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2007年12月28日 (金)

集團自決と左右の淺薄なる人間觀

沖繩戰集團自決の歴史教科書への記述に關する問題がひとまづ決着したやうである。今囘の騒動で、「左」の人々は「日本軍の強制があつた」と云ふ記述を削るのは怪しからぬと云ひ、「右」の人々は記述削除は當然だと主張した。どちらに軍配を上げるべきかを判斷する歴史的智識を私は持ち合はせないが、改めて痛感したのは、本來學問的に追究すべき事柄に對し、ひとたび國家が介入すると、何とも愚劣で醜惡な事態に陷ると云ふ事である。それに氣づかぬ限り、右も左も國家主義者と云ふ同じ穴の狢に過ぎない。

沖繩の集團自決がすべて強制によるものであつたと主張する「左」の意見に私は勿論與しない。しかしだからと云つて、自決者全員が自らの正義に對する絶對の自信を抱いて死んだと云はんばかりの「右」の主張にも全く同意できない。どちらも人間に對する無智に基づく一面的な見方でしかないからである。人間とは、生命を賭しても正義に殉じようと意を決した次の瞬間、血腥い大義なんぞとは無縁の場所で平和に暮らしたいと願ふものである。あまりにも當たり前の事だが、自決した沖繩住民の多くも、出來れば生きてゐたいと望んだに違ひない。

そして實のところ、アメリカ兵もさうだつたに違ひない。ヨーロッパ戰線での話だが、記者から「いまアメリカからいちばん送つてほしいものは何?」と聞かれた兵士の一人はかう答へたと云ふ。

ちよつと言つておきたいことがある。ここはもう、笑ひ事ぢやなく大變なんだと、ホットドッグやらベイクトビーンズやらがなつかしいなんて言つてられないんだとぐらゐは傳へてくれ。毎分毎分、兵隊が死んだり負傷していくんだ。慘めで、苦しくて、痛いんだと傳へてくれ。そちらでは絶對わからないくらゐ、笑ひ事ぢやないんだと傳へてくれ……(ポール・ファッセル『誰にも書けなかつた戰爭の現實』445頁)

ここまでしやべつたところで、兵士の喉から嗚咽が漏れた。そして彼は更に、聞き取りにくい、苛立つた聲でかう續けたと云ふ。「死ぬほど辛いつて、すごく辛いつて、傳へてくれ。笑ひ事ぢやない辛さだつて。それだけ。それだけだ」

アメリカ兵は「鬼畜米英」。さう教へられ、信じ、だから自決を選んだ沖繩住民は少なくなかつた筈である。だがアメリカ兵も「慘めで、苦しくて、痛い」と感じ、「死ぬほど辛い」と涙する人間だつたのである。私は平和主義者ではないが、なぜかくも多くの命が失はれなければならなかつたのかと考へる時、やはり暗然とならざるを得ない。

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コメント

右の意見も左のそれも共にフィクション。世上、左のフィクションばかりが幅を利かせてゐるやうだから、右のフィクションも少々押出してみるか、と私なんぞは思つてみたりもするのですが。
ところで、何事にもあれ生命を堵するのが難しいのは、ないし立派なのは、人は皆死にたくないからですよね。尤も中には生きてゐたくない人間もゐるらしくて、何やら宗教儀式めいた集團死を遂げる例もあるやうですが、そんなもの、何の感動も呼びはしない。
まあ、當り前の話ですが。

投稿: 平成山人 | 2007年12月30日 (日) 19時35分

集団自決を決めた日本軍も、部下および民間人の投降を促した日本軍も、どちらがより立派か所謂「人道的」だったかなぞ判断できない。
両者の態度ともに立派じゃあかんのですか?

投稿: 森英樹(本物) | 2007年12月30日 (日) 23時17分

>右の意見も左のそれも共にフィクション。世上、左のフィクションばかりが幅を利かせてゐるやうだから、右のフィクションも少々押出してみるか、と私なんぞは思つてみたりもするのですが。

仰る通り、テレビや新聞ではいまだに「左のフィクション」が「幅を利かせてゐる」やうですが、雜誌や書籍やブログではかなり「右のフィクション」が「幅を利かせてゐる」やうです。それゆゑ、山人さんと同じく臍曲がりの私としては、「世上」に楯突いて、右でも左でもない意見を「少々押出してみるか」と思つたに過ぎません。まあ、私の臍の方が山人さんよりも少々曲がり方がひねくれてゐるやうですが。

>ところで、何事にもあれ生命を堵するのが難しいのは、ないし立派なのは、人は皆死にたくないからですよね。尤も中には生きてゐたくない人間もゐるらしくて、何やら宗教儀式めいた集團死を遂げる例もあるやうですが、そんなもの、何の感動も呼びはしない。
まあ、當り前の話ですが。

「生命を堵す」か否かにかかはらず、人間の行爲が道徳的に立派で感動的なのは、自由意思に基づく場合に限られます。例へば、自らの信仰を棄てれば生命が助かるのに、敢へて死を選ぶ殉教者の姿が感動的なやうに。しかし死ぬより他に選擇の餘地が一切無く、死ぬしかない状況で仕方なく死んで仕舞ふのは、自らの意思で「生命を堵」した譯ではありませんから、「感動的」と云ふよりは「悲劇的」でせう。例へば、火事に卷き込まれた人のやうに。沖繩の人々の自決が「感動的」だつたと斷言出來るだけの歴史的智識を、殘念ながら、私はまだ持ち合はせてをりません。

投稿: 木村貴 | 2007年12月31日 (月) 00時28分

>両者の態度ともに立派じゃあかんのですか?

「あかん」と思ひます。「日本軍」が沖繩住民の投降を「促す」なら兔も角、もし集團自決を「決めた」とすると。
Aと云ふ人間が自分の理想の爲にA自身の生命を堵すのであれば立派と云へるでせうが、Aが自分の理想の爲にBと云ふ他人の生命を差出しても立派とは云へないどころか、これほど反道徳的な行ひはないでせう。

投稿: 木村貴 | 2007年12月31日 (月) 00時43分

沖繩で自決したかさせられたかした人々は、自ら死なうと思つたか思はなかつたかそれは判りませんが、結局死んだのだから立派だつたのではないですか。

生延びた人が現在立派であるか何うかは議論の餘地がありますが。

投稿: の | 2007年12月31日 (月) 05時23分

の樣

仰る通りのやうな氣がしますね。
と云ふか、當時の沖繩で何があつたのか、嚴密な歴史的事實を確認できない段階に於ては、そこに於ける住民らの死が悲慘なそれであつたと臆斷するより、立派な死であつた筈だ、さうに違ひない、と信ずる方が、より「人道的」だし、亡き人々への禮儀にも適ふし、詰りは生き殘つた者の據るべき立場だと私は思ふのですが。

投稿: 平成山人 | 2007年12月31日 (月) 10時38分

「集団自決」という言葉自体が理解出来ないと思いませんか?

「ある集団が自決した」という意味ではないんですか?

もしかして「集団が『自決』という名目で、死を余儀なくされた」という意味ですか?

投稿: 森英樹(本物) | 2007年12月31日 (月) 11時41分

亡くなつた人の死を悼むのは當たり前の事です。しかしその死が自分の意思によるものであつたか、それとも他者の強制によるものであつたかは、我々「生き殘つた者」がとるべき態度にとつて、決定的に重要です。自分の意思によるものであれば、純粹に見事な行爲として稱へるべきですが、強制により事實上殺されたのであれば、死を悼むとともに、殺した者の責任を問はなければなりません。

繰返しになりますが、「嚴密な歴史的事實を確認できない段階」であらうとなからうと、亡くなつた人の死を悼むのは當然の禮儀です。しかしもし假に、その死が戰時の基準に照らしても許されぬやうな強制による死であつたとすれば、「立派な死であつた筈だ、さうに違ひない」と云つてゐるだけでは濟まされないでせう。勿論、山人さんがさうだと申上げてゐるわけではありません。

投稿: 木村貴 | 2007年12月31日 (月) 12時04分

「自決」という行為を決定した主体が分からないのだから、左右の論争は馬鹿馬鹿しい。

「自分は左傾化している世論のバランサーとして敢えて保守的な主張をしているんだ!」と言った保守系知識人がいた(「本来ならば今頃は東大教授になってるんだ云々」と続く)。伝聞だから完全に信用は出来ないが、反米保守派の論客N氏が酔った席で言ったらしい(笑)。

評論家稼業も大変だ・・・。

投稿: 森英樹(本物) | 2007年12月31日 (月) 12時17分

「嚴密な歴史的事實を確認」する努力を拂はぬ怠惰な私は、「その死が戰時の基準に照らしても許されぬやうな強制による死であつた」かも知れぬ、と云ふネガテイブな假定に何の根據もなく固執する事を後めたく思ふのです。死者達の靈位に對して。それだけの事です。

投稿: 平成山人 | 2008年1月 4日 (金) 17時23分

「努力を拂はぬ怠惰な私」とは、勿論謙遜しておつしやつてゐるのだと存じますが、もし本當にさう考へていらつしやるのだとすれば、「ネガテイブな假定」を主張する人々を批判するのは、失禮ながら、些か論理性を缺くのではないでせうか。「ネガテイブな假定」に「固執」する人々にしてみれば、それなりに「努力」もし、少なくとも政府公認の歴史教科書に掲載する程度の根據は提示してゐるわけです。「何の根據もなく」と決めつけるには、それこそ相應の「根據」が必要でせう。山人さんが「自分で調べたわけではないのだから輕々しい事は云ふまい」と靜かに御決意されるのは立派な態度ですが、それならば、他人の意見(それが正しいかどうかは分かりませんが)についても殊更異を唱へないのが首尾一貫した態度ではないでせうか。

生意氣を承知で、もう一つ申上げます。人によつて考へ方は樣々だと存じますが、假に私の肉親が戰時中にある場所で「自決」し、それが實は國軍の強制による事實上の殺人だつたと云ふ疑ひが僅かなりとも浮上した場合、私はその戰鬪全體に關する「嚴密な歴史的事實を確認」してからなどと悠長な事は云はず、一部の例外に過ぎぬかも知れぬにせよ、かけがへのない肉親を殺したとされる軍人やその上官を草の根を分けても探し出し、事實を質し、事と次第によつては相手を殺すぐらゐの復讐心を燃やす事でせう。軍人も人間なのですから、時には過失も惡事も犯すと考へるのが自然ではないでせうか。肉親の敵とされる軍人やその上の責任者を糺彈する過程で、自分に協力してくれる勢力は最大限に利用することでせう。國に對して恨み節の一つも云ふ事でせう。さうした私の行爲が少なくとも自分の肉親の「靈位に對して」非禮だとは全く思ひません。沖繩戰を政治の道具にしてやらうと考へるだけの低劣な人間は少なくないでせうが、さう云ふ連中がすべてだとも思ひません。

投稿: 木村貴 | 2008年1月 5日 (土) 01時13分

木村貴 樣

どうも御説の生成發展に追隨できません。
どうやら我が呆け、本人の自覺以上に進んでゐるやうですね。根氣も無くなつて來ましたし。
で、勝手ながらこゝらで撤退させて戴きます。
多々失禮の段、御寛恕の程。

投稿: 平成山人 | 2008年1月 5日 (土) 18時24分

平成山人樣
こちらこそ失禮致しました。これに懲りずまたお越し下さい。

投稿: 木村貴 | 2008年1月 5日 (土) 22時35分

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