« 阿久悠死す | トップページ | 反戰の條件 »

2007年8月13日 (月)

法律は最低限の道徳か

  「法律は最低限の道徳である」とよく云はれる。しかしそれは本當だらうか。今から百六十年前、ある作家は次のやうな文章を書いた。私はこの主張に深く同意するものである。

 權力がいつたん人民の手に握られたとき、多數者の支配――それも長期間にわたる支配――が容認される實際的な理由は、多數者がいちばん正しいと思はれるからではなく、まして彼らが少數者に對していちばん公平であるやうにみえるからでもなく、結局のところ、彼らが腕力においてはるかにまさつてゐるからである。しかし、あらゆる場合に多數者が支配するやうな政府は――正義の觀念に對する人間の理解に照らしてみても――たうてい正義に基礎を置いてゐるとはいへない。[略]私の考へでは、われわれはまづ第一に人間でなくてはならず、しかるのちに統治される人間となるべきである正義に對する尊敬心と同じ程度に法律に對する尊敬心を育むことなど、望ましいことではない。私が當然ひき受けなくてはならない唯一の義務とは、いつ何どきでも、自分が正しいと考へるとほりに實行することである。[略]法律が、人間をわづかでも正義に導いたためしなど、一度だつてありはしなかつた。いや、法律を尊敬するあまり、善意のひとびとすら、毎日のやうに不正に手を染めざるを得ないのである。(「市民の反抗」、飯田實譯、強調木村)

 筆者は『森の生活』で有名なアメリカのH・D・ソローである。ソローは人頭税の支拂ひを拒否した廉で投獄された經驗がある。納税を拒否したのは、奴隷制を支持する政府の態度を道徳的に許し難いと考へたからである。納税拒否は明らかな違法行爲である。もし「法律は最低限の道徳である」ならば、違法行爲を犯したソローは反道徳的な人間と云ふ事になるが、果たしてさうだらうか。奴隸制が道徳的かどうかを常識に照らして考へる限り、事實は正反對であると云はざるを得ない。

  「法律は最低限の道徳である」と云ふ考へ方は、反道徳的な法律に對して無力である。ソローは「市民の反抗」でかう書いてゐる。「不正な法律が存在する。われわれは甘んじてそれに從へばよいのか、あるいは、それを修正しようとつとめながら、われわれの試みが成功するまではそれに從ふはうがよいのか、それともただちに法を犯すはうがよいのか?」。ソローは三つの選擇肢のうちどれを撰ぶかについて明確に囘答してゐる譯ではないが、少なくも「法律は最低限の道徳である」などとは口が裂けても云はなかつたに違ひない。

 我が同胞にはかう反論する人がゐる事だらう。ソローは所詮西洋人ではないか。「人の上の神」を戴く西洋人の流儀を、「人の上の人」しか戴かぬ日本人に當嵌めるべきではない。一神教特有の絶對的道徳規準を日本人は持合はせない。だから日本人は「人の上の人」が作つた法律を最大限尊重すべきなのだ――。しかしこの主張には無理がある。人と法律とは別物だからだ。我々は人の立派な振舞ひに感動する事は出來ても、法律に感動する事は出來ない。また、我々は特定の個人を尊敬し、特定の個人を輕蔑する事が出來るが、法律を最低限の道徳とする立場からは、正しい法律にだけ從ひ不正な法律には背くと云ふ取捨撰擇は出來ない。

 しかし、それならば、日本人は一體どのやうな道徳規準を據り所にすれば良いのか。かつては儒教がその役割を果たしたが、今やそれを復活させる事が可能かどうかは疑はしい。かと云つて、キリスト教道徳を新たな規準に据ゑる事はそれ以上に難しさうである。それでは神道か。佛教か。囘教か。それとも宗教以外の哲學か。この問ひに答へる事は私には出來ない。いやいや、この問題を長年追究して來た松原正氏のやうな碩學ですら、明確な囘答は持合せてゐないのだから、私なんぞに出來る筈が無い。だが間違ひなく云へる事は、ソローが喝破した如く、政治の産物に過ぎぬ法律に道徳の代役を務める事なんぞ――たとへ「最低限」であらうとも――金輪際出來ないと云ふ事である。

|

« 阿久悠死す | トップページ | 反戰の條件 »

コメント

「日本国憲法」を恰も道徳的規範の如く受取り、信奉してゐる人々がゐますけれども、彼等の言動の非道さは目に餘るものがありますね。

もつとも、日本人は昔から、「人の上の人」を戴かうが「日本国憲法」を戴かうが、それらを全て「自己正當化の爲の道具」或は「他派を攻撃する爲の道具」とし勝ちです。一切の行動の原理が、日本人の場合、自己の物質的利益であり、その爲に他の全てのものが奉仕するやうになるのです。
「無道徳」が日本人の常態であつたやうにすら思はれます。

が、それは、多くの「普通の人」の言動がさうであるのであり、現在、世間の多くの人は「普通の人」の事だけを問題にすべきだと信じてゐます。現在の日本では、「立派な人」が「存在しない」かのやうに振舞ふ事を、民主主義社會の「當然の態度」と看做すのが「常識」であるやうです。
松原先生は「立派な人」の言動を問題にしてゐるのだから、世間の多くの人と話が噛合ひません。

そして、「外部の立派な人を認める」事と、それによつて「自らが立派な人たるべく努める」事とは「一致し得る」と云ふのが松原先生の主張である訣ですが、民主主義の日本では「立派な人」が「存在し得ない」と極附けられてゐるのであり、外部に立派な人を認める事も、自らが立派な人たらんと努力する事も、何れも「あり得ざる行爲」と看做され、前者は反時代的、後者は傲慢を即座に意味する事にされます。これは、我々の立場から見れば大變困つた事である訣ですが、現代の日本では極めて正當な事と看做されます。

投稿: n | 2007年8月13日 (月) 16時02分

>外部に立派な人を認める事も

 松原先生の主張に贊成すると、「松原信者」とか云つて喜ぶ連中もゐますしね。

投稿: 木村貴 | 2007年8月14日 (火) 00時26分

外部の立派な人に従うのはいいとして、道徳原理が無いために、その人が何故道徳的に立派と言えるのか明確に説明できないんですが、そういう抽象的問題を考えない我々日本人にはそれが合ってるかも。

色々な本を読むと明らかに古人の方が現代人よりも立派と感じることはありませんか?貧乏だったからかな?

儒教なんかもう地を払ってるから説得力も無いし・・・復活もしないでしょう?似非ナショナリズムが大流行ですし天下国家を憂うのが美徳とされてる嫌な時代です。

今回の主題は木村さんが昔から繰言のように書いておられますが「またかよ!」と言われないためにも山本夏彦のように『寄せては返す波の音』と題をつければよかったかも。

投稿: 森英樹(本物) | 2007年8月14日 (火) 01時17分

 夏彦翁の場合、以前書いたのと殆ど同じ文章が出て來る事がよくありましたが、私は少なくも引合ひに出す作家や學者の文章だけは變へてゐますので、せめて「手を變へ品を變へ」と云つて戴ければと。

投稿: 木村貴 | 2007年8月14日 (火) 23時30分

関係はありませんがかつてシオランの対談集を読んで随分と陽気なオジサンということが判明しました。シオランの著書だけを読むなと言いたいです。

木村さんに質問なんですが日本人は何故若いころはニーチェ主義で年を取ったらマルクス。アウレリウス主義になるんですか?

投稿: 森英樹(本物) | 2007年8月15日 (水) 00時41分

以前にチェスタトンがアウレリウスについて「本気で怒っていたならローマに火を放つべきだった」みたいな事を書いてました。

ウォーコップは「妥協と譲歩」の代表としてアウレリウスを出して、その正反対にウィリアム・ブレイクを出していましたね。「こういう男に捕まると明日の命もあったものではない」と言いつつブレイクを肯定しアウレリウスを否定していました。

投稿: 森英樹(本物) | 2007年8月15日 (水) 20時10分

 ウォーコップはそんな事を云つてゐますか。「地獄の箴言」の表題を拜借してゐるブレイクファンとしては是非讀まなければ。

 しかしマルクス・アウレリウスも痩せても枯れてもローマ皇帝ですから、先入觀よりは冷徹だつたのかも知れません。少なくも(部下に命じて)殺した人間の數はブレイクよりも遙かに多かつた筈です。

投稿: 木村貴 | 2007年8月16日 (木) 02時50分

正確な引用です。絶版だったので図書館から借りました。深瀬氏の翻訳は解り難い箇所がありますが、平易な表現にしようという努力が見られます。この書の「ものの考え方」は、福田氏や松原氏のロレンス読解に繋がるものがあると思います。

「かくしてマルクス・アウレリウスの勝利となる・・・かの死・回 避者の・・・、何ゆえに勝利を占めるかといえば、彼アウレリウス の行き方を見ると、彼は生に対して少なくとも多少の譲歩(例えば、毒にならぬ道楽ならば全然まかりならぬとは申さない)を試みているからである。ところが、ウィリアム・ブレイクとなると、この男、譲歩も妥協もあったものではない。生きた挙動の徹底的福音論者だ。こんなのに引っかかると明日の命も知れたものではない。かくのごとくして文明人はついに彼の幼年時代の人生原理学(axiology)の完全な錯倒にまで落ち着く。かくして、道楽よりもまず商売。」

※もちろんウォーコップは、 死・回避には否定的。

精神科医・安永浩氏の「ファントム空間論」は分野を精神症状に限っているので医療関係者には面白いでしょうが、文学や政治に興味のある方には不向きかも知れません。

『ものの考え方』O・S・ウォーコップ(講談社学術文庫)

投稿: 森英樹(本物) | 2007年8月16日 (木) 13時46分

しかし知識人は日本国の支配者でもなく痩せても枯れても単なる言説の徒です。現代のソフィスト。

投稿: 森英樹(本物) | 2007年8月16日 (木) 14時04分

「法律は最低限の道徳である」と言ふ言葉は法理論の普遍的な命題などではなく,単なる俚諺の類でせう.大上段に振りかぶって論じるやうな対象ではありません.人間が社会生活を成り立たせ,さらにできるだけ住みよい社会にするためには,各人の行動を律する共通のルールが必要で,そのルールのうち,他人に迷惑や害を及ぼす行為を禁じるのが法律で,一方主として慣習に従ったルールとしてマナーがあり,さらにそのマナーの積極面に接続するより高度な行動規範として道徳がある.マナーの下限は当然法律と重なるわけであるから,マナーも広い意味の道徳に含まれると考へれば,その下限で法律に接続する.およそかう言ふ感覚から主題の格言もどきが出てきたのであらう.要するに法律一般について言ってゐるのであって,例外はいくらでもある.その点諺などと全く同じです.その例外(例へば奴隷制を認める法律)を以てこの言葉に反駁するのは野暮の骨頂です.その奴隷制も今は法で禁じられてゐるでせう.であれば,今は奴隷制禁止の法律は最低限の道徳になってゐるのではありませんか.

投稿: @Random | 2007年8月19日 (日) 00時19分

>その奴隷制も今は法で禁じられてゐるでせう.であれば,今は奴隷制禁止の法律は最低限の道徳になってゐるのではありませんか.

 ははは。確かに今のアメリカではその通りですね。しかしソローの時代のアメリカではさうではなかつたのです。そして奴隸制の無くなつた今日、アメリカでは「法律と道徳」を巡る新たな問題が息つく間もなく持上がつてゐるのです。「アファーマティヴ・アクション」による黒人の「逆差別」はその一例でせう。

 要するに法律と道徳の關係と云ふものは、人間にとつて恐らく決して無くならない厄介な問題の一つであり、だからこそ西洋では昔から多くの哲學者が取組んで來たのでせう。ソローの議論はその知的傳統を踏まへたものです。それらを學ぶ事は日本人にとつても決して無駄ではないと思ひます。

 私の云つてゐる事は「野暮の骨頂」かも知れませんが、なぜか私の好きな古今東西の物書きは皆、「野暮の骨頂」のやうな事ばかり書いてゐるのです。どうも濟みません。

投稿: 木村貴 | 2007年8月19日 (日) 22時36分

 法律と道徳の關係について深く論じた近年の思想家を一人擧げるとすれば、ドイツからアメリカに亡命したレオ・シュトラウスでせう。彼はイラク戰爭以來、米歐でネオコンの總帥と呼ばれ甚だ評判が惡く、事實、さう呼ばれても仕方ない面はあるのですが、彼と對極の思想的立場に立つリバタリアンのマレー・ロスバードも一目置く存在です。主著の『自然權と歴史』は殘念ながら品切れのやうですが、一讀をお勸めします。
http://www.amazon.co.jp/自然権と歴史-レオ・シュトラウス/dp/4812288088/ref=sr_1_7/250-5920477-6187400?ie=UTF8&s=books&qid=1187630232&sr=1-7

投稿: 木村貴 | 2007年8月21日 (火) 02時23分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/30565/16093003

この記事へのトラックバック一覧です: 法律は最低限の道徳か:

« 阿久悠死す | トップページ | 反戰の條件 »