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2008年2月28日 (木)

ヘタマゴすればウィキ荒らし

喜六郎氏より有益な情報。

たとえば木村貴氏。/彼は以前、自分のブログにて福田逸氏が「ヘタマゴ」という語句を使用した事を槍玉に挙げ、「ヘタマゴなる愚劣な言葉を書き連ねて平気な福田逸は馬鹿だ」とゴチエイ気取りで居丈高に非難したことがあった。/その後ウィキペディアに何者かが"「ヘタマゴ」という珍妙な言葉を使う。"と記入し、それを見た福田逸氏が「ヘタマゴ」という語句は自身の造語ではなく、国語辞典にも載っている語句だということを論証された。
早速確認。たしかに福田逸氏、次のやうにお書きになつてゐる。
最近ウィキペディアを見て吹き出したことがある。項目は、こともあらうに、私の名前である。[略]大筋では問題ないのだが、項目説明の最後に、誰かの手により、いつの間にか一行加へられてゐる。/何が加えられたかといふと、≪ブログ「福田逸の備忘録」で「ヘタマゴ」という珍妙な言葉を使う。≫といふ一文。吹き出したといふのはここである。/当然このブログを読みに来た人物が書き加へたことは言ふまでもないが、≪「ヘタマゴ」という珍妙な言葉≫と書いたといふことは、「へたまご」といふ言ひ回しを知らないといふことだらう。「へたをまごつく」――略して、ヘタマゴ。「ヘタマゴすれば民主党の政権が出来かねない」、などと使ふ。この言ひ回し、無意識に使ふ程度には私の頭に入つてゐる。今まで辞書で調べたこともなかつたが、小学館の日本国語大辞典(第二版)を引いたら、「下手なふるまいをする。ぐずぐずとまごつく」といふ説明を載せてゐる。

ああ、載せてゐる辭書もあるかもしれない。 ところで、それが何か。もう一度私の文章を見て貰ひたい。

しかし傳統を守れと聲高に叫ぶ言論人が「噂を信じちやいけないよ」だの「ヘタマゴ」だの「ガラガラクシャ」だのと愚劣な言葉を書き連ねて平氣でゐるやうなら日本文化は、つまり日本は、いづれ滅びる。

私は「ヘタマゴ」を「愚劣な言葉」とは書いたが、「珍妙な言葉」などとは書いてゐないし、辭書に載つてゐないとも書いてゐない。「噂を信じちやいけないよ」だつて、「噂」「信じる」「いけない」と分ければ當然ながら辭書にちやんと載つてゐるし、「ガラガラクシャ」だつて、擬音語擬態語辭典の類を引けば載つてゐ……ないだらうな、さすがにこれは。兎も角、それらの言葉はいづれも愚劣、下品、輕薄であることに關して變はりはない。まあ、「ヘタマゴ」と云ふ言葉だけを取り出して、「噂を信じちやいけないよ」や「ガラガラクシャ」には一言も觸れない喜六郎氏の高等戰術だか、「木を見て森を見ぬ」讀解力の高さだかについては、「お見事。とても眞似できません」 と云つておかう。

と云ふことで喜六郎氏はまたしても論破されてしまつたわけだが、經驗上、堂々と反論して「言論責任」を明らかにしてくれるなどとは全く期待してゐない。それは別に構はないのだが、好い氣になつてこんな事まで書くのは、他人に責任ある言論を求めるお方として如何なものか。

ウィキペディアに例の一文を記入したのが木村氏であるとは残念ながら断定は出来ない。なぜならば、状況証拠(福田逸氏の「ヘタマゴ」に言及してたのは木村氏だけ)はあっても決定的証拠は無いからである。

私はウィキペディアへのログインの仕方も知らないのだが、それこそヘタマゴすればウィキ荒らしの濡衣を着せられかねない。桑原桑原。喜六郎氏に知つておいて貰ひたい諺がある。七度尋ねて人を疑へ

それにしても事の發端になつた福田逸氏の文章、郵政民營化への賛否などは勿論別にして、何度讀んでも愚劣極まる。この愚劣が分からぬ人間に何を説いても無駄だらう。

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2008年2月21日 (木)

書いてゐますが…

前囘の記事に對し喜六郎氏より反論があつた。私が「政治と道徳とは別物であると同時に、分かちがたく結びついてゐる」と書いた事に對し、次のやうに「突っ込みを入れて」くれてゐる。

これは後付けだね。 こういう事はもっと前から言っておくべきだった。今ごろになって姑息に軌道修正するのはみっともないと思う。後からだったら何とでも言える。

「もっと前から言っておくべきだった」……? それなら例へば二年も前に書いたこの文章は何なのだ。

政治と道徳は究極的に分け得ない部分も殘ると思ひますが、まづ分けて考へない事には、分け得ない部分も理解出來ないでせう。

それから、三年前に書いたこれ

人間は政治的動物であるから、宗教も政治的役割を負はざるを得ない場合がある。しかし人間は道徳的存在でもあるから、宗教は道徳的役割をも負ふべきである。そしてソフォクレスの悲劇「アンティゴネー」が示すやうに、政治と道徳とは對立する局面がある。
(註)「政治と道徳とは對立する局面がある」と書いた以上、「對立しない局面もある」と云ふ事を私は認めてゐる譯である。どう考へても。

もう一つ、松原正先生の講演の紹介から。

イエスは「神の物は神へ、カイザルの物はカイザルへ」と述べ、カイザルの物(政治)以外に神の物(信仰・道徳等)が存在する事を強調した。神の物とカイザルの物との對立は容易に解決出來ないが、一方に偏せず、雙方に關はつて生きるのが全うな人間なのだ。

いづれの文章も、政治と道徳が「別物であると同時に、分かちがたく結びついてゐる」事を前提に書いてゐる、
いやいや、事實上同じ意味の事を書いてゐるとしか讀めないと思ふのだが。

自由主義者の私としては、誰もが自由に物を書ける日本は本當に良い國だと思ふが、他人のブログをろくに讀みもせずにテキトーな事を書くのは出來ればやめて貰ひたいなあと感じたりする今日この頃である。

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2008年2月19日 (火)

道徳は政治に先行する

政治と道徳とは別物であると同時に、分かちがたく結びついてゐる。だからこそ「アンティゴネー」の昔から、兩者が密接に關はり合ふ事象について、多くの議論が重ねられて來た。その典型が戰爭である。

どのやうな場合であれば、ある人間が他人に物理的暴力を振るふ事が道徳的に是認されるだらうか。それは他人から物理的暴力を振るはれた場合、あるいは正に振るはれさうになつた場合であらう。前者は報復であり、後者は自衞である。報復はさらなる暴力の行使を防ぐ效果があるから、結局は自衞に含めてよからう。要するに、他人への物理的暴力が道徳的に是認されるのは、自衞の場合に限られるのである。

さて私の親なり妻なり子なりがAと云ふ責任能力ある人間から虐殺されたとして、私が報復の爲に、自ら、或いは現實的には國家と云ふ代理人を通じ、Aを殺す事は、道徳的に是認されるべきか。當然是認されるべきであらう。しかしAと一緒にゐた無關係な群衆まで機關銃で撃ち殺して仕舞つたとしたら、まづ許されないだらう。たとへ群衆がAと同じ國籍を有し、同じ言語を話し、同じ宗教を信仰し、あまつさへ私に對して罵詈雜言を浴びせてゐたとしても。

國家が互ひの國民を總動員して行ふ闘爭、すなはち戰爭は、個人をこのやうな反道徳的行爲に追ひやる危險を常に孕んでゐる。とりわけ我が國もかかはる「對テロ戰爭」のやうに、他國にわざわざ出掛けて行つてやらかす戰爭となると、無關係な者を殺すと云ふ反道徳行爲を犯す恐れは格段に大きくなる。

かうした考へ方は感傷に過ぎないのだらうか。戰爭は冷徹な政治の領域に屬する事柄なのだから、「無關係な者を殺す事は惡である」と云ふやうな甘つちよろい道徳を持ち出すのは筋違ひなのだらうか。

さうは思はない。道徳は政治と同格ではなく、政治に先行する領域である。從つて政治的行爲の是非も、究極的には道徳によつて判斷されるべきなのだ。

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