憲法九條を殘す道
先日、太田光・中沢新一『憲法九条を世界遺産に』をこき下したが、私は九條を殘す事に必ずしも反對しない。但し條件がある。政府による軍備や戰爭を禁ずる代りに、個人による武裝や武器使用を認める事である。
政府が個人に成り代はつて防衞の權利を行使する事を認めないのであれば、個人にその權利を直接保持させなければ筋が通らない。九條は「國權の發動たる戰爭[中略]は、永久にこれを放棄する」と述べてゐるだけで、「人權の發動たる自衞」の放棄を求めてはゐない。いや、生命身體の自衞こそは最も基本的な人權であるから、憲法と雖もその放棄を命ずる事は出來ない。要するに、憲法九條を殘したままで自衞の權利を政府から個人に移す事は理窟の上では可能だし、寧ろその方が九條の“理念”に近いと云ひたいのである。
勿論、權利の保持と行使は別物であるから、中沢新一のやうな平和主義者は權利を行使しなくても構はない。丸腰のまま慫慂として自らの信念を貫いたならば、皮肉でも何でもなく、私は心から尊敬する事だらう。一方、太田光は九條擁護を主張しつつも、もし自分の家族が殺されたら殺した敵兵と敵國の指導者の二人を必ず殺すと述べてゐる。丸腰では無理だが、もし武裝の權利が個人に移管されてゐれば、實現可能性は高まるだらう。
個人と云つても、一人よりも複數で集まつた方が自衞には好都合だから、武裝した自警團のやうなものがあちこちに出來るかも知れない。いやいや、素人が武裝するよりはプロに任せた方が良いと云ふ事になるかも知れない。防衞權が個人に移管された日本で自衞隊は解散してゐるが、優秀な元自衞官たちの作つた「防衞NPO」や「防衞會社」は引張りだこになる事だらう。事實上の自衞隊民營化である。
國防が民營可能か否かは、リバタリアンと呼ばれる自由絶對主義者の間でさへ議論が分れてゐるから、ここで輕々に結論を出すのは控へよう。しかし自衞權移管論は、自衞權を政府にも個人にも認めない丸腰主義に比べれば遙かに人間の本性に即してゐるし、論理的整合性を有してもゐるのである。
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コメント
初めまして。
福田恆存先生が指摘してをられる様に、「自衛は権利ではなく本能」ですから、「自衛権」と言ふ言葉自体がそもそもあり得ないと思ひます。茲で言はれてゐる「自衛権」は「交戦権」と呼ぶべきではないでせうか。
投稿: キラーT細胞 | 2007年6月 3日 (日) 11時50分
御指摘有難う御座います。武裝權でも良かつたかも知れませんね。
投稿: 木村貴 | 2007年6月 3日 (日) 12時07分