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2008年2月21日 (木)

書いてゐますが…

前囘の記事に對し喜六郎氏より反論があつた。私が「政治と道徳とは別物であると同時に、分かちがたく結びついてゐる」と書いた事に對し、次のやうに「突っ込みを入れて」くれてゐる。

これは後付けだね。 こういう事はもっと前から言っておくべきだった。今ごろになって姑息に軌道修正するのはみっともないと思う。後からだったら何とでも言える。

「もっと前から言っておくべきだった」……? それなら例へば二年も前に書いたこの文章は何なのだ。

政治と道徳は究極的に分け得ない部分も殘ると思ひますが、まづ分けて考へない事には、分け得ない部分も理解出來ないでせう。

それから、三年前に書いたこれ

人間は政治的動物であるから、宗教も政治的役割を負はざるを得ない場合がある。しかし人間は道徳的存在でもあるから、宗教は道徳的役割をも負ふべきである。そしてソフォクレスの悲劇「アンティゴネー」が示すやうに、政治と道徳とは對立する局面がある。
(註)「政治と道徳とは對立する局面がある」と書いた以上、「對立しない局面もある」と云ふ事を私は認めてゐる譯である。どう考へても。

もう一つ、松原正先生の講演の紹介から。

イエスは「神の物は神へ、カイザルの物はカイザルへ」と述べ、カイザルの物(政治)以外に神の物(信仰・道徳等)が存在する事を強調した。神の物とカイザルの物との對立は容易に解決出來ないが、一方に偏せず、雙方に關はつて生きるのが全うな人間なのだ。

いづれの文章も、政治と道徳が「別物であると同時に、分かちがたく結びついてゐる」事を前提に書いてゐる、
いやいや、事實上同じ意味の事を書いてゐるとしか讀めないと思ふのだが。

自由主義者の私としては、誰もが自由に物を書ける日本は本當に良い國だと思ふが、他人のブログをろくに讀みもせずにテキトーな事を書くのは出來ればやめて貰ひたいなあと感じたりする今日この頃である。

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コメント

姑息な事――一時的な間に合はせ、その場限りの言逃れをしよつちゆう言つてゐるのは、實は喜六郎自身ですね。自分の事は棚に上げて喜六郎、良くもまあぬけぬけと偉さうな事を言つてゐますね。

大體あれの言ふ事には一貫性がありません。つつこまれて自分に不利になると何時も「反論する価値もない」と、姑息な言逃れをするんですからね。それでその場は通ると思つてゐるのですが、その時の論理はその時だけしか通用しない。別の機會に喜六郎の發言の不整合を指摘しても、彼は自分の言つてゐる事が支離滅裂なのを認識する事も出來ないんです。

自分が前に言つた事を彼は全部忘れてゐるんです。他人が前に何を言つたかなんて、彼はさつぱり氣にしてゐません。ただ當座叩けさうな處だけ取上げて、大袈裟に騷ぎ立てて、それで勝つた氣になつてゐるんです。

投稿: の | 2008年2月21日 (木) 23時30分

>自己弁護の能力には非常に長けた御仁だなという感想を持った。
(投稿者:kirokuro 2008/2/21 17:18)
http://pink.ap.teacup.com/kirokuro/51.html#comment10111

いや別に襃められる程の事では。喜六郎さんの足下にも及ばぬ人竝みの頭しか持つてゐませんので。

>「政治と道徳とは別物であると同時に、分かちがたく結びついてゐる」んだったら、国家が国民に道徳教育を施すことだって肯定されると思うのだが。/木村さんは今まで自分が何を説いて来たのかもお解りでないようですな。

あのねえ……。私が政治に對する道徳の優位を百萬囘も説いてゐるのをお忘れなのでせうか。論理的にも、政治と道徳が分かちがたく結びついてゐると云ふ一般論を即、國家による道徳教育と云ふ個別論に當て嵌めて良いと云ふ事にはならないでせうが。罰として校庭十周。

投稿: 木村貴 | 2008年2月24日 (日) 01時08分

あの人には何を言つても駄目ですよ。彼は「松原信者」は馬鹿だと信じてゐるから、その結論を引出す爲には「松原信者」が何を言つても間違ひであると云ふ事にしなければならないのです。本當に間違ひか何うかなんて、彼の者は興味がありません。彼は遊びで他人を侮辱して樂しんでゐるんです。何時もあれは人を侮辱する時、紋切型を言つてゐるだけでせう。何もわかつてはゐないんです。論語だつて呉智英を讀んで知つたかぶりしてゐただけでしたし。
こちらが幾ら説明しても彼は「反論する価値もない」とか言つて必ず逃げます。説得されてしまつたら彼は困るんですよ。

投稿: の | 2008年2月24日 (日) 05時01分

http://pink.ap.teacup.com/kirokuro/49.html

「投稿者:(@▽@)2008/2/20 23:03」

>闇なんとか日記とかいう中身のない自己満足が目立つサイトで、さも自分が福田恆存のよき理解者(笑)で福田に関して造詣が深いかのような思わせぶりなことを書いて、社会的に無名で認知されない卑小な自分を大きく見せようとしていたでしょう。

「投稿者:(@▽@)」の言つてゐる事は、全部極附けと臆測で、極附けだらけ臆測だらけと云ふ事はつつこみどころだらけと云ふ事なのだけれども、喜六郎は何故か斯う云ふつつこみどころだらけの發言を何時も默認してゐるんですよね。アンチ野嵜の發言だから嬉しくてしやうがないのでせう。しかし、それなら、彼がただの「アンチ」に過ぎない事は明かです。ところが彼は、それを認識出來ないんです。
仲間のアンチが褒めて呉れるから、喜六郎は自分が良い事を言つたと思ひ込み、自分は本當に偉いんだと勘違ひしてしまつてゐます。ここで反省すれば彼も立派なのですが――

「投稿者:(@▽@)」も、また「無職」と云ふ事に拘つて人を誹謗してゐる「つるた」なる人物(「義」と同一人物か何うかは知らないがメンタリティは同一)も、共にろくでもない人間です。斯う云ふ連中の言葉を一切批判しないのが喜六郎です。「類は友を呼ぶ」のでして、ろくでもない人間のろくでもない發言を喜んで受容れてゐる喜六郎も、當然の事ながらろくでもない人間でしかありません。
喜六郎も、そんなに頭の惡い人間ではないやうですが――ずるがしこいと云ふのも世間的には「あたまがよい」うちに入るんでせうね。そんな人間になるくらゐなら馬鹿で十分です。

投稿: の | 2008年2月24日 (日) 05時34分

今まで讀むに値しないと思つて讀まないでゐた喜六郎の文章を今朝初めて讀んで、それで咎めるべき部分を咎めておいたのですが、公正を期す爲に木村さんの發言も咎めておきます。俺は木村さんのシンパですが、喜六郎シンパの連中のやうな、鄙劣な態度はとりたくないですから、云々。

>イエスは「神の物は神へ、カイザルの物はカイザルへ」と述べ、云々。

「一方に偏せず、雙方に關はつて生きる」と云ふのは、やつぱり政治に關する事と道徳に關する事とが別である事を意味してゐますよ。兩者が「分かちがたく結びついてゐる」としたら、それは既に「一つ」であり、一つのものならばそれに關はるにしても「雙方」なんて言ふ事は出來なくなつてしまひます。概念的に對立する異る二つのものがあるから、「一方」にのみ關はつたり、「雙方」に關はつたりする事が出來るのではないですか。

松原先生の戰爭論は、道徳的な戰爭と云ふ事ではなく、正義の戰爭と云ふ事を論じたものです。そして、正義に拘る事もまた人間的な行爲であるとして、松原先生は重視されたのだと思ひます。
昨今流行りの「國益」なる概念――これを松原先生は唯物的な物の見方、と言ふより、非人間的な物の見方に基づく概念と見てをられるのでして、「國益」にばかり拘る今の多くの論者が非人間的な考へ方をしてゐる事を指摘し、批判されたのだと俺は認識してゐます。經濟一邊倒の日本人の發想、マルクシズムにしても資本主義にしてもヨーロッパの連中の考へには根本的に人間の生と繋がる部分があるのですが、日本人の根性には人間性の缺如が特徴的に存在します。

投稿: の | 2008年2月24日 (日) 06時00分

>兩者が「分かちがたく結びついてゐる」としたら、それは既に「一つ」であり、一つのものならばそれに關はるにしても「雙方」なんて言ふ事は出來なくなつてしまひます。

さうですね。「政治と道徳は別物」と書いたら「それなら戰爭論に道徳を持ち込むな」と見當違ひの因縁をつけられたので、それは違ふと云ひたかつただけなのですが、言葉の使ひ方が雜だつたかもしれません。

>松原先生の戰爭論は、道徳的な戰爭と云ふ事ではなく、正義の戰爭と云ふ事を論じたものです。そして、正義に拘る事もまた人間的な行爲であるとして、松原先生は重視されたのだと思ひます。

さう思ひます。ただ「道徳的な戰爭」論は自由主義思想(リバタリアニズム)に對する關心から書いたもので、松原先生の思想との整合性は必ずしもとれてゐないかもしれません。この整合性を探つて行くことが今後の課題だと思つてゐます。

投稿: 木村貴 | 2008年2月24日 (日) 08時47分

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