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2007年8月21日 (火)

法律と道徳――グラミン銀行の場合

 法律は果たして最低限の道徳になつてゐるのだらうか。アメリカの奴隸制の話を持出す迄もなく、現代日本に於いても、道徳的に甚だいかがはしい法律は少くない。その一例として、利息制限法を擧げる事が出來る。

 昨年のノーベル平和賞はバングラデシュのムハマド・ユヌス氏に與へられた。同氏は貧しい女性達に無擔保で少額の貸出しを行ふグラミン銀行を創設し、多くの人々の生活水準向上に貢獻してきた事で知られる。我國の主流メディアでは「市場原理主義」の對極に位置する、利潤を度外視した取組みとして評価されてゐるやうである。

 しかし「フィナンシャル・ジャパン」九月號所載の「グラミン銀行が日本で營業できない理由」によれば、グラミン銀行の貸出平均金利は推計で十七パーセントから二十二パーセントに達してゐると云ふ。日本の利息制限法では上限金利を二十パーセントに規制してゐるから、グラミン銀行が我國で開業するのはかなり難しいと云はざるを得ない。

 グラミン銀行の貸出金利は日本のサラ金竝と云ふ事になる(いや所謂灰色金利問題を受け、サラ金は上限金利を引下げてゐるから、サラ金以上の高金利と云ふ事になる)。しかし少しく冷静に考へてみれば、資産を持たず、いつ借金を返せなくなるかも知れない個人に對する融資、即ちマイクロクレジットが例へば年利六、七パーセントで成立つ筈が無い。ユヌス氏自身、「慈善事業は貧困問題の解決にはならない」と述べてゐると云ふ。

 道徳的に考へれば、貧しい庶民が資金繰りの手段を得て自らビジネスを興し、經濟的に自立する事は望ましい筈である。ところが日本では「サラ金から法外な利息を請求された人達が可哀相」と云ふ理由で、利息制限法なる法律が出來、その結果、自立を目指す個人が資金を調達する道を塞いで仕舞つてゐる。また、いつまで經つても自己責任と云ふ言葉を知らず、惡質な高利貸に騙される無防備な「善男善女」がゐなくならない。

 さてこのやうな法律が果たして「最低限の道徳」と呼ぶに價ひするか。私は否だと思ふ。

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2007年8月16日 (木)

反戰の條件

 毎年恆例ながら、あちこちのテレヴィで戰爭についての討論番組をやつてゐる。今夜のNHKでは一般市民が口角泡を飛ばして「憲法九條を守れ」「變へろ」と論じ合つてゐた。

 私は必ずも反戰と云ふ選擇を否定しない。それどころか、首尾一貫した思想が背後にあるのであれば、反戰を積極的に支持したいとすら考へてゐる。これはいつかきちんと論じなければならないが、松原正氏は「戰爭は無くならない」とは書いたが、決して「戰爭をやるべきだ」とは主張してゐない。萬々が一、反戰主義者が松原氏の著作を手に取る事があるとして、そこから學ぶべきなのは、もしも本氣で戰爭を無くしたい、減らしたいと思ふのならば、時として戰爭を熱狂的に望む人間の本質を知らなければならないと云ふ事である。

 ある人間が個人的に憎んでもゐない別の人間を殺す。ジョージ・オーウェルが書いたやうに、それはやはりおぞましい事なのだ。だから私は「國益」の爲には自衞隊を海外にどんどん送れだの、日本でも徴兵制を敷けだのと云つた主張には全く同意出來ない。左翼のやうな事を云つて恐縮だが、威勢の良い事ばかり云つてゐる我が同胞は、戰爭とは人間を殺す事なのだと云ふ基本的事實をもつと認識すべきである。

 テレヴィの騷がしいだけの討論番組を見てゐて私が不滿なのは、さうした番組では決して「戰爭はなぜ起こるか」と云ふ本質について論じないからである。ある事象を無くしたいと思ふのならば、まづその原因を究明しなければならない。ところがテレヴィに出て來る一般市民だけでなく、知識人も、決して戰爭の本質的原因を本格的に論ずる事が無い。なぜか。論ずれば論ずるほど、戰爭を無くすと云ふ事がどれだけ絶望的かが明らかになつて仕舞ふからだ。司會者が最後に「本日の議論の結果、戰爭は無くならないと云ふ事が分りました」では、視聽者を暗い氣持ちにさせるばかりであらう。それでは視聽者第一主義であるテレヴィ局として甚だまづい。

 戰爭を無くしたいのなら、理性を働かせ、論理を突き詰め、歴史の教訓を學び、考へ拔くべきである。さうすれば、戰爭を無くす事が不可能だと云ふ事が分かるかも知れない。さうしたら再び理性の力で次善の策を講ずるべきなのだ。

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2007年8月13日 (月)

法律は最低限の道徳か

  「法律は最低限の道徳である」とよく云はれる。しかしそれは本當だらうか。今から百六十年前、ある作家は次のやうな文章を書いた。私はこの主張に深く同意するものである。

 權力がいつたん人民の手に握られたとき、多數者の支配――それも長期間にわたる支配――が容認される實際的な理由は、多數者がいちばん正しいと思はれるからではなく、まして彼らが少數者に對していちばん公平であるやうにみえるからでもなく、結局のところ、彼らが腕力においてはるかにまさつてゐるからである。しかし、あらゆる場合に多數者が支配するやうな政府は――正義の觀念に對する人間の理解に照らしてみても――たうてい正義に基礎を置いてゐるとはいへない。[略]私の考へでは、われわれはまづ第一に人間でなくてはならず、しかるのちに統治される人間となるべきである正義に對する尊敬心と同じ程度に法律に對する尊敬心を育むことなど、望ましいことではない。私が當然ひき受けなくてはならない唯一の義務とは、いつ何どきでも、自分が正しいと考へるとほりに實行することである。[略]法律が、人間をわづかでも正義に導いたためしなど、一度だつてありはしなかつた。いや、法律を尊敬するあまり、善意のひとびとすら、毎日のやうに不正に手を染めざるを得ないのである。(「市民の反抗」、飯田實譯、強調木村)

 筆者は『森の生活』で有名なアメリカのH・D・ソローである。ソローは人頭税の支拂ひを拒否した廉で投獄された經驗がある。納税を拒否したのは、奴隷制を支持する政府の態度を道徳的に許し難いと考へたからである。納税拒否は明らかな違法行爲である。もし「法律は最低限の道徳である」ならば、違法行爲を犯したソローは反道徳的な人間と云ふ事になるが、果たしてさうだらうか。奴隸制が道徳的かどうかを常識に照らして考へる限り、事實は正反對であると云はざるを得ない。

  「法律は最低限の道徳である」と云ふ考へ方は、反道徳的な法律に對して無力である。ソローは「市民の反抗」でかう書いてゐる。「不正な法律が存在する。われわれは甘んじてそれに從へばよいのか、あるいは、それを修正しようとつとめながら、われわれの試みが成功するまではそれに從ふはうがよいのか、それともただちに法を犯すはうがよいのか?」。ソローは三つの選擇肢のうちどれを撰ぶかについて明確に囘答してゐる譯ではないが、少なくも「法律は最低限の道徳である」などとは口が裂けても云はなかつたに違ひない。

 我が同胞にはかう反論する人がゐる事だらう。ソローは所詮西洋人ではないか。「人の上の神」を戴く西洋人の流儀を、「人の上の人」しか戴かぬ日本人に當嵌めるべきではない。一神教特有の絶對的道徳規準を日本人は持合はせない。だから日本人は「人の上の人」が作つた法律を最大限尊重すべきなのだ――。しかしこの主張には無理がある。人と法律とは別物だからだ。我々は人の立派な振舞ひに感動する事は出來ても、法律に感動する事は出來ない。また、我々は特定の個人を尊敬し、特定の個人を輕蔑する事が出來るが、法律を最低限の道徳とする立場からは、正しい法律にだけ從ひ不正な法律には背くと云ふ取捨撰擇は出來ない。

 しかし、それならば、日本人は一體どのやうな道徳規準を據り所にすれば良いのか。かつては儒教がその役割を果たしたが、今やそれを復活させる事が可能かどうかは疑はしい。かと云つて、キリスト教道徳を新たな規準に据ゑる事はそれ以上に難しさうである。それでは神道か。佛教か。囘教か。それとも宗教以外の哲學か。この問ひに答へる事は私には出來ない。いやいや、この問題を長年追究して來た松原正氏のやうな碩學ですら、明確な囘答は持合せてゐないのだから、私なんぞに出來る筈が無い。だが間違ひなく云へる事は、ソローが喝破した如く、政治の産物に過ぎぬ法律に道徳の代役を務める事なんぞ――たとへ「最低限」であらうとも――金輪際出來ないと云ふ事である。

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2007年8月 3日 (金)

阿久悠死す

 作詞家の阿久悠氏が亡くなつた。享年七十。

 最近の阿久氏は産經新聞紙上などで文化的・政治的に保守的な主張をし、その手の人々に人氣があつた。都はるみ「北の宿から」、八代亞紀「舟唄」、石川さゆり「津輕海峽冬景色」、河島英五「時代おくれ」など、和語を巧みに使つた、いかにも日本人の琴線に觸れるやうなしみじみした詞が多く、これも保守派の受けが良かつた一因だらう。

 しかし阿久氏の作品はそれだけではない。フィンガー5「戀のダイヤル6700」のやうにアメリカかぶれだつたり、山本リンダ「どうにもとまらない」、ピンクレディー「ペッパー警部」の如く内容が輕薄で振附も猥雜だつたり(振附は阿久氏の責任ではないが)と、保守的な人々が眉を顰めるやうな歌も數多く手掛けた。ピンクレディーの「ウォンテッド」に「あいつはあいつは大變裝」と云ふ歌詞が出て來るが、國語の傳統にうるさい人々の間で「大變裝などと云ふ日本語はない」と物議を醸した事もある。

 私は「阿久悠は保守派の皮を被つた文化破壞者だつた」などと云ひたい譯ではない。全く逆である。國語や傳統文化にうるさい人々は、何かと云ふと歌謠曲やテレヴィドラマのやうな「低俗」な文化で亂れた日本語が使はれる事を憂ひてみせる。そんな事は無用の心配である。「大變裝」などと云ふ言葉は一事流行したかもしれないが、今では誰も使はない。「大變裝」に限らず、かつて良識ある人々を嘆かせた流行語の大半は廢れて仕舞つてゐる。

 和歌や俳句でも同じだが、破格の面白さと云ふものは、正格がしつかりしてゐるからこそ成立つのである。人間とは、阿久悠氏が體現したやうに、破格を試みる冒險心や奇を衒ふ心情と同時に、正格を求める秩序感覺も持合はせてゐる。だから言語と云ふものは、自然に任せておけば論理的にも美的にも十全な發展を遂げるものだし、事實、そのやうに發展して來た。さう云ふ意味で、多くの國語關係者からはお叱りを受けるかもしれないが、私は所謂「國語の亂れ」をそれほど心配する必要は無いと考へる。本當の「國語の亂れ」は、言語に政治が介入する時にのみ起こると思ふ。戰後の「現代かなづかい」「新漢字」の押附けこそ、その典型に他ならない。

 寧ろ正しい國語を押附ける事で、自由闊達な文化の發露の場が失はれる事を私は危惧する。歌謠曲は低俗かもしれないが、少數の高尚な文化は多數の低俗な文化と云ふ土臺の上に開花するのである。何より人間は、高尚な文化だけを求める存在ではない。

 話がかなり脱線して仕舞つた。私が一番好きな阿久悠氏の作品は、ちあきなおみが歌ふ「かなしみ模樣」である。三十年以上も昔の歌で、大ヒットしたとも云ひかねるが、聽く度に心を打たれる。阿久さん、どうぞ安らかに。

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2007年8月 2日 (木)

西尾幹二『江戸のダイナミズム』を斬る

 五月十七日に「經濟の牙――西尾幹二氏の珍論」と云ふ文章を書いたところ、その後、どこのどなたか知らないが、この記事に海外ポルノサイトへのトラックバックを大量に附けて呉れるやうになつた。現在までに約百八十囘。恐らくこれは、ブログ更新をさぼつたりせず、西尾氏の惡口をもつと書けと云ふ叱咤激勵に違ひない。どうも有難う御座います。

 さてリクエストにお應へしてと云ふ譯でもないが、國語問題協議會の會報「國語國字」の最新號に、西尾氏の近著『江戸のダイナミズム』をこき下ろす拙文「理不盡な兩成敗」を載せて貰つた。以下はその冒頭部分である。

*********(以下轉載)*********

 西尾幹二氏は近著『江戸のダイナミズム』(文藝春秋)の第十七章「万葉仮名・藤原定家・契沖・現代かなづかい」で、「現代かなづかい」を批判する一方、歴史的假名遣ひにも「無理」があると苦言を呈してゐる。この「兩成敗」は一見公平さうだが、實際はバランスを失した理不盡な主張である。

 現代かなづかいには拙速が生んだデタラメがあります。旧仮名すなわち歴史的仮名遣いには、福田恆存が述べている通り、文法上の一定の合理性があります。しかし一方に以上見た通り使用上の無理もあります。(四五一頁)

 その「無理」とは何か。西尾氏は例として「小用(せうよう)、従容(しょうよう)、称揚(しょうやう)、賞揚(しゃうやう)」や「公使(こうし)、行使(かうし)、公私(こうし)、光子(くゎうし)」等を擧げる。そして歴史的假名遣ひはこのやうな「煩雑な区別」を「国民に要求していたのです」と告發するのである。
 しかしこれらは全て漢語の音の假名遣ひ、すなはち字音假名遣ひである。西尾氏は「要求」と云ふ言葉の意味を曖昧なまま使用してゐるが、それが「使用を強ひる」と云ふ意味であれば、事實であるとは到底認められない。少なくも一般國民の日常生活に於いては、戰前も戰後も漢語は漢字で書くものであり、わざわざ假名で書いたり一々振假名を振つたりする習慣は無いからである。

*********(轉載終了)*********

 續きに關心のおありの方は、國語問題協議會事務局から會報を取寄せてお讀み下さい。

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