脱走兵の自由
戰爭が道徳的であるための條件は何だらうか。幾つかあると思はれるが、まづ自由意思との關はりについて考へてみよう。
ある行爲を道徳的と呼ぶには、自由意思に基づいて爲される必要がある。
強制されて行ふ行爲が道徳的であるかのやうに見える場合はある。そのやうな行爲も社會を維持する上でそれなりの意義はあるかも知れないが、眞の意味で道徳的であると云ふことは出來ない。例へば、何の罪もないのに拳銃で脅されて仕方なく金を出し、それが結果的に恵まれぬ人に寄附されたとしても、金を出した人間が自らの意思で行つたのでない以上、眞に道徳的な行爲とは云へない(この譬へを敷衍すれば、嫌々拂つた税金で結果的に困つた人を助けても道徳的とは云へない。つまり大半の場合、税とは沒道徳的な制度なのである。閑話休題)。
さて、この理屈を戰爭に當嵌めるとどうなるであらうか。敵と云ふ名の人間を殺すことが道徳的であるかと云ふ問題はひとまづ措くとして、少なくとも國家や上官から暴力で脅されて戰地に赴いたり敵を殺したりしても道徳的とは呼べないと云ふことになる。いつでも戰場から自分の意思で離脱できると云ふ環境があり、それでもなほかつ自らの意思で戰鬪に參加して初めて、道徳的である爲の條件の一つを滿たすことになるのである。
つまり、脱走兵となる自由を認める戰爭でなければ、道徳的とはなり得ないのである。
無論、さう云ふ自由を認める軍隊が勝てるかどうかは分からない。だが人間が道徳的になり得るかどうかと云ふ話と、戰爭に勝てるか勝てないかと云ふ話は、そもそも別物なのである。
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コメント
>ある行爲を道徳的と呼ぶには、自由意思に基づいて爲される必要がある。
古典的なツッコミになりますが,自由意思の定義が問題になりませんか。
>何の罪もないのに拳銃で脅されて仕方なく金を出し
この場合,金と命を天秤にかけて,自由意思に基づき「命を取る」という判断を下しているわけです。選好の設定いかんによっては,金が惜しいから命を捨てる,という判断もあり得ます。
逆に,これを「強制の結果であり自由意思ではない」と定義するならば,世のほぼすべてについて自由意思はありえません。あらゆる判断は,法律や慣習や倫理や利害関係といった強制的拘束のもとでおこなわれるからです。
日本の刑法上,私が人を殺せば死刑か三年以上もしくは無期の懲役に処されます。そのほか有形無形の社会的制裁が課されるでしょう。でも,これらの帰結を受け入れる覚悟があるならば,人を殺す「自由」はあります。職を辞める自由,離婚する自由など,自由とはこうしたものではありませんか。
行為の強制性について濃淡を主張することはできますが,有か無かの二元論で語ることはできません。行為における道徳性の要件に動機における自由意思が入るということを仮に認めるとしても,道徳的/非道徳的ではなく道徳性が高い/低いという表現になると思います。
投稿: 平野 | 2008年1月18日 (金) 01時44分
すみません,書き忘れです。本論から若干ずれますが……。
(1)良心や道徳心という装置も一種の内在的な強制機構ですよね。われわれは社会からの教育やしつけによってこれらの装置を心に帯び,行動を自ら制限するようになります。本当は窃盗したくても強姦したくても,良心が咎めるから,できない。むしろそうした「自由な」欲望を制御することに誇りや快感をおぼえるよう,訓練されています。
(2)逆に,こうした欲望こそが,自由意思を妨げるものだという思想も,長い伝統をもっています。煩悩からの解脱した「自由な」寂滅の境地は,仏教のみならずキリスト教文化にも根強く支持される理想のひとつです。この場合,欲望は強制機構として見なされています。
(1)(2)より,たとえ外面的強制が一切存在しない場合でも,内発的強制によって意思は強制されているわけでして,道徳的行為なんてものはありえないという結論に到ってしまいそうですが,その点いかがお考えでしょうか。
投稿: 平野 | 2008年1月18日 (金) 02時16分
平野樣、御指摘有難う御座います。
おつしやるやうに自由意思の定義(裏返せば強制の定義)は哲學上の大問題で、素人の分際で細部にわたりきちんとした議論をする自信はないのですが、とり敢へず私は「人身・財産に對する物理的暴力の侵害的行使またはその脅迫」を強制であると定義してゐます。つまり國家による物理的暴力の行使を伴ふ「法律」はともかく、「慣習や倫理や利害關係」、果ては「良心や道徳心」までをも強制に含めて仕舞ふ廣い定義はとりません(その理由については別途説明する機會があると思ひます)。
このやうに定義すれば、行爲の強制性について「有か無かの二元論で語ること」は一應可能となります。この定義で判斷に迷ふ微妙な場合がある事は否定しませんが、それはどんな定義にもつきまとふ問題であり、自由と強制を一定の定義に基づき區別しようとする方法論自體を否定する必要はありません。「道徳的/非道徳的」ではなく「道徳性が高い/低い」と云ふ表現を使ふにしても、結局は「高い」「低い」の定義を明確にする必要があり、本質的には議論に何の改善ももたらしません。
投稿: 木村貴 | 2008年1月18日 (金) 12時53分
軍隊が、組織として、兵士に脱走する自由を認めるか何うかと、兵士が個人の内部で脱走する自由意志を持つか何うかとは、話が違ふと思ひますが如何。
北朝鮮の兵隊にも、自由意志は存在する筈です。洗腦されてゐるかも知らんですが。
投稿: の | 2008年1月18日 (金) 22時18分
御指摘の論點と外れますが、國家や軍隊は個人の良心や道徳を押しつぶす組織だからこそ、個人が個人の道徳を武器に戰爭に反對できるのだと思ひます。道徳的な軍隊に對して、我々は何を盾に戰爭に反對できるのでせうか。精々國益にプラスかマイナスかといふことになつてしまふ氣が致します。
投稿: 洋 | 2008年1月19日 (土) 00時22分
勿論、北朝鮮にも、自らの意思で軍役に就いてゐる人はゐるでせう。しかし私が問題にしたいのは、さう云ふ愛國心溢れる(?)人とは逆の、軍役なんぞに就きたくないにもかかはらず、自分や自分の家族等に對する物理的暴力の行使や脅迫により、自らの意思に反して軍役に就かざるを得ない人がゐるかどうかです。北朝鮮の場合、さう云ふ人は間違ひなくゐるでせう(國民全員が洗腦されてゐれば別ですが、亡命者がゐるところを見るとさうではないのでせう)。日本の場合、少なくとも今のところ、軍役に就きたくない人間は就かない自由があります。自衞隊員が脱走兵となる自由はありませんけれども。
投稿: 木村貴 | 2008年1月19日 (土) 00時50分
>道徳的な軍隊に對して、我々は何を盾に戰爭に反對できるのでせうか。精々國益にプラスかマイナスかといふことになつてしまふ氣が致します。
そんな事はありません。何が道徳的で何が道徳的でないかは、樣々な考へ方があり得ます。ある軍隊が掲げる大義名分を洋さんが反道徳的だと御判斷されるのであれば、それは立派な反戰の「盾」になり得ます。たとへそれが世界で唯一人であらうとも。逆に洋さんがその大義名分を完全に道徳的だと御判斷されるのであれば、反對する理由はないでせう。
投稿: 木村貴 | 2008年1月19日 (土) 00時58分
戰爭は他の手段を以てする政治の繼續云々。集團・組織として行動するのだから、軍隊それ自體が道徳的となる事はあり得ないのでないですか。
兵隊や將校の個人の中においてのみ道徳は成立するのでないですか。
投稿: の | 2008年1月19日 (土) 01時19分
敏速なご返答,深謝いたします。
>のさん
>集團・組織として行動するのだから
道徳的という言葉がよくわからないのですが,道徳規則に対する無違反性を言っておられるのですよね? 個人に対して適用される法規則があり,集団に対して適用される法規則(e.g.会社法)があるのと同様,個人に対して適用される道徳規則があり,また集団に対して適用される道徳規則があっても良いのではないですか。
>木村さん
>「人身・財産に對する物理的暴力の侵害的行使またはその脅迫」を強制であると定義
承知いたしました。宣言的定義については真理値がありませんので,異論の余地はありません。
ただ,フーコー的な意味での権力機構を排除して自由を語るのは,だいぶ危ない議論のような気がします。
投稿: 平野 | 2008年1月19日 (土) 03時28分
>道徳的という言葉がよくわからないのですが,道徳規則に対する無違反性を言っておられるのですよね?
全然違ひます。松原先生信者の間の常識ですが、スタティックな徳目とダイナミックな道徳とは嚴密に區別されます。
善と惡を絶對的に命令するのが徳目です。その命令に對して、個人が、意志的に、服從ないし反抗する態度をとる、その過程に就いて「人間的である」と言ふ事が出來ますが、「人間的である」場合、行爲が結果として善であつても惡であつても「道徳的である」と云ふ評價があり得ます。即ち、個人が人間的である事を道徳と呼びます。
この種の個人の生き方に屬する道徳は、集團・組織の生存に關する政治と對立する概念で、それぞれの概念が支配する領域は全く重なりません。
投稿: の | 2008年1月19日 (土) 04時36分
平野さん個人の内部において、平野さんの生き方を決めるのが、道徳です。規範・徳目の絶對的命令があり、周圍の状況に關して理性的な判斷が行はれた時、良心が「なすべき事」を指示します。それに對して最終的に行動を決定するのは意志です。
ただし、人間の行動には、徳目の命令が關はらないもの、ルーティンワークとして機械的に行はれるもの、その他、非人間的なものが多數あります。それに對して、飽くまで個人の行動に對して、人間的な行動と云ふものがあり得、さうした行動をとる過程が全體として道徳的であると評價されます。
一方、平野さんの屬する集團について、集團のありやうは、政治が決定します。この政治の決定は、個人個人の異る状況に即した個別的なものではなく、「最大多數の最大幸福」その他の原則に基く、大雜把なものです。さうした決定に基づいて、組織・集團が全體として生延びようとしますが、當然の事ながら脱落者もあり得ます。さうした脱落者の存在を無視し、基本的に多數の、場合に據つては少數の、生存を確保し、社会を維持する事を目的にするのが政治です。
木村さんの議論は、斯うした道徳と政治の對立に基くものであると考へられるのですが、斯うした原理に立つて考へる限り、主體に組織である軍隊を持つて來るならば、當然の事ながらそれが道徳的と云ふ事はあり得ないと云ふ結論になります。
投稿: の | 2008年1月19日 (土) 04時47分
>戰爭は他の手段を以てする政治の繼續云々。集團・組織として行動するのだから、軍隊それ自體が道徳的となる事はあり得ないのでないですか。
>兵隊や將校の個人の中においてのみ道徳は成立するのでないですか。
この點は野嵜さんのおつしやる通りで、道徳が成立するのは正しく個人の中においてのみです。であるならば、個人の道徳的行爲を暴力や脅迫によつて妨碍する組織は反道徳的な組織です。軍隊の道徳性と云ふよりは寧ろ軍隊の反道徳性を議論したいと云ふべきだつたかも知れません。
また、たとへある個人が戰爭に參加したいと考へたとしても、そもそも參加しないと云ふ選擇を組織が暴力によつて封じてゐるのであれば、眞の意味で自由意思に基づく行爲と呼ぶのは無理があるのではないか、とも考へます。
>ただ,フーコー的な意味での権力機構を排除して自由を語るのは,だいぶ危ない議論のような気がします。
私の意見は平野さんと逆で、フーコーの議論こそ危險を孕むやうに思ひます。詳しくはいづれ書くと思ひますが、簡單に云へば、フーコーのやうに強制の觀念を果てしなく廣げてゆくと、個人の自由に任せるべき領域にまで、政治が「強制の排除」を名目に介入してくる恐れが大きくなるからです。
投稿: 木村貴 | 2008年1月19日 (土) 08時35分
>のさん
丁寧にご説明くださりありがとうございます。その意味ですと,道徳的たる要件は
a. 適用されるべき徳目の存在
b. 行為者におけるaの認識
c. 行為判断において徳目を計算に入れること(結論が合徳目的/反徳目的のいずれになるとを問わず)
となり,組織に対しては「仮にaが肯定されたとしても」b,cが否定されるので道徳性が棄却される,ということを仰られているのだと理解しました。
実存三階でいうところの倫理的実存のことですね,と言いかけましたが迂闊にキルケゴールを引くと痛い目を見そうなので止めておきます。
>眞の意味での自由
自由をどのように定義されても自由ですが,「眞の意味での」を冠するのはフレームのもとではないですか。
投稿: 平野 | 2008年1月19日 (土) 21時50分
平野さん、はじめまして。
平野さんは難しく考えてをられるようですが、政治は人間がするという意味で個人と同じです。政治と道徳の区別は自分自身の内で行なうもので、平野さんの生き方を平野さんが決めるのは道徳であり、平野さんの属する組織の行き方を平野さんが決める(例えば選挙で一票を投じる)のは政治です。松原正さんが仰ったのは、政治と同様に道徳も重視されるべきである程度の事です。そのためには両者を区別しなければなりません。何が道徳で、何が政治であるか曖昧だと均衡をとりようもない。また人間は放っておくと政治の側に傾き易いことも指摘されています。何しろ食わなくては生きて行けない。でもそれだけで良いのかどうか。常識の範囲で理解出来ることしか仰っていない。
御弟子さんの中には難しい事を言う人も居ますが、人間なら誰にでも分かるように言うのが哲学であり文学だろうと思います。けれども哲学者は難しい事を言うから「哲学は死んだ」。文学者はまだ増しである。そういうことです。
木村さん、本年も宜しくお願いします。
>簡單に云へば、フーコーのやうに強制の觀念を果てしなく廣げてゆくと、個人の自由に任せるべき領域にまで、政治が「強制の排除」を名目に介入してくる恐れが大きくなるからです。
フーコーは、強制は個人の内にある、というようなことを言っていたような記憶がありますがさて措いて、政治が介入しなくても個人が他の人を強制すれば同じ事になりはしまいか。天皇や大本営が軍規遵守や軽率な行動を慎めと言って「強制の排除」をしたにも関わらず、現場の兵士同志で実質的な強制が行なわれたのは周知の通りです。例えば新兵虐め。あるいは血気盛んな下士官が「命令」して玉砕するなど。部隊に依って異なりますが、異なるからこそ政治の介入に依るものではない。人間は自分自身の内に何うしようもない物を持っているのではないか。そう思います。
道徳の問題は詰まるところ全ての人間に当て嵌まるのですが、政治や経済の問題は例えば「主義」に基づいて個別専門的になります。いつか野嵜さんが書いているように自由と自由主義は異なる。自由は道徳の問題なので、主体が人間である限り政治体制が封建主義や共産主義であっても存在します。
投稿: 塗炭 | 2008年1月20日 (日) 15時38分
誤解の無いように補足します。
私は血気盛んな下士官を尊敬こそすれ軽蔑しません。彼らは「玉砕命令」もしたけれど、多くは自分が先頭に立って敵陣に突っ込んで行った。それに付いて行った兵士が多いけれど残った兵士も僅かに居る。それぞれの人間にとってぎりぎりの選択だったに相違ありません。こういう視点で観るのが常識的だと思うのですが「上官や大本営に居る人間が悪い」という論調が多いようです。
投稿: 塗炭 | 2008年1月20日 (日) 21時02分
>道徳的たる要件
「計算」と云ふ表現は「計算高い」みたいな表現をみれば解る通り餘りよろしくない表現だと思ひます。「眞面目に考へる事」のやうな事を言ひたいのでニュアンスも異ります。
もつとも、純客觀的な言ひ方で道徳を定義する事は出來ません。また、平野さんのやうな客觀的な定義は、俺には「死んだ表現」にしか見えません。
俺としては「生き生きとした生」みたいな表現が好みです(D.H.ロレンスは多分、平野さんの發想を拒否するでせう)。さう云ふ生き方がより良い生き方であつて、より道徳的な生き方であると思ひますが、何うですか。
オーウェルの『1984年』は、政治體制を描寫しながらも正しい文學となつてゐるのですが、矢張り政治體制は飽くまで政治體制であり、それ自體として道徳的か何うかをオーウェルは論じてゐません。オーウェルは、個人が道徳を實現出來る條件としての自由な社會體制の存在を指摘し、自由の失はれた社會體制下での個人の生き方を豫測してゐます。そこで個人は道徳的な生き方が不可能であると言ふのでオーウェルの小説は警鐘となつてゐるのですが、組織・體制はそれ自體として道徳的か否かを論じられてゐません。
個人は、政治によつて生存を確保した上で、道徳的に生きられる場合がある、と云ふだけです。
投稿: の | 2008年1月20日 (日) 22時04分
塗炭さん、こちらこそ宜しくお願ひします。
>政治が介入しなくても個人が他の人を強制すれば同じ事になりはしまいか。
おつしやる通りです。おつしやる通りどころか、既に私は、平時においても他人に拳銃を突附ける輩が存在し、それは強制であると書いてをります。私は政治體制さへ自由主義であればそれで人間の道徳的行爲が常に保證されるなどと云ひたい譯ではありません。最初から書いてゐるやうに、あくまでも「幾つかある」條件の一つとして政治體制の問題を取上げてゐるに過ぎません。私は道徳と政治の雙方に關心がある人間なので、野嵜さんが引用されたオーウェルのやうに「個人が道徳を實現出來る條件としての自由な社會體制」について考へてみたいと思ふのです。
>あるいは血気盛んな下士官が「命令」して玉砕するなど。
私の問題意識に引きつけて云へば、例へばある「上官」の行動が彼自身の自由意思に基づくものなのか、それともさらに上の「上官」、究極的には政府(大本營)の強制によるものなのかを區別することが必要だと思ひます。正規の命令に沿つた行動であれば、それは自由意思に反する可能性があります。逆に命令にもかかはらず敵の命を助けたのであれば、自由意思に基づく道徳的行爲の可能性があると云へます。
>「上官や大本営に居る人間が悪い」という論調が多いようです。
かつて月曜評論にも寄稿された事のある三村文男さんと云ふ方は著書『神なき神風』の中で、友人を特攻で失なつた軍隊經驗を振返りながら、特攻を強制した舊軍の指導者達をかう糺彈 してゐます。「人が人を撰んで特攻に指名することは、とりもなほさず自殺を命令することであり、人間として許されることではない」。私は三村さんと同樣、戰時だらうと平時だらうと「人間として許され」ない事は許すべきではないし、その責任は徹底して追及すべきだと思ひます。兵士は惡くない、上官も惡くない、大本營も惡くないでは、一體誰が責任をとるのかと思つて仕舞ひます。最近のやうに「右」の勢力が強くなると、餘計そのやうに感じるのです。
投稿: 木村貴 | 2008年1月21日 (月) 04時52分
>塗炭さん
はじめまして。別に難しく考えているつもりはありません。「丸いこと」を「任意の平面上において任意の点から等しい距離にある点の集合」と言い換えると字面は難しくなりますが,ある図形を丸いかどうかを識別することはずっと容易になります。解剖は,対象の生き生きとした姿を失わせますが,構造の理解には不可欠です。
>政治と道徳の区別
「法律とソーセージの好きな奴に,その作り方を見せるな」というジョークがあります。道徳規則(徳目)の生成過程における政治との相互作用を考えると,峻別は難しいでしょうね。フェミニズムなど政治思想では「一切は政治的である」が基本思想としてひろく共有されてるようですし。社会とは独立した内面を保持する近代的自我みたいなものが本当にあり得るのか,という論点にもつながると思います。
>のさん
>さう云ふ生き方がより良い生き方であつて、より道徳的な生き方であると思ひますが、何うですか。
良いとは何か,というのがメタ倫理学における中心的議題だったりするわけですが。
Gut - Boese(善良/邪悪): 道徳的価値(1)
Gut - Schlecht(優良/劣悪): 好悪的価値(2)
「良さ(Guete)」は上の二軸をカバーする二重の言葉なのでややこしいです。道徳的に生きることは道徳的評価軸において正の価値を有するか(1),というお話であれば循環論なので意味がありません。道徳的に生きることは快く好ましいか(2),というお話であれば,個人の選好依存としか答えられません。私自身に限って言えば,肯定します。(が,ツァラトゥストラの三段階論でいえばラクダの段階ですよねこれ)
投稿: 平野 | 2008年1月21日 (月) 09時00分
>平野さん。
>解剖は,対象の生き生きとした姿を失わせますが,構造の理解には不可欠です。
主旨は諒解です。構造は形式的ですが正しい形式はあると思います。
>木村さん。
>私は道徳と政治の雙方に關心がある人間なので、野嵜さんが引用されたオーウェルのやうに「個人が道徳を實現出來る條件としての自由な社會體制」について考へてみたいと思ふのです。
主旨は諒解です。私は「○○な社会体制」に就いては余り興味を持って居ません。その違いだろうと思います。
投稿: 塗炭 | 2008年1月21日 (月) 19時37分
>良いとは何か,
ええと「良い」は此處では「善い」と書くべきところで誤變換ですが一々訂正するのもアレかと思つてほつたらかしたものですすみません。で、俺の話は全て「善」に關する話です。
>道徳的に生きることは道徳的評価軸において正の価値を有するか(1),というお話であれば循環論なので意味がありません。
循環論でも何でも道徳的である事には意味があると思ふので、俺と平野さんとでは絶對に話が噛合ひませんね。大體、道徳は絶對的な命令であるところの徳目に對する態度であるからして、論理で割切るとかそんな事は或地點から先では絶對に不可能です。要は價値觀の問題で、その價値觀を現代人は共有してゐません。それこそが現代の最大の問題であると思ふのですが、何うでせうか。この重大事の前に、他の全ての問題は瑣末なものにしか俺には見えません。
で、餘談ですが、今の哲學は不可能事を不可能事であるからと言つて論じる事それ自體を拒否します。で、俺は思ふのですが、不可能事であるにしても人間の生き方の問題である道徳の問題を論じようとしないならば、現代哲學に存在意義はないのでないですか。論理學に話を任せれば良いからです。
今の哲學關係者は論理學と哲學とをごつちやにしてゐるやうですが、困つた事だと思ひます。
投稿: の | 2008年1月21日 (月) 20時59分
>要は價値觀の問題で、その價値觀を現代人は共有してゐません。それこそが現代の最大の問題であると思ふのですが、何うでせうか。
「問題」は目的的な概念です。【いかなる目的を達成するために】問題なのか,を限定せずに問題性を論ずるのはミスリーディングです。【酒池肉林に日々耽るために】貧困は問題かもしれませんが,ディオゲネスなら喜んで貧乏生活に服するかもしれません。貧困それ自体に問題性はなく,より大きな文脈の中に置かれたときに問題性が現れます。
価値観を共有させることで,現代人に何をさせたいのですか。そしてその目的は道徳外の根拠付けを持ちますか。道徳的生を道徳的に肯定評価する価値観の共有が道徳的社会を実現するために必要,というのであれば三重の循環論になってしまいます。
>循環論でも何でも道徳的である事には意味がある
それを信仰することは自由です。告白することも。ただ,論理を放棄するのであれば,コミュニケーションの断絶は覚悟しないとなりません。
>人間の生き方の問題である道徳の問題を論じようとしないならば、現代哲學に存在意義はないのでないですか
いえ,下位の倫理学に委ねて結構盛んにやっているようですが。T.Nagelあたりが最前線になるのかな。応用倫理にはあまり興味をひかれませんが,メタ倫理学は面白いですよ。
「今の哲学関係者」が誰を指すのかわかりませんが,論理学は論理学で様相論理とかメタ数学とか面白いことをやっていますし,現象学もクオリアや心身問題で存在感を示していますし,下位のどれか一部門を哲学全体と混同することは,関係者にはまずありえないんじゃないかと。
投稿: 平野 | 2008年1月22日 (火) 05時06分
塗炭樣
>主旨は諒解です。
讀み返すと何だか隨分氣負つた文章になつてゐました。濟みません。
平野樣
>いえ,下位の倫理学に委ねて結構盛んにやっているようですが。T.Nagelあたりが最前線になるのかな。応用倫理にはあまり興味をひかれませんが,メタ倫理学は面白いですよ。
>「今の哲学関係者」が誰を指すのかわかりませんが,論理学は論理学で様相論理とかメタ数学とか面白いことをやっていますし,現象学もクオリアや心身問題で存在感を示していますし,下位のどれか一部門を哲学全体と混同することは,関係者にはまずありえないんじゃないかと。
これらの文章、救ひやうのない「業界臭」が漂つてゐるのにお氣づきでせうか。「最前線」だの「存在感」だの、まるで青土社あたりから出てゐる現代思想本の帶の惹句のやうではありませんか。
歐米の哲學者は隨分墮落して仕舞つたやうですが、それでも眞摯な學者であれば、一般の人から「現代哲學に存在意義はないのでないですか」と眞面目に問はれた時に、少なくとも「いやあ結構盛んにやつてゐますよ。メタ倫理學なんて最高ですよ」などと無邪氣に答へたりはしないでせう。平野さんがどう云ふ方か存じ上げませんが、最近よく目にするかう云ふ業界擦れした文章は、廣い意味での「哲學業界」の墮落を非常に卑近な形で示してゐるとも云へませう。野嵜さんが苛立つのも分かります。
投稿: 木村貴 | 2008年1月22日 (火) 10時56分
左様ですか。
「現代数学が堕落しているかどうか」を論じたくなったら,まず現代数学の代表的論文や最先端の学者について調べたり,各領域での研究の活発さを見たりしませんか。CERNにも言及せずに「今日の素粒子研究は腐敗している」と主張する人をどう思いますか。そういうレベルでの話をしているのですが。
自己申告に過ぎませんが,いかなる意味においても私は哲学業界人ではありませんし,そもそもアカデミズムの人間でもありません。たまたま今は学生に戻っていますが,4ヶ月前までは日本企業のサラリーマンでした。いずれまたそうなるでしょう。業界人が一般人に反論しているのではなく,一般人が他の一般人の非難に異を唱えているに過ぎません。
ともあれ,結果として苛立ちを感じさせたことについては謝罪します。
投稿: 平野 | 2008年1月22日 (火) 12時18分
正直言つて、価値観の問題であるにもかかはらず、平野さんは価値観に無頓着過ぎるやうに思はれます。図式化して客観的に論ずるやうに見せかけながら「計算」などと偏向した用語をそつと挿入したり。
>価値観を共有させることで,現代人に何をさせたいのですか。
なぜさういふ話になるのか全く理解できません。「させたい」のは平野さん、あなた自身ではないですか。
単に、価値観を共有しない人間同士では話が通じないと、それだけの事を俺は述べたに過ぎません。
また、価値観の問題においては、自身の価値観を充分に認識しておかなければ、客観的な風を装つて主観的な事を言ひがちです。平野さんの言葉にはその辺の事について、配慮が足らないやうに思はれます。しかし、だからこそ、平野さんには話が通じない。そこでお俺はコミュニケートが不可能である事の大問題を指摘してゐるのですが、平野さんには理解できない。
自分は客観的だと平野さんは信じてゐます。一方、平野さんには自分には意識しない価値観があります。そのため、平野さんは他人の言つてゐる事を正しい意味と論理を保つたまま自分の語彙に置換へ、言換へる事ができません。
平野さんは、無意識のうちに、他人の意見を自分の価値観に基づいて歪めて理解してしまひます。その結果として、他人の意見を全部当然のやうな顔をして拒絶してしまふ。他人と平野さんはコミュニケートできない。
ところがそれを平野さんは他人のせゐにしてしまつてゐます。
平野さんの価値観は、絶対ではありません。それを認識しなければ、そもそもコミュニケートが不可能となるのです。けれども、現代人は一般にその認識ができません。平野さんもできません。
それが問題だと俺は指摘してゐる訳です。もちろん、この指摘は循環論的で、認識できない人間に認識しろと要求しても無理がある訳ですが、それを平野さんみたいに頭から否定する気は俺にはありません。
投稿: の | 2008年1月22日 (火) 19時05分
と言ふか、俺、平野さんの動機を疑つてゐる。
>そしてその目的は道徳外の根拠付けを持ちますか。道徳的生を道徳的に肯定評価する価値観の共有が道徳的社会を実現するために必要,というのであれば三重の循環論になってしまいます。
平野さんは人間ですか。「人間である」と言ふのならば、それ自體が答です。即ち、「人間である」とは「人間以外のものではない」と云ふ事です。この時點で既に平野さんは一つの價値觀を持つてゐます。「人間以外のものでない人間である」――これは平野さんが肯定する價値觀であると思ひます。この價値觀を認める爲には、人間が人間以外のものでない理由を必要とします。その時、「人間には人間らしさがある」が「人間以外には人間らしさがない」と云ふ事が言へます。この時點で、平野さんは「人間らしさ」を肯定してゐる事になります。そして、「人間らしい」と云ふ事が即座に「道徳的である」と云ふ事になるのですから、平野さんは道徳的である事を價値觀として認めねばなりません。
この時點で、出發點としての價値觀を平野さんは認めてゐます。ならば、平野さんは「道徳外の根拠付け」を要求する必要がありません。
もし平野さんが「道徳外の根拠付け」を要求されるのであれば、平野さんは人間を人間以外と區別しない價値觀を既に採用してゐなければなりません。ところが、それは許されません。論理にしろ價値觀にしろ、全て人間にしかない概念であり發想であるからして、人間らしいものであると言へます。ところが人間らしいものを認めないと言ふのならば、論理や價値觀、その他の全ての學問、及びそれらを應用する議論は、全くナンセンスとなります。その時點で、議論にコミットする事がそれ自體として不可能と云ふ事になり、若し平野さんがさう云ふ價値觀を懷いてゐる(?)のならば、今の議論に參入した事があり得ない事になるのです。
既に議論に入り込んでゐるのだから、平野さんは議論の概念を認めてゐるのであり、延いては議論を可能にする概念その他を認めてゐます。ならば當然、それら概念・觀念と云ふ「人間的なもの」を認めてゐるのであり、「人間らしい事」に意義を認めてゐるのです。ならば當然、「人間らしい事」である「道徳」を、平野さんは認めてゐるのです。それを「認めない」と言ふ事は、不可能であり、根本的な矛盾です。
投稿: の | 2008年1月22日 (火) 22時10分
>「現代数学が堕落しているかどうか」を論じたくなったら,まず現代数学の代表的論文や最先端の学者について調べたり,各領域での研究の活発さを見たりしませんか。
たとへ譬喩にせよ數學の墮落などと意味不明の状態を持出されても困りますが、それは兔も角、學問が墮落してゐるかどうかを判斷する基準が研究の「活発さ」だとおつしやつて仕舞ふ、それこそが私の指摘した「業界」特有の心性なのですが。
>自己申告に過ぎませんが,いかなる意味においても私は哲学業界人ではありませんし,そもそもアカデミズムの人間でもありません。
「廣い意味での」と私は書いたはずです。業界人と同じ心性を持つ人であれば業界人の集合に含めると私は「定義」してゐるのです。平野さん御自身、別件で「宣言的定義については真理値がありませんので,異論の余地はありません」とお認めになつたはずです。「いかなる意味においても」とは論理的に些か亂暴ですし、アカデミズムの人間であるとかないとかも論理的に意味のある御發言とは思へません。
>ともあれ,結果として苛立ちを感じさせたことについては謝罪します。
苛立つていらつしやるのは野嵜さんであると書いたはずですので、論理的には私に謝つて下さらなくとも結構です。
投稿: 木村貴 | 2008年1月23日 (水) 02時30分
僕は戦争に関して深く考えたことはありませんが、ハッキリ言って国家が行う戦争に反対して脱走もしくは徴兵逃れをしてもそれはそれで道徳的に反するとは思いません。
理論的に考えて答えを出す必要もない問題であると思う。
引越しに伴い、久々にパソコンが復旧したので書き込みしました。関西人・大阪人になりました。
木村さん、お休みなさい。
投稿: 森英樹(本物) | 2008年3月18日 (火) 22時09分
訂正
理論的→論理的
投稿: 森英樹(本物) | 2008年3月18日 (火) 22時10分
關西はいかがですか。
戰ふのならば、他人(國家)に無理強いされるのでなく、自分の意思で戰ふのでなければ道徳的とは云へません。つまり人間的とは云へません。私が云ひたいのはかう云ふシンプルな事に過ぎないのですが、喜六郎氏なんかは理解できないのでせうね。
投稿: 木村貴 | 2008年3月20日 (木) 12時33分
木村さんへ
関西は好きです。特に大阪は!
京都は・・・ちょっと・・・。
京都人一人一人は、よい方が多かったんですが、京都人が集まるとなにか排他的な雰囲気を感じましたよ。仲間意識が強すぎるというか・・・。何かあると「京都では!京都では!」にはちょっと辟易しました(笑)。他府県人を認めたくない土壌があるんですかね?
今は、大阪南部に住んでおります。
大阪南部は、ストレートな人が多くて好きですね。優しいか、ほんまもんのアホかのどっちかですね。大阪人は(笑)。
きろくろうさんは、どうでもいいのですが、『パッチギ』の二作目「ラブ&ピース」を観たんですが、面白かったです。確かに無駄に自虐的歴史観の描写は多かったのですが、保守派が激怒する意味が分かりませんでした。
でも、まあ、一作目の『パッチギ』の方が娯楽性が高くて面白かったです。フォークソングも懐かしかったし。
二作目で井筒監督は、どうでもいい「社会性」を意識しすぎたのが失敗ですね。
あと、廓物の『さくらん』も良かったです。最近、テレビで土屋アンナを見ましたが肌がボロボロでした。
投稿: 森英樹(本物) | 2008年3月20日 (木) 20時48分
なんか脱走兵が事件起したさうですけれども。
脱走は禁止された行爲でせう。禁止されてゐるから脱走。自由に出來たらそれは最う脱走ではありません。
あと、戰爭なる概念が脱走だの何だのを禁止したりしなかつたりは出來ない訣で。
投稿: の | 2008年3月23日 (日) 03時18分
「脱走兵の自由」は修辭的に過ぎたかもしれません。戰線離脱の自由と云ふべきでせうか。無論、戰爭が國家によつて行はれる限り、そんな事は許されないとは思ひますが。
投稿: 木村貴 | 2008年3月23日 (日) 09時51分