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2008年3月13日 (木)

リバタリアンの意味を御存知?

喜六郎先生より嚴しい斷罪が。

木村氏の戦争観は良く分かった。/木村氏がそういう戦争観を持つのは個人的に自由だし、木村氏の戦争観を矯正しようなどという積もりもない。/ただ、木村氏に一言言いたい。/この戦争観って、かつて「岩波文化人」とか「進歩的文化人」と呼ばれた人達のそれとどこが違うんだ?/「軍隊は個人の権利を侵害する悪いモノです」「外国が攻めてきたら個人がゲリラとなって戦えばよい」/まんま同じじゃん。/道理で西部邁氏や西尾幹二氏を目の敵にするわけだ。[中略]で、これで木村氏との言い争いは終わりにしたいと思う。/木村式道徳論の正体も分かった事だし、これ以上続けても不毛だと判断した。

上の文章を讀んでおやおやと思つてゐたところ、こんな「加筆」が數日後に。

「ゲリラ」云々の批判については、自分の勇み足だったなと今は反省しております。魂点に関しては、潔く木村氏に謝罪しようと思います。/申し訳ありませんでした。

いえいえどうも御叮嚀に。

喜六郎先生は私の事を「リバタる者は救われず」などと指彈してゐるので、リバタリアニズム(自由至上主義)やアメリカ思想についてかなり詳しく御存知なのかと思つてゐたのだが、どうもさうではなかつたやうだ。大雜把に云へば、リバタリアンとは國内政策については或る意味右翼的、外交政策については或る意味左翼的な主張をする事で知られてゐる。左右による思想の區別しか知らない日本人にとつて理解し難いのは當然で、私を「ただの左翼」と決めつけた喜六郎先生もその一人だつたに過ぎない。と云ふ事で「勇み足」については快く許して進ぜませう。時間があれば森村進教授の『リバタリアニズム讀本』でもお讀みになつてみては如何。

續きはまた今度。年度末で結構忙しい。

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コメント

時間があったので『リバタリアニズム読本』を斜め読み。

その「共同体主義(共同体論)」の頁に

「共同体主義は個人主義的なリベラリズムに対する批判として主張されることが多いため、リバタリアニズムとは180度対立する思想と考えられがちだが、それは早計である。なぜなら、大部分のリバタリアンにとっても共同体が持っている重要性を否定しないからである。特に一部の共同体主義者が国家と政府よりも社会内部の民間団体の意義を認める事に対しては、リバタリアンも賛成できる。」

また、「リベラルーコミュニタリアン論争」も面白かった。

さらに、『擁護できないものを擁護する』byウォルター・ブロックの解説で

「リバタリアニズムは『右』の保守主義思想とみなされることも多々あるが、私はこの見方に与しない。というのもリバタリアニズムは、経済のみならず、文化や私生活という領域においても自由放任を唱える思想だからである。リバタリアンはしばしば法の領域と道徳の領域との間に一線を画し、違法行為と悪徳行為を峻別する。」

ノージックを読んでみようかな・・・。


投稿: 森英樹(本物) | 2008年4月 1日 (火) 21時10分

喜六郎はもしかしたらオバタリアンかもしれない。

根據は全然ないけれどもなんかそんな氣がする。

投稿: の | 2008年4月 4日 (金) 00時24分

最近気付いたんですが、「政治と道徳は別!」と言う場合、十字架イメージの強いクリスト教徒ならいざ知らず、一般の日本人は政治と道徳に二項対立としてとらえてしまうんじゃないかな?

私は「政治と道徳の二元論」と言った場合、必然的に水平系と垂直系が交わるイメージで理解してますが。

必ず交わるべき、いや交わってるもんなんですけど。どちらも人間のすることなんですから。

だから、「政治と道徳を峻別すべき!と言ってたのに、道徳!道徳!っておかしいじゃないか?」って的外れなことを言われても、「あぁ!考え方が根本的に違うんだなあ・・・!」と思うようになってしまった。

投稿: 森英樹(本物) | 2008年4月19日 (土) 21時03分

すつかり更新をさぼつて仕舞つてゐます。濟みません。

全然脈絡ありませんが、自由主義と云ふのは別に主義ではないのです。放つておいてくれ、自分のやりたいやうにやらせてくれ、指圖しないでくれ、自分の事は自分が一番よく知つてゐるのだから、と云ふ態度に過ぎません。

投稿: 木村貴 | 2008年4月20日 (日) 22時46分

 エントリー違ひを御許し下さい。
 「福田恒存をやっつける会会長」が、他ブログでまた悪さをしました。
 http://d.hatena.ne.jp/satoumamoru/20080309/1205035145#c1208704799

 あの人は今すぐ病院へ行くべきですね。つまらない事だと言はれればそれまでですが、取敢へず御報告まで。

投稿: キラーT細胞 | 2008年4月21日 (月) 12時54分

粘着とかアンチとかは、侮辱するのに良い口實があるから特定の個人に引つ附くんで、目的は誰かを侮辱して快を貪る事にあるんですね。日本では、快樂を追求するのが善い事だと信じられてゐるので、この手のをかしな人は自分がをかしな事をしてゐると自覺する事が出來ません。「会長」に限らず、喜六郎とか「義」とかもさうです。連中、理由を適當にでつち上げて、他人の足を引張つて、それを樂しんでゐるんです。これは現代の傾向とは言へません。
星新一の『人民は弱し 官吏は強し』を讀んでゐるんですが、官吏だけではないんですね、意地の惡いのは。日本人は、殊に世のため人の爲と云ふ發想を憎んで、さう云ふ事をやつてゐる人の足を引張るのを愉しむ傾向があります。本當に困つた事ですが、星新一の附けたタイトルでは官吏だけが惡いかのやうに見えてしまつて一般に日本人が意地惡である實態は覆ひ隱される事になつてしまつてゐます。
他人の足を引張るのも、彼等は「空氣を讀めない奴に掣肘を加へてゐる」積りなので、「空氣」に支配されてゐる日本で彼等は自分逹こそが正義と心から信じてゐるんです。苛めが横行する所以です。これは何とかしなければならない筈の問題ですが、日本では何うにもならない事だと言つて良いでせう。ならば日本に希望はありません。

投稿: の | 2008年4月21日 (月) 20時58分

喜六郎先生より厳しい断罪が・・・!

投稿: 森英樹(本物) | 2008年4月23日 (水) 18時51分

>裁判を例にすれば分かり易いと思うが、裁判で基準になるのは飽くまで憲法・法律である

今の憲法の第76條に「すべて裁判官は、その良心に從ひ」云々と規定がある。喜六郎はわざとその部分を拔かして「この憲法及び法律にのみ拘束される」の部分だけを強調してゐる。

裁判をする裁判官は人間であり機械ではないから、その人の持つ價値觀は問題になるんだがな。

アンチは信者の言ふ事を間違ひに見せかける爲に平氣で事實を歪めるから困る。

投稿: の | 2008年4月24日 (木) 01時29分

喜六郎の記事。
http://pink.ap.teacup.com/kirokuro/61.html

俺の反論その他。
http://blogs.yahoo.co.jp/nozakitakehide/archive/2008/04/24

俺逹「松原信者」が當座間違つた事を言つたとしても、「政治と文學」の峻別が重要である事は否定出來ないのだし、詰らない揚げ足取りで喜六郎が「松原信者」を「論破」したところで「松原信者」の「信仰」の根本的な價値が否定されるものではない。

「アンチ」の連中は非道い勘違ひをしてゐて、「信者」を叩く事が重要だ、と信じてゐる。自分逹の行爲を「聖戰」と思ひ込んでゐる節がある。しかし「信者」等と云ふ現象面を叩いても何の意味もない。重要なのは叩くべき信仰・叩くべき價値觀を見出し、適切に叩く事だ。
日本人は、喜六郎も其一人だが、現象面に拘り、本質を全く氣にしない。これは日本人の深刻な問題だ。揚げ足取り如きで喜六郎は天狗になつてゐる。これは甚だみつともない事だ。が、そのみつともない行爲は多くの日本人に共通して見られる。我々は喜六郎の恥かしい行爲を見ても、他人の行爲と思つて安心するのでなく、自らの問題として自覺し反省しなければならない。

投稿: の | 2008年4月24日 (木) 02時50分

福田恆存も、世の中の道徳の紊れに對し政治が介入すべき範圍がある事を指摘してる。D.H.ロレンスが猥褻文書を國家・警察が取締るべき事を主張してゐたのを見れば、福田氏が如何なる思想を持つかは明かだ(猥褻文書の存在を認めた上でロレンスは自著が性を扱つた文學である事を主張してゐる)。
政治と文學の峻別は認識の際の峻別であり、それを怠る人間が日本に澤山存在する事を我々「松原信者」は問題視してゐる。
それを喜六郎は揚げ足取りのレヴェルで非難し、勝つた氣になつて好い氣になつてゐるに過ぎない。喜六郎の議論は、せいぜい自己辯護に過ぎず、本質論ではない。要するに何の價値も無い。

俺は木村さんのリバタリアニズムと言ふか「脱走兵の自由」論には賛成しない。これは個別の議論に於て論旨の展開に疑問があると云ふ意味であり、根本的に木村さんと俺の立場に對立がある事を意味しない。
喜六郎は、淺薄皮相のレヴェルで非難して、木村さんやその他「松原信者」一般の根本的な立場を崩した積りになつてゐるが、全く我々の立場は崩れてゐない。

投稿: の | 2008年4月24日 (木) 03時01分

>そもそも「政治と道徳の峻別」を二項対立を解釈していたのは、森英樹ら松原信者ではなかったのか?
>その種の批判は、「政治と道徳の峻別」をリバタリアニズム肯定と曲解した某新聞記者にこそ向けられるべきだろう。
http://pink.ap.teacup.com/kirokuro/61.html

ご承知のやうに、私は最近、リバタリアニズムにすつかり「ハマつて」ゐるのですが、その理由の一つは、リバタリアニズムと松原先生の思想に相通ずる部分がある(と私が考へてゐる)點です。松原先生の仰る「道徳と政治の峻別」がリバタリアニズムにおけるそれと意味合ひが必ずしも同一でない事を認識したうへで、兩者の共通性に關心を抱いてゐるのです。

要するにリバタリアニズムと松原先生の主張に食ひ違ふ點があることなど最初から百も承知なのであつて、それをさも誤解曲解のやうに云はれても困るわけです。それも松原先生の本をきちんと讀んだこともない人から。

以前も書きましたが、喜六郎氏は私をいつも松原信者松原信者と呼んで嘲笑してゐるくせに、その一方で、木村は松原氏の主張をねぢ曲げてゐるなどと非難する事が完全に矛盾してゐる事に氣づかないのでせうか。教祖の主張をねぢ曲げる「信者」なんて、どこにゐるんでせうか。

私は一體、松原信者なんでせうか、それとも松原信者の假面をかぶつたリバタリアンなんでせうか。はつきりさせて貰ひたいものです。

投稿: 木村貴 | 2008年4月24日 (木) 03時10分

>福田恆存も、世の中の道徳の紊れに對し政治が介入すべき範圍がある事を指摘してる。

野嵜さんどうも有難う御座います。仰る通り、道徳に政治が介入すべき場合があるとする思想は西洋にも勿論存在します。むしろさうした思想の方が主流でせう。西洋文學に造詣の深い福田恆存がそのやうに考へてゐたのも自然なことです。

私が肩入れしてゐるリバタリアニズムは自由主義が純化されたラディカルな思想であり、現代において決して主流とは呼べませんが、その本質はやはり西洋文化の傳統に深く根ざしてゐるます。脱走兵の話は論じ方が拙劣だつたかもしれませんが、もつと勉強したうへで、松原先生の主張との關係も含め、いづれきちんと論じたいと思つてゐます。

投稿: 木村貴 | 2008年4月24日 (木) 03時33分

以前に誰かが「松原正は早稲田大学教授であり、本が売れなければ食っていけないわけではないので、いい気なことが言える」というような意味の発言をしていたが・・・

それは逆に良いことではないか!第三者機関みたいなものである。

例えば「森英樹は医師であり、映画を撮っているわけでもなく、スポンサー探しに汲々するわけでもなく、観客に媚びなければならないわけではなく、映画会社のお偉方にヘイコラしなければならないわけではなく、役者のご機嫌を取らなければならないわけではなく、映画雑誌社編集部に頭を下げなければならないわけではので、その映画批評はいい気なものである!」なんて批評が成り立つか?成り立つはずがないだろう。映画だろうが音楽だろうが文学だろうが政治だろうが同じことである。

追記:佐藤俊氏は無視すればよいアンチに構いすぐではないだろうか?

投稿: 森英樹(本物) | 2008年4月24日 (木) 13時57分

あららら・・・。

このキロクロウという方、なにか勘違いしてますね。

最近の私は2ちゃんねるを見ることはありますが、書き込まないんですよ。忙しくて時間が無い。

森英樹だと勘違いされた方もどう思ってるんだろうか(笑)。

西部邁は興味が無いからどうでもいいんですがね。現在、何をしているのかも分からない。

暇潰しに西部の悪口を言うことはありますが2ちゃんねるでは無いですね。小林よしのり・西部邁ファンはからかうと面白いんですよ(笑)

西尾幹二も何をしているのか知りませんね。ミッドナイト・蘭さんとは旧知なんで、書き込ませてもらっていますが、彼もまた私には興味の全く無い労働問題を扱ってるし。

どういう経緯で労働問題を扱うようになったのかも知らない。さらに実は蘭さんが何故西尾幹二と袂を別ったのかも知らない。そもそも作る会にはなんの興味が無かったし。

投稿: 森英樹(本物) | 2008年4月26日 (土) 13時38分

以前にも書いたかもしれませんが、私は松原先生の著書を初めて読んだとき、不快感も何も感じず、ただただ気持ちよく大爆笑しました。

誤解されるといけないので書きますが、私は高校時代にニーチェにかぶれ、その影響で西尾幹二氏を知ったわけです。

それで西尾氏が福田恒存や小林秀雄の名を出していたので読み始めました。

僕が大学生の頃は松原先生の著書も書店に置いてあったし、福田恒存や小林秀雄や松原正先生の著書も古書店などに安価であったので蒐集するのにそれほどお金がかかりませんでした。卒業時までに小林秀雄、福田恒存、松原正の著書が揃いました。

だから西尾先生には色々と読む人を教えてくれたという学恩があります。西義之や竹山道雄、小泉信三、村松剛、小堀桂一郎なども読んでいました。

ただ小林秀雄に関しては、何が何処に書いてあるのかまで即答できるくらい愛読していました。
小林は難解だという感想を聞きますが、私は芸術論から入ったので小林の言いたいことはすぐ理解できました。文学論、音楽論や絵画論のことです。

僕は一般の人にとっては福田恒存の方が難解じゃないかなと思います。

木村さん、野崎さんへ質問です。

永井荷風が芸術家ではなかったら、どういう人生を送ったと予想されますか?

追記:僕は小林秀雄が大好きですが、ランボーのなにが良いのか分かりません。エリオットよりも感情移入ができ読みやすいんですが、結局は共感できません。

すみません。酔っ払っています。

投稿: 森英樹(本物) | 2008年4月27日 (日) 01時55分

きろくろうが馬韓なのが分かった。

おやすみなさい。

でも野崎氏にしろ木村氏にしろなんでこんな出来損ないのイチャモンに反論するのかは分からない。

投稿: 森英樹(本物) | 2008年5月 2日 (金) 00時19分

きろくろう何を照明したいのかサッパリ分からない。

「武士の情」とか意味不明なことを言ってるが、これは森英樹(本物)の意見であると言えないらしい。

どういう風に論証してくれるのか楽しみである。

論証できないだろうけどね。あの頭脳の杜撰さでは・・・。

政治と道徳の二元論は垂直と水平の十字架のことであるということが、分かり易い比喩だったと意見を頂戴したが、全く理解できないという方々は放置しておいて良いのではないか?

天才バカ板に載せた政治と芸術に関してどういう意見を持ってるのか聞きたい次第である!

投稿: 森英樹(本物) | 2008年5月 2日 (金) 00時35分

>なんでこんな出来損ないのイチャモンに反論するのかは分からない。

私の場合、腹が立たないと物を書く氣がしない性分だからだと思ひます。

投稿: 木村貴 | 2008年5月 6日 (火) 23時07分

http://www13.atwiki.jp/kirokuro-archive/

>ようこそ、喜六郎の電脳アーカイブスにお越し頂きました。
>当wikiは、松原信者(松原正・早稲田大学名誉教授の盲目的信奉者)に関するテキストや個人的に興味のある物件を保存することを目的に立ち上げました。

喜六郎の非道い粘着ぶり。

こいつ「松原信者」に寄生しないと何も出來ないのかね。

投稿: 野嵜 | 2008年5月 8日 (木) 02時57分

いやいや「松原信者」についてあれこれ書いてくれるのは非常に喜ばしい事だと思ひます。松原先生の名前を一般の人に知つて貰ふ良いチャンスだからです。喜六郎氏の主張が正しいかどうか、松原先生の著作を直接讀んで判斷して貰ひたい。數は少ないかも知れませんが、その人の人生を變へて仕舞ふやうな知的經驗が待つてゐる事を請合ひます。假に我々「信者」の理解が松原先生の本旨と異なつてゐたとしても、そこから新たな思想的發展が望めるでせう。いづれにしても、讀むべし、松原正。

投稿: 木村貴 | 2008年5月 9日 (金) 01時58分

 私も嘗て松原先生の著書を周囲の二十人余の人達に進呈した事があるのですが、反応は今一つで、中には電話で食つて掛つて来た人もゐました。
 昭和六十三年七月にたつた一度だけ松原先生の謦咳に接する御縁に恵まれた際、先生は「僕の本を読んで何かをやらうとした人は皆挫折するんです。」と仰り、上記の事実を御話したところ、一言「さうでせう」と御返答下さいました。
 木村さんの仰る通り、先生の著書には読者の人生を変へるだけのインパクトが秘められてゐますが、日本人に広く読まれる日は少なくとも私達の目の黒い内は訪れますまい。
 それを思ふと、野崎さんと同様、この日本には希望は無いと云ふ暗澹たる気持に陥りますが、松原先生はかうも仰いました。「君、日本人と云ふのは優秀な民族なんだ。さうでなければ、幾ら幸運に恵まれようと茲まで来る事は出来なかつた」。福田恆存先生も「日本文化、大丈夫だとも」と太鼓判を御押しになつたと云ふ記事を何かで読んだ記憶があります(保存しておかなかつた事を悔いてゐます)。
 それ故、一縷の望みを抱いてゐるのですが。
 

投稿: キラーT細胞 | 2008年5月 9日 (金) 10時29分

>こいつ「松原信者」に寄生しないと何も出來ないのかね。

肖りたい対象が存在しない人間(=キロクロウ)は悲惨・・・。

投稿: 森英樹(本物) | 2008年5月 9日 (金) 20時30分

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