國家と友情
田母神俊雄前航空幕僚長は腹の据わつた立派な人なのだらうと思ふ。戰後、長きにわたり左翼的な史觀の押しつけに辟易してゐた人々が快哉を叫ぶのも無理はない。とりわけ例へば渡部昇一氏の著作を愛讀するやうな人なら、「日本は矢張り惡くない」とて諸手を舉げて田母神氏に百パーセントの賛意を示した事だらう。
しかし私が田母神氏に聞いてみたいのは、次のやうな事である。あなたが國を裏切るか友を裏切るかと云ふ瀬戸際に立たされた時、どちらを選びますか。イギリスの作家、E.M.フォースターは「迷ふことなく國を裏切る」と云つたと云ふ。私もフォースターに百パーセント同意する。人間にとつて一番大切なのは、國家ではない。
おそらく私のやうな人間は、勲章を貰へるやうな兵士にもスパイにもなれないだらう。しかしそれでよいと思ふ。
田母神さん、そして自衞官の皆さん。國家と友情と、どちらを選びますか。この問ひを避けて通る保守系雜誌の論文や「軍事ブログ」「政治ブログ」なんぞ、讀む價値は無いと思ふ。
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コメント
ご無沙汰して居ります。
木村さんの質問は、国家または政治=悪、国民または道徳=善、という単純な図式(パターン)に陥って居るように見えます。
極右との誹りを怖れずに書くなら、大東亜戦争の末期、特攻機に乗り込んで敵艦に体当たりして行った二十歳そこそこの青年は、自分のためではなく国のため、否、神である天皇のためと考えて居たように思います。現在、それは「洗脳教育」に依る物と説明されるけれど、果してそれだけでしょうか。命よりも大事な物があったと観るのが妥当です。もちろんこのような作戦を立案指揮した陸軍上層部は批判されて然るべき。しかし出撃して行った隊員の多くは家族友人よりも大事な物のために命を捧げました。命を捧げるのだから自身の特進や勲章など糞喰らえです。現実の「何か」には関係しません。
前航空幕僚長の田母神さんは特攻作戦は否定するものの、特攻隊員の価値観に就いては肯定してをられるようです。政府方針と異なる事を言えば更迭は明らか。指揮官(軍人)としては何時でも「腹を切る」積りで正しい事を書こうとしたのでしょう。現実の権力争いに明け暮れる政治家よりは遥かに誠実な態度と言えます。この態度を私は支持します。
E.M.フォースターの作品をあまり読んで居ないので確たる事は言えないのですが、彼の思想の背景にも「神への服従」があったのではないかと思います。だから国家や性別という枠に拘らなかった。当然「神への不服従」もあり得るのですが、それとて神の存在を認めて居るからこそです。いづれにしても西欧の文学作品にはキリスト教的価値観が背景になって居る物が多いようです。木村さんの質問の本意は、これではないのでしょうか。詰まり次のような質問です。
自衛官の皆さん。諸君はどんな価値観を持って居るのでしょうか。これを問はない保守系雑誌の論文や「軍事ブログ」「政治ブログ」などに読む価値は無い。
投稿: 塗炭 | 2008年11月22日 (土) 01時49分
塗炭さん、どうもお久しぶりです。
私は、個人の行動は他人の生命財産を侵害しない限り自由であるべきであり、個人の自由は善だと考へてゐます。一方、さうした個人の自由をゆゑなく制限する第三者(その代表が國家)は惡だと云はざるを得ません。
特攻隊員の多くが自らの行爲を正しいと信じてゐた事を疑ふわけではありません。信じてゐなければとても實行できなかつたでせう。しかし「家族友人よりも大事な物」とは一體なんでせうか。國家でせうか。傳統でせうか。文化でせうか。それらが「家族友人よりも大事な物」だとは、私にはなかなか云ひきれません。
家族や友人を守るために武器を取ると云ふのならよくわかりますし、もつと抽象的な理想のために命を捨てる場合も人間にはあるでせう。しかしいづれにせよ、自分の大切な何かを守るために他人を卷き添へにしてはならないし、他人を強制して自分の守りたい物を守らせる事も許されるべきではありません。
個人が何かを信じ、そのために命を賭ける事は全く自由です。しかしそれを政治の力で他人に強制してはならない。特攻隊員は立派でした。しかし私が特攻隊員だつたなら、大本營に向つて突込みたかつたとも考へるのです。日本人は國家や政府やお上に對して餘りにも從順すぎないでせうか。
投稿: 木村 貴 | 2008年11月22日 (土) 04時43分
グレアム・グリーンの『ヒューマン・ファクター』では、スパイの主人公が國を裏切つて敵國に亡命したあと家族を呼び寄せてゐたやうな記憶が。
今囘の件、例によつて村山政權時代のろくでもない「政府方針」が先づアレなんですが、田母神氏の「論文」もアレで、要は微妙なもの同士がぶつかつてゐるんです。田母神論文がちやんとしてゐれば「支持されただらうに」と云ふ奴。日本ではかう云ふパターンばかりです。
村山の「政府方針」が既成事實として「ある」問題――日本では、既成事實が「ある」時點でどうやつたつて反對する側が「負け」にしかなりません。反對する側はよつぽど注意しないと、「嚴密主義」を主張する連中から「公平」につつこまれて、潰されます。俺は喜六郎に潰されたから、その邊の事はよくわかります。
と言ふか、田母神氏の周邊、隨分「あやしい」らしくて、ニュースでやつてゐましたね。
ところで、政治に善も惡もありません。善と惡は道徳に屬します。
木村さんの最近の主張は自由主義に偏り過ぎです。自由主義の主張は飽くまで政治的主張であり、生存の爲の主張に過ぎません。道徳と自由主義とは無關係です。
人間、生延びる事は必要であり、その限りに於て自由を主張するのは權利ですし、基本的人權を侵害しようとする喜六郎のやうな人間に抗議するのは當然ですが、それは道徳的な主張ではありません。生存を確保した先で如何に善く生きるかは道徳の問題たり得ます。その點は區別する必要があると思ひます。
投稿: 野嵜 | 2008年11月22日 (土) 14時21分
野嵜さん、こんにちは。
仰る通り、我ながら自由主義に偏つてゐるなとは思ふのですが、もう少しこの線で押してみようと思ひます。道徳と自由意思の關係は古くから哲學や神學で議論になつてゐますし、自由とは政治と道徳の雙方にかかはる問題ではないかと思ふのです。
投稿: 木村 貴 | 2008年11月22日 (土) 22時29分
初めまして。
唐突ですがこのスレの内容とは全然關係のない質問を致します。
申しわけありませんが、是非とも御返答いただきたいのです。
木村さんは新聞社に勤めていらつしやるのですよね。
ならば『國籍法改正案』つて御存じですよね。
どうして産經新聞以外の大手がまともに取り上げてもくださらないのでせうか。
また木村さんの勤務地(どこだかは存じあげませんが)ではこの國籍法改正案について取り上げていらつしやるのでせうか。
そして木村さん自身はこの法案についてどのやうな考へでいらつしやるのでせうか。
タブーに觸れる質問かもしれませんが、どうかお答いただきたいのです。
投稿: 吉野 | 2008年11月24日 (月) 01時58分
どうもです。
私には命より大事な物とは何か、または家族友人より大事な物とは何か、を上手く説明出来ませんが、しかしこれがある事を認めなければ命を賭けた行為の説明がつきません。上手く説明出来ない事を突っ込まれそうなので付け加えますと、だからこそ善悪の問題は二千年も議論されて未だに答えが出ません。
>しかし私が特攻隊員だつたなら、大本營に向つて突込みたかつたとも考へるのです。
そう考える木村さんの価値観は何でしょうかという事です。木村さんの記事の主旨は理解して居る積りですが、何かを善、何かを悪と割り切る質問は多数決と同じ政治の手法ではないかと思います。
>自由とは政治と道徳の雙方にかかはる問題ではないかと思ふのです。
自由主義と自由意思、自由は異なります。自由主義は政治で、後ろ二つは道徳です。自由意思は分かり易いところでは自然法の概念です。また自由はもともと神の抑圧に抵抗するために生まれた概念です。どちらも自身の生き方を決めるのに必須。これらを実定法や政治経済の仕組みに反映させた物が自由主義となります。自由は双方に関はるのではなく、先に神と人間との関係で生まれた自由が政治経済にも関はるようになったと観るのが妥当ではないでしょうか。「言葉のあや」を指摘して居るのではなく歴史的経緯の点で。
投稿: 塗炭 | 2008年11月24日 (月) 02時21分
吉野樣
いや實は國籍法改正案と云ふものについて全然知らなかつたのですが、今ちよつと調べてみると、兩親が結婚してゐるかどうかに關係なく、出生後に認知された子供も出生前に認知された子供と同樣、日本國籍の取得が認められると云ふ話のやうですね。
私は國境を越えた人の移動は自由であるべきだと考へます。ただし居住や就職はあくまでも民間で受入れられた場合に限り、政府が税金で家や職を與へるべきではありません。また私はそもそも福祉制度に反對ですので、日本國籍を取つたからと云つて將來、彼らの老後の生活保障を税金によつて賄ふ事にも反對です。これらの條件を滿たすのであれば、子供だらうと大人だらうと、「外國人」が日本に住む事に反對する理由はありません。誰でも行きたいところに行けて住みたいところに住める世の中の方が、さうでないよりも良いに決まつてゐます。
この件に關する私の勤め先の「社論」はよく知りませんし、知つてゐたとしてもここは私的な場なのでそれについて論評する事は差し控へます。別にタブーなどではなく、單に會社のルールでさうなつてゐますので。
塗炭樣
私の價値觀を全て述べる事は出來ませんが、少なくも他人の生命財産を正當な理由無く奪ふ行爲やさうした行爲の主體は惡であると考へます。從つて、私の生命を特攻などと云ふ無意味な作戰で奪はうとし、刄向かへば軍法會議にかけて殺さうとする政府は惡であり、それに對する私の報復が「大本營に向つて突込」む事なのです。
「何かを善、何かを悪と割り切」る事は全く政治的ではありません。道徳においてこそ善惡の區別と判斷基準が問はれるのです。ソクラテスもイエスも實に明白な物の言ひ方をしてゐるではありませんか。
自由主義と云ふと恰も相對主義の權化のやうですが、少なくも他者の生命財産を不當に侵害する行爲を惡とみなす點に關しては、絶對的價値觀を持つてゐるのです。これは近代ではジョン・ロックが唱へた思想であり、政治の判斷基準であると同時に道徳的規準にもなり得ると私は考へます(これは野嵜さんの御意見に對する答へでもあります)。
いやいや、寧ろ話は逆です。塗炭さんの御指摘の通り、政治的自由主義の淵源は道徳的自由主義にあります。從つて、政治的自由主義は松原正先生が批判される道徳と無縁の政治主義とは全く異なります。私は自由と云ふ概念こそ、道徳と政治に首尾一貫した論理をもたらす鍵だと考へてゐます。これは別に私の獨創でも何でもなく、歐米の古典的自由主義者と云はれる智識人達の猿眞似にすぎません。西洋の政治哲學者はマックス・ウェーバーだけではありません。「國富論」とともに「道徳感情論」を著したアダム・スミスもゐるのです。
投稿: 木村 貴 | 2008年11月24日 (月) 05時13分
>私は自由と云ふ概念こそ、道徳と政治に首尾一貫した論理をもたらす鍵だと考へてゐます。
道徳と政治に、首尾一貫した論理は必要ないと思ひます――と言ふより、一種の「論理」は構築できると思ひますけれども、根本的なところで破綻するはずです。
道徳的な價値判斷でも政治的な價値判斷でも、理性と自由意志は介在します。が、良心が働くのは道徳的な價値判斷のみです。
政治的な價値判斷において「最良」とされる事は、屡々道徳的な價値判斷において「惡」とされます。そこで「自由意志が存在する」と言つても何の意味もありません。
アメリカでは、國家の理念の根柢にキリスト教的價値觀があり、それに基いて自由主義の觀念が構築されてゐます。あゝいつた實驗的な國だと、政治的な自由の結果・經濟的な自由の結果が、道徳的な意義を持つ「べきである」と云ふ議論が展開される訣ですが、ただ、その場合でも、「である」と云ふ事實の認定の話にならず、「であるべきである」と云ふ當爲の話になるので、その邊を相當意識して論じないと、話がをかしくなります。
と言ふより、そもそもキリスト教文化の國の場合、キリスト教的價値觀が過去も現在も矢鱈強力に人間を支配してゐますので、最初から道徳と政治の兩方を支配する論理が用意されてゐる事になります。そこで今さら兩者に首尾一貫する自由の論理なんてものを必要としません。
日本人の場合、キリスト教なんて物を信じてゐないので、却つてキリスト教拔きの自由の論理を構築しようとしてしまふ訣ですが、それが可能か何うか――それが意味を持つのか何うか。
投稿: 野嵜 | 2008年11月24日 (月) 14時57分
仰る通り、現在の政治のあり方を是としたままでは、道徳の論理と矛盾するところが出てきます。と云ふより、必ず矛盾します。早い話、政府の財政を支へる租税制度からして、他人の財産の一部を強制的に奪ふわけですから、完全に反道徳的です。
そこで古典的自由主義に於ては、政府の役割を極力小さくしようとします。所謂「夜警國家」論です。しかしこれでも政府の存在はゼロにはなりませんので、全ての公的サービスを民營化し、政府を無くす事こそ理想となります。これが「無政府資本主義」で、さすがに過激すぎて歐米でも異端視されてゐますが、論理的に徹底すればここまで行き着かざるを得ないと私は考へてゐます。
机上の論理ではかうなるのですが、野嵜さん御指摘の通り、自由と云ふ概念そのものがキリスト教をはじめとする西洋の文化的傳統から生まれたものです。さうした傳統のない日本に、自由主義を移植するのは無理かもしれません。私自身、自由主義について書いてゐるとき、言葉が上滑りしてゐる感覺を拭へません。しかし同時に、自由主義以外に現在の私が納得できる思想が見あたらない事も事實なのです。と云ふわけでもう暫く勉強を續けてみたいと思ひます。
投稿: 木村 貴 | 2008年11月24日 (月) 21時37分
御返辭有難う御座います。
新聞社勤務の人間ですら知らないと云ふ事實に驚いてをります。
これは非常に參考になります。
結論から申し上げますと國籍法改正案は亡國法案です。
又テレビや新聞で殆ど報じられないが故に、殘りわづか數日で參議院で可決される見込みの段階にきてゐるも關はらず、今を以つてしてこの法案そのものの存在を知らない人ばかりなのです。
具體的に何が問題なのかは下記のサイトをみていただきたいと存じます。
これは押附です。そして時間がありません。
私は新聞社勤務である木村さんを煽動させたくて仕方ないのです。
さういふ下心があつて投稿したのです。
http://www19.atwiki.jp/kokuseki/
投稿: 吉野 | 2008年11月25日 (火) 02時22分
>私の價値觀を全て述べる事は出來ませんが、少なくも他人の生命財産を正當な理由無く奪ふ行爲やさうした行爲の主體は惡であると考へます。從つて、私の生命を特攻などと云ふ無意味な作戰で奪はうとし、刄向かへば軍法會議にかけて殺さうとする政府は惡であり、それに對する私の報復が「大本營に向つて突込」む事なのです。
善悪は答えが出ないのでさて措いて、木村さんの命を賭けて報復する行為を認めるならば特攻隊員の行為も認めざるを得ません。対象となる「悪」が何であれ自身の生き方は自身で決めるのが道徳だからです。
木村さんは神の存在――自身以外に絶対の存在がある事を認めるのか何うかが不明瞭です。神道的価値観もキリスト教的価値観も「強弱」の違いはあるものの神の存在を認めて居ます。人間が「絶対的価値観」を持つて居るなら神は要りません。確かに共産主義の思想の根底には無神論があります。共産主義を理由なく否定しませんが、ジョン・ロックが唱へた思想が無神論であるとは思えません。
仮に限られた範囲であれ、絶対的価値観なる物を持つて居るなら人間は反省する必要は無い。けれども人間は神にはなれない。
主張は正義に基づいて言い切る事が大事です。とはいえ正義は相対的。木村さんの仰る道徳的規準は「徳目」を指して居る。だから”政治の判斷基準であると同時に道徳的規準にもなり得る”と言って退けます。それらは峻別されなければなりません。
出来るだけ本質的な事だけを書きました。時間の制約で書き殴りの様になって仕舞いました。ご容赦下さい。筋の通って居ない部分のご指摘は歓迎です。ちなみに現実問題では相対主義を否定しません。むしろ、そうなるのが自然だと思います。
投稿: 塗炭 | 2008年11月25日 (火) 06時01分
>早い話、政府の財政を支へる租税制度からして、他人の財産の一部を強制的に奪ふわけですから、完全に反道徳的です。
いや道徳と全然關係ないですそれ。
早い話、仕事の效率を上げる事に貢献したから野口悠紀雄は道徳的善人かと言ふと、そんな事は全然ない訣ですし。
税金の制度は飽くまで政治的なものであり、道徳とは何の關係もありません。制度なのだから道徳である訣がありません。
投稿: 野嵜 | 2008年11月25日 (火) 23時22分
吉野さんへ。
>政治団体などの関係者、活動では一切ありません。
>ただ、法案に問題があると判断し、便乗活動をされている団体もあるようです。
>このサイトは、国籍法の改正について疑問を持った個人個人によって、情報が少しずつ蓄積され作り上げられたものです。ぜひご自由にご参加ください
これは「便乗活動」をしてゐる「団体」に對する反感を示す文言に見えますが、何でこんな文言が「ある」んでせうか。政治的な目的を達成する爲だつたら、その種の「団体」と聯帶する事だつて、戰術として「あり」ではないですか。
なぜわざわざ「個人」の活動である事を強調しなければならないのですか。
政治活動なのに妙に潔癖症的な態度をとる人がゐるのは解せません。
木村さんにしてもさうですが、政治活動と道徳的な態度とは別物なのに、そこに變に「一貫性」を持たせようとする人が多いやうに思はれます。
政治の領域と道徳の領域との間には嚴然たる區別が必要であり、無闇な混同は避けねばなりません。
投稿: 野嵜 | 2008年11月25日 (火) 23時39分
野嵜さんへ
>これは「便乗活動」をしてゐる「団体」に對する反感を示す文言に見えますが
全くの勘違ひに思へます。
まづ、この問題に早くから取り掛かつた桜チャンネルは到底「便乗活動」をしてゐる「団体」とは呼べませんし、私自身、そもそも本當に「便乗活動」による「団体」があるのかどうかすら知りませんけれども、便乘であれ何であれ協力してくださる「団体」とやらがあるのであれば結束しない手はないではありませんか。
念のため何度か讀み直しましたが、そもそも一體どこが反感を示す文言に見えるのでせう。
>なぜわざわざ「個人」の活動である事を強調しなければならないのですか。
「強調しなければならない」理由などありはしないでせうが、強調してゐる理由についてなら心當りがあります。
この法案が衆院を通過する何日も前から、ほぼ全ての衆院議員の事務所は、業務に支障をきたすほどに大量のFAXが送りつけられる事態となりました。
これらの内容は全てこの法案に對する憂慮や反對表明、抗議文です。このほかにメールや電話で議員と直接會話するといつた手法を用ゐた方も多く居たさうです。
そしてこの法案が衆院を通過した日の午前中に三時間程の審議があり、その際に民主黨の石関貴氏が、「何か組織的な背景があるのか、ナニナニ團體といふの團體が中心になつてやつてゐるのではないのか」と疑問を呈しました。
おそらくその手の疑問に對して、「さうではないのですよ。誰に強制されるわけでもなく、この法案が素朴に危ないと感じたから個々人が協力しながらつくりあげてゐるのですよ」といふ思ひを強調したかつたから強調してゐるではないでせうか。
まあ所詮臆測ではありますけれども。
投稿: 吉野 | 2008年11月26日 (水) 04時04分
野嵜さん
強盜が人に出刄疱丁を突きつけて金を卷上げればそれは反道徳的な行爲です。政府による徴税も金錢を暴力的に奪ふ點で強盜と變はりはなく、從つて同じく反道徳的な行爲と云はざるを得ません。異なるのは前者が違法で後者が「合法」だと云ふ點ですが、それはそれこそ政治的な次元の話に過ぎません。徴收した金を何にどう使ふかとは無關係に、他人の物を有無を云はさず奪ふ行爲そのものが道徳に反するのです。「汝盜むなかれ」。
塗炭さん
特攻隊員の全てが「自身の生き方は自身で決め」たとは私には信じられません。三村文男氏の『神なき神風』などに書かれてゐるやうに、表向き志願の形をとつたとしても、かなりの人が自らの意思に反して死地に赴いたものと思はれます。自由意思に反した行爲は道徳的とは呼べません。だからと云つて私は特攻隊員を反道徳的だなどと云ひたいわけではありません。特攻と云ふ制度、それを考案し實行させた側こそ反道徳的であり非人間的なのです。
道徳と正義、絶對と相對の關係は、ややこしい問題なので機會を改めて述べたいと思ひます。
投稿: 木村 貴 | 2008年11月26日 (水) 04時56分
吉野樣
政治活動は餘所でやつて下さい。
投稿: 木村 貴 | 2008年11月26日 (水) 04時59分
>徴收した金を何にどう使ふかとは無關係に、他人の物を有無を云はさず奪ふ行爲そのものが道徳に反するのです。
強盗は個人ですが、政府は個人ではありません。個人と無関係なら道徳と無関係で、「道徳的」ではあり得ず、当然、「反道徳的」といふ事もあり得ません。
投稿: の | 2008年11月26日 (水) 14時54分
殺人犯が人を出刄疱丁で刺殺して命を奪へばそれは反道徳的な行爲です。政府による死刑も命を暴力的に奪ふ點で殺人犯と變はりはなく、從つて同じく反道徳的な行爲と云はざるを得ません。異なるのは前者が違法で後者が「合法」だと云ふ點ですが、それはそれこそ政治的な次元の話に過ぎません。命を奪ふのが快を貪る爲か社會的な復讐を行ふ爲かといつた目的とは無關係に、他人の命を有無を云はさず奪ふ行爲そのものが道徳に反するのです。「汝殺すなかれ」。
――どうも木村さんの「反道徳的」と云ふ言ひ方は怪しいですね。「惡い事だ」と言つてをられるのでせうが、それが即座に「道徳的に惡い事だ」と云ふ事にされてしまつてゐるやうな氣がする。
投稿: 野嵜 | 2008年11月26日 (水) 22時29分
ところでよっしーとリンク先のwikiの持ち主とは別人なの?
法案の成立に反對してゐると云ふのは、一度法として成立したら政權がどんなに變らうとも改正なんて事はあり得ないと、さう云ふ風にみんな思つてゐる訣ですね。
法律以前の「内閣告示」如きでも「改正しよう」「改正以前のまともな状態に戻さう」と日本人は思ふ事が出來ない。何うも日本人の法意識やら何やらはをかしいと言はざるを得ませんね。
ここだと「日本人論」をぶつても誰も文句を言はなさうだから「日本人」が何うの斯うのと安心して言へます。毎度何うも有難うございます>木村さん。
投稿: 野嵜 | 2008年11月27日 (木) 01時14分
>――どうも木村さんの「反道徳的」と云ふ言ひ方は怪しいですね。「惡い事だ」と言つてをられるのでせうが、それが即座に「道徳的に惡い事だ」と云ふ事にされてしまつてゐるやうな氣がする。
いやいやそんな事はありません。人を殺すとか、裏切るとか、嘘をつくとか、反道徳的な行爲はいろいろあるでせうが、他人の物を盜む事がそれらと異なるとは思へません。聖書の十誡が全て正しいかどうかわかりませんが、少なくも「汝盜むなかれ」は「殺すなかれ」と同樣、人類普遍の道徳について述べたものでせう。
>強盗は個人ですが、政府は個人ではありません。個人と無関係なら道徳と無関係で、「道徳的」ではあり得ず、当然、「反道徳的」といふ事もあり得ません。
強盜が一人だらうと二人組だらうと百人組だらうと一億人組だらうと、反道徳的な事に變はりはありません。ならば政府と云ふ名の多數の暴力もまた、反道徳的でしかあり得ません。繰返しになりますが、強盗と政府の違ひは前者が違法、後者が「合法」と云ふ點だけです。そして實定法における違法・合法は、自然法と異なり、政治的次元の話にすぎません。
投稿: 木村 貴 | 2008年11月27日 (木) 04時16分
善き行ひは一人でしか爲し得ないけれども、惡しき行ひは集團でも可能である。これが道徳の本質ではないかと私は思ひます。
投稿: 木村 貴 | 2008年11月27日 (木) 04時22分
徳目で「悪」とされる事と、道徳なる観念に反する「反道徳的」とは区別すべきです。
道徳は「我-汝」の関係にのみ存在し、「我-それ」の関係においては存在しません。「政府」は「それ」の範疇であり、「汝」の範疇ではあり得ません。よつて道徳的な関係は成立し得ず、「政府」が主体となつて「道徳的な悪事」をなす事は不可能です。
投稿: の | 2008年11月27日 (木) 14時34分
木村さんへ
無茶を申してすみませんでした。
野嵜さんへ
>ところでよっしーとリンク先のwikiの持ち主とは別人なの?
はい。
ところでどうして私の渾名を知つてゐるでせう。氣味が惡いです。
それと桜チャンネルではなくてチャンネル桜の誤りです。
すみませんでした。
>法案の成立に反對してゐると云ふのは、一度法として成立したら政權がどんなに變らうとも改正なんて事はあり得ないと、さう云ふ風にみんな思つてゐる訣ですね。
この件に限らずですが、「みんな」がどう思つてゐるか何て解りやうがないのは野嵜さんだつて解つてゐる筈ですはないですか。
そして、反對派の總意とやらを捏ち上げてまで叩いてみせる事と、わざわざ日本人論に話を持つて行くのはどうしてですか。
何を根據に「さう云ふ風にみんな思つてゐる」と思つたのですか。
お答へいただきたい。
投稿: 吉野 | 2008年11月27日 (木) 23時44分
>徳目で「悪」とされる事と、道徳なる観念に反する「反道徳的」とは区別すべきです。
殺人や盜みは徳目においても惡であり、道徳にも反してゐます。
>道徳は「我-汝」の関係にのみ存在し、「我-それ」の関係においては存在しません。「政府」は「それ」の範疇であり、「汝」の範疇ではあり得ません。よつて道徳的な関係は成立し得ず、「政府」が主体となつて「道徳的な悪事」をなす事は不可能です。
盜賊の集團と同樣、政府は個人の集團であり、物ではありません。從つて彼らによる行爲は道徳的判斷の對象になり得ます。
暴力團と云ふ組織そのものが人を殺したり物を盜んだりするのではなく、具體的には幹部の指示に從つて個々の組員が行ふわけですから、その意味では暴力團そのものに反道徳的な行爲は爲し得ないとは云へます。政府も同樣です。しかし一人の個人が反道徳的行爲を爲し得るのであれば、複數の個人が協力して行ふ事も可能であり、その場合、彼らをひとまとめにして集團の名前に置き換へ、「○○(集團名)の行爲は道徳に反する」と表現しても誤りではないと私は考へます。
投稿: 木村 貴 | 2008年11月28日 (金) 03時25分
よっしーへ
ならなんで一々なんとか法案に反對するの?
あなたが今、なんとか法案に反對してゐるのは、あなただつて「わかつてゐる」からでせう。
日本に於て「正しくない法案」が成立しても政權が變れば見直されるものであるのならば、今成立しさうでも反對する必要はない。ところが、「政權が變つても見直される事はなく、既成事實として何時までも殘る」事が、あなたにはわかつてゐる。
日本では「さう云ふもの」である、「だから今」反對しなければならない――あなただつてわかつてゐる。
あなただつて「わかつてゐる」のに、なぜかあなたは「なんでわかるの」と私にきく。何をとぼけてゐるんだと言ひたい。
日本人の事くらゐ日本人の私にわからない訣がない。
それは吉野さん、あなた自身だつてわかつてゐる事の筈だ。日本人の傾向がわかつてゐるから――日本人が既成事實となつた法に全く無抵抗である傾向がわかつてゐるから、既成事實になる以前の「今」あなたは反對してゐる。あなたはわかつてゐる。わかつてゐてとぼけてゐる。
日本人が既成事實に弱い事は、既成事實となつた某内閣告示が半世紀經つても未だに日本人を縛つてゐる事實を見れば判りますね。法ですら無い内閣告示ですら。
木村さんへ
ラスコーリニコフは道徳に反してゐるのですか。ならば罪と罰は反道徳的であるのですか。
個人の集團である大鹽平八郎らの叛亂は道徳的であるとして鴎外は高く評價しましたか。
優れた藝術は常に道徳的です。一方、道徳に屬さない領域の事を描いた藝術は程度の低い藝術です。
國籍がどうたらの法の小説、租税制度の小説――そんな小説はろくな藝術になりませんし、そもそも小説として成立ちません。
法律にしても制度にしても、誰も「そんなもの」に心から本氣になるなんて事はあり得ません。政治的なものだからです。法や制度に對して、人間は道徳的に關はる事は出來ず、よつてそれらは道徳的でないものです。當然の事ながらそこに「道徳的な惡」なんてものはなく、「反道徳的」な事もあり得ません。
投稿: 野嵜 | 2008年11月28日 (金) 07時29分
そもそも「認識論」のレヴェルで疑問を呈する事がをかしい。
よっしーは日本人であつても日本人の事はわからないといふ立場だが、外国人の事等ますますわからない筈で、ならば国籍法で外国人が日本に入つて来てもその外国人が良いのか悪いのかだつてわからない筈。そもそも外国人が入つてくる事によつて日本に何か変化が起きるかどうかすらわからない筈で、ならば国籍法に反対する事の根拠すら危ふくなる。
投稿: の | 2008年11月28日 (金) 10時18分
時間が経って議論が進んで居るので一点だけ。
>特攻隊員の全てが「自身の生き方は自身で決め」たとは私には信じられません。
特攻隊員の全てが自身の生き方を *他人に決められた* とは私には信じられません。こう書けるのは木村さんの主張が相対的である証拠。”全てが”○○ではない、という物の観方が政治的です。
木村さんは都合が悪くなると「個の問題」(道徳)を「全の問題」(政治)に置き換えようとされる。おそらく無意識でやってをられる。現在の日本人の多くがそうだからをかしいと思わない。ですが「個の問題」を意識するためには神の存在抜きには考えられません。西欧の歴史を観れば明らかです。
付け加えますと、神である天皇を信仰せよ、と言って居るのではない。自身の生き方を決める時に「神に服従」であるにしても「神に不服従」であるにしても、その存在は認めざるを得ないという事です。ちなみに文学作品には「不服従」による人間の葛藤を描いている物にも優れた作品があります。
実定法や政治経済の仕組みは相対的です。ゆえに「不変の法令」などあり得ない。人間が絶対的価値観なる物を持つて居ると考えるから「固定」出来ると信じて仕舞う。この一例が当用漢字です。佛教でも現実は相対であるとし、絶対は彼岸に存在すると考えられて居ます。キリスト教に比べれば確かに「弱い」けれども、それ以前に現在の日本人には絶対の存在があるという事が分かって居ない。>吉野さんや喜六郎さんなど。
投稿: 塗炭 | 2008年11月29日 (土) 01時39分
ラスコーリニコフが殺したのが人間の老婆でなく例へば蟻だつたとしたら、「罪と罰」と云ふ小説が成立し得ないのは明らかです。では人間を殺す事と蟻を殺す事の相違點は何なのか。それは人間としての道徳に反するか否かと云ふ事でしかあり得ません。
無論、だからと云つて私は小説「罪と罰」が反道徳的だとか、ラスコーリニコフが徹頭徹尾反道徳的な人間だとか云ひたいわけではありません。釋迦に説法ですが、文學は反道徳的な人物を主人公に据ゑることによつて道徳の本質を描く事も出來るのだし、ラスコーリニコフは最終的に贖罪を求めたのですから。
政府による抑壓を主題とした小説は幾らでもあります。オーウェル「1984年」、オルダス・ハクスリー「すばらしい新世界」、ザミャーチン「われら」、ブラッドベリ「華氏451度」、バージェス「時計じかけのオレンジ」。これらが「罪と罰」よりも優れた作品であると云ふつもりはありませんが、少なくも小説として成立つてはゐます。
租税を正面から主題にした優れた小説は殘念ながら今のところ見あたらないやうですが、歴史上、租税を巡つて人間が心から本氣になつた事例は少なくありません。その最大の例は「代表無くして課税無し」をスローガンとしたアメリカ獨立戰爭です。獨立戰爭を促したトマス・ペインの「コモン・センス」は小説ではありませんが、間違ひなく本氣で書かれた書物です。小説だけが本氣で書かれる書物ではありません。
野嵜さんが例に引かれた「我と汝」を著したマルティン・ブーバーはユダヤ人で、ナチス政府による同胞迫害を嚴しく批判してゐます。ブーバーもまた、政府による反道徳的行爲は可能であると認識してゐたと私は考へます。
投稿: 木村 貴 | 2008年11月29日 (土) 05時03分
野嵜さんへ
「捏ち上げてまで叩く」といふ言葉は誤讀に基く早合點でした。
申しわけございません。
日本人の法意識はをかしい云々だけをみて、反對派を虚假にした言辭かと思ひこんでしまひました。
>あなただつて「わかつてゐる」のに、なぜかあなたは「なんでわかるの」と私にきく。何をとぼけてゐるんだと言ひたい。
これについては、何もとぼけてゐるつもりはないのです。
ただ反對派を虚假にした言辭かと早合點した誤讀に基く瑕疵であるため、「捏ち上げてまで叩いてみせる」などと喧嘩口調になつてしまつたのです。
重ねてお詫び申し上げます。
さて「政權がどんなに變らうとも改正なんて事はあり得ない」と「みんな思つてゐる」といふ言葉に私は先づ反感を覺えてしまひました。
なぜなら私自身がそのやうに思つてゐなかつたからです。
畢竟次の選擧で民主黨が政權をとることになれば公明黨が民主黨と聯立を組んで御仕舞、これ以降政權が變ることは無い、もつと言へば、その體制の状態で亡國へ、と考へてゐたからです。
おそらく私と似た考への方が多數いらつしやるかと存じます。
ならば「一度法として成立したら政權がどんなに變らうとも改正なんて事はあり得ない」などといふ甘い考へが總意であるわけは無いと思つたわけです。
ただ、そのやうに答へればよいものを誤讀に基く瑕疵云々でああいつた返辭になつてしまつたわけであります。
>日本人の事くらゐ日本人の私にわからない訣がない~
思ふに、既成事實になる以前の「今」反對しなければならない一番の理由は、これが通ればいよいよ國家の危機といふことを多くの反對派が把握してゐるからではありますまいか。
日本では多くの人々に地球温暖化が齎す危機といふものが知られてゐて、又これは今でも話題になります。
それでも、實際に地球温暖化に齒止めをかけるための對策をする一般人は少數なのださうです。
これは結局、地球温暖化による危機などといふものが多くの日本人にとつては差し迫つて危機であるといふ實感がなく、又ないがゆゑに腰が重く、また然程この問題に眞劍にならないのではないかと思ふのです。
翻つて國籍法改正案ではどうか。
主にネット以外では情報が入らず、ネットを行らない一般人には、いやネットを行つてゐる一般人ですら知らない、一部の人々の間でしか知られてゐない法案であつたにも關らず、この短期間で多くの方々による大量FAX、メール、電話で議員をゆさぶる戰術が確立し、また周知活動のためのビラ配り、うつかりビラ置き、夫々が夫々の友人達を煽動し、時に2ちやんねらーを煽りまくり、また掲示板の趣旨を無視して國籍法の話題を持込んだり、強引なスレ誘導などの甲斐があつて、次第に認識されていき、そして一緒になつて反對運動をしてくださる方が増えていきました。
多少強引な手法を用ゐても、結果的に一緒になつて反對活動をやつてくださる方が多かつたのは、結局のところこの改正案の缺點や、ザル法案であるゆゑんを讀んだり聽いたりして、このままでは日本が差し迫つて危ない状態になることを感じ取つたからに相違ありません。
さうでなければ重い腰のはずの日本人が積極的に反對活動なんぞに參加してくれるものかと思ふのです。
「日本人の事くらゐ日本人の私にわからない訣がない」と斷言する野嵜さん、あなたならこれが解るのではありませんか。
投稿: 吉野 | 2008年11月29日 (土) 17時26分
塗炭さんへ
ご指名していただいたところ申しわけないですけれども、幾ら讀み返しても全然意味が解りません。
ごめんなさい。
投稿: 吉野 | 2008年11月29日 (土) 18時01分
吉野さんへ
日本人の法意識がまともであれば――塗炭さんも指摘してをられますが――國語だつて變なまゝにならず、もとに戻つてゐた筈です。
實際のところ、その邊の事――法意識にせよ何にせよ、近代化への適應が何とかならない限り、日本人はまともにならない。その他の事は本當に何うでも良いんです。
地球温暖化にしても日本と云ふ國家の危機にしても、私としては「大して興味が無い」としか言ひやうがありませんし、それが常識的な人の常識的な態度でせう。「それでは困る」と言はれても、常識的な人の態度としては、さう云ふものでせう。「意識が低い」とか言はれるかも知れませんが、基本的に政治に對して人は本氣になれる筈がないし、「なつてゐる」と思ひ込むのは勘違ひに過ぎません。
木村さんへ
>繰返しになりますが、強盗と政府の違ひは前者が違法、後者が「合法」と云ふ點だけです。
それは法律上の區別に過ぎません。が法は「最低の道徳」に過ぎないのであつて、道徳とは別物です。
繰返しになりますが、個人が個人に對して行ふ殺人と、共同體が共同體を維持する爲に定めた制度に基く死刑とは別ですし、個人が個人から財産を奪ふ事と、共同體が共同體を維持する爲に定めた制度に基づいて行はれる收税とは別です。
それらが別であるのは、個人が個人に對して理性と良心そして自由意志に基いて行ふ人間的行爲と、共同體が秩序を維持する目的で行ふ機械的な行爲とが違ふと云ふ事です。
單純に「人間が人間を何う斯うする」事を「道徳的」な事だと木村さんは言つてをられますが、それは完全な間違ひです。道徳的な判斷を經た行爲のみが道徳的な行爲です。道徳的な行爲は、理性による善惡の價値判斷、良心による善の勸め、そして自由意志による行爲の決定を經てのみなされ得ます。
「何もしないよりは惡い事をした方が増しだ」と云ふ例の指摘は、斯うした過程を經ない道徳的に「ゼロ」の状態よりは、斯うした過程を經た「マイナス」であつても絶對的に「ある」行爲の方が増しである、と云ふ意味です。徳目に反してゐても、ラスコーリニコフの殺人は絶對的に「ある」行爲なのであり、それゆゑ「道徳的である」事になります――ラスコーリニコフの殺人は「反動徳的である」事になりません。
收税の制度に、さうした過程は存在し得ません。制度は何も考へず、何も評價せず、何も判斷しない――その制度に基いて税務署の人は仕事をしてゐますが、その「仕事をしてゐる人」と「制度」とは區別する必要があります。人は個人として道徳的に生きる事があり得ますが、制度はそれ自體として生きてゐないのであり、判り切つた話ですが、生きてゐないものが道徳的に生きる事等あり得ません。
投稿: 野嵜 | 2008年11月29日 (土) 20時27分
ユダヤ人と言へばジョージ・スタイナーもユダヤ人ですが、單純に「ナチスのユダヤ人虐殺」なる史的事實を非難してはゐません。
「ハイデガー」或は例のヒトラーの移送の小説を見ても判る通りです。スタイナーは、史的事實に對する漠然とした非難の類を排して、ハイデガー個人或はヒトラー個人を描いてゐます。それこそが道徳的な態度であり文學的な態度であると知つてゐたからだと思ひます。
投稿: 野嵜 | 2008年11月29日 (土) 20時31分
話を戻しますが。
>田母神さん、そして自衞官の皆さん。國家と友情と、どちらを選びますか。
そこで「どちらを選」ぶ、と簡單に割切つて結論を出せるなら、それは最う政治なんですよ。
ラスコーリニコフにしても、殺人を簡單に割切つて行つた訣ではなく、殺人を實行した後にはえんえん悔悟が續き、最後に救濟があります。
そこに單純な割切りはありません――が、それこそが人間的な當り前の態度であり、即、道徳的な態度である訣です。
木村さんの問ひかけは「あり」だと思ひますが、そこで結論を木村さんが簡單に割切つて出してしまつてゐるのが私には受容れられない。「友情」を「とるべきである」と命ずるものがあるならば――それは徳目でこそあれ、道徳それ自體ではありません。
「友情か、國家か」の問ひに對して、實踐として「國家をとる」のであつても、主體的な個人として道徳的な判斷が「ある」事はあり得るのであり、その「道徳的な判斷をした」と云ふ時點で既に行爲は道徳的行爲であるのです。
「道徳的な善事」を「するのを妨碍する」からと言つて「反動徳的だ」と、稱する事は理論として可能だとしても、實際には道徳と單に無關係であるだけだと言つて良いでせう。
松原先生の「北朝鮮にも孝行息子はゐる」と云ふ言葉を我々は知つてゐますが、松原先生が「北朝鮮は反道徳的な國家である」のやうな事を單純におつしやると思へません。國家それ自體を松原先生は「反道徳的な裝置」だか「制度」だかのやうには考へていらつしやらないでせう。單に道徳と別次元の存在だと考へてをられる筈です。
政府の「行動」や「制度」の類をそれ自體として「道徳に反するもの」のやうに考へるのは、それらが道徳と同次元の存在であると考へる事です。が、それらは道徳とは別次元のものです。
だから、制度の事を云々するのは「空しい」――何處ぞの「喜」なんかが「裁判員制度」の惡口を言つてゐましたが、あゝ云ふのを本氣になつて怒つて見せるのも空しいんですし、今、木村さんが租税制度に文句を言つて見せてゐるのも空しいんです。「喜」の字が「リバタリアン」を罵倒してゐるのも、同類が同類を罵倒してゐるに過ぎず、それゆゑ實に空しい事をやつてゐる訣で、だからこそ私は「喜」の字もなんて馬鹿なんだらうと思ふ訣ですが、木村さんも好い加減にして下さい。
投稿: 野嵜 | 2008年11月29日 (土) 20時53分
野嵜さんへ
私の目的は煽動であり、それができないと解つた以上、最早ここに居ても仕方ありません。
勝手ながら失禮させてもらひます。
どうもすみませんでした。
投稿: 吉野 | 2008年11月30日 (日) 08時19分
吉野さんへ。
ご自身で”煽動”と書いてをられるので私も敢えてプロパガンダを書きます。
>多少強引な手法を用ゐても、結果的に一緒になつて反對活動をやつてくださる方が多かつたのは、結局のところこの改正案の缺點や、ザル法案であるゆゑんを讀んだり聽いたりして、このままでは日本が差し迫つて危ない状態になることを感じ取つたからに相違ありません。
日本の国籍法は血統主義が原則であり、その限りに於いて片親とは言え日本人の子が日本国籍を取得出来るのは原則に反しない。出生地主義なら話は別ですが、仮にそうであっても日本在住者は日本国籍を取得出来る。確かに実務上の「例外事項」はあるけれど、しかし日本は法治主義が基本なので先づは原則に基づいて判断するのが正しい。
実務上起こり得る「例外」に適宜対応して、”差し迫つて危ない状態”にならないようにするのが政治(行政)です。行政も法治主義だから適宜対応のためには法令の「固定」は出来ません。必然的に「変動」になる。ところが日本人は一度決めた法令は「絶対的」という考え方を持って居るから、そこが問題ではないかと指摘したのです。
原則に基づきながら、或は歴史的経緯に基づきながら少しづつ良くする事が大事ではないか。これをやらないで、古い物は全部パーにして無原則に新しい物を決めたのが敗戦後に行なわれた「国語改革」です。
投稿: 塗炭 | 2008年11月30日 (日) 20時04分
どうして煽動とか粘着とか、明かに惡い事を威張つて堂々と宣言できる人がゐるんだらう。
投稿: 野嵜 | 2008年11月30日 (日) 20時06分
というか、あれ、変な右翼が主張して居るみたいですね。私は「極右」だけれども変な右翼には賛成しません。
投稿: 塗炭 | 2008年11月30日 (日) 20時29分
>繰返しになりますが、個人が個人に對して行ふ殺人と、共同體が共同體を維持する爲に定めた制度に基く死刑とは別ですし、個人が個人から財産を奪ふ事と、共同體が共同體を維持する爲に定めた制度に基づいて行はれる收税とは別です。
國家は共同體ではありません。ロバート・ニスベットが「共同體の探求」で書いてゐるやうに、國家は家族、親族、地域共同體から直接成長したものではありませんし、何より個人に對し生殺與奪の絶對的權力を持つ點が共同體とは決定的に異なります。國家が肥大して傳統的共同體を事實上解體し、個人の存在を脅かすに至つたのが現代です。釋迦に説法ですが、だからこそ現代においては、「1984年」をはじめ、さうした状況に對する危機感を表現する小説が相次いで書かれたのです。私が國家國家と騒ぐのは、かうした問題意識があるからです。
>それらが別であるのは、個人が個人に對して理性と良心そして自由意志に基いて行ふ人間的行爲と、共同體が秩序を維持する目的で行ふ機械的な行爲とが違ふと云ふ事です。
例へば税務署員の徴税作業が殆ど「機械的」だとしても、租税制度を設計し運用する政治家や官僚などの行爲までが機械的だとは云へません。寧ろ十分すぎるほど意識的でせう。であれば道徳的に評價し得ます。
投稿: 木村 貴 | 2008年12月 1日 (月) 05時01分
>單純に「人間が人間を何う斯うする」事を「道徳的」な事だと木村さんは言つてをられますが、それは完全な間違ひです。道徳的な判斷を經た行爲のみが道徳的な行爲です。道徳的な行爲は、理性による善惡の價値判斷、良心による善の勸め、そして自由意志による行爲の決定を經てのみなされ得ます。/「何もしないよりは惡い事をした方が増しだ」と云ふ例の指摘は、斯うした過程を經ない道徳的に「ゼロ」の状態よりは、斯うした過程を經た「マイナス」であつても絶對的に「ある」行爲の方が増しである、と云ふ意味です。徳目に反してゐても、ラスコーリニコフの殺人は絶對的に「ある」行爲なのであり、それゆゑ「道徳的である」事になります――ラスコーリニコフの殺人は「反動徳的である」事になりません。
ここで「道徳」と云ふ言葉の意味について書いておきたいと思ひます。私は野嵜さんがエリオットや松原正先生を踏まえて道徳と云ふ言葉に特別な意味合ひを持たせていらつしやる事を承知してゐますし、自分なりに理解もしてゐるつもりです。さうした道徳觀は誤つてゐるどころか、非常に深い洞察に基づくものだとも思ひます。
しかしだからと云つて、私は自分の「道徳」と云ふ言葉の使ひ方が間違ひだとは思ひません。傳統的で一般的な使用法に從つてゐるにすぎないからです。『オックスフォード現代英英辭典』でmorality(道徳)と云ふ語を引くと、最初の語釋に“principles concerning right and wrong or good and bad”(正邪や善惡にかかはる基準)とあります。immoral(道徳に反する)と云ふ語の最初の文例はかうです。“It's immoral to steal.”(竊盜は道徳に反する)
野嵜さんに從ふと、殺人や竊盜を反道徳的と呼べなくなるわけですが、それは常識にも反しますし、とりわけ道徳と政治、道徳と法などの關係について議論をする時、話が必要以上にこんがらがつて仕舞ひます。少なくも私の手には負へなくなります。なぜなら道徳と政治や法の關係について私が學んできた專門家は、大半が道徳と云ふ語を傳統的で一般的な語義に從つて使用してゐるからです。私にもつと力量があれば、野嵜さんの「道徳」と一般的な「道徳」とを區別しつつ、そのうへで道徳と政治や法の關係についてわかりやすく議論を展開できるのかもしれませんが。
投稿: 木村 貴 | 2008年12月 1日 (月) 05時05分
>>田母神さん、そして自衞官の皆さん。國家と友情と、どちらを選びますか。
>そこで「どちらを選」ぶ、と簡單に割切つて結論を出せるなら、それは最う政治なんですよ。
C・S・ルイスは「キリスト教の精髄」の中で「個人の方が國家などよりも重要、いや比較を絶するばかりに重要」と書いてゐますが、このやうに「簡單に割切つて結論を出」したルイスは政治的人間なのでせうか。斷じて否です。さつきの話に戻りますが、國家は共同體ではありません。國家公務員である自衞官の方々に無理な問ひかけをした事は申し譯なく思ひますが、私は「共同體と友情と、どちらを選びますか」と書いたのではないのです。
>ユダヤ人と言へばジョージ・スタイナーもユダヤ人ですが、單純に「ナチスのユダヤ人虐殺」なる史的事實を非難してはゐません。
勿論、スタイナーもブーバーもナチスを「單純に」非難してはゐません。彼らの見識はさすがだと思ひます。しかしスタイナーはヒトラーをラスコーリニコフとして描いたのではありませんし、彼がユダヤ人虐殺を(傳統的・一般的意味で)反道徳的な行爲と考へてゐるのでなければ、そもそもヒトラーについて書く事はなかつたでせう。
>制度の事を云々するのは「空しい」――何處ぞの「喜」なんかが「裁判員制度」の惡口を言つてゐましたが、あゝ云ふのを本氣になつて怒つて見せるのも空しいんですし、今、木村さんが租税制度に文句を言つて見せてゐるのも空しいんです。
制度を作り運用するのは人間であり、ならば制度は決して道徳と無縁の存在ではありません。百歩讓つて假に道徳と無關係だとしても、理不盡な制度に憤る事は決して「空しい」事ではありません。北朝鮮にも無論孝子はゐますが、彼が飢ゑ死にしさうな親を抱きつつ國の政治制度に憤る事は果たして空しいでせうか。我々は彼を浅はかな奴だと哀れむべきでせうか。これも斷じて否です。本氣で怒る事と怒つて「見せる」事とは違ひます。「見せる」だけの奴は論外ですが、本氣で怒る奴もゐるのです。
天災に本氣で憤る奴は馬鹿ですが、制度に憤る人間は必ずしも馬鹿ではありません。制度は天災と異なり、人間が作り出したものだからです。制度に憤る者は、制度そのものと云ふより、その背後にゐる人間に憤つてゐるのです。我々はその憤りが道理や科學的な因果關係に照らして正當か否かを判斷すればよいのであつて、その手間を省いて頭から否定しても仕方がありません。
投稿: 木村 貴 | 2008年12月 1日 (月) 05時12分
>國家は共同體ではありません。
個人の殺人と國家の死刑とを比較してゐるのはケルゼンの話なので、ここでは國家=共同體です。そもそも國家と共同體とを「嚴密」に區別する意義が解りません。
また、木村さんの「個人」と云ふ言ひ方にも相當ひつかかります。木村貴さん、塗炭さん、或は「義」さん(笑)、と言つたら、道徳的な行動を取る具體的な個人です。が、「税務署員や政治家、或は官僚に屬する個人」「自衞隊に屬する個人」と言つたら、それは最う具體的な個人ではないんですよ、それは「個人一般」と云ふ抽象的な概念に過ぎません。
C.S.ルイスは、政治的ではないにしても、はつきり宗教より――と言ふよりキリスト教よりの人で、木村さん御指摘の文章もキリスト教の本です。だからこそ「天に寶を積め」と「簡單」に言ふ訣ですが、それはまた話が別です。
>制度を作り運用するのは人間であり、ならば制度は決して道徳と無縁の存在ではありません。
それはその通りですが、しかしだからと言つて、即座に「道徳と政治制度に一貫した論理」なんて言つたら言ひ過ぎです。
>私は自由と云ふ概念こそ、道徳と政治に首尾一貫した論理をもたらす鍵だと考へてゐます。
實際のところ、道徳における自由の觀念を政治の領域にまで及ぼした事が近代以降の政治思想の出現した原因である訣ですが、それが單純に良い結果を生んだとのみは言ひ難く、それゆゑ自由を否定するマルクシズムが出現したと言へます。自由を否定したマルクス主義はマルクス主義で行詰つてゐますが、一方の自由主義の方もそれを「絶對」のものと看做す場合には行詰らざるを得ませんし、既にマルクス主義に批判された時點で自由それ自體にも相當強い疑問が呈されてゐます。
ところで私が疑問に思ふのが、木村さんが自由主義を考へるのでなく、自由主義を實踐してゐる、と云ふ事です――が、ややこしいのは、自由主義とまた違つた、リバタリアニズムですか、行き過ぎた考へ方を木村さんが實踐しようとしてゐる事です。急進的な發想を研究するのは、まあ、「あり」なんでせうけれども、それを自身の信條として率先して採用する、と云ふのは何うなんですか。
「喜」の字を喜ばせるだけであんまり意味がないのでないかと言はざるを得ないのですが。
投稿: 野嵜 | 2008年12月 1日 (月) 19時27分
ハインリヒ・デュモリンの『全き人間』(現代教養文庫)をぱらぱら捲つてゐたら聖書のこんな記述が目に入つたので引いておきます。
……。かつて二人の者が神殿にのぼっていった。一人は富裕な支配階級にぞくするファリザイ人であり、他の一人はその身分のゆえに人々からさげすまれていた税吏(みつぎとり)であった。ファリザイ人は次のように祈った。「神よ、我は他の人の窃盜者、不正者、姦淫者なるが如くならず、又この税吏の如くにも非ざることを、汝に感謝し奉る。……然るに税吏は遙かに立ちて、目を天にあぐることだにも敢えてせず、ただ胸を打ちて、神よ、罪人なる我を憫み給え、と云い居たり」(ルカ十八ノ一一-一三)。
新約ではキリストが舊約の教へを片端からひつくり返してゐるんですが、收税やら竊盜やらについても、單純に行爲としての(木村さんの所謂)「反道徳性」を指摘するのでなく、惡人とされるべき人の道徳性を指摘する記述が多々あります。
投稿: 野嵜 | 2008年12月 1日 (月) 21時49分
>個人の殺人と國家の死刑とを比較してゐるのはケルゼンの話なので、ここでは國家=共同體です。そもそも國家と共同體とを「嚴密」に區別する意義が解りません。
ケルゼンを代表とする法實證主義者は、國家が作る法と、個人の理性や共同體の傳統に基づく道徳との完全な分離を主張したがゆゑに、ナチスの暴虐を防げなかつたと批判されてゐます。法實證主義の側からは反論もあるやうですが、法(政治)と道徳は別物(或いは法こそ道徳)と説く思想の下では、國家が合法と認める事は何でもオーケーになつて仕舞ひ、ユダヤ人虐殺がそれこそ「機械的」に進行したと云はれてゐます。
>また、木村さんの「個人」と云ふ言ひ方にも相當ひつかかります。木村貴さん、塗炭さん、或は「義」さん(笑)、と言つたら、道徳的な行動を取る具體的な個人です。が、「税務署員や政治家、或は官僚に屬する個人」「自衞隊に屬する個人」と言つたら、それは最う具體的な個人ではないんですよ、それは「個人一般」と云ふ抽象的な概念に過ぎません。
人生において職業とは極めて大きな比重を占めるものであると同時に、多くの職業人は組織に屬してゐます。また職業以外においても人間は組織人として活動する事が少なくありません。公私にわたる組織人としての行爲がすべて道徳的に不問に附されるのであれば、人間の行動を律する規準としての道徳の意義は殆どゼロになつて仕舞ふでせう。組織においても人間は常に具體的個人として行動するのです。野嵜さんが仰るやうに、制度それ自體は何も行爲しないのです。
投稿: 木村 貴 | 2008年12月 4日 (木) 01時55分
>C.S.ルイスは、政治的ではないにしても、はつきり宗教より――と言ふよりキリスト教よりの人で、木村さん御指摘の文章もキリスト教の本です。だからこそ「天に寶を積め」と「簡單」に言ふ訣ですが、それはまた話が別です。
西洋人にとつてキリスト教は道徳の源泉の一つを爲してゐますから、宗教と道徳の話を別々に考へることは出來ません。無論、兩者が完全に同じだとは思ひませんが。
>制度を作り運用するのは人間であり、ならば制度は決して道徳と無縁の存在ではありません。
>>それはその通りですが、しかしだからと言つて、即座に「道徳と政治制度に一貫した論理」なんて言つたら言ひ過ぎです。
人間の行爲全般を律するものが道徳であり、政治が人間の行爲の一分野だとすれば、道徳と政治に一貫した論理の構築は當然可能です。
>實際のところ、道徳における自由の觀念を政治の領域にまで及ぼした事が近代以降の政治思想の出現した原因である訣ですが、それが單純に良い結果を生んだとのみは言ひ難く、それゆゑ自由を否定するマルクシズムが出現したと言へます。自由を否定したマルクス主義はマルクス主義で行詰つてゐますが、一方の自由主義の方もそれを「絶對」のものと看做す場合には行詰らざるを得ませんし、既にマルクス主義に批判された時點で自由それ自體にも相當強い疑問が呈されてゐます。
私はさうした通念こそ問題だと考へてゐます。
投稿: 木村 貴 | 2008年12月 4日 (木) 01時59分
>ところで私が疑問に思ふのが、木村さんが自由主義を考へるのでなく、自由主義を實踐してゐる、と云ふ事です――が、ややこしいのは、自由主義とまた違つた、リバタリアニズムですか、行き過ぎた考へ方を木村さんが實踐しようとしてゐる事です。急進的な發想を研究するのは、まあ、「あり」なんでせうけれども、それを自身の信條として率先して採用する、と云ふのは何うなんですか。/「喜」の字を喜ばせるだけであんまり意味がないのでないかと言はざるを得ないのですが。
またしても釋迦に説法ですが、急進的な思想が誤りだとは限りません。リバタリアニズム(自由主義の急進的形態)から足を洗つても無駄でせう。正字正かなを使つてゐる時點で十分に「變な奴」なのですから。私は正字正かな擁護と云ふ「急進的」な思想が正しいと思つたから實踐しました。リバタリアニズムについても同樣です。馬鹿は放つておけばいいんですよ。
>新約ではキリストが舊約の教へを片端からひつくり返してゐるんですが、收税やら竊盜やらについても、單純に行爲としての(木村さんの所謂)「反道徳性」を指摘するのでなく、惡人とされるべき人の道徳性を指摘する記述が多々あります。
イエスは當時の政治的宗教的支配層であつたパリサイ人を全體として「蛇よ、蝮の裔よ」(マタイ傳)と罵つてもゐますし、「殺すなかれ」「盜むなかれ」と云ふ舊約の十戒を否定してもゐません。その一方で、野嵜さんの仰る通り、個々人についてはまた別の評價をしたでせう。誤解して戴きたくないのですが、それについては私もイエスと同じ考へなのです。
投稿: 木村 貴 | 2008年12月 4日 (木) 02時02分
>急進的な思想が誤りだとは限りません。リバタリアニズム(自由主義の急進的形態)から足を洗つても無駄でせう。正字正かなを使つてゐる時點で十分に「變な奴」なのですから。私は正字正かな擁護と云ふ「急進的」な思想が正しいと思つたから實踐しました。リバタリアニズムについても同樣です。
”正字正かな擁護と云ふ「急進的」な思想”は正義であり、政治に属します。政治的な態度で正字正かな「復権」を目指して居る人も居るから話がややこしくなるのですが、正字正かな自体は極めて正統的(保守的)です。ゆえに「国語改革」のような無原則、急進的なやり方に反対する。言葉は少しづつ変えて行こうというのが現実の態度になります。
リバタリアニズムを持つ事は構わないけれど、これを現実に当て嵌めて行こうとすると急進的になるのではありませんか。もしそうだとすると「国語改革」をやった人たちと同じです。彼等だって「悪く」しようとして「改革」したのではありません。良かれと思ってやって居る。つまり木村さんと同様に、何らかの正義に基づいて居ます。
道徳はそういう事ではない。或る人間――私(塗炭)でも良いけれども――が、正字正かなは正しいと認めつつも現実にはそうは言つて居られない、Webに限つても検索では「現代表記」が有利だつたりする、いろいろ考えた上で已むを得ず「もどき表記」をせざるを得ない、済まん、見逃して呉れ。こういう態度が道徳的です。誰に対して見逃して呉れと言って居るのかと言うと、神という絶対の存在に対して。――何うしようもない人間(私)を見逃して呉れ。
行為の結果だけを見ると、こいつは「不思議字不思議かな論者」です。しかし文学作品には結果的に過ちを犯している人間の精神を描いて居る物があります。目に見える行為に至るまでの過程に道徳が存在するからです。法学でもこれを重視する立場がある。というより正当防衛や緊急避難また量刑の情状酌量などは、行為に至る過程を抜きにすると説明がつきません。
木村さんは「より良い社会」の実現に政治的または経済的手法で対処しようとされる。それだけでは不十分である事も分かってをられる。しかし先後を言えば、一人一人の人間が何を信じて居るか。現実には「神への不服従」になったとしても、本来は善行をしなければならない、と考える事が先ではないかと思います。その人間が「社会」や「制度」を作る。
先づ人間ありき。日本的な言い方をすれば「企業は人なり」。一番最初のコメントで”諸君はどんな価値観を持って居るのでしょうか”と書いたのは、これを指します。企業を軍隊に置き換えても同じです。神と人間との関係を抜きに、人間同志の関係で考える「従順」あるいは「反抗」なんて物は処世でしかありません。
投稿: 塗炭 | 2008年12月 4日 (木) 12時45分
木村さんのお書きになつた「道徳」が、「常識的な意味での道徳」にすぎず、厳密な意味での(当方の意図する)道徳でないのならば、要は木村さんは政治について何かしたいと、さういふ事になるわけですが、それでよろしいですか。
それだと木村さんも政治活動をされてゐる事になるわけですが。
さうなると。
>政治活動は餘所でやつて下さい。
と言はれた吉野さんがいい面の皮です。
ところで正字正かなは急進的なものではありません。半世紀前に当り前だつたものが今いきなり急進的に「なる」はずがありません。正字正かなこそそれこそ常識的なものです。
投稿: の | 2008年12月 4日 (木) 15時12分
塗炭さん
個人の自由に國家は介入すべきでないと云ふのが私の立場であり、言語表記の自由はその具體的事例の一つです。國家の介入を排除すれば、正字正かなは普及派の努力により(少なくも多少は)復權するだらう、もしも復權しなければそれはそれで仕方ない、と私は考へてゐます。これは國語を「改革」以前の姿に戻さうと云ふ話にすぎず、さう云ふ意味では「保守的」な主張です。
ちなみに經濟的自由主義も、政治の力で貧困や不況を無くせると思ひ込んだマルクスやケインズの謬見に基づく「改革」を廢し、以前の姿に戻さうと云ふ、ある意味で「保守的」な主張です。經濟的自由主義を主張したハイエクやフリードマンが屡々「保守派」に分類されるのはこの爲です。
私は西洋思想に關心はありますが、キリスト教徒ではないので、「神という絶対の存在」とやらを前提とした議論を自分のものとして實感する事が出來ません。從つてその邊りに關する塗炭さんの議論はよく分からないと云ふのが正直なところです。
投稿: 木村 貴 | 2008年12月 5日 (金) 03時35分
野嵜さん
>木村さんのお書きになつた「道徳」が、「常識的な意味での道徳」にすぎず、厳密な意味での(当方の意図する)道徳でないのならば、要は木村さんは政治について何かしたいと、さういふ事になるわけですが、それでよろしいですか。
個人ブログで政治の介入に反對する文章を書く事が「政治について何かしたい」事に含まれるとするならば、野嵜さんの仰る通りと云はざるを得ません。
>さうなると。
>>政治活動は餘所でやつて下さい。
>と言はれた吉野さんがいい面の皮です。
政治活動をしたいのなら餘所でやつてくれと私は申し上げたのであつて、吉野さんが御自分のブログなり何なりで何を書かうとそれこそ自由です。まあ彼が私を「煽動」したいなどと書く馬鹿でなければ、もつと根氣よくお附き合ひしたのですが。
投稿: 木村 貴 | 2008年12月 5日 (金) 03時38分
>私は西洋思想に關心はありますが、キリスト教徒ではないので、「神という絶対の存在」とやらを前提とした議論を自分のものとして實感する事が出來ません。從つてその邊りに關する塗炭さんの議論はよく分からないと云ふのが正直なところです。
何か根深い隔たりがあるようです。いや、私の書き方が悪いのかも知れません。でもこれだけは申し上げたい。西洋思想に関心がおありなら「神という絶対の存在」抜きには理解出来ない。キリスト教徒であるかないかに関わらずです。ちなみに私は菩提寺の檀家であり氏神の氏子です。キリスト教は「異教」という認識があるので、それゆえ理解しようとして居るだけです。
>善き行ひは一人でしか爲し得ないけれども、惡しき行ひは集團でも可能である。これが道徳の本質ではないかと私は思ひます。
善悪と良し悪しが混ぜ込ぜになって居ます。個人が為し得るのは善悪、集団が為し得るのは良し悪しです。この辺りから「ボタンの掛け違い」が始まって居ます。集団の「道徳」は徳目である事は既に指摘した通り。もちろんこれも道徳の一形態――目に見える「制度」である事は否定しません。しかし本質ではありません。
投稿: 塗炭 | 2008年12月 5日 (金) 16時59分
喜六郎がまた異常な事を言つてゐるよ。
>お仲間にすら支持されない、経済記者氏の道徳的経済論(笑)。 なんで支持されないのかお気づきでないようだから(お仲間の場合は別の理由がありそうだが)、私が教えてやる。 それは自分自身の問題を無視してるからだ。
喜六郎は「野嵜と塗炭氏が木村氏を支持しない理由を教へてあげよう。もちろん彼らには別の理由があるんだがね。俺が支持しないのは木村氏が自分自身の問題を無視してゐるからだよ」と言つてゐる。
支離滅裂だよね。當人、「俺またいいこと言つちやつた、てへ!」とか本氣で思つてゐさうだけど。
投稿: 野嵜 | 2008年12月 5日 (金) 21時18分
喜六郎さん、見て居るかい。馬鹿ならもう少し謙虚になったら何うだ。よく知らんけど2ちゃんねらとそっくりだな。
投稿: 塗炭 | 2008年12月 5日 (金) 22時11分
ああさうですか、新聞社の批判をすれば喜六郎さんは私を認めてくれるわけですね。お安い御用です。それでは一席お附き合ひを。
新聞業界も再販法などの規制や記者クラブ制度などの特權に守られたりせず、自由な競爭の下で互ひに切磋琢磨すれば、今より遙かに讀者が喜ぶ紙面が出來る事だらう。いやいや紙にこだはる必要はない。ウェブを通じた記事や映像の配信等、讀者の多樣化する需要に應へる道は數多い。新聞業界に身を置く者の一人として、このやうな日が一日も早く訪れる事を願つてやまない。
以上。御滿足戴けましたでせうか。いづれ喜六郎さんが御自分のお勤め先についての批判をブログで展開なさるのを樂しみにしてゐます。
投稿: 木村 貴 | 2008年12月 5日 (金) 23時42分
ついでですが、別の場所でもマスコミ批判を書いてゐます。
>國語表記についてマスコミが政府の方針に唯々諾々と從つたのは情けない限りだ
http://d.hatena.ne.jp/kokugokyo/20080926/p1
この文章、喜六郎さんもお讀みになつた筈なのですが。記憶力の強い方には恐れ入ります。
投稿: 木村 貴 | 2008年12月 5日 (金) 23時54分
喜六郎とその取卷き連は2ちゃんねらです。もともと壷の隔離スレ(ほかのスレで嫌はれて追出されたアンチの爲のスレ)を主宰してゐたのが喜六郎で、其處で人の惡口を言合つてゐた連中が「集まれる場所」を提供する爲に喜六郎がでつち上げたのがあの「小屋」とか稱する「ブログ」です。オウムの監視小屋か何かの積りなんですかね。連中の方がカルトですが、カルトにはカルトと云ふ自覺が「ない」か、あつても「それが正しい」と思ひ込んでゐるから處置なしです。
さう云ふをかしな連中ばつかりが集つてゐるから、喜六郎小屋は、まともな人間がコメントを書込むと「信者」のレッテルを貼つて「總括」し、侮辱を加へて追出すシステムになつてゐます。さうやつて意見を統一してゐるんですが、それで自分逹の意見が世間の一般的な意見と同じだと信じてゐるから異常です。
彼らはただ、氣に入らない人間を叩ければそれでいい、と云ふ人間の屑です。だからここで道徳とか政治とかの話をしてゐると、「内ゲバだ!」と言つて猿のやうに喜ぶ。知識はあつても、知能が猿竝なんですね。猿の仲間のjijiとか稱する人が俺の「ブログ」にやつて來て、松原先生が何う斯うと言つて、俺を凹ませようとしてゐました。もちろん、全然別の現象を、表面的な言葉の類似で故事つけて、「どうだ」と言つて見せただけの事で、俺を不愉快にさせようと云ふ意圖だけが傳はつて來る實に低級な書き込みでした。俺が喜六郎を政治主義者だと喝破したら、俺自身も「政治主義者」だらうとjijiとやらは極附けて――喜六郎に媚びてゐたんですが、それこそ政治主義ですね。喜六郎一派は何も解つてゐない。本當に阿呆です。
投稿: 野嵜 | 2008年12月 6日 (土) 00時42分
喜六郎一派の猿、今度はtakagiと名乘つて昔の話を蒸返して行つたよ。さうすれば俺が反省するとでも思つたらしい。
俺が「反省する人間」だとアンチの猿は思つてくれてゐるらしい。猿は何を言はれても反省なんかしやしないのに。
少くとも反省しない猿よりは反省できる人間の方が増しだらう。
まあ、かう言はれても猿の喜六郎一派は反省しないでキャッキャッ喜ぶだけだらう。猿だから。
投稿: 野嵜 | 2008年12月 6日 (土) 08時34分
あの馬鹿、ここを読んで少しは「学習」して居るみたいだけど、理解が上滑りだから益々気持ち悪い態度になって居る。
>ただ時には納得がいかない時も、やむなく妥協せざるを得ない事態が出来する時は正直辛いものがあります。
喜六郎さんよ、仕事で妥協するのは喰うためだから当たり前だ。そんな物に本気になって居るから、あんたには道徳が分からない。道徳律=徳目、否マナー程度の理解しか出来て居ない。
仕事でも倒産した会社の社長の生命保険から債権回収しなければならないような修羅場があって、首をくくらせて足を引つ張るような事もある。本人は死ぬ気で居る。苦しまないように足を押さえて呉れと言う。でもあんたでも迷うだろう。何故か。善悪が絡むからだ。神よ許せ。こう呟いて足を押さえたとしても、この人は一生自分の罪を背負って行く。こんなに辛い事はない。何とか幇助とかそういう法律上の罪なら刑期があるけれど、神に対する罪には「刑期」がない。しかしこの人の態度は極めて道徳的だ。
馬鹿なら少しは本を読め。福田さんの本が難しくて分からないのなら文学作品でも良い。その辺は野嵜さんが詳しい。馬鹿なら素直に教えて貰え。あんたの「親衛隊」より余程増しだ。
投稿: 塗炭 | 2008年12月 7日 (日) 00時47分
喜六郎って普段は慇懃な文体だけど、頭に血が上った途端に本性剥き出しになるよな。
投稿: 野嵜 | 2008年12月 8日 (月) 21時12分
あとさ。喜六郎つて必ず人の意圖を正反對に解釋するよな。
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天に向かって唾を吐く 投稿者:喜六郎@管理者 投稿日:2008年12月 8日(月)16時57分35秒 返信・引用
野嵜は私のことを「自分に都合の惡い事を自分の「ブログ」のコメント欄に書込む人間が
ゐると、さんざん侮辱して追出してしまふ。」とか言ってたけど、奴のブログを読む限り
野嵜も人のこと言えないなと思った。
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俺はjijiに斯う書いたんだよ。
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それが出來ないのならば、さつさと敗けを認め、俺の人格を侮辱した事を謝罪せよ。
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jijiを追出したらjijiが敗けを認めるのも謝罪するのも出來ないだらうに。
なんで喜六郎つて、俺の言ふ事を間違つた風に解釋するのをパターン化してゐるんだらう。それだと喜六郎が俺を非難すればするほど、喜六郎の意圖と逆が眞實と受取られるやうになるぢやないか。
俺はちやんと正しく俺の誤を訂正してほしいんだよ。ただワンパターンに「間違ひ」「間違ひ」と連呼されても困るんだよ。喜六郎の周邊には、さう云ふパターン化された人間が多過ぎる。
あゝ云ふ「ただのアンチ」と同じに見られたくない許りに、俺の間違ひをちやんと批判して呉れる人が減つて行くとしたら、それこそ困るんだよ。「アンチ」は或意味「防波堤」になつてゐるんで、却つて彼等の存在が正しい批判を阻害してゐるんだ。それは困るんだよ。
投稿: 野嵜 | 2008年12月 8日 (月) 21時21分
どうでもいいけど喜六郎つて何うして「野嵜健秀」「野嵜健秀」つて連呼するんだらうね。「喜六郎の小屋」つて、俺の名前が出てゐない記事つて幾つあるんだらう。なんで俺にそんなに執着してゐるんだらう。
男が男に何年も執着してゐるとしたら、本氣でキモいよね。本人に自覺がないところが特にキモい。
投稿: 野嵜 | 2008年12月 8日 (月) 21時35分
2ちゃんねらに何を言っても無駄だという事を忘れて居た。済まんね、喜六郎殿。
投稿: 塗炭 | 2008年12月 8日 (月) 22時46分
木村さん,あなたは本当に面白い方ですね.大真面目に深刻な問題を論じてゐますが,それがいつもピントがずれてゐる感じです.
>あなたが國を裏切るか友を裏切るかと云ふ瀬戸際に立たされた時、どちらを選びますか。
とは,いかにもあなたらしい野暮な質問ですが,そもそも国家と友情が二律背反になると言ふのはどのやうな状況なのでせう.少なくとの日本でそのやうな事態に立たされることはほとんどないでせう.田野神氏や自衛隊員にその名質問をしたら,「そんなことは考へたこともない」と答へるでせう.さう言ふ人にそんな質問をするのは,「今からおまへの胃か肝臓のどちらかを取る;どちらを残して欲しいか」と訊くやうなものです.そんなことを不断考へて悩んでも仕方がない.本当にどちらかを選ばなければならない事態に直面したらそれこそ必死に考へればよいことです.その時出てくる答へはどちらでもあり得るでせう.胃と肝臓の場合なら,大食ひは意を選び,大酒飲みは肝臓を選ぶかもしれない(!).国家と友情の場合もどちらもあり得る.必死に悩んだ末に出た答へが「国家」であったからと言ってどうしてそれを非難したり軽蔑したりする権利があなたにあるのか.思ひ上がりもいい加減にするがよい.
まあ,今回もあなたのずれた感覚から出た野暮な主張で,それに対してさういきり立つこともないのですが.
投稿: Twitor | 2009年4月17日 (金) 00時22分
どうも御意見ありがたうございます。まあ自衞官の方々もいざ有事ともなればいろいろと、何と云ひますか、お忙しいと思ひますので、かう云ふのんびりした話は比較的暇な時に考へておいた方が宜しいのではないかと愚考した次第で。
投稿: 木村 貴 | 2009年4月19日 (日) 23時13分