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2008年5月16日 (金)

人間は信頼出來ない(但し政府關係者を除く)

喜六郎氏の不思議な主張

言うまでもなく、私はリバタリアニズムは断固として否定する。/私は木村氏ほど、市場を形成する人間の良心というものを信頼していないからである(信頼したいという気持ちはあるが)。

人間の良心はそれほど信頼出來るものではない、と云ふ意見には私も同意する。しかしそれなら何故、喜六郎氏は次のやうな腦天氣な事を書けるのだらうか。

そこで必要なのが、政府による規制である。

「政府」を運營してゐるのは誰だらうか。天使だらうか、神だらうか。云ふまでもなく人間である。喜六郎氏はどうして、政府を運營する人間の良心だけは信頼出來るのだらうか。隨分底の淺い人間觀である。人間が信頼出來ないのなら、極力權力を持たせず、自由な市場で互ひに監視し合ふ方が害が少ないではないか。

あと木村さんは、/政府と勞働組合が結託して最低賃金と云ふ規制を設定してゐる所爲で、もつと安い賃金でも働きたいと云ふ人々の就業機會を奪ひ、働きたいのに働けず、貧困層の増加につながつてゐると云ふのが定説なのですが。/なんて書いてるけど、こんな定説聞いたことないんですが。/まぁいかにもリバタリアンが言いそうなことではあるが。

こんな定説聞いたことない……。經濟學教科書の定番の一つ、『マンキュー經濟學・マクロ篇』(東洋經濟新報社)の舊版250頁にはかうある。「最低賃金法によつて、需要と供給が一致する水準よりも上方に賃金が引き上げられると、均衡水準に比べて勞働供給量が増加し、勞働需要量が減少する。したがつて、勞働には餘剩が發生する。仕事の數よりも働きたい勞働者の數のはうが多いので、失業が發生する」。ちなみに筆者マンキューはアメリカ政府の要職を務めた事もある穩健な主流派經濟學者であり、エキセントリックな「リバタリアン」などではない。

まあ喜六郎氏の反市場主義は、私の市場主義なんぞより遙かに廣汎に流布した「宗教」であり、その教祖も小林よしのりとか雨宮処凛とか西部邁とか佐高信とか藤原正彦とか関岡英之とか佐藤優とか左右を問はず錚々たる面々が控へてゐるので、説得は無理だと分かつてはゐるが。

(追記)マンキューの同書舊版45頁にある「政策提言と經濟學者の賛同率」によれば、「最低賃金の引上げは、若年勞働者と未熟練勞働者の失業率を引上げる」との指摘に對し、79%の經濟學者が同意してゐる。無知な喜六郎氏が「聞いたこと」あらうがなからうが、要するに「定説」なのである。

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コメント

喜六郎はもしかしたら舞-乙HiME Zweiを觀てゐるのかも知れない。

投稿: の | 2008年5月16日 (金) 07時14分

喜六郎の別名はすっぺっぺさんらしい。苦笑。

http://blogs.yahoo.co.jp/nozakitakehide/20266709.html

なんか下手ゲーマーらしいけど。何處ぞではブルックナーすすめてゐるし。KY。

すっぺっぺ喜六郎さんが舞乙ツヴァイ觀たとしたら、タイミング的にAT-XでのオンエアではなくOVA買つての事だ。だとしたら餘程のヲタ。

投稿: の | 2008年5月16日 (金) 22時18分

まあ「自分が福田恒存や松原正と同じ考えかどうか?」なんて気にしないからねえ。

アンチ諸氏は「『信者』は福田恒存や松原正の言説を金科玉条にしているはずだ!」という思い込みが強いからね。

喜六郎が西部邁の福田恒存論を持ち上げた時は笑ったな。「森英樹より西部邁の方が福田恒存を理解しているぞ」と言いたかったらしい。

福田恒存を理解しているかなんてどうでもいい問題よりも、E・M・フォースターの国家と芸術の考えをどう思うか質問したら矢張り答えれないね。喜六郎は。

まあ、フォースターやオーウェルが「国家(=政治)」と「芸術(=文学)」を二項対立的に捉えてる
なんて勘違いする馬鹿はいないと思うけどね。喜六郎はこういう高級な道徳的問題は理解できないから他の人でもいいんだけどね。

大馬鹿の喜六郎は勘違いするかも。

と言う様に「武士の情」で大馬鹿にも分かるように、「以前に」渋々ながら此処で「書いてやった」のだが、読んでいないのか、理解できないのか(笑)
【喜六郎へ】
きちんと読んでから答えてくれたまえよ。それと君の文章からは下層階級独特の吐き気を催す匂いがする。

投稿: 森英樹(本物) | 2008年5月19日 (月) 10時02分

喜六郎は絶対まじめに答えないよ。だってあれ、他人の褌で相撲をとってるだけだもの。
あいつは自分は論争に加わらないんだ。ブログのコメントらん見ればわかるけど、話をうけながす天才だよあいつ。それで威張ってやがるんだ。

あいつは、ひたすら相手が間違えるのを待っているんだ。相手がエラーすれば、コピペして、バンバン宣伝して、自分の手柄みたいに言う。でも本人は何もしていない。

自分では何一つできないんだよあいつ。ブログ見ればわかるけどさ。信者叩きもつまんないけど、たまに書く信者叩き以外の事ももうことごとく全部ダメ。なんであんなに面白く書けそうな事をつまんなく書けるんだろう。
たまに一見ちゃんとしたっぽいこと言うんだけどさ、どれも見事に穴だらけ。つっこみいれられまくっているんだけど喜六郎、反論できないものだから受流している。まともな人が書き込んでも嫌になるからすぐ出て行っちゃう。

喜六郎自身はバカなんだよ……利口のフリをするバカって奴。

投稿: fankee_jr | 2008年5月19日 (月) 20時05分

因みに「下層階級独特の吐き気を催す匂いがする」というフレーズはオーウェルが使ってるんだよね。

イデオロギーや宗教やらは越えられるが、過去に刷り込まれた生理的嫌悪感はどうしようもないという意味で。つまりパロディ!

俺は野崎さんが何であそこまで追い詰められているのかが理解は出来ない。サイトの主宰だからかな?

明らかに気違いは喜六郎なんだけどね。

同じ内容、例えば「社会保障を充実すべきだ!」という書き込みの主が「無職」とか「フリーター」とか「ニート」と「会社役員」だったら論理的正当性に何の違いもあるはずはない。

「説得力」に「情緒」や「感情」まで含まれるなら別だが、言論の正否は社会的地位とは関係無い。

まあ、そういうことで議論が紛糾すると敗色が強い方は人格攻撃に移行するという日本国独特の現象という野崎さんの指摘は正しいよ。日本人は最初の論点を維持できる知性が著しく欠落してるよ。

投稿: 森英樹(本物) | 2008年5月19日 (月) 22時23分

山本夏彦が言つてゐたけれども――「もうアカと呼ぶしかない」。

「南京大虐殺あつた派」にしても今度の喜六郎一派にしても、人の話を聞入れないで、ひたすら宣傳するんですね。ならこちらも宣傳戰で仕返しするしかありません。
かうやつて泥仕合を仕掛けるから本當に駄目な人は駄目なんで、ダメの人を以て自任する俺なんかは本當にうんざりする訣です。

http://6725.teacup.com/kirokuro/bbs
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なんちゃってアナーキスト 投稿者:喜六郎@管理者 投稿日:2008年 5月19日(月)21時48分17秒   返信・引用
野嵜氏に限らず、木村氏や森英樹も同じ。
自分の立場を宙に浮かせて、アナーキストを気取ってるだけ。
彼らは国家や政府を「自由を抑圧する機関」としか見なさないけど(確かにそういう面はあるが)、国家や政府が自分らの生活を守ってくれているとい側面はまるで考えないものらしい。
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森さんや木村さんはアナーキストかも知れないけれども、笑ひ、なんか俺までもがアナーキストらしい。アナーキストが憲法は連續してゐる事が大事とか言ふかねえ。
慥かえろげの高橋氏はアナーキストだつたみたいだし「自由を抑圧する」事に大反對してゐたけれども、あつち(どつち)のブログ讀んでゐるうちに喜六郎、誰が誰だかわからなくなつたんでないかねと。

自分でネタふりすると喜六郎必ず間違ひ言ひますね。

投稿: の | 2008年5月20日 (火) 00時25分

喜六郎の記憶力も結構あてにならない事が判明したけれども、連中、兔に角專門的知識を持つてゐる事が自慢な訣でしてね、その代り理窟はさつぱりわからない。
俺なんかは知識だけは人並み以下で何も持たないけれども、理窟だけは言ふ訣です。それで連中の出たら目論理をバンバン斬り捲つた訣ですが、知識がないなら發言權はないと連中は本氣で信じてゐるから、理窟でやりこめようとする俺なんかの事が憎くて憎くて堪らない。

しかし、知識だけあつて理窟を全然無視する連中は、人を憎んだら最う止まらないんですね、何處までも憎惡して人格攻撃を平氣でやる。
斯う云ふのは教育を受けたと言つても、實はちつとも有益な事は教はらなかつたのではないか、さう思ひますね。

人は一體何を學ぶべきなんでせうね。

投稿: の | 2008年5月20日 (火) 00時36分

アナーキストは政治家によつて作られた「法律」は否定しますが、民間裁判の判例の積み重ねによつて形成された「法」を否定するわけではありません。憲法が法のエッセンスであるとすれば、それは當然尊重します。寧ろイギリスのやうな慣習法による不文憲法を理想とすると云つてもよいでせう。閑話休題。

>彼らは国家や政府を「自由を抑圧する機関」としか見なさないけど(確かにそういう面はあるが)、国家や政府が自分らの生活を守ってくれているとい側面はまるで考えないものらしい。

「彼ら」の中にアナーキスト(無政府主義者)でもない野嵜さんまで入れて仕舞ふあたりが喜六郎氏の讀解力の凄さを物語つてゐるわけですが、それは兔も角、無政府主義者、細かく云へば無政府資本主義者を自認する私だつて國家や政府のプラス面を認めない譯ではありません。實際、廣い意味でのリバタリアン(自由至上主義者)の中には、過激なアナーキストだけでなく、國防や警察や司法に役割を限定した最小限の政府は必要だとする穩健派のミナーキスト(最小國家主義者)も含まれます。昔で云へば經濟學の祖であるアダム・スミス、最近ではアメリカの國民的作家アイン・ランドなどがその代表でせう。私自身、スミスやランドは立派だと思つてゐます。

現代における代表的な無政府資本主義者の一人であるデヴィッド・フリードマン(ノーベル賞經濟學者ミルトン・フリードマンの息子)ですら、場合によつては政府の必要性を認めない譯ではありません。「ソ聯政府とアメリカ政府のどちらかを選べと云はれたら後者を選ぶ」と述べてゐます。なぜなら「税金が安いからだ」。

しかし原理的には、無政府主義者は政府のプラス面をマイナス面と比較考量し、差引きでは結局マイナスであると判斷するわけです。一方、喜六郎氏をはじめとする大部分の日本人は差引きプラスと考へるのです。政教一體の國たる日本には國家や政府と云ふ存在を警戒する傳統が無いのだから仕方がありません。衆寡敵せず。

日本では反政府主義即ち反天皇左翼と云ふイメージしかありませんが、西洋では必ずしもさうではありません。反政府主義、つまり自由主義は左右を超越する思想であり、過去二千年餘にわたり政治權力への強烈なアンチテーゼであり續けて來たキリスト教の傳統にも根差してゐるのです。ナチスドイツに強く抵抗し死を餘儀なくされた知識人の一人に、神學者のディートリッヒ・ボンヘッファーがゐました。

西洋の流儀を日本に持込むなと云ふ聲が聞こえてきさうです。しかし私は自由、それも個人の自由とは人間にとつて普遍的な善なる價値だと信じてゐます。個人の自由がなければ學問も藝術も不可能ではありませんか。自由が善である以上、それを最大限實現しなければならないと云ふのが私の考へです。慌てて馬鹿念を押しておきますが、私の云ふ善なる自由とはマルクス流の「各人の努力の度合ひにかかはらず平等な經濟的待遇を受ける自由」なんぞではありませんし、他人に迷惑をかける自由でもありません。古典的自由、アイザイア・バーリンの云ふ「消極的自由」です。

投稿: 木村貴 | 2008年5月20日 (火) 05時25分

「武士の情」と「慈悲」でリバタリアニズムに関して、木村さん推薦の『リバタリアニズム読本』を喜六郎に教えてやったのだが、なにせ単なるアンチだから読む気はさらさら無かったようだ。

私はリバタリアニズムに関しては、この本を読むまでほとんど分からなかった。この本を読まなかったらリバタリアニズムとは単なるアナーキズムと勘違いしていたかもね。ハイエクの経済学自体に興味がほとんど無かった。

木村さんの言うとおり自由という価値の概念に関して日本と欧米は違うから、リバタリアニズム=アナーキズムという解釈に繋がり易い。が「それは欧米の価値だから」とて、それがどういうものかを理解しようともせず、「日本に持ち込むな」と安直な国粋ナショナリズムで否定するあたりは「知的怠惰」などではなく単なる「怠け者」であろう。

喜六郎のおしゃべり事態は無価値なので、これを機会にリベラリズムやリバタリアニズムへの理解が巷間に広まればいいんじゃないかな。

私はマイケル・ポランニーの知識論(いわゆるあ暗黙知)には共鳴していたからハイエクの知識論の理屈は分かり易かった。ポランニーの経済学(一説によるとまともな経済学者なら反論する気も無くなるぐらい牧歌敵らしい)には興味は無いが。

ただ経済学には興味が無いから今後も『ハイエク全集』を読破するなどということはしないと思うが(笑)

投稿: 森英樹(本物) | 2008年5月20日 (火) 09時14分

経済学はマイケルじゃなくてカールのほうだ(笑)

投稿: 森英樹(本物) | 2008年5月20日 (火) 09時16分

なんでみんなそんなにアナーキズムなんかに詳しいの? ひどいよw

俺は自由主義の河合栄治郎は読むけれども経済学はさつぱり。理想主義とかの価値観の話の方が大事だと思ふし。
喜六郎なんかは適当に人を嘲笑して自分が一番偉いとか言ってるのだけれども、価値観の事を意識しないからあいつらただただ自分の価値観をおしつけて、それでいい気になつてゐられるだけです。そもそも喜六郎の理想つて何なんでせうかねえ。あの発想、完全にファッショで危険です。「南京大虐殺あつた派」の人はその辺全然意識してゐないから本当に危険。

ええと喜六郎と「義」ですが、どうもYahoo!掲示板の頃からの粘着つぽいです。しかも「南京大虐殺」関係の。かなり悪質だつた連中。

投稿: の | 2008年5月20日 (火) 10時00分

リバタリアニズムは以下らしいから、野崎さんは興味を持てないだろうし、持たなくてもいい。(笑)私もそれほど興味は無いです。

ただ『リバタリアニズム理論で読むシェイクスピア』なんてトンデモ本が出ないか楽しみです。

※ジェンダー理論から読むD・H・ロレンスみたいな・・・笑

ポストコロニアリズムとかね。

「他の人々と同様、個々のリバタリアンは人間像の理想や『人生いかに生くべきか』や幸福とは何かについて特定の見解を持っているかもしれないが、リバタリアンとしてそれを持っているわけではないのである。『リベラリズム』の項目で述べたように、リバタリアニズムは正義についての一理論であって、善や幸福や生きがいについての理論ではない。リバタリアンな『期待される人間像』というものがないのは、たとえばリバタリアンな音楽がないのと同様である」
編著:森村進『リバタリアニズム読本』頸草書房p47

「これ(ロールズ流リベラリズム)に対して、万人に最大の(消極的)自由を保障するリバタリアニズムは、各人の『善き生』に関する議論には介入しない。自己所有権は『善』ではなく『正義』の領域の属する。『善についての中立性』の結果として、特定の生き方が成功したり繁栄したりする一方で別の生き方が事実上困難になっても、それは人々の自由な行動の結果であるかぎり不正でない。逆に結果の平等のために国家が人々の行動に介入することこそ、自由の平等を害して特定の生き方に肩入れすることになる」同書p75

投稿: 森英樹(本物) | 2008年5月20日 (火) 19時20分

なお・・・書くのが面倒くさいので・・・誠に申し訳ございませんが・・・

自己所有権とか善とか正義とか中立性とか自由という概念の解釈は、同書を読んで下さい。または木村さんに直接聞いて下さい。

※そのまま引用したので、使い方が若干異なっています。

経済学音痴の私にも分かり易い本でした。経済学って普段の生活では使わないし。
経営学なら使いますが・・・但し実務面の項目ばかり。

投稿: 森英樹(本物) | 2008年5月20日 (火) 19時33分

さうですね、自由主義だの無政府主義だのはいづれも政治哲學の一種ですから、基本的に藝術や文學の評價基準にはなり得ません。しかし、をかしな政治的意圖を持つ「藝術作品」や「文學作品」についてであれば、それを批判する據り所にはなるでせう。最近、さうした「作品」が多過ぎますからね。

投稿: 木村貴 | 2008年5月21日 (水) 04時28分

チェスタトンの『正統とは何か』について以下のような的外れな解説をする保守派知識人が続出。

>チェスタトンの語る保守主義。「死者の民主主義」の概念を提出したことでも有名。国家とは過去、現在、未来の歴史的共同体である。

投稿: 森英樹(本物) | 2008年5月23日 (金) 10時55分

チェスタトンの『正統とはなにか』を読んで何が解ったかというと、クリスト教は二元論であるということが解ったんだけどな。

十字架の二元論。

なんだ?「死者の民主主義」の概念って。確かにそれは書かれてるがチェスタトンが本当に言いたいことではないだろう。

チェスタトンに「保守主義」だけを読み取る人間が革命についての言及を読んで勝手に狼狽しているだけである。

投稿: 森英樹(本物) | 2008年5月24日 (土) 00時53分

個人の自發的な意思に基づく經濟活動と異なり、政治活動の本質は暴力による強制にあります。民主主義も所詮、さうした政治活動の一形態に過ぎません。

民主主義は專制政治に比べればましかもしれませんが、政治の一形態である以上、究極的には人間の自由と相容れません。

投稿: 木村貴 | 2008年5月24日 (土) 04時01分

政治を動かす原動力としては、世の中の流れ、宿命、といつた要素が大きいですが、それと同時に、個人の働き・偶然と云ふ要素があつて、それもまた無視出來ないんですよね。だから單純に理論で割切る事なんて出來ませんし、一方で單なるカオスだと言切る事も出來ません。
――と云ふ事を、外交に關してですけれども、清澤洌が言つてゐましてね、なるほどねえと感心したんですけれども。

最近は、感心しながら本を讀む、と云ふ事をしない人が増えましたね。感心して話をすれば「權威を利用してゐる」とか言出す人が出てくる始末だし。あれ、本を讀む習慣がないんでせうね。

投稿: の | 2008年5月24日 (土) 16時53分

と言ふか、あつちの連中、自分逹の言ひたい事を勝手に言つてゐるだけで、要は自分逹の價値觀を他人に押附けたいだけなんですよ。
こちらの言ひ分には耳を貸す積りなんて毛頭ないんですからね。話にならんですよ。

喜六郎なんか、俺が福田さんの「當用憲法論」をベースに話をしてゐるの、知つてゐる筈なのに、なぜか「當用憲法論」に蹈込んで話をしようとしませんね。
彼らはただ、我々「松原信者」が「ウェブで言つた事」を、反射的に否定して、それで良しとするんです。典型的な知的怠惰ですが、彼らにはそれが認識できないんですね。

「松原信者の言ふ事は全部否定すべきである」と云ふ結論が最初にあつて、それを尤もらしく見せかける爲に、粘着の連中は論證の手續きを蹈んで見せてゐるだけですからね。一見客觀的な事を言つてゐるやうですが、そもそも動機からして公正を缺いてゐますからね、全然客觀的でも何でもないんですね。

投稿: の | 2008年5月24日 (土) 19時16分


読んでないと思いますよ。反論が頓珍漢で意味不明ですから。何処をどう押したらそういう解釈になるのか不明です。
国語の出来ない小学生の如くキーワードに過剰反応しているだけです。

確か小林秀雄が「読書を趣味にすることは難しい!」という意味のことを書いていた気がします。

読書する人は「読書する怠け者」と思われるんですね。そういう読書人がほとんどですが。物書きも怠け者です。

そう言えば本日の産経新聞「昭和正論座」に福田恒存の文章が載っていますが、キーワードに過剰反応する輩が出てくると思いワクワクしています。

国家や企業のエゴイズムばかり糾弾しないで個人のエゴイズムも斬れ!という内容なんですが、福田の本当に言いたいこと(筆者がもっとも言いたいこと)は「筋を通せ!」なんです(笑)。

誤読しようがない文章ですが、主義によって思考硬直している人間は誤読するんだろうな。
他人が福田を誤読しても腹が立たないのだが、西部邁のように自己「保守化」の道具のために恣意的解釈をされると吐き気を催されます。西部が元左翼であろうが気にならないが、あの自己正当化でしかない文章はどうにかならないものか?いやいや自己正当化ならば誰しも行うが、自己「保守化」は政治主義がきつ過ぎて汚らしい。

それさへ無ければ内容があるかというと、これが無い。内容は陳腐で古色蒼然としているし、その大半は大幅カットできるものである。山本夏彦ならば三行で書けたものである。

そもそも西部は語学が全く出来ないということは、既に指摘されている事実なのだから、少なくともあの恣意的引用・解釈、衒学的な語源主義を抜かせば公衆衛生にもいいだろう。原稿料が激減するであろうが。

つとに指摘していることだが、チェスタトン『正統とはなにか』に西部が寄せた文章は解説でも何でもなくて、徹頭徹尾「自己正当化」「自己保守化」の文章である。

西部の転向に関して「筋を通せ」などと誰も要求していないんだから。いや元左翼の同志は求めてるかもしれないが。

※恣意的でなければ真正の馬鹿だと思うが。

投稿: 森英樹(本物) | 2008年5月25日 (日) 11時35分

>私は経済と経済学は似て非なる物だと思ってる。/「正しい経済の知識」とやらが、そのまま経済の現場で通用するわけない
http://pink.ap.teacup.com/kirokuro/64.html

確かに經濟學は自然科學と違ひ、怪しげな學説も少なくありません。左翼の好きなマルクスとかケインズとか。

しかしさすがに學問の端くれですから、現場で立派に「通用する」智識もあるのですよ。私の書いた失業率に關する定説のどこがどう現場に「通用」しないのか具體的に指摘しもせずに、御自分の頭の中の妄想を繰り返すだけでは不毛だと思ひますけどね。

投稿: 木村貴 | 2008年5月30日 (金) 05時05分

喜六郎氏は、相手が正しい事を言つて、反論出來なくなると、「ツッコミは入れない。というか、入れる気にもならない。」とか言つて、必ず逃げますね。困つたものです。

投稿: の | 2008年5月30日 (金) 22時51分

最近やつと自信を持つて言へるやうになつたのだけれども、Kirokuro(喜六郎)が木村氏を攻撃するのは、ただ單に經濟の問題に關して木村氏がKirokuroと異る考へ方をしてゐると云ふだけの理由だ。
或は、經濟に關して政治のとるべき態度について、木村氏が自分の考へ方と違ふからと言つて、Kirokuroは木村氏を馬鹿だの何だのと言つて嘲笑つてゐる。政治的に考へが違ふからと言つて、Kirokuroは木村氏を潰さうとしてゐる訣だ。

所詮經濟問題なんて絶對の正解のない問題だから、木村氏が全面的に誤でKirokuroが全面的に正しいなんて事はあり得ない。これは全ての人が首肯せざるを得ないと思ふ。だが、所詮は相對的な問題であるにもかかはらず、Kirokuroは木村氏の主張を絶對的な誤と極附け――經濟問題の範圍内で非難するならともかく、人格までも攻撃してしまつてゐる。
これはをかしい。

Kirokuroは自分の主義主張を通す爲に、敵の弱點らしきものなら何であれ採上げて、攻撃を加へ、潰さうとする。政治的な敵を潰す爲に手段を選ばない訣だ。政治主義者だからこそ、さう云ふ惡辣な眞似をするのであるが、政治主義者は自分がどんなに惡辣な事をやつてゐるかを自覺する事が出來ない。だからKirokuroは何時までも惡質な嫌がらせを續けるのだが、斯う云ふ政治主義者が存在する事それ自體が日本の社會が成熟してゐない事實を意味する。本當に困つた事だと思ふ。

投稿: 野嵜 | 2009年9月18日 (金) 21時34分

あと、最近、城内実氏がポスターで何かやつたのをKirokuroが自分の「ブログ」で採上げて、問題にしたのだが、事が大きくなりさうになつた途端、Kirokuroは以後事態を「静観」すると宣言して、逃げてしまつた。

Kirokuroは、郵政の關係で何やら意見を持つてゐて、それで大體意見を同じうするらしい城内氏を支持すると言つてゐたのだと思ふ。ところが、青臭い正義感から、うつかり城内氏の問題を採上げてしまつてKirokuro、それが選擧で城内氏を不利にし兼ねない事に氣附いた。
それで慌てて手を引く事にしたらしいのだが――今囘も誤を認めないで、逃げる事で自分を高みに置き續け、悧巧に見せかけようとしたのが、如何にもKirokuroらしい。

木村さんと異る經濟の考へ方を持つてゐるKirokuroは、郵政關係で何らかの意見を持つてゐるらしい。そこで城内氏を信頼して、支持しようとしたらしいのだが……。
私は郵政なんてものに興味がないから、Kirokuroの主張なんて端から理解しようとしてゐない。政治主義者なのか道徳主義者なのか、Kirokuroにははつきりして貰ひたいものだとは思つた。

投稿: 野嵜 | 2009年9月18日 (金) 21時47分

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