警察も呼べない松原信者
喜六郎さんより。
野嵜氏は、「もう何も言はない」と宣言したにも関わらず、説明も何もなく何食わぬ顔で発言を再開ことを非難されると、「法には触れていない」と宣ったのである。/つまり、道徳的怠惰を指摘されたのに法を盾に自己正当化を図ったのである。/普段、「法と道徳の峻別」を何とかのひとつ覚えのように訴えていたのは野嵜氏ら松原信者ではなかったのか?/さらに野嵜氏の盟友である木村貴氏は、盟友の知的怠惰を批判することもなく野嵜氏擁護をする始末である。/「法と道徳の峻別」を唱えて、前田嘉則氏や加地伸行氏や私を居丈高に非難していたのは何処の誰でしたっけ?/自分たちの世間の外に居る人達には偉そうに批判して、身内の人間の知的怠惰は見て見ぬふり。/松原信者は西欧の「先進性」を称揚し、日本の「後進性」を痛罵するくせに、こういう世間べったりな所は実に日本的である。
時間が無いので詳しくは後日論ずるとして、取敢へず喜六郎さんが何を勘違ひしてゐるか、そのヒントだけ擧げておきます。
●ウェブで「騙り」をはじめとする嫌がらせをさんざんやられたのに嫌気が差し、堪りかねて「もう何も言はない」と宣言した後、發言を再開する事は「道徳的怠惰」なのでせうか。例へば、喜六郎さんが好きなワーキングプアの人が職場でさんざん嫌がらせをされて、「もう二度と働かない」と周圍に宣言し、その後、再び働き始める事は「道徳的怠惰」なのでせうか。
●「道徳的怠惰」でもない事を「道徳的怠惰」呼ばはりする滅茶苦茶な輩に對し、自らの權利を守る爲に法律を持出す事は許されないのでせうか。例へば、日頃道徳と法の峻別を説くワーキングプアの人が「もう二度と働かない」と宣言して仕舞つたばつかりに、周りの人間から「お前云つたよな、二度と働かないつて云つたよな、それでまた働きますつて云ふのは、お前の常日頃指彈する道徳的怠惰だよな。さうだよな。二度と會社に顏出すなこのボケ!」と因縁をつけられた時に、勞働は憲法や勞働法で認められた權利であると主張する事は、言行不一致の怪しからぬ行爲なのでせうか。
●そもそも「法と道徳の峻別」「政治と道徳の峻別」を説く人間は、法的・政治的權利を主張する事自體がをかしいと喜六郎さんはお考へなのでせうか(さうとしか讀めませんが)。すると私や野嵜さんは強盜に遭つても警察を呼ぶ事は許されないと云ふ事ですか。もう一つ云へば、喜六郎さんはひよつとして、「峻別」と「否定」を同じ意味だと思つてゐませんか。
●塗炭さんが指摘されてゐるやうに、「法と道徳の峻別」と云ふ表現は誤解を招く恐れがありました。なぜなら、「法」には大きく二つの種類があるからです。すなはち自然法と實定法です。自然法とは「殺すなかれ」「盜むなかれ」に代表されるやうに、法律が出來る前から存在してゐた正不正の基準です。これは道徳に等しいと云へるでせう。實定法とは「自動車が右を走つたら道交法違反」「インサイダー取引は證取法違反」「無斷コピーは著作權法違反」のやうに、單に國會でさう決まつたから從へと云ふ類の法律、つまり行政法や經濟法の大部分です。これは政治に等しいと云へるでせう。従つて、政治と法と道徳との關係について深く考へた事もない喜六郎さんが誤解して譯の分からぬ事を書いて仕舞ふのも無理からぬ話で、これは私の反省材料です。誰でも分るやうな文章を書かないと。
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コメント
面倒臭くなつたのであつちは見てゐないのですが、あの人逹、本當にしつこいですねえ。粘着とは良く言つたものです。私が愚かで何うしやうもないのなら、なんでこんなにしつこく、年單位で長期間粘着しなければならないのですかね。
しかも、何時も連中、私の「最新」の些細な發言にだけ食ひついて來るのでして、それも全て揚げ足取りで嫌がらせを言ふだけ、と來てゐる。何なのでせう。あゝ云ふ嫌らしいやり方は、私には眞似出來ませんね。何年「ウオッチ」してゐても、こちらの主張や思想は全然理解しようとしない。理解しようとしないで、ただ字句の上で何となく「矛盾つぽい」やうなものを見附けては、或は、こちらの言つてゐる事をスローガンと勘違ひしてゐるらしく、發言を適當に故事つけては、それで十分非難に價すると思ひ込んでゐる。連中好い氣なものです。
私の「アンチ」の人は、本當にたちの惡い人許りですね。「發言する權利」が私に「ある」か何うかに一々疑問を呈して下さるのですが、さう言ふ連中、自分達自身に權利が「ある」のか何うか、その邊を少しも反省しません。みんな無責任なのです。
兔に角一方的に野嵜を罵つて快を貪らうとする――私が何か惡い事をしたとでも言ふのでせうかねえ。「他人の名前を騙つて各地の掲示板を荒す」のは「惡くない(だから咎めないで放置するし、やつてゐる張本人らしき人間がコメントを書込んでも喜んで迎へ入れる)」と云ふのが「アンチ」の人々の基本的な諒解事項らしいですが、そんな惡い事をしても責任を問はれないのに、なぜか私は非道く責められる。ならば私はよつぽど惡い事をしてゐる筈ですが、彼等は何一つ指摘しない。不思議な話です。水掛け論にしかならない「無職」か何うかとか、そんな事にばつかり一生懸命です。何を考へてゐるのでせうか。
一方で、私の「信者」――はあんまりゐないらしくて、精々好意を持つて下さつてゐると云ふくらゐの方々ですが、こちらはどなたも良い人許りです。何時も何うも有難うございます。
しかしまあ、かう云ふのつて、或意味「名譽」な事なのでせうかね。ではでは。
投稿: n | 2007年6月13日 (水) 20時20分
と言ふか。
>野嵜氏は、「もう何も言はない」と宣言したにも関わらず、説明も何もなく何食わぬ顔で発言を再開ことを非難されると、「法には触れていない」と宣ったのである。
2ちゃんねらーも質が落ちましたね。福田さんなら「あなたは本氣ですか。いや、あなたも本氣ですか」と書くところです。
投稿: n | 2007年6月13日 (水) 20時32分
喜六郎は盟友の「義」を斬つてから人の事を非難すれば良いのです。けれども彼にそんな眞似は出來ません。彼の言説(笑)が片端である所以です。
投稿: n | 2007年6月13日 (水) 20時50分
しかしまあ、水掛け論ですね。連中はそれが樂しくて樂しくて仕方がないのですが、私はうんざりです。なぜこんな詰らない事で爭はうと思へるのですかね。馬鹿馬鹿しいから默つたのですが、默つたらあつちもこちらを放つておけば良いのに、一々ちよつかいを出して、それでこちらが反論すれば、なんで反論するんだよと怒る。馬鹿ですかね。
そもそも喜六郎とか「義」とか、連中は他人に嫌がらせをして、何うしたいのですかね。人の事を愚かだ愚かだ言ひますけれども、連中、それでは私に何をしろと要求してゐるのでせうか。
連中、本當に無駄な事を喜んでしてゐるのだなあと思ひます。困つたものですね。
投稿: n | 2007年6月13日 (水) 20時55分
雑談です。もし邪魔なら削除して下さい。
>一方で、私の「信者」――はあんまりゐないらしくて、精々好意を持つて下さつてゐると云ふくらゐの方々ですが、こちらはどなたも良い人許りです。何時も何うも有難うございます。
えと、仮に塗炭を指しているのであれば、良い人ではありません。悪人です。良い人を目指しては居るのですが、どうも死ぬまで達成出来そうにありません。また、塗炭は親父や先祖の「信者」ですので、野嵜さんの「信者」になることは「教義」に反します。お許し下さい。この意味で前近代的日本人であると自覚しています。これも何とか改善しようと考えているのですが、死ぬまで……。
ところで野嵜さんの通称フォロワーは野嵜さんの言論(思想)を理解し、その思想を共有しているのでしょうか。むしろ不思議マークアップを主張する「悪者」をばっさり斬る勧善懲悪のヒーローと考えているようなふしがあります。TV視聴者と大差が無い。ヒーローに祀り上げられることが「名誉」だとすれば、こんな馬鹿馬鹿しい事はないと思います。塗炭は野嵜さんをそこらに居る人間と同じようにしか扱っていませんが、そうすることが誠実だと考えるためです。何卒ご諒解下さい。
それにしても喜六郎さんは常識的な部分で何か欠落しているような気がします。
投稿: 塗炭 | 2007年6月14日 (木) 19時16分
木村さん、初めまして。濟みません、僕も横入り。
塗炭さんはご自身のことを「惡人」とおつしやるけれど、「惡人夫婦」の喩へ話(家庭内でいざこざが起きると、「これは私のせゐだ、私が惡かつた」と言ひ合つて、結局圓滿にをさまつてゐるといふ夫婦)もあるとほり、さういふ人が必ずしも根つからの惡人であるとも限らない。かと思へば、「儂は善人ぢや。だから儂の言ふことをきくのぢや!」と、自分の考へを押しつけてくる人も、結構ゐる。善惡はこのやうに難しく、從つて「ニートだから惡だ」とは、簡單には言へないと思ふんですけど。
投稿: 酒井景二郎 | 2007年6月15日 (金) 00時02分
>善惡はこのやうに難しく、從つて「ニートだから惡だ」とは、簡單には言へないと思ふんですけど。
喜六郎氏やいちご氏のやうな「右」はニート全員が惡だと云ひ、ある種の學者先生のやうな「左」はニート全員が善だと云ひます。私はそのどちらも間違つてゐると云ひたいのです。人間の道徳性を集團單位で判斷する事は出來ません。
投稿: 木村貴 | 2007年6月15日 (金) 00時18分
成程、ズバリですね。そしてヒヤリとしました。この基準で行くと、僕の頭はどつちかといふと「左」に振れてゐるやうです。
「人間の道徳性を集團單位で判斷する事は出來ません」本當だ。
まあ、ニートといふのはバックリとした呼稱で、個々のニート諸氏がさうなる迄には樣々な「理由」や「條件」があつた筈。どうもその邊のことが見落とされてゐる(故意に無視されてゐる?)印象が彼らの言ひ樣には見受けられ、そこに僕は酷薄なものを感じた譯です。
投稿: 酒井景二郎 | 2007年6月15日 (金) 01時03分
と言ふか、ただ相手を貶める目的で、無職とかニートとか云つた言葉を連中、利用してゐるんですよ。一々眞面目に附合へば、相手は喜ぶだけです。連中の目的はただ一つ、「野嵜を侮辱する」――これだけです。
投稿: n | 2007年6月15日 (金) 19時32分
さうですね。ここらでもう喜六郎氏やそのブログに出入りする連中に反應するのは止める事にしませう。……と書いた後でまた反應して仕舞つたら「道徳的怠惰だ」だとか「反應した理由を説明しろ」だとか責められるんだらうな。笑ひ。
投稿: 木村貴 | 2007年6月16日 (土) 01時31分
以前から疑問に思ってたのですが松原氏の文章に関して「口汚い」という批判が多々ありますが僕としては笑えるんですが。
外国の物書きのほうがもっと口汚いですよ。チェスタトンとか。氏素性にまで文句をつけてたりする。ジョージ・オーウェルとか。
ポール・ジョンソンなどには吐き気を催します。あと日本人では中川八洋ですね。
投稿: 森英樹(本物) | 2007年6月19日 (火) 22時33分
>外国の物書きのほうがもっと口汚いですよ。チェスタトンとか。
ショーペンハウアーによるヘーゲルの惡口とかポパーによるマルクスの惡口とか。
投稿: 木村貴 | 2007年6月22日 (金) 02時46分
そうそう。
チェスタトンのトルストイ批判とか。ヴァレリーのニーチェ批判とか。ジッドへの書簡ですけどね。
笑えないということは、ユーモアセンスが無いんですかね?
投稿: 森英樹(本物) | 2007年6月22日 (金) 10時58分
言葉は汚いが心はきれい。
言葉は綺麗だが心が汚い。
言葉は汚いし心は腐つてゐる←喜六郎や「義」
喜六郎とかの笑ひは全部「嘲笑」ですね。日本人にはこの手の「笑ひのセンス」しか持合せのない人がゐます。しかも當人、「俺とても面白い事言つた」とか心から信じてゐたり云々。喜六郎なんかは「××しろ」とか言つて、本人、ユーモアセンスたつぷりの文章を書いてゐる積りなんでせうね。あれは「オヤヂ」です。センスがおつさん。何處かの無名人なんか、見るからにおつさんです。「義」なんかは、あれは最う何うしやうもないくらゐおつさん――屁が何うの斯うの言つてゐる邊、赤ん坊か知らんですが。少しは成長したら何うかと思ひますが、日本人は大人になつても精神年齡十四歳らしいですから云々。
投稿: n | 2007年6月22日 (金) 21時55分
と言ふか、日本の場合、「笑ひ」は「樂しませる」事と無縁の事が極めて多いですね。「笑つて見せる」と云ふのばつかりでげんなり。自分が率先して笑ふのがユーモアだと勘違ひしてゐる。
笑つて見せて、それでもつて「自分に餘裕がある」事をアピールする――「自分は大人である」と言つて相手を侮辱するのが目的らしいのですが、ユーモアでも何でもないです。
投稿: n | 2007年6月22日 (金) 22時06分