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2007年6月24日 (日)

體系的ならざる論

 「言葉の救はれ」で“連載”中の「宿命の國語」170囘を眺めてゐて何だか見覺えがあるなと思つたら、昨年十一月に公開された119囘と全く同じ文章だつた。それで思ひ出したが、以前公開された136囘123囘と同じだつたし、133囘120囘と同一だつた。

 今年二月に掲載された「祝 アクセス件數3萬件突破」にはかうある。

  「言葉の救はれ――宿命の國語」は既に135囘になつたが、まだ3分の1である。體系だつた論ではないが、國語を宿命として受入れることが、時間の最尖端にゐる私たちの役割であり、さうしてこそ言葉の生命に觸れ、臺無しにされた言葉を復活させることができるといふ思ひで書いてゐる。

 國語が宿命かどうかは分からないが、同じ文章が何度も登場する「宿命の國語」が「體系だつた論ではない」事だけは確かである。

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コメント

国語は宿命なんですかね?

最近、大嫌いな言葉遣いは「○○は宿命である」です。

「味噌汁は日本人にとって宿命である!」とか言わないと思うんですが。

投稿: 森英樹(本物) | 2007年6月24日 (日) 16時21分

「祖国とは国語」のように「祖国とは味噌汁」とはいえますがね。

安直な宿命論者は困ります。

なお前田氏の主張の当否はきちんと読んだことがないので分かりかねます。

投稿: 森英樹(本物) | 2007年6月24日 (日) 16時32分

「公正」を裝ふ人々が、文章を水増ししたり、サイバーストーカーを憎惡すると言ひながら被害者を侮辱したりしてゐる――それは公正と云ふ事への信頼を失はしめるものなのですが、何故か彼等は自分逹の行爲は良い事だと心から信じてゐる。何なのでせうね。「大人の態度」と「公正な態度」とを、なぜか連中は兩立するものと信じてゐるのですが、何うにも變ですねえ。

しかも連中、正かなを使つてゐるんですよね。迷惑な話です。まあ、不正かなを使つて他人の名前を騙つて嫌がらせをするやうな人間もゐる訣ですが――しかもさう云ふ人間を、これら「公正」を氣取る連中が、實質的に支持してゐるのですから、連中の「公正」と云ふスローガンが、どう云ふ意圖の下に發せられてゐるかは明かですね。と言ふか、この手の惡しき「公正」を憎んだのは福田恆存。

投稿: n | 2007年6月24日 (日) 20時12分

福田恒存といえば「やっつけつ会会長」がミッドナイト蘭君の処に出没してるね。

蘭君も見事な放置ぶり!

投稿: 森英樹(本物) | 2007年6月24日 (日) 20時18分

なんと言ふか、宣傳と云ふ手段を愛する人々は、眞實を愛する氣持は全然持つてゐないのでせうねえ。「やっつける」とか言つてゐる分には或意味、公正を放棄した潔さがあつて、或意味某無名人氏なんかより好ましい感じがしないでもないのですが、サイバーストーカーを「憎む」とか云つた言葉がおざなりなのには變りがなく、結局「自分に都合良く物事を運びたい」と云ふ本心が文章に表はれてゐたりするので何うにも斯うにも云々。

それにしても、某無名人氏も、あゝ云ふ言ひ方やり方は、「公正」を表はすものではなく、單なる「相對化」に過ぎない、と云ふ事に早く氣附くべきですね。價値相對主義を支持したければ、右翼的言辭は愼んだ方が宜しいでせう。
「義」のやうなサイバーストーカーを憎むと言ひながらストーカー被害者にも責任があるなんて言つたら、相對的にストーカーの責任を輕減しようと云ふ意圖が見え見えです。と言ふより、自分は「公正」であると言ひつゝ、ストーカーの責任を輕減しようとするのでは、實質ストーカーを支持するのと同じです。「義」を喜ばせてゐるのだから、無名人氏が自分の言動を如何に正當化しようが、その行爲が公正を缺くものであるのは明かです。

まあ、日本人にとつて、大義名分は他人を説得するものでなく、自分を騙す爲にあるものですからねえ。「大東亞共榮圈」とか「八紘一宇」とか、誰も信じないやうな事を言つて、自分は「公正だ!」と主張しつゝ、ひたすら同じ國民を抑壓したり、敵への憎惡を掻き立てたりと、ろくでもない事をやつて來たのが日本人でした。さう云ふろくでもない日本人の行爲を正當化してゐるのが、右翼の無名人氏であると云ふのが何とも意味深長で、要は無名人氏の態度と云ふものは、過去の日本人の惡しき態度をそつくりそのまゝ受繼いだものである訣です。無名人氏、それを「惡い事」と認識してゐないから處置なし。


と言ふか、無名人氏、何とかの一つ覺えで、また「纏めサイト」を作つてゐるよ。こんな馬鹿な事に精力を傾けられるのだから、「アンチ」の連中の精神は異常。他に幾らでもやる事はあるだらうに、どうしてこんな詰らない事に必死になれるのだらう。
http://www.geocities.jp/hiizurukuninoichimumeijin/omake/cyberstalker/gi1.htm

投稿: n | 2007年6月24日 (日) 20時49分

彼等は暇だからでしょう。

mixiでもやってマイミクでも増やせばいいのに。

あっ!誰も紹介してくれないのか。

投稿: 森英樹(本物) | 2007年6月24日 (日) 20時54分

>それにしても、某無名人氏も、あゝ云ふ言ひ方やり方は、

新字新かなもどきを使う価値相対主義者として言う。

野嵜さん、物を言いたいのなら自分のサイトで言ったらどうだ。他所のブログの特定の記事にコメントする形で「自分の主張」を繰り返しているのは「義」の書き込みと大差無い。自分の正義を主張するという点で読者にとっては同じだ。善意の「信者」のためにもサイトを再開しろ。いちいち探す手間を掛けさせないで呉れ。馬鹿。

投稿: 塗炭 | 2007年6月24日 (日) 23時36分

塗炭さん、自治御苦勞樣です。「ブログ」管理人の木村さんから言はれれば止めます。

それにしても、わざわざ探してまでして讀んでいただいてゐるのですか。ありがたうございます。

投稿: n | 2007年6月25日 (月) 00時36分

塗炭って因縁をつけてるだけじゃん。

別に此処に書き込むことは悪質なことでもなんでもないじゃない。

投稿: 森英樹(本物) | 2007年6月25日 (月) 00時43分

と言ふか、當方、記事と全く關係ない事を書いてゐる積りはないのですがねえ。
前田氏にしても喜六郎にしても、或は「義」にしても、理論的に話を進めるよりは、勝手に極附けた結論を前面に押出して宣傳で定着させようとする、即ち、批判者として根本的な缺陷を持つ連中である――この點で問題が共通してゐます。
その問題を私は指摘してゐるのであり、記事へのコメントとして全く的外れな事を言つてゐる積りはありません。ですから、私がひたすら記事と無關係な主張を繰返す「荒し」として扱はれる理由はないと思ひます。

投稿: n | 2007年6月25日 (月) 00時44分

 前田嘉則さんによると、記事の重複はミスだつたやうです。
http://logos.blogzine.jp/1/2007/06/post_caa0.html

 ミスは誰でもやらかす事なので咎める氣はありませんが、「もとより私の論は體系的なものではない。それは力量不足だから仕方ない」と云ふ御謙遜(?)はピントがずれてゐます。私は「同じ文章が何度も出て來るやうな論文は體系云々以前の問題だ」と皮肉つたのであつて、それ以外の「高級な」體系性について前田さんの文章を吟味したわけではありません。

 國語が宿命であるかどうかについて、私は餘り興味がありませんし、福田恆存がどう云つてゐたかも知りません。單に「國語は大切だ」ではいけないのでせうか。文學的修辭は理性的な議論にとつて屡々障礙となります。

 ついでに一言。前田さんは以前、留守晴夫先生が月曜評論を「ミニコミ」と表現された時、「なぜ月曜評論と書かないのか」「自分なら世話になつた媒體の名前をきちんと書く」(要旨)と随分御立腹された樣子でした。ところが今囘、前田さんは「宿命の國語」を「新聞」に連載してゐるとしか書いていらつしやいません。なにゆゑ新聞の固有名詞をお書きにならないのでせうか。これもうつかりミスなのでせうか。
http://kimura39.txt-nifty.com/hell/2006/11/post_6a1b.html

投稿: 木村貴 | 2007年6月25日 (月) 04時40分

 ええと、人間、好きなところに好きな事を書けば宜しいのではないでせうか。その方が樂しいと思ひますよ。

投稿: 木村貴 | 2007年6月25日 (月) 04時50分

私の文章が拙いのか、それとも態と曲解して見せているのか、どちらか分からないけれど、もう一度書きます。新字新かなもどきをつかう価値相対主義者の雑談なので、もし邪魔であれば削除して下さい。

>と言ふか、當方、記事と全く關係ない事を書いてゐる積りはないのですがねえ。

自分の意見は自分のサイトで公開するのが原則。ゆえに物を言いたいのであれば自分のサイトで書くべき。ただし例外はある。ここを間借りしているのは何らかの事情に因る例外処置だろう。しかしどんなに立派な能書きを垂れても「例外」というスキームからは逃れられない。自分のサイトに書いた方が良い。サイトを持っていないのなら兎も角、現にある。

そんな原則は不正である、あるいは、そんな原則は無いと主張するなら「義」のやり方と同じである。「義」のやり方を認めない私は同様に野嵜さんのやり方も認めない。

>塗炭さん、自治御苦勞樣です。

馬鹿。

投稿: 塗炭 | 2007年6月25日 (月) 19時32分

>自分の意見は自分のサイトで公開するのが原則。ゆえに物を言いたいのであれば自分のサイトで書くべき。

ならば塗炭さんは、なぜ此處にあなたの個人的な意見を書いてゐるのですか。あなたは、あなたの管理しない他人の「ブログ」に、あなたの意見を發表してゐます。その時點で、「自分のサイトで書け」とあなたが言ふのは、論理的に矛盾する事になります。

別に私の物の言ひ方に問題が「ある」と考へ、さう指摘したいのでしたら、すればよろしいが、あなたの論理だと、それは塗炭さん、「あなた自身のサイトでやるべき事」になるのではありませんか。木村さんの「ブログ」のコメント欄に書込んでしまつたら、あなたの論理は破綻します。
だからこそ自分は「価値相対主義者」だなんて豫防線を張つてゐるのでせうけれども、そんな事で免罪されるとあなたは本氣で信じてゐるのですか。

と言ふか、「善意の「信者」のためにもサイトを再開しろ。」なんて、命令形で言つてゐるのは何ですか。「馬鹿」とか頭ごなしに言つてゐますが、私の事を馬鹿だと極附けるには、あなたの論理は餘りに脆弱です。その爲に、あなたの口調は「義」そつくりになつてしまつてゐますが、何うかと思ひます。こんな状況だからわざとなのでせうけれども、感じが惡いです。
と言ふか、「義」やその他の連中を喜ばせるやうな態度をとるのが有意義であるとは思はれません。

投稿: n | 2007年6月25日 (月) 20時08分

と言ふか。
>そんな原則は不正である、あるいは、そんな原則は無いと主張するなら「義」のやり方と同じである。「義」のやり方を認めない私は同様に野嵜さんのやり方も認めない。
塗炭さんは、「義」の何が惡いかを全く理解してゐないのですね。ただ單に「餘所で書いて、自分のサイトに書かない」と云ふ事が塗炭さんにとつては「惡」であると云ふのです。
「義」は、人の名前を騙つたり、鄙劣な事をしてゐるから惡いのです。誰が何う見ても、他人の名前を騙つて掲示板を荒して見せたり、人の目の前で侮辱的な言辞を弄して見せたり――それは明かに惡い事です。さう云ふ事を、私はしてゐません。ところが、そんな明かな惡事を行なつてゐる「義」と私と、塗炭さんは「同じ」だと云ふ。言掛かりをつけて喜んでゐる喜六郎だの無名人だのに困つてゐるといふのに、塗炭さんにまで同じやうに言掛かりをつけられてゐる。がつかりしました。


まあ、この「塗炭」なる人物、本物の塗炭さんとは別人かも知れませんからね。「義」が例によつて名前を騙つてゐるのかも知れない。だとしたら、「義」は本當に惡い奴です。

投稿: n | 2007年6月25日 (月) 20時14分

と言ふか、しつこいやうだけれども。

>自分のサイトに書いた方が良い。

「書かねばならない」ならば、「書いてゐない」私は「間違つてゐる」事が確定します。ところが、塗炭さんは「書いた方が良い」と言つてゐます。「書いた方が良い」です。
「書いた方が良い」ならば「書かなくても良い」のです。餘りにも當り前の話ですね。それが論理と言ふものです。

「書かなくても良い」のならば、私が「書いてゐない」事を非難する根據になりません。なのに塗炭さんは口を極めて私を罵つてゐます。これは異常です。「義」にしても喜六郎にしても、或は松原先生を非難する前田氏にしても、この種の「決定的でない根據で以て他人を惡人と極附け、口を極めて罵る」と云ふ、批判として問題のあるやり方を繰返してゐます。それが問題である事を何度も私は指摘してゐるのですが、全然理解されません。塗炭さんもまた。

何うしたら良いのでせうか。

投稿: n | 2007年6月25日 (月) 20時20分

道理が通じないのだから仕方ない。

精神的幼児に対して何故に真剣な説得を試みるか分かりません。

投稿: 森英樹(本物) | 2007年6月25日 (月) 20時21分

一部訂正。

自分の意見は自分のサイトで公開するのが原則である。ゆえに自分のサイトに書くべき。例外はある。

それと、「義」のやり方と、「義」のしている「内容」とは区別している。物事の判断には形式的な要件と実質的な要件に区別する必要がある。手続が正当かどうかと、内容が正当かどうか。前者は役所的ではあるものの不可欠。分かり易い例を言えば、HTMLがvalidであるかどうかといった事。後者は野嵜さんも書いている通り。

自分の意見は自分のサイトで公開するのが原則、というのは形式要件を指している。この原則が正しいとすれば、自分のサイトで意見を述べず、あるいは、自分のサイトを持たず、あちこちの電子掲示板でのみ書き込みをする者は、主張のための形式要件を満たして居ない。

「義」のしている「内容」は私も批判している。当たり前だ。そうではなく、形式的にも正しい方法を採るべきだと言っている。それなのに「自治御苦勞樣です」という的外れなことを言っているから馬鹿と言った。

投稿: 塗炭 | 2007年6月25日 (月) 22時08分

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