取られた四機の乘客乘員は皆武器の攜行を許されてをらず、カッターを持つた數人の狂信者に對して不利に立たされた。ヴァージニア工科大でも英雄的な個人はゐたが、彼らは法など氣に懸けぬ犯罪者に對し不利であつたにもかかはらず、生命を救ふため力を盡くしたのである。

 コロンバイン高校の生徒や教師が規制で銃の攜行を禁じられてゐなかつたら、ハイジャックされた飛行機の乘客乘員が武器を持つてゐたら、そしてヴァージニア工科大の學生や職員に銃があつたなら、少數の無法者に對しもつと有利に立ち向かふ事が出來た。それ以前に、無法者が犯罪行爲そのものを思ひ留まつた可能性もある。グレゴリーは「銃規制は虐殺を無くさない。虐殺を可能にするだけだ」と言ひ切る。正しい指摘だと思ふ。

 アメリカにもコロンバイン事件を題材に映畫を撮つたマイケル・ムーアをはじめ、銃規制を叫ぶ言論人は少なくないが、我が日本では銃批判以外の言論を見た事が無い。ましてや今囘のやうな亂射事件が起きたりすると、忽ちどのメディアも金太郎飴のやうな銃社會批判一色となる。いづれ馬鹿な保守派知識人が「だからアメリカは野蠻國で日本は文明國」などと書いたりするだらう。

| | コメント (6) | トラックバック (1)

2007年4月 2日 (月)

『迷信の見えざる手』

 早いもので「地獄の箴言」を始めて七年經つた。八年目もどうぞ宜しくお願ひ致します。氣分一新でデザインもまた變へました。

 そもそもサイトを始めたのは松原正先生の思想について書きたいと思つたから。取上げる題材は徐々に廣がつて行つたが、それでも文學・宗教・國語問題等が中心で、自分が曲りなりにも職業上專門としてゐる經濟については殆ど觸れて來なかつた。理由は三つある。第一に、仕事を思ひ出すやうな話を趣味で書いても詰らないから。第二に、經濟と趣味の分野を關聨附けて考へる事が出來なかつたから。そして第三に、經濟について實は無知だつたから。

 しかし最近、專ら經濟學や經濟思想の本ばかり讀み漁つてゐる。趣味で關心を持つて來た分野と經濟との關聨も朧氣ながら自分なりに考へられるやうになつて來た。まだまだ勉強の途上だが、いづれこれらの事柄について書ければと思ふ。

 最近讀んだ本から。

 日本人は基本的には自分の生活に即した具体的な事実に関する情報にしか関心を持たない。「観念の世界」や「超現世的な世界」には関心がないので、そのような世界にかかわる情報である「大思想」や「大宗教」にも真の関心を寄せることはない。関心があるのは役立つ情報であり、ご利益なのである。(竹内靖雄『迷信の見えざる手』 第十七章「愚者の楽園」)

 かうした日本人が集まつて作る我が日本國を、竹内靖雄は必ずしも否定してゐる譯ではない。皮肉を交へつつも「戦争さえやらなければ、日本のようにおとなしくて粒のそろった島国人間ばかりの国では、特別の賢人のいらない『愚者の楽園』の実現も不可能ではない、ということであろうか。それは現に存在している以上不可能とはいえない」と書いてゐる。愚者の樂園は日本の文化なのかも知れないし、樂園である事に變りはないのだ。尤も、竹内は忘れずかう附け加へてゐる。「ただし特別の条件の下でのみそれは可能であって、『愚者の楽園』が続くのは、愚者が試されるような危機が来ない限りにおいてである。」

 「愚者が試されるような危機」。それは例へば外國による侵略であらう。これでやつと『憲法九条を世界遺産に』に話がつながつた。次こそは感想を書く事にしよう。「次」がいつか分らないけれど。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年3月20日 (火)

法と道徳とホリエモン

 ホリエモンこと堀江貴文被告に實刑。

 判決の最後に、子供から裁判所に送られてきた手紙が朗読されたらしい。裁判官の意図は不明だが、被告が涙を流して改心すれば済んだ問題なのか。それとも、論理的ではない判決を書いたことを他のトピックスで隠蔽するための方策か。裁判長は「実刑判決を言い渡したが、あなたの人格を否定したわけではない」とも言ったらしい。そもそも、裁判は罪を裁くところで、人格を裁くところではない。裁判官にそんな権限があるはずがない。この、判決公判全体に漂う安っぽさはなんだ。(「東京地裁の堀江判決を批判する」)

 「裁判は罪を裁くところで、人格を裁くところではない」。その通りである。ところが日本は法と道徳を峻別しない國だから、安手のお涙頂戴の芝居のやうな裁判が堂々と罷り通る。

 保守派言論人の多くはホリエモンを忌み嫌ふが、人格と有罪無罪は全く關係の無い事柄である。かつて松原正氏はロッキード裁判で被告となつた田中角榮元首相を擁護したが、それは元首相の人格を高く評價したからではない。法と道徳を混同する日本社會に警鐘を鳴らさんとしたからに他ならない。

 法と道徳の混同は日本の傳統の惡しき側面であり、惡しき側面は正すべく努力しなければならない。

 西洋的思考に基づいて日本の傳統(の一部)を批判する松原氏が保守派言論人から忌み嫌はれるのは、自然な事なのかも知れない。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年2月28日 (水)

教育と政治を分離せよ

 「君が代のピアノ伴奏命じた校長の命令は合憲」と最高裁判決。

 東京都日野市立小学校の99年の入学式で「君が代」のピアノ伴奏をしなかったとして戒告処分を受けた女性音楽教諭が、都教育委員会を相手に処分取り消しを求めた訴訟の上告審判決が27日、あった。最高裁第三小法廷(那須弘平裁判長)は「伴奏を命じた校長の職務命令は、思想・良心の自由を保障する憲法19条に反しない」との初判断を示し、教諭の上告を棄却した。5裁判官中4人の多数意見で、藤田宙靖(ときやす)裁判官は反対意見を述べた。 http://www.asahi.com/national/update/0227/TKY200702270392.html

 私自身は「君が代が過去の日本のアジア侵略と結びついている」と主張する原告音樂教諭の「歴史観・世界観」には全然同意しないし、校長によるピアノの伴奏命令が「特定の思想を持つことを強制・禁止したり特定の思想の有無の告白を強要したりするものではない」との多數意見は妥當な線なのだらうとも思ふ。しかし只一人反對意見を述べた藤田裁判官が完全に間違つてゐると言ひ切るだけの自信も無い。藤田裁判官はかう述べたと云ふ。

 藤田裁判官は「君が代斉唱の強制自体に強く反対する信念を抱く者に、公的儀式での斉唱への協力を強制することが、当人の信念そのものへの直接的抑圧となることは明白だ」として、審理を高裁に差し戻すべきだと述べた。

 そもそもなにゆゑ教育現場を舞臺として幾度と無く違憲訴訟が起るかと云へば、教育、特に義務教育を政府がほぼ一手に取仕切つてゐるからである。違憲訴訟の對象は政府機關に限られる。今囘の問題も東京都日野市立小學校で發生し、被告は東京都教育委員會であつた。

 日本の場合、私立も補助金行政を通じて政府に首根つこを押さへられてゐるものの、公立に比べれば學校經營者の裁量は自由だらう。義務教育と大學では事情が異なるが、例へば、私立の國士舘大學や拓殖大學で君が代のピアノ伴奏を教師が拒否して問題になつたと云ふ話は聞いた事が無い。教員が大學の教育方針を承知の上で雇用契約を結んでゐるからだ。「式典の際は君が代を伴奏する事」と云ふ文言を契約書に豫め盛込んでおけば、後から問題になる氣遣ひは無い(私人同士の契約にも政府が理窟をつけて介入する場合があるので安心は出來ないが)。さうさう、今思ひ出したが、ミッション系の大學や小中學校で信教の自由が問題になつた事も無い。但し眞の自由を得るには、税金で賄はれる學校では駄目だ。

 教育方針を完全に自由にすれば、君が代は生徒に絶對歌はせないし、日章旗は絶對に掲げないと云ふ小中學校も出て來るかも知れない。一向に構はないと思ふ。それでも保護者の信頼を得るのであれば隆盛を誇つて行くだらうし、駄目な學校であれば潰れるだけの話である。逆に、幾ら君が代斉唱や日章旗掲揚に熱心でも、肝心の知育が疎かな學校は相手にもされまい。

 今囘の判決が專門家からみて妥當なのか不當なのか、私には分らない。しかし教育を政治の手から取戻さない限り、不毛な法廷闘争は何時までもあちこちで繰返され、生徒とその親達は迷惑し續ける事だらう。

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2007年2月24日 (土)

49の惡と51の善

 「言葉の救はれ」コメント欄より。

 政治は、たとへ49の悪を為しても、51の善を為せば良いと判断すべきものだと思ひます。

 ある政治の爲す事の善が51で惡が49であると、どのやうに判斷するのだらう(結局それは前田氏の主觀による他は無いと思はれる)。いつもの事だが、前田氏の主張は客觀的基準を全く缺いてゐる(前田氏の屬する學會ではこれで十分通用するのかも知れないが)。

 また、国会で議決された教育基本法にたいして、「悪法は法にあらず」といふ理解をお持ちなら、また別の議論が必要でせう。

 前田氏は「(原則として)惡法も法なり」と云ふ理解をお持ちのやうだ。ところで前田氏は、自分自身の價値觀と異なる法律が成立した時も「法律なのだから從へ」と同じやうに云へるのだらうか。さうは思へない。前田氏にとつて法律とは、自分が信奉する道徳的價値觀を盛込んだものであるべきなのだから。ユダヤ人虐殺は、當時のドイツ國内では合法だつた。この一事を以てしても、「惡法も法なり」と云ふ考へ方が誤りであり、「惡法は法に非ず」と云ふ考へ方こそ正しいと私は思ふ。

| | コメント (13) | トラックバック (0)

2007年2月21日 (水)

國家が人間を作る

 前田嘉則氏(私は批判する相手を「誰かさん」などと呼ぶ高尚な趣味は無いので實名で失禮させて戴く)に以下反論する。

 加地伸行氏は、「道徳と法とを峻別せよ」と語つた。そして教育基本法に「先祖を敬愛せよ」との文言がないことを批判した。先日、書いた通りである。/このことにたいして、道徳と法とを峻別せよと言ふ人間が、教育基本法には道徳的價値を