2006年12月27日 (水)

不正確な表現で論理的な文章が書けるか

 小野田博一『13歳からの論理ノート』(PHP)より。小野田氏の本はどれも面白い。

 日本人は「説明が不十分だつたり不正確だつたりする文章」から書き手の意圖を汲み取る訓練を國語の時間に受けてゐるので、「表現が不正確な文章を讀んでも、不正確とは思はないし、自分で文章を書くときも、不正確な表現の文章を書きながら正確な表現の文章を書いたつもりでゐる」――そのやうな人が多いのです。[假名遣ひ・漢字表記は變更。強調は原文のまま]

 この後、小野田氏はクイズを一問出す。次の文章のどこが不正確な表現か、お分りになるだらうか。ちなみに私は分らなかつた。

 【文例A】インターネットでの檢索やEメールの送受信に費やす時間が1日に數時間にもなると……

 答。「Eメールの送受信は、ふつう數秒なので、加算する意味がないのです」。云はれてみればその通り、正しくは「インターネットでの檢索やEメールの讀み書きに費やす時間が…」であらう。讀者の中には「何だその程度の事」と思ふ人が少なくないかも知れない。しかし一事が萬事。細部の論理的缺陷に鈍感な人間に、大局的に筋道立つた文章を書ける道理が無い。小野田氏はかう強調する。

 「『Eメールの送受信』といふ不正確な表現でも『Eメールを書いたり讀んだりすること』の意は讀み手に通じるから、それでもいいんだ」などと考へたりしてはいけません。不正確な表現では間違ひなのです。

 松原正氏は論敵の文章表現の缺陷を屡々論ふ。それを「揚足取り」と非難するアンチ松原は少くないが、それこそ「表現が不正確な文章を讀んでも、不正確とは思はない」日本人の典型的反應である。事柄を正確に論ずるには正確な表現が必要である。粗雜な表現でも理解出來るやうな事柄は確かに存在するが、それは所詮論ずるに價しない些事なのである。

 さて小野田氏のクイズをもう一つ紹介しておかう。今度は不正確な表現が複數ある。

 【文例B】Eメールのおかげで、日本人は、面と向かつての對話や議論などをほとんどしなくなつた。それでなくても話し下手で通る日本人が、面と向かつてのディベート[中略]の機會を失つた結果、ますます口下手の度合ひを強めつつある。(同書111頁)

 囘答は各自、本で確認されたい。

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2005年10月 2日 (日)

ローマが燃えるのを見ながら

 御陰樣で松原先生の講演會を無事に終へる事が出來ました。皆樣有り難う御座いました。本日のお話の關聨情報。

 [週刊朝日は]間缺的に横紙破りの蠻勇を揮ふのもよいが、「輕薄短小」となつた朝日ジャーナルを横目に見つつ、もつと巧妙な手口で保革を問はぬ知的・道義的怠惰を剔抉して貰へまいか。[中略]オーウェルはヘンリー・ミラーを評して、「ローマが燃えてゐる時も、焔を直視しつつヴァイオリンを彈く」と言つた。週刊朝日がまさか、『諸君!』の尻押しは出來まいが、ニクラスだの新一萬圓札だのといふ無難な話題を提供するだけでなく、せめてもの事、焔を直視しながらヴァイオリンを彈いて貰ひたいと思ふ。(松原正「週刊朝日の糞度胸」、地球社『續・暖簾に腕押し』所收)

 そのオーウェルのミラー評を含む文章は次の通り。
 彼[ミラー]は「革命的」作家たちの大多數よりもはるかにしつかりと西洋文明のやがて來たるべき沒落を信じてゐると私は思ふ。ただ彼はそれについて何かする義務を感じないだけだ。彼は、ローマが燃えてゐる時にヴァイオリンをひいてゐるのだ。しかしこんなことをする連中の多くと違つて、自分の顔を炎に向けてひいてゐるのである。(ジョージ・オーウェル「鯨の腹のなかで」、鶴見俊輔譯、平凡社『オーウェル評論集3』所收)

 オーウェルによれば、西洋にも焔を直視せずにヴァイオリンばかり彈いてゐる手合ひは少くないらしいのですが、日本に「焔を直視しながらヴァイオリンを彈」く、すなはち、公と私の二元論を理解して物を書く知識人が殆ど存在しない事は確かです。

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2005年5月13日 (金)

普遍と特殊

 松原正氏の著作においては、「洋の東西を問はず人間なら誰でもやらかす行爲」と、「西洋人或いは日本人であるがゆゑにやらかす行爲」との雙方が説かれてゐる。戰爭論においては、ローレンツを引用して人間の攻撃性を指摘した箇所は前者に屬し、ハムレットを引いて西洋人の正義病を論じた箇所は後者に属する。

 文化について論ずる際には、普遍論と特殊論とを區別し、且つ雙方を重視する必要がある。

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2004年12月28日 (火)

或る松原信者の辯

 燒鳥屋で樂しい一時を過ごす。以下醉つた勢ひで雜感。

 松原正ファンの中に時々、「私は松原信者ではない」と斷る人がゐる。察するに、自分は松原氏の云ふことを全て無批判に受容れる主體性の無い人間ではないと釘を刺しておきたいのであらう。しかし熱烈なる松原信者の私に云はせれば、それは贅言に過ぎない。松原氏がその著作や講演で何よりも強調してゐる事、それは「自分の頭で論理的に考へよ」と云ふ一語に盡きる。従つて、眞の松原信者であれば、たとひ「教祖」自身の發言であつても、それが正しいか否かを自分の頭で論理的に吟味し、然る後に「信者」であり續けるかどうかを決斷してゐる筈である。換言すれば、自分の頭で松原氏の發言を吟味してゐると自負する者は、「松原信者ではない」などと斷る必要は無い。寧ろ、「松原信者である」と臆面もなく公言すべきなのである。私のやうに。

 口語譯の現代版聖書で洗禮を受けた人間は基督教徒として信用出來ないと云ふ話。全く同感である。聖書に書いてあるではないか、「太初(はじめ)に言(ことば)あり」。言葉の重要性を知らない者は文化を知らないのであり、文化を知らない者は人間を知らないのであり、人間を知らない者が人間を救へる筈がないのである。

 政治と文學。政治的に行動しようとすれば妥協が必要である。金を集める實力が必要である。文學は理想を追求するがゆゑに、政治の立場からすれば「何を暢氣な事を」と感ずる場面もあるだらうし、事實、極樂蜻蛉としか表現出來ない獨善的な文學者(哲學者・言論人)も少なくない、いや、さう云ふ連中の方が壓倒的多數派である。にも拘はらず政治に先行する領域として文學は必要であるし、政治家や政治活動家はその必要性を忘れるべきではない、と書いて締め括らうと思つたが、現代日本に於いて政治家や政治活動家の心を動かすだけの思想を持つ言論人がどれだけゐるだらうかと云ふ疑問に再度思ひ到り、何とも齒切れの惡いまま寢る事にする。お休みなさい。

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2004年4月28日 (水)

松原正名言集 愚者も政治家を罵る

 鈴木首相、福田元首相、および二階堂幹事長による後繼總裁選出についての話合ひを、サンデー毎日十一月七日號は「限りなく愚かで、醜惡で、バカげてゐて、笑ふ氣さへしない茶番劇」と評し、「國民は、彼らに見合つた政治家しか持てないといふ。だが、我々はこんなにも愚かで、こんなにも哀れな國民だつたのだらうか」と書いてゐる。政治家は「限りなく愚かで、醜惡で、バカげて」ゐるが、週刊誌の記者を含む日本國民は決して愚かでないと毎日は言ひたいらしい。が、果たしてさうか。(中略)やはり、政治家と國民は破れ鍋に綴蓋なのである。/しかるに、綴蓋が破れ鍋の「醜惡」を言ふ滑稽に、大方のジャーナリストも政治評論家も氣づく事が無い。(「愚者も政治家を罵る」『續・暖簾に腕押し』 地球社 140頁)

 松原正氏が上記の文章を書いたのは昭和五十六年だから、もう二十年近く前である。しかるに現在に至るも、政治家の「『醜惡』を言ふ滑稽」は堂々と罷り通つてゐる。

 週刊新潮十一月九日號は、中川秀直官房長官の辭任劇を受けて卷頭で四頁にわたる政治記事を載せた。その題名が「この國の誇りある人々を失望させた森首相、中川スキャンダルを人權侵害とのたまふ自民黨の厚顏、永年の利權にあぐらをかいて猿芝居ばかりのあなた方に國民は呆れ返つてゐる」。無闇に長いタイトルで注意を引かうと云ふ算段だらうが、この題名を見ただけで、如何に空疎な内容か想像がつく。少なくもこの私は、「中川スキャンダルを人權侵害とのたまふ自民黨の厚顏」とやらに呆れ返つてなどゐない。呆れ返るべき対象は、週刊新潮の知的怠惰の方である。

 中川長官に「トドメ」を刺したのは、週刊新潮と同じ版元の「フォーカス」誌がテレビ局に提供し、ニュースー番組で一齋に流された長官と「愛人」との會話録音テープである。新潮の記事によると、亀井静香政調會長は自民黨の會合で「一連のテレビ報道は明らかに人權侵害だ。個人的なことを際限なしに放送したらどういふことになるのか。人權と報道の問題を考へるため、通信部會の小委員会で檢討していきたい」と「まくしたて」、野中幹事長は「おつしやる通り」と相槌を打つたと云ふ。新潮は「野中氏や亀井氏の思想はまさしく全體主義國家のそれ」と息卷くが、亀井氏野中氏の言ひ分のどこが「全體主義國家のそれ」なのか。新潮の記者や編輯者は、夫子自身の「個人的なことを際限なしに放送」されても構はないと云ふのか。

 かう云ふと、新潮はきつと「政治家は公人だからプライヴァシーなんぞ無いのだ」と反論するであらう。實際、この記事でも用意周到に元衆議院議長の田村元氏からそのやうな趣旨の談話を取つてゐる。では尋ねるが、週刊誌記者や編輯者を含むマスコミ關係者は「公人」ではないのか。國民の「知る權利」に應へるとの大義名分の下、「報道の自由」を付與された報道關係者こそ、現代における「公人中の公人」ではないのか。マスコミ關係者は立派な公人として、自分自身や親族や「愛人」やのプライヴァシーをテレビや雜誌で暴き立てられても文句は言へないと云ふ事になりはしないか。マスコミは民間企業だから違ふと云ふか。それなら銀行の頭取や大企業の社長は「公人」でないと云ふのか。今はテレビタレントですら「公人」扱ひされる世の中である。

 「公人」を理由に人權侵害が許されるのであれば、少なくも「公人」とは何か、そして「公人」に對しては如何なる理由でどの程度迄の權利侵害が認められるかと云ふ事をはつきりさせておかなければ、多少なりとも公共に係はる仕事に就く人間は枕を高くして寝られなくなる。そして、廣い意味の公共に全く係はらない仕事なんぞ世間に存在しないのだから、國民全員が安眠出來ないと云ふ事になる。「全體主義國家」よりもこちらの方が餘程恐ろしいではないか。いやいや、これこそ「全體主義國家」なのである。獨裁者の名を「嫉妬」と云ふ。

 新潮はさらに亀井氏の「人權侵害」と云ふ言葉に噛付き、「人間通」の谷澤永一氏を擔ぎ出して人權思想批判を一席ぶたせる。谷澤氏曰く、人權といふ言葉を生み出したルソーはもともと孤兒で、ジゴロで、五人の子供を捨て子にした人物である。「今囘、亀井、野中といふ出たとこ勝負のハッタリ人間がかういふ言葉を使つて自分たちの利益を守らうとしたことで、國民も人權といふ言葉の本質を改めて知つたんぢやないでせうか」。

 勿論、人權思想の根本に潛む危險から眼を逸らすべきではない。だからと言つて、「人權」と名の附くものを全て排除すれば、人權思想のうへに打建てられた現代の法秩序は滅茶苦茶になつて仕舞ふ。例へば日本國憲法第三十一條の定める法定手續の保障、第三十二條の定める裁判を受ける權利等が無くなれば、我々はいつ闇黒裁判で有罪の濡れ衣を着せられたり、私刑で殺されたりするか判らなくなる。アメリカの「訴訟地獄」に見るやうに法治主義にも弊害はあるが、だからと云つて、法治主義を安易に否定すれば、さらに大きな弊害が待つ事は云ふまでもない。

 プライヴァシーの保護は、憲法においては通信の秘密、住居等の不可侵等として規定され、刑法においても通信の秘密や住居を侵す事は犯罪と規定されてゐる。日本が法治國家である以上、正當な理由が無い限り侵してはならない權利である。録音テープを材料に中川長官に辭任を迫つた報道機關や政治家やそれを支持する國民は、目的さへ正しければ法を踏みにじつても好いと考へてゐるのである。野中幹事長は北朝鮮寄りだとて屡々非難されるけれども、「中川スキャンダル」で御粗末な法意識を露呈した日本人が北朝鮮の全體主義を批判する資格は無い。

 無論、中川長官は録音テープを證據に犯罪容疑者として逮捕された譯ではない。官房長官の職を辭しただけであり、國會議員としての身分は保持してゐる。しかし、だからこそ始末に惡いのである。不正な手段で入手された「證據」(と云ふには餘りにも具體的搜査情報に乏しい會話内容であるが)で閣僚が逮捕されたのなら、まだしも贊否を巡る議論が起こる望みがある。だが今の世の中、高々官房長官を辭めたくらゐでは誰も問題にして呉れない。それほど日本國民の法感覺は麻痺してゐるのである。これは中川氏が政治家として有能かどうかと云つた議論とは全く次元の異なる問題である。

 一般國民にとつて、身分の高い政治家を嘲笑したり罵倒したりする以上の痛快事は無い。しかし、政治家に限らず、他人を嘲笑し罵倒したからと云つて、自分自身がその分立派になる譯ではない。一人前の大人ならば、自分と政治家とは所詮「破れ鍋に綴蓋」である事を忘れてはならぬ。しかるに、大半の日本人はそれを忘れて、己が「正義」に醉拂つてゐる。もはや病膏肓に入ると云ふべきであらう。
(平成12年11月10日)

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松原正名言集 戰爭は無くならない

 未來永劫人間は決して戰爭を止めはしない。なぜなら、戰爭がやれなくなれば、その時人間は人間でなくなる筈だからである。では、人間をして人間たらしめてゐるものとは何か。「正義とは何か」と常に問はざるをえぬといふ事、そして、おのれが正義と信ずるものの爲に損得を忘れて不正義と戰ひたがるといふ事である。即ち、動物は繩張を守るために戰ふに過ぎないが、人間は自國を守るために戰ふと同時に、その戰ひが正義の戰ひであるかどうかを常に氣にせずにはゐられない。これこそ動物と人間との決定的な相違點なのである。(『戰爭は無くならない』 地球社 14頁)

 シェイクスピアの戯曲『あらし』は、暴風雨に襲はれ沈沒寸前の船上の場面から始まる。仕事の邪魔だからと云つてもなかなか船室に降りようとしない老顧問官ゴンザーローを、水夫長はかうどやしつける。

 あなた樣は顧問官だ――一つ、命令一下この浪風を鎭め、忽ち凪にして貰ひませうか、さうすれば、私らはもう一生帆綱に手は出しますまい。さ、御威光を見せて頂きませう……それが出來ないなら、よくぞけふまで生き延びて來られたものと神樣にお禮を申述べて、一先づ船室に引き退がつて、今はの覺悟をして置いて貰ふんですな(後略)。(福田恆存譯)

 無論、たとへナポリ王國の顧問官とて、「命令一下この浪風を鎭め、忽ち凪に」出來る道理は無く、ゴンザーローはすごすごと引き退がる。水夫長がゴンザーローをかくの如く罵り、それを聽いたゴンザーローが默つて退散するのは、二人の登場人物が、すなはち、作者たるシェイクスピアが、神ならぬ人間に自然を意の儘に操る事など絶對不可能であると云ふ、餘りにも當然の事を知つてゐるからに外ならない。

 しかるに現代の日本國では、信じ難い事に、「命令一下、浪風を鎭め」るのと同樣の奇蹟を起こせるかのやうに振舞ふ國會議員が多數を占め、國民もそれを怪しまない。森總理の「神の國」發言騷動の蔭に隱れて餘り話題にならなかつたが、去る衆議院總選擧の直前、聯立與黨は「戰爭訣別宣言」なるものを提案し、衆院本會議において與黨のみで可決した。野黨は決議に反對したけれども、宣言の内容に反對した譯ではなく、「神の國」發言による失點を與黨が挽囘すると困るから抵抗したに過ぎない。

 自由黨の西村眞悟代議士は、選擧終了後に「世論」誌に寄せた文章で、「病氣訣別宣言をすれば、病氣が消えて無くなり醫者も病院も不要になるのか。子供でもこのやうな決議を信じない」と批判し、選擧戰中にも同樣の批判をしたさうだが、西村氏によると、「戰爭訣別宣言」のかかる幼稚と僞善とを指摘した候補者は同氏以外には皆無だつたと云ふ。「神の國」發言を躍起になつて非難した知識人もメディアも有權者も「戰爭訣別宣言」は全然批判しなかつた。恐るべき事である。

 また、「文藝春秋」十月號の「新聞エンマ帖」からの孫引きだが、「東京新聞」は八月十五日付朝刊社説で以下のやうな「トンデモ」ない提案を行つたと云ふ。

 「日本は2045年までは、いかなる戰爭にも參加しない」。このことを内外に誓ひ、實行することです。1945年の敗戰から百年です。既に五十五年やつてこれたのですから、あと四十五年、私たちの努力しだいで達成できないことはありません。

 戰爭をやらずに「既に五十五年やつてこれた」のは、冷戰が續くと云ふ幸運に惠まれたからに過ぎない。そもそも、日本人は戰爭に「參加」しない爲に此れ迄どんな「努力」をしたと云ふのか。「『參加』つて何だ。戰爭をオリンピックか何かと間違へてゐるのではないだらうか」と「エンマ帖」子は呆れ果ててゐるが、確かに、平和惚けの極樂蜻蛉も此處まで來るともはや笑ふしかない。

 松原氏が斷言する通り、「未來永劫人間は決して戰爭を止めはしない」。人間は動物と同じく「繩張」を守らうとする本能があるばかりでなく、厄介な事に、動物と異なり正邪善惡を氣に懸けずにゐられない存在だからである。正義を氣に懸けると云ふ特性を捨去れば、戰爭は無くなるであらう。だが地球上から嵐を消し去る事が不可能なのと同樣、人間は斷じてその特性を捨て去る事は出來ない。「吾々は父親を殺し母親を犯して平然としてはゐられまい」。

 それでも「平和主義者」が人間に正邪善惡の觀念を捨てさせたければ、スタンリー・キューブリックが映畫『時計仕掛けのオレンヂ』で描いた如く、人間全員の腦に電氣的手術でも施すしかあるまい。だがその時、人間は人間で無くなるのである。(平成12年9月15日)

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2004年4月27日 (火)

松原正名言集 「である」と「であるべきである」と

 これでお仕舞にしたいが、よろづ「である」と「であるべきである」との二元論は我々に無縁である。十九世紀のイギリスの詩人ウイリアム・ブレイクに、「無心の歌」と「經驗の歌」と題する二つの詩集がある。二つの詩集についてブレイクは「showing the two contrary states of the human soul」だと云つてゐる。善と惡、肉體と精神、神と人、惡魔と天使、自己と他者、自己と呪ふべき自己といつた具合に、互に對立するものの雙方をブレイクは重視する。(中略)/ブレイクは赤子の顏に神のイメイジを見る。が、同時に泣きむづかつて己れの欲求を滿足させようとする惡だくみをも看て取る。兩親が原罪を犯し、その結果生まれて來た赤子なのだから、百パーセント無邪氣である道理が無い。ブレイクに限らず、偉大な作家はしかく知的に誠實であり、二元論的であり、それゆゑ徒に「威勢のよい」事は決して書かない。(「最終講義」『月刊日本』平成12年3月號掲載)

 去る四月、當時の小渕恵三總理大臣は脳梗塞の爲倒れ、意識不明の重體に陥つた。小渕氏入院から公表までの「二十二時間の空白」を經て、會見に臨んだ青木幹雄官房長官は、「小渕氏から口頭で首相臨時代理に指名された」として、その後内閣総辭職を決定。「密室協議」で總理候補に撰ばれた森喜朗氏を首班とする新内閣が發足した。しかし、この成立過程には法的に重大な疑義が存在する。これについては、ウェブサイト「言葉 言葉 言葉」の作成者たる野嵜健秀氏が同サイトの「反近代の思想」掲示板において既に指摘してゐる。

(中略)森「首相」が誕生しましたが、あれは不法な手段で以て成立した内閣ではないですか。小渕さんは意識のない状態だが、さう云ふ總理大臣を解任して良いと云ふ規定はない筈です。

  内閣法 第9条[内閣総理大臣の臨時代理]
  内閣総理大臣に事故があるとき、又は内閣総理大臣が欠けたときは、その予め指定する国務大臣が、臨時に内閣総理大臣の職務を行う。

 勞働基準法には以下の規定があります。本人が退職の意思を示さない限り、誰かに勝手に解雇される事はありません。

  労働基準法 第19条[解雇制限]
使用者は、労働者が業務上負傷し、又は疾病にかかり療養のために休業する期間及びその後30日並びに産前後の女子が第65条[産前産後]の規定によつて休業する期間及びその後30日は、解雇してはならない。

 また、憲法には以下の規定があります。

  日本国憲法 第14条 
すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的または社会的関係において、差別されない。
  日本国憲法 第31条 
何人も、法律の定める手続きによらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。

 勞働者の權利は保護されるが、内閣總理大臣の權利は保護されない、と云ふのはをかしい。また、「政治の空白」を理由に、「法律の定める手続きによらな」いで、内閣總理大臣を解任する事は許されない。 ――もちろん、現實追隨主義者の連中に私の主張が理解出來ない事は解つてをります。しかし、今囘の不法行爲を認めるのならば、日本人に法律は要らない事も認めねばなりません。 (「現在、Yahoo!掲示板に投稿出來ず」 投稿日 : 100年4月12日<水>20時15分)

 野嵜氏が説く通りであつて、森政権の法的正當性は極めて疑はしいのである。だが「週間新潮」五月十八日號に載つた岡野加穗留明治大學元學長の談話に據れば、「ともあれ森内閣が發足した今、自民黨中樞はこの問題について”終つたことはしようがない。あへて振り返らないのが日本の習はしだ”といはんばかり」だと云ふ。大半のジャーナリズムも六月實施と云はれる解散・總選擧へと關心を移し、「今更」森内閣の法的正當性を衝く氣は無いやうである。しかし、内閣の法的正當性に關する議論がなほざりにされる日本のこの現實は、次の選擧がどうなるかと云つた事よりも、遙かに深刻な問題を孕んでゐる。

 法社會學者の川島武宜氏は、日本と西洋との法意識の相違についてこう説いてゐる。少し長いが引く(強調は木村)。

 ヨーロッパやアメリカの思想の傳統においては、法律の規範性ないし當爲性と、現實の社會生活とは常に對置され、法的過程はこの二つのもの――當爲と存在――の緊張關係の中にあるものとして觀念される。このやうな理念と現實との二元主義の考へ方は、法にのみ特有なものでなく、ヨーロッパの宗教(神と人間の絶對分離、霊と肉との相克)や道徳(カントの道徳哲學はそのもつとも典型的な表現であらう)においても基調をなしてをり、法についての二元主義の考へ方もこの思想的潮流の一つの側面でしかないやうに思はれる。このやうな二元主義においては、當爲と存在とは明確に分離對置され、規範の當爲性は確定的なものとされる。(中略)/しかし、日本には、このやうに現實と理念とを厳格に分離し對置させる二元主義の思想の傳統はない(或いは、きはめて弱い)やうに思はれる。神は人間から超絶した存在ではなく、戰場にゆく兵士は、「(神となつて)靖國神社で會はう」と誓ひあふことになつてゐた。プレスティージの高い者は死んで神になり(東照宮、東郷神社)、また「生き神樣」は種々の型態でわが國に存在してゐる。同樣に、道徳や法の當爲と、人間の精神や社會生活の現實とのあひだには、絶對的對立者のあひだの緊張關係はなく、本來的に兩者の間の妥協が豫定されてゐる。したがつて、現實への妥協は、「なしくづし」に、大した抵抗なしに行なはれる。さうして、そのやうな現實との妥協の型態こそが、「融通性のある」態度として高く評価されるのである。(『日本人の法意識』、岩波新書、43~45頁)

 『日本人の法意識』が書かれたのは昭和四十二年であるが、それから三十年以上を經た今も、正當な法的裏附け無しに總理を撰ぶと云ふ「現實への妥協」が、「『なしくづし』に、大した抵抗なしに行なはれる」事は何ら變はつてゐないし、さうした妥協が問題視されるどころか、むしろ「終つたことはしようがない。あへて振り返らないのが日本の習はしだ」とて、「高く評価される」のも同じだと云ふ事になる。それでは我々は、變はらなかつた事を、「日本の傳統が守られた」とて壽ぐべきなのか。殘念ながら否である。 松原氏の師である福田恆存氏は、かう述べてゐる。

 日本人には、理想は理想、現實は現實といふ複眼的なものの見方がなかなか身についてをりません。自分ははつきりした理想を持つてゐるといふ意識、それと同時に、現實には、しかし理想はそのまま生かせられないから、かういふ立場をとるといふ現實主義的態度、つまり態度は現實的であり、本質は理想主義であり、明らかに理想を持つてゐるといふのが、人間の本當の生き方の筈です。これは個人と國家を問はず同じ筈です。これをもつと日本人は身につけるべきだと私は思つてゐます。(「私の政治教室」、『福田恆存全集』第六卷、文藝春秋)

 二元論の勸めである。私も福田氏や松原氏と同じく、日本人は二元論的、複眼的な「ものの見方」をもつと身につけるべきだと思ふ。西洋人でない我々が、なにゆゑ西洋人の流儀を學ばねばならないか。我々が既に法治主義と云ふ西洋の制度を受入れて仕舞つたからであり、弱者は強者の流儀を學ばねば生きてゆけないからであり、同時に、ともすれば極端に振れやすい一元論の短所を補ふ爲である。松原氏は最後の講義でかう説く。「徒に威勢のよい言論に欺かれない事、早稻田大學を去るにあたり、それを私は何よりも諸君に望む。そして安直な一元論に欺かれないためには歐米の優れた作家思想家に學ぶしかない。」

 なほ、少しく補足して述べておきたい事が有る。『日本人の法意識』を書いた元東京大學名誉教授、川島武宜氏(故人)は左翼思想の持ち主であつた。保守派論客の中川八洋氏は、著書『國が亡びる』(徳間書店)において、川島氏をかう手嚴しく批判してゐる。


 川島武宜は、「民主主義は、個人の主體性を否定するやうな意味での<共同體的>な……家族を解體し、家族を主體的な個人と個人との關係とすることを要求する」と定義するが(『日本社會の家族的構成』、日本評論社、170頁)、それは個人がアトムとなる共産社會そのものではないか。夫と妻が、あるいは親と子が、そして兄弟間がそれぞれ相互に獨立して個(アトム)と化した状態、それがマルクスが理想とした共産社會である。つまり、川島の「民主主義」は、一寸の異論の餘地なく「共産主義」のことであつた。(141~142頁)

 私は、少なくも『日本人の法意識』における川島氏の現實認識は正鵠を射てゐると思ふ。しかしそれにしても、右派論客とみなされる福田氏や松原氏と、左翼の川島氏とが、日本人の精神について同じ認識(二元論の不在)を強調するとは、聊か意外に感ずる讀者が多いのではなからうか。

 川島氏のやうな左派知識人と、福田氏や松原氏との最大の違ひは、その人間觀・文化觀に有る。左翼は、日本人が西洋の流儀を身に附ける可能性について至極樂觀的である。彼等に云はせればマルクス主義は「普遍の眞理」なのだから、西洋だらうが日本だらうが、變らず通用する筈である。

 これに對し、松原氏は「安直な一元論に欺かれないためには歐米の優れた作家思想家に學ぶしかない」と述べた直後に、かう續けるのである。

 無論、いかに眞摯に學んでもそれが我々のものになる譯ではない。(中略)/文化は普遍的でないから意識して模倣し得ない。絶對者あつての「原罪意識」も、「汝の敵を愛せ」との教義も、絶對者の死が齎すニヒリズムや不條理も、我々にとつては、所詮、餘所事であつて、我々のなし得る事、なさざるを得ぬ事は、餘所事の餘所事としての理解に過ぎない。そして、さういふ「上滑り」の努力を、情けない事に、今後も我々は續けなければならない。歐米との交際を止める譯には行かず、歐米に「斷乎ノーと言へる日本」ではないからである。

 プロレタリアートを撰民と見做し、革命成就の曉に千年王國を夢見るマルクス主義も又、クリスト教拔きには成立し得なかつた西洋固有の思想である。それを安直に移植出來ると信じた日本の左派知識人は、淺薄であつたと云はざるを得ない。クリスト教の絶對的な神でなく、日光東照宮や東郷神社や靖國神社やを尊ぶのは、日本人が慣れ親しんだ生き方の流儀、すはなち文化であり、西洋舶来のものに切替へようとして切替へられるものでない。

 にもかかはらず、夏目漱石が歎いた「上滑り」の努力を我々は續けなければならない。努力する現實を虚しいと知りつつ、なほ理想を目指して努力する事。その事自體が、二元論的思考を學ぶ事なのである。
 (「月刊日本」に最終講義の内容が掲載されてゐる事を御教示くださつた野嵜健秀氏に厚く感謝します)
(平成12年5月14日。平成16年4月27日書式修正)

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松原正名言集 かはいさうな三島

 三島の「天皇陛下萬歳」を「割腹、刎頚」と切離す事は出來ない。「天皇陛下萬歳」といふ言葉は、いはば崖縁に立つた三島を崖下へ突落とす役割を果したからである。人を食ふ事が大好きだつた、きざで傲慢な知識人が、今は一人のあはれな、平凡な、「前近代的」な日本人になつてしまつてゐて、その時、「天皇陛下萬歳」といふ言葉は確實に三島を動かした。これまで散々扱下ろしておいて、今更こんな事を言つても容易に信じて貰へまいが、東方總監をふん縛つてからバルコニーに立つて野次り倒され、揚句の果てに割腹するまでの三島を私はかはいさうだと思つてゐる。/そして、そのかはいさうな三島は眞摯であつた。逆上してゐたものの本氣であつた。本氣だつたからこそ、「文化概念としての天皇」ではなく、「天皇陛下萬歳」といふ簡單な言葉が彼を動かした。無論、それは重い荷物を持上げる時に發せられる「よいしよ」といふ掛け聲のやうなものでしかなかつたが、それでも、自衞官に野次り倒され、猿芝居の退路を斷たれ、本氣にならざるを得なかつた哀れな三島の、それは眞摯な叫びだつた。(『文學と政治主義』 地球社 233頁)

 松原正氏は、論壇では保守派に属する論客とみなされてゐる。否、同氏自身が「私は一應右の目高に屬する」と明言してゐる。「右」である筈の松原氏が、同じく「右」である三島由紀夫を「散々扱下ろ」すとは面妖だと、いぶかしむ讀者がゐるかもしれぬ。しかし、そこが松原氏の眞骨頂なのである。

 たとへ政治信條が同じであつても、知的・道徳的に怠惰で許し難い相手は遠慮なく斬る。逆に、政治的には「敵」である左翼であつても、例へば知的・道徳的に眞摯であつた中野重治の事は、堂々と高く評価する。政治主義的な人間から見れば迷惑千萬で愚かな事だらうが、眞の言論人や文學者はさうでなければならぬ。さうでなければ、世の中には政治だけ存在すれば十分で、言論も文學も不要と云ふ事になる。すなはち、言論人や文學者が政治主義に走つたり屈したりする事は、言論と文學との自殺行爲なのである。そして、まつたうな言論や文學が亡びれば、まつたうな政治も存在し得なくなる。

 さて、三島由紀夫について松原氏は、「頭は惡くなかつたから、天皇や自衞隊について鋭い問題提起をしてはゐる」と肯定的な評価もしてゐる。だが、三島には「他者を愛する事」が出來なかつた、と嚴しく批判する。「己れしか愛せなかつたから、(中略)他者の中の、己が意のままにならぬ部分は、これを徹底的に無視した。彼が讚へたのは己が觀念の中にのみ存在する他者であつた」と松原氏は書く。すなはち、三島が天皇を崇敬し、自衞隊を持上げて見せるのは、結局は上面だけの事であつて、一皮剥けば、「己が意のままにならぬ部分は、これを徹底的に無視する」と云ふ身勝手かつ不敬、不遜な本性が顏を出すのである。

 三島は昭和四十五年十一月二十五日に自害する一箇月前、文藝評論家の磯田光一にかう語つたといふ。「本當は宮中で天皇を殺したい、(中略)人間天皇を抹殺する事によつて、(中略)超越者としての天皇を逆説的に證明する」。三島は「人間宣言」をした昭和天皇が許せなかつた。「人間天皇」は、「己が觀念」にそぐはない天皇だつたからである。

 中野重治は、昭和天皇が人間宣言をしたにもかかはらず、一般國民竝みの自由を享受出來ない事に深く同情し、「あそこには家庭がない。家族もない。どこまで行つても政治的表現としてほかそれがないのだ。ほんたうに氣の毒だ」と「五勺の酒」に書いた。「左翼」の中野は、「右翼」の三島よりも、天皇や皇室の置かれた困難について遙かに深く、親身になつて考へてゐた。

 自衞隊についても同樣である。「屡々體驗入隊をした筈なのに、三島は自衞隊について甚だ無知であり、ありのままの自衞隊を見ずして、己が意のままになる自衞隊だけを見てゐた。」詰まり、著名作家の自分が市ヶ谷駐屯地のバルコニーで少し演説をぶちさへすれば、自衞隊は全員とは言はぬ迄も一部が直ちにクーデターに起ち、日本中が蜂の巣をつついたやうになり、「憂國之至誠」ゆゑの絶望を、世人は必ず承認するやうになると信じてゐた。

 しかし現實には、集つた自衞官たちに「野次り倒され、揚句の果てに割腹する」仕儀となつた。民主國家の軍人であり、「烏合の衆にして野次馬」でもある自衞隊員が、精々「體驗入隊」でしか接した事の無い作家から演説で唆されたくらゐで、クーデターに踏み切る筈が無いと云ふ道理に思ひ到らなかつた。また、自分と共に起つと信じてゐた一部の自衞官がぎりぎりで裏切る事を讀めなかつた。文學者は眞の意味での人間通である筈だが、三島は自己愛ゆゑに眼が曇つていゐたのである。

 作家の大西巨人は、小説「迷宮」(光文社文庫)の作中人物にかう語らせてゐる。「言論・表現公表者の作物は、必ず常に『社會一般に施す法として考へた場合のもの』として世に出されねばならず、また社會からそのやうなものとして享受されることを覺悟してゐなければなりません(中略)。それが、言論・表現公表者の責任です」。その通りである。言論人や文學者は自分の發言に道徳的責任を持ち、常に社會への影響に氣を配らなければならぬ。

 死して三十年、以下のやうな愚劣な意見が、己れの名とともに開陳される事に、草葉の蔭の三島はどんな感懷を抱くであらうか。酷なやうだが、責任の一端はクーデターを安易に考へた三島自身にもあると思ふ。少し長いが、「ヤフー」の軍事カテゴリー掲示板より「22歳/男性」の投稿を引用する。(強調箇所は木村)

 インターネットで戯言を言って,無駄愚痴を叩いて遊んでいる場合か!

 今政府は油断している,隙がある.官邸を包囲せよ.国会を包囲せよ.

 横田を,嘉手納を攻撃せよ!三島由紀夫の怨霊を鎮魂せよ

 諸君の子供時代の夢をを実現するときだ.青年時代希望に胸膨らませて,自衛隊に入隊した頃の,防衛大学に入ったときを思い出せ.血湧き肉踊る戦闘,空中戦で敵機を打ち落とす場面を夢見たはずだ.地対空ミサイルの飛跡,艦砲射撃の胸にきゅううーんとする音.敵艦轟沈,大都市空襲…新聞の大見出し,TVの生中継。胸を飾る勲章.赫赫たる戦勲,英雄,名誉.

 防大で学んだ戦史,戦術,戦略,クラウゼヴィツの戦争論,現代兵器の知識,操作方法,自衛隊での厳しい実践訓練が無駄になることを怖れ,嘆き,不平不満の大多数の将校,将兵諸君!時は今だ.掲示板で恨み辛みを言うな,実行だ.決行だ.

 時あたかも巷には失業者があふれている.去年の自殺者は3万5千人だ.彼らには夢も希望も明日も無い.犯罪か餓死か自殺か暴動か,失うものは何も無い.絶望を癒す薬は戦争しかない.戦争特需景気が期待できる.火をつければ戦争賛成の炎が燎原の火の如く日本列島を縦断する.この軍事掲示板を見よ.戦争待望論が多い.国よ滅べ,然らずんば戦争を与えよ!

 戦争は負けても構わない.人口が半減しても良い.国破れて山河あり.焼山に若芽が茂り,屍の上に豊穣な作物,美しい花が咲く.戦争は生残った人々,子供達,これから生まれてくる赤子への楽しい,嬉しい,美しい贈物だ.

 「月曜評論」平成十二年一月號で、匿名子「勝」氏が三島についてコラムを記してゐる。彼もまた「三島神話」にとらはれてをり、「三島の凛冽な死は、世代を超えた日本人の魂に、訴へかけてやまぬものである」などと書いてゐる。だが三島の死は決して「凛冽」と云ふやうな代物では無かつた。野次られ、逆上して、「發作的」に腹を切つたのだと、松原氏は幾多の根據を擧げて書いてゐる。

 さて、長々と書いて來たが、私が今囘一番言ひたい事はここからである。三島は政治主義の迷妄に陷り、揚句の果てに、國法を犯し、「覺悟の死とはおよそ無縁の」自害をやらかした。それゆゑ、松原氏は三島の知的・道徳的怠惰を嚴しく批判してゐるが、三島を嘲笑したり、冷淡に斬捨てたりしてゐる譯ではない。その事は、冒頭の引用にある「三島を私はかはいさうだと思つてゐる」と云ふ箇所を讀めばお分かりであらう。

 右翼は三島をひたすら崇め奉り、左翼は忌まはしいとばかりに斬捨てる。さうした中で、三島を「かはいさう」だと書いた言論人は松原氏くらゐでは無からうか。松原氏が尊ぶのは、バルコニーで虚しく演説をぶつ三島でなく、森田必勝に介錯されて轉がつた三島の首でもない。バルコニーで野次り倒され、腹を切るまでの三島の必死な姿である。「東方總監をふん縛つてからバルコニーに立つて野次り倒され、揚句の果てに割腹するまでの三島を私はかはいさうだと思つてゐる。」この件を讀む時、私は、屈辱に歪み、泣き出しさうな、しかし眞劍そのものの三島の蒼白の顏を眼前に見る思ひがする。

 「月曜評論」の「勝」氏のコラムによれば、淺田彰氏は三島の死に關するアンケートに「下らない茶番劇」と答へたと云ふ。松原正氏の三島論は「『知行合一』の猿芝居」と副題が附いてゐて、「茶番劇」と「猿芝居」とは同じやうなものだが、淺田氏に三島を「かはいさう」と思ひ遣るだけの温かい心があるかどうか、私は知りたく思ふ。三島はフランスの思想家、ジョルジュ・バタイユを「エロチシズムのニーチェ」と呼んで共感を示したと云ふ。しかし、いざ腹を切る段になると、バタイユをはじめとする怪しげな西洋學問はどこかへ消し飛び、「一人のあはれな、平凡な、『前近代的』な日本人」に戻つて仕舞つて、「天皇陛下萬歳」と叫んで死んだ。

 淺田氏と同じく頭が切れ、同じくバタイユなど西洋學問に詳しかつた三島が、最後の最後に「天皇陛下萬歳」と叫んで死んだ。その事實を、同じ日本人である筈の淺田氏はどこまで重く考へてゐるであらうか。淺田氏は昭和天皇が御危篤の折、大勢の國民が快癒祈念の記帳に驅けつけたのを見て、「土人の國」と吐き捨てたと云ふ。淺田氏から見れば、「天皇陛下萬歳」と叫んで死んだ三島も「土人」と云ふ事にならうが、三島や記帳に赴いた人々だけが「土人」であつて、淺田氏がさうでない保證は有るのだらうか。我々が假に「土人」を脱したとしても、それだけで道徳的に立派な「人間」になれるのだらうか。

 三島の愚行を斬捨てるだけでは、我々は何も學べない。三島もまた、掛け替へのない我々の先達の一人なのである。最後に、松原氏の三島論の痛烈な結びを引く。

 三島の自害から二十年經つて、他山の石としての三島は、今なほ、さつぱり理解されてゐない。このままでは三島の自害は犬死になつてしまふ。それでは餘りにかはいさうである。(中略)三島の、いはば身を殺してなした「仁」を理解してやらずして、何が「憂國忌」であらうか。
(平成12年4月12日)

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松原正名言集 愛するといふ事

 避妊もしくは墮胎をあへてして「十全なる知的活動を維持」したとして、その「知的活動」とは一體何の爲なのか。結婚するといふことは妻や子供を愛するといふことであり、妻子を愛するといふことは、妻子のためにおのれの「知的生活」をも犧牲にするといふことである。いや、犧牲にするのは「知的生活」に限らない、われわれが誰かを愛するのは、その誰かのために多少なりともおのれを殺すことではないか。(『人間通になる讀書術』 徳間書店 45頁)

 渡部昇一氏の『知的生活の方法』ほど、まつたうな知識人から馬鹿にされたベストセラーも少ないであらう。いや、たしかに馬鹿な本である。ビールは頭が惡くなるからカントは葡萄酒しか飮まなかつた、といふ件を引いて、呉智英氏は「カントまで阿呆の仲間に引入れようとは恐れ入る」 と書いてゐたと記憶する。全くその通りで、葡萄酒で頭が良くなるのなら、日本一頭が良いのは女優の川島なお美といふ事になつてしまふ。

 冗談はさておき、馬鹿な本にも何かしら取り柄はある。私の場合、讀んだ本で感心した箇所を記録するには、赤鉛筆で印を附けるのが一番好いといふ事を學んだ。以前はノートに書き抜いたり、呉智英氏流のカードを作つたり、試行錯誤の繰り返しであつたが、本に直接印を附けるのが最も手間がかからず、長續きする。專門の學者でない限り、この方法で十分であらう。ずぼら な私には最適である。圖書館から借りた本だけノートかパソコンに要点を記せば好い。

 松原氏も、別の本では『知的生活の方法』に好意的なことも書いてゐる。 「天眞爛漫がいけないのなら正直と言つてもよい。渡部氏は學生時代の貧乏と刻苦を正直に語つてなんらの嫌味を感じさせない。それは希有の才能だと思ふ。」(『續・暖簾に腕押し』112頁)

 關川夏央氏は劇畫原作者の梶原一騎を論じて、現代において正直といふ徳が冷笑されてゐる不幸を指摘した事がある。しかし乍ら、人間、正直だけでは道徳的に不十分なのであつて、 渡部氏も「知的活動」とはそもそも何の爲か、といふ大事に對する思考の不徹底を露呈してしまつた。やはり物事を深く考へるには、葡萄酒だけでは駄目のやうである。

 「妻子を愛するといふことは、妻子のためにおのれの『知的生活』をも犧牲にするといふことである。」 私は二歳の娘が遊びをせがんで讀書やパソコンの邪魔をする時、松原氏のこの言葉を思ひ出して、遊ぶ。しかし言ふは易く行ふは難し。こらこら、お父さんは仕事で忙しい(嘘)のだから、好い加減に寢なさい!
(平成12年3月5日)

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松原正名言集 この國は狂つてゐる

 この飛び切り愚劣な文章のあら搜しをやる積りはない。やる必要が無い。自國の領土を侵略してゐる外國に一兆圓相當の牛肉を何のために送るのかなどと、そんな中學生にも思ひ附くやうな反論をする必要は無い。問題はかういふ夜郎自大の、金錢萬能の、不潔極まる提案に、 『ヴォイス』の編輯者も讀者も唖然慄然する事が無い、その恐るべき不感症である。この國は 狂つてゐる。この國は狂つてゐると、「同人雜誌」なんぞに書いたところでどう仕樣も無い。どう仕樣も無いほどこの國は狂つてゐる。そしてこれほど狂つてゐる國は、いづれ狂ひ死するであらう。(『天皇を戴く商人國家』 地球社 98頁)

 松原氏が激怒する「飛び切り愚劣な文章」とは、日下公人氏が雜誌「ヴォイス」昭和六十二年十月號に發表した「米ソの融和と日本の幸福」なる論文である。アメリカが日本に對し、「世界の平 和と繁榮のため何かをしろ」と言つて來た場合、アメリカから牛肉を買つて、ソ聯に送れば「アメリカの農民は喜ぶし、ソ聯の國民も喜ぶ」といふのである。

 札束で横面を引つぱたくとは、かういふ傲慢な考へを指すのであらう。「單なる防衞費の増額でFSXを開發したり、エイジス艦を購入したりするよりよいのではないか」と日下氏は己が思ひ付きを自畫自贊してゐる。成る程、軍事だけで國は守れぬ。しかし少なくも、「自國の領土を侵略してゐる外國」に一兆圓もの經濟支援をするなどと能天氣な事を口走る知識人が、國を守る妨げになることだけは確實である。

 日下氏も最近は「畸人」の小室直樹氏と組んで東京裁判批判の本など出版し、專門の經濟以外の分野でも保守派論客として賣出し中のやうである。私は日下氏のその本を讀んだ事は無い。「夜郎自大の、金錢萬能の、不潔極まる提案」をやつてのける人物が、戰爭や歴史について眞摯な考察が出來るとは到底思へない。だから讀まずにゐる。

 日下氏が「ヴォイス」に不潔なる提案を寄稿してから十三年、今や我國は、一知識人どころか、政府自らが、自國の國民を拉致してゐる疑ひが極めて濃い外國に對し、米の支援を するといふ。その案に對し、國民の「不感症」も十三年前と大して變はらぬ。松原氏が斷言したやうに、「この國は狂つてゐる」。そして「これほど狂つてゐる國」は、やはり「狂ひ死」するしか無いのかも知れぬ。 (平成12年3月5日)

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