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2008年1月18日 (金)

脱走兵の自由

戰爭が道徳的であるための條件は何だらうか。幾つかあると思はれるが、まづ自由意思との關はりについて考へてみよう。

ある行爲を道徳的と呼ぶには、自由意思に基づいて爲される必要がある。

強制されて行ふ行爲が道徳的であるかのやうに見える場合はある。そのやうな行爲も社會を維持する上でそれなりの意義はあるかも知れないが、眞の意味で道徳的であると云ふことは出來ない。例へば、何の罪もないのに拳銃で脅されて仕方なく金を出し、それが結果的に恵まれぬ人に寄附されたとしても、金を出した人間が自らの意思で行つたのでない以上、眞に道徳的な行爲とは云へない(この譬へを敷衍すれば、嫌々拂つた税金で結果的に困つた人を助けても道徳的とは云へない。つまり大半の場合、税とは沒道徳的な制度なのである。閑話休題)。

さて、この理屈を戰爭に當嵌めるとどうなるであらうか。敵と云ふ名の人間を殺すことが道徳的であるかと云ふ問題はひとまづ措くとして、少なくとも國家や上官から暴力で脅されて戰地に赴いたり敵を殺したりしても道徳的とは呼べないと云ふことになる。いつでも戰場から自分の意思で離脱できると云ふ環境があり、それでもなほかつ自らの意思で戰鬪に參加して初めて、道徳的である爲の條件の一つを滿たすことになるのである。

つまり、脱走兵となる自由を認める戰爭でなければ、道徳的とはなり得ないのである。

無論、さう云ふ自由を認める軍隊が勝てるかどうかは分からない。だが人間が道徳的になり得るかどうかと云ふ話と、戰爭に勝てるか勝てないかと云ふ話は、そもそも別物なのである。

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2008年1月13日 (日)

地球温暖化の恩恵

武田邦彦『環境問題はなぜウソがまかり通るのか2』を買つて來た。目を引いたごく一部を要約する。

地球の氣温はこの百年で〇・七四度ほど暖かくなり、その結果、海面水位は七センチほど上昇した。過去の樣子から將來を豫測すると、氣温の變化として暖かい隣の縣に引越すくらゐのことは起こり、海面水位が三十年で十一センチほど上がることも見込まれる。しかし海面水位はもともと潮の滿ち引きだけで二メートル以上も上下するが、大きな問題は起こつてゐない。また暖かくなると腦卒中や心臟病で死ぬ人は少なくなるし、雪國では雪下ろしで死ぬ人も減る。現在の寒冷地でも農作物が多く獲れるやうになる。

温暖化(が起こるとして)によるデメリットはあるだらう。しかし物事は常にメリットとデメリットの差引勘定で考へなければならない。

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2008年1月11日 (金)

地球温暖化説なるもの

そんな快適や安樂を貪慾な迄に追及し、手に入れたのと引き換へに、我々は地球の温暖化を招來し、その果てに近しい子孫達の快適な生活環境のみならず、生存をさへ危ふくしつゝあるのではないか、との殊勝な反省が、ふと心に浮んだのだ。

NHKや朝日新聞やその他マスコミが一斉に喧傳する「地球温暖化説」なるものが本當に正しいかどうか、敬愛する臍曲がりの山人さんであれば一度お疑ひになつてみても宜しいのではないでせうか。 この説については科學者の間で賛否兩論あるやうです。

最近、と云つても一年ほど前からですが、武田邦彦『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』と云ふ本がよく讀まれてゐるやうです。池田清彦『環境問題のウソ』もお勸めします。さらに本格的にはビョルン・ロンボルグ『環境危機をあおってはいけない』がよいやうです。

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2008年1月 3日 (木)

余は如何にして自由主義者となりしか

こんな小さな發表の場しかない無名人のくせに、まるで大思想家のやうな大袈裟な信條告白を以下記したいと思ふ。正月休みで暇を持て餘していらつしやる方のみどうぞ。かなりの長文です。

最近木村は左翼みたいな事ばかり書いてゐるとお感じの方がいらつしやると思ふ。國家を非難したり、反戦主義者のやうな事を云つてみたり。それはここ數年の摸索を經て、物事の考へ方についての據り所が大きく變はつたからである。以前の據り所は大まかに云へば保守主義であつた。現在は違ふ。自由主義である。それも「大まか」な自由主義などではなく、嚴密で徹底した自由主義である。さうなつた經緯を簡單に云へばかうだ。

仕事でスイスに赴任してゐた2001年秋、例の9-11テロが勃發した。ヨーロッパは午後で、同僚からの電話に促されてテレビを點けたら、もうもうと煙を上げるニューヨークの世界貿易センタービルの映像が現れた。その後、アメリカ政府はアフガニスタンやイラクでの戰爭に突入して行く。案の定、日本を含め世界にはアメリカを非難する聲が渦卷いた。當時の私にはそれは餘りにも安易な思想的態度に思へ、大いに不滿だつた。主流メディアの主張は九分九厘、反米的な内容で、逆の意見を知りたいと思つても讀めないのだ。

そこで私はアメリカの保守派智識人たちの書いた本を讀むことにした。本來の趣旨から云へば、對アフガン・イラク戰爭を唱道した「ネオコン」智識人たちの著書を澤山讀むべきだつたのだが、何せ初學者なものだから、ふとした彈みで、「反左翼」と云ふ意味では保守派に一應分類されるが、對外干渉主義のネオコンとは思想的に對極にある智識人たちの本を手に取つて仕舞つた。それがアメリカの自由至上主義者、專門用語を使へばリバタリアンの著作だつたのだ。

私が最初に讀んだ二册のリバタリアンによる著作は、トマス・ウッズ(Thomas E. Woods Jr.)の『カトリック教會は西洋文明をいかに築いたか(How The Catholic Church Built Western Civilization)』と、トマス・ディロレンゾ(Thomas J. DiLorenzo)の『資本主義はアメリカをどう救つたか(How Capitalism Saved America)』であつたと思ふ。いづれも篦棒に面白い本だつたが、これら二人の著者はアメリカにあるミーゼス研究所と云ふシンクタンクにいづれも所屬してゐた。ミーゼス研究所の名は、オーストリア出身の自由主義的經濟學者ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスに由來する。私はミーゼス研究所のウェブサイトを閲覽したり、リバタリアン思想について勉強したりするやうになつた。

だが何か變だ。まもなくさう感じるやうになつた。私はそもそも、アメリカの對外戰爭を支へる思想を知りたくて同國保守派智識人の著作を讀み始めたはずである。たしかにネオコンの本も面白いは面白い。だがそれ以上に面白いと思つたリバタリアンたちは、どうやらアメリカの戰爭に反對してゐるやうなのだ。そしてネオコン智識人やブッシュ大統領を口を極めて罵つてゐるやうなのだ、まるで日本の左翼言論人のやうに。これは困つたことになつた。

最も當惑したのは、ミーゼス研究所と一種の共鬪關係にある「アンチウォー・ドットコム」と云ふウェブサイトの存在である。このサイトへの寄稿者はリバタリアンばかりではないのだが、いづれにせよ「反戰」と云ふそのまんまの名前と内容で、反戰思想ほど底の淺い欺瞞的な思想はないと考へて來た私は大いに戸惑つた。ある日覗いてみたら、グアンタナモ米軍基地で行はれたテロ容疑者虐待の冩眞をでかでかと掲げ、アメリカ政府を糺彈してゐるではないか。「これぢやあ左翼と同じだ」。私はさう思ひ、リバタリアンとは縁を切ることにした。そのはずだつた。

しかししばらく時が過ぎた後、私はリバタリアンと徐々によりを戻した。とりわけ2002年に日本に歸任し、やがて國内論壇で反市場主義、反自由主義の風潮が吹荒れるのを目にしてから、リバタリアンの主張が再び輝きを増して見えてきた。それは私が曲がりなりにも經濟ジャーナリズムの世界で飯を食つて來たからと云ふよりも、もともとラディカルなものに惹かれやすい性格をしてゐたからだらう。ともあれ、私は再び熱心にミーゼス研究所やその關聯組織のサイトを讀むやうになつた。「アンチウォー・ドットコム」もである。そして得心した。冷靜に考へれば、テロ容疑者を虐待するのは立派な人權侵害である。自分が容疑者と同じ立場に置かれた時の事を考へてみるがよい。

また悟つた。ここで詳しく書く餘裕はないが、自由主義は絶對平和主義ではない。自らの生命と財産を侵害する敵に對しては斷乎鬪ふ思想である。しかし自らの生命や財産が明白に侵害されてゐるわけでもないのに、わざわざ海外に出掛けて行つてやらかす戰爭に對しては極めて否定的である。かうした形の反戰思想ならばアメリカに昔からある。いはゆる孤立主義である。過去においてはロバート・タフト上院議員が有名だし、最近ではかつて大統領選にも立候補した評論家のパット・ブキャナン氏(彼はリバタリアンではないが)が知られてゐる。ちなみに今年の米大統領選には、ミーゼス研究所と縁の深いリバタリアンで、候補者として唯一イラクからの米軍撤退を唱へるロン・ポール下院議員が參戰し、健鬪してゐる。日本の新聞では殆ど紹介されないが。

ともかく現在の私は日本やアメリカで云ふ「リベラル」(左翼の別稱)なんぞではなく、眞の意味での自由主義を信奉するやうになつた。我が國の智識人は自由主義を冷笑する傾向が強いが、それも當然で、日本に自由主義の知的傳統はない。だが西洋では少なくともジョン・ロックやアダム・スミス以來の歴史がある。考へやうによつては、自由主義の源流はアリストテレスやトマス・アクィナスに遡る。要するに西洋と自由主義とは切つても切れない關係なのだ。自由主義が人間のすべての問題を解決するなどと云ふつもりはない。だが自由主義の背景にはそれを支へる優れた道徳哲學が存在し、それを含めて考究する價値は大いにあると思ふ。『國富論』を著したアダム・スミスは『道徳感情論』と云ふ著作も殘してゐるし、ミーゼスの弟子で戰後アメリカの代表的リバタリアンの一人だつたマリー・ロスバードは『自由の倫理學』と云ふ著書を書いてゐるのだ。

戰爭について云へば、正義の戰ひはある。だが正義の戰ひがあるとすれば、不正な戰ひも存在するはずだ。自由主義は兩者の峻別について一つの指針を與へるが、それに關しては追々書いて行きたい。經濟・政治・道徳問題についてもこれまで通り、だがより旗幟を鮮明にして書いて行きたいと思つてゐる。忌憚なき御批判を賜れば幸ひである。

私は、戰後日本を代表する評論家、福田恆存の一番弟子にして、英文學者・劇作家・文藝評論家・時評家である松原正先生(早稻田大學名譽教授)を深く尊敬して來たが、松原先生の思想と自由主義とは兩立できると考へてゐる。いやいや、そもそも私が自由主義を信奉するやうになつた一因は、何かと云ふと政治に頼らうとする日本人の心性を嚴しく批判されて來た松原先生の思想に接したことだと思つてゐるし、西洋思想を見る目を開いて下さつたのも松原先生なのである。 現在のこの文章の表記法も松原先生の影響が最も大きい。

それでは皆樣、ちよつと申し遲れましたが、今年もどうぞよろしくお願ひ致します。

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2008年1月 1日 (火)

「怪しからぬ不況」の悲劇

平成十九年を象徴する漢字は「」だつたさうである。要するに老舖菓子メーカーやら名門料亭やらの製造年月日僞裝が許せぬと云ふ事らしい。マスコミは勿論の事、普段はマスコミを舌鋒鋭く批判するブロガーの類も、マスコミと一緒になつて、怪しからぬ怪しからぬ日本人の道徳心も地に墜ちたと悲憤慷慨する事しきりである。

なるほど、慥かに製造年月日を僞造した會社は怪しからぬ。命に別條は無いとは云へ、當日作つたと稱して賣つた商品が實は何日も前の製品だつたとすれば、それは詐欺である。詐欺行爲を働いた業者は、そのツケをきつちりと拂つて貰はなければならぬ。だが問題はその拂はせ方である。

僞裝は今の法律でも既に違法ではあるが、更に將來、同樣の不始末を起こさぬやう、法的な規制を嚴しくした場合、どうなるであらうか。格好の見本がある。建築基準法の改正である。暫く前、食品僞裝ならぬ耐震僞裝が明らかになり、マスコミやらブロガーやらは、怪しからぬ怪しからぬ日本人の道徳心も地に墜ちたとさんざん悲憤慷慨した。それで出來上がつたのが改正建築基準法である。不逞な業者が二度と僞裝をやらかさぬやう、建築許可の審査を法律で思ひ切り嚴しくしたのである。實に立派な措置の筈であつた。

ところが忽ち問題が噴出した。審査があまりにも嚴しすぎて住宅建設が遲れに遲れ、着工件數が大幅に減つてしまつたのである。おかげで建築關係の企業の業績は惡化し、中小企業では倒産に追込まれるところが續出した。まさに羮に懲りて膾を吹くの愚を地で行くやうな話ではないか。ひよつとすると、かう云ふ官製不況(あるいは「怪しからぬ不況」)も耐震僞裝の撲滅による國民の安全確保と云ふ大義の爲にはやむを得ぬと政府を辯護する人もゐるかも知れぬ。だがその人に問ひたい。もしも着工が遲れる事によつて、國民が耐震對策の施された住宅に引つ越す事がなかなか出來ず、さうかうしてゐる間に大地震が來たらどうするのか。

福田總理自身、「(改正法施行で)かう云ふ結果が出ることを十分豫期しなかつた。經濟的な惡影響を及ぼしたことは、よく反省しなければいけない」と反省の辯を述べたと云ふ。だが反省されても倒産した企業が生返るわけではない。政府が民間に介入するとろくな事はない。これは經濟學的な眞理である。惡質業者を淘汰したければ、法で規制などせず、商道徳に任せよ。法と道徳を峻別せよ。

しかし食品僞裝についても政府は「食品表示Gメン」とか云ふわけの分からぬ組織を作るらしい。法を道徳の代用品に出來ると考へる馬鹿。その尻馬に乘つて繩張りを廣げようと企む寄生蟲。これあ、今年も景氣は良くなりさうにないな。

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