« 2008年5月 | トップページ | 2008年9月 »

2008年6月 1日 (日)

「何用あつて月へ行く」論の限界

「何用あつて月へ行く、月は眺めるものである」。故山本夏彦氏の言葉である。アポロ計劃か何か知らないが、莫大な豫算を投じてまで月へ人間を送つて何をしようと云ふのか。月は近くで見れば岩石が轉がるばかりの曠野に過ぎぬ。遠くから美しい姿を眺めておいた方が遙かに心の糧になるではないか。花鳥風月を愛でる事を知つてゐた日本の古人はその點偉かつた――と云つた意味である。夏彦ファンの間ではよく知られた言葉であり、私自身、以前はその着眼に感心したものだ。今でも同意出來る點がないではない。しかし同時に、所詮は底の淺い考へだと思はずにはゐられない。そのゆゑんを以下綴る事とする。

昔、アメリカにウィルバー、オーヴィルと云ふ名の兄弟がゐた。二人は牧師の子で自轉車屋を營んでゐたが、夢があつた。空を飛ぶ夢である。收入の殆どを夢の實現につぎ込み、「妻と飛行機の兩方は養へない」との理由でそろつて生涯獨身を貫いた。グライダーで何度も實驗を繰り返し、やうやく有人飛行に成功したが、その後の飛行で墜落し、オーヴィルは負傷、同乘者は死亡すると云ふ悲劇に見舞はれた。それでも諦めず、會社を興して性能向上に打込み、飛行機が兄弟の發明であると云ふ特許を勝ち取る。兄弟の姓をライトと云つた。

當初、ライト兄弟の企てはそれこそ夢物語だと嗤はれた。「機械が空を飛ぶことは不可能」と決めつける科學者すらあつた。しかし天を舞ひたいと願つた兄弟の不屈の精神はつひに實を結び、航空機の輝かしい發展に道を拓いたのである。現代に生きる我々は皆ライト兄弟の恩恵を被つてゐると云へる。飛行機に乘つた事のない者でも、空路の發展による經濟的利便を間接的に享受してゐるからだ。ライト兄弟が當時は荒唐無稽とされた夢を抱いてゐなければ、旅客機も戰鬪機も生れなかつた。

さて、「何用あつて月へ行く」と書いた山本夏彦氏がもしもライト兄弟と同時代に生きてゐたら、かう云つた事だらう。「何用あつて空を飛ぶ、空は眺めるものである」。たしかに青空は眺めてゐるだけで十分美しい。だが眺めてゐるだけでは飛行機は決して發明されない。空を飛んでやらうなどと醉狂で不遜で青臭い冒險心を抱く人間がゐなければ、飛行機に限らず、文明に進歩は無いのである。

西洋には昔から、そのやうな大それた夢を抱く人間達がゐた。そして彼らは不敬への戒めとなると同時に、英雄として稱へられた。神から火を盜んだプロメテウス。蝋で固めた翼で太陽を目指し墜落したイカロス。冒險心こそ西洋精神であるとさへ云へよう。何用あつて空を飛ぶ? 大きなお世話だ。飛びたいから飛ぶのだ。その冒險心は近現代に受け繼がれ、蒸氣機關の發明による産業革命を齎し、コンピューターの爆發的な發展につながつた。

西洋の自然科學にせよ藝術作品にせよ資本主義にせよ、その根柢に存在するのはこの不敵な冒險心である。權威や前例にとらはれず、己の頭腦と才能のみを信ずる自由な精神である。家柄門地にとらはれず貴族を批判する精神が無ければ、ボーマルシェの「フィガロの結婚」は書かれなかつたし、それに基づくモーツァルトの歌劇も生れなかつたのだ。

日本の保守派智識人は「アメリカ流資本主義」を口を極めて罵るが、アメリカ流資本主義の精神がなければ、例へばライト兄弟の發明は實現せず、從つて日本の航空自衞隊も「日の丸ジェット」も存在し得なかつた事に全く氣づいてゐない。

西洋の冒險心と書いたが、その精神は多かれ少なかれ、洋の東西を問はず人間に共通するものである。少なくもこの私は、そのやうな精神を大切にしたいと願ふ。自由否定の「哲學」を信奉する者は自らそのやうに生きればよい。だがその考へを押しつけられる事だけは御免である。

| | コメント (15) | トラックバック (0)

« 2008年5月 | トップページ | 2008年9月 »