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2007年6月24日 (日)

體系的ならざる論

 「言葉の救はれ」で“連載”中の「宿命の國語」170囘を眺めてゐて何だか見覺えがあるなと思つたら、昨年十一月に公開された119囘と全く同じ文章だつた。それで思ひ出したが、以前公開された136囘123囘と同じだつたし、133囘120囘と同一だつた。

 今年二月に掲載された「祝 アクセス件數3萬件突破」にはかうある。

  「言葉の救はれ――宿命の國語」は既に135囘になつたが、まだ3分の1である。體系だつた論ではないが、國語を宿命として受入れることが、時間の最尖端にゐる私たちの役割であり、さうしてこそ言葉の生命に觸れ、臺無しにされた言葉を復活させることができるといふ思ひで書いてゐる。

 國語が宿命かどうかは分からないが、同じ文章が何度も登場する「宿命の國語」が「體系だつた論ではない」事だけは確かである。

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介護と云ふ聖職

 六月二十日附中日新聞夕刊「社會時評」で、作家の高村薫が「『公』の姿、『民』の顏」と題する混亂した文章を書いてゐる。

 たとへば、私たちが營々と納め續けてきた國民年金や厚生年金の掛け金が、社會保險廳のコンピューターにきちんと記録されてをらず、宙に浮いてゐる件數が五千萬、六千萬にのぼるといふだけで、そんな役所はもはや信用に値しないし、そんなむちやくちやな行政を放置してきた政治も信任に値しない[略]。

 高村はこの箇所の直前に「もうそろそろ見限るべきは見限り、この國のていたらくにノーを突きつけるときかもしれない、とも思ふ」と書いてゐるのだが、現在の自公聯立政權が「ノー」を突附けられ、例へば民主黨が取つて代はつたとしても、「むちやくちやな」役所や行政が改善する見込みなど無い。社會保險廳に限らず、役所とは政權の別にかかはらず、本來非效率で無責任な存在だからである。民間に任せるべき業務を役所の手から奪はない限り、同樣の問題は何度でも起きる。

 また、生活に直結した不信では、介護保險制度の現状も例外ではない。折しも大手の訪問介護サービス會社が介護報酬の不正請求で處分されたが、そもそも營利の追求を目的とする民間企業の參入は、福祉の本質と相容れないのではないか。

 民間企業が福祉と相容れないと云ふのは事實に反する。世間には介護同樣、人間の生命に關はる仕事でも、民間が立派に擔つてゐる例は多數存在する。例へば人間は毒物を喰ふと死ぬ恐れがあるが、食品は民間の食品メーカーや商社によつて供給されてゐる。大病をして手術をしないと命にかかはるが、醫療機器は專門のメーカーによつて製造されてゐる。介護だけを特別扱ひして民間企業を排除する理由は無い。事實、コムスン問題に關する報道を見る限り、同社のサーヴィスの利用者らは口々に「ヘルパーが來なくなると困る」と不安を訴へてゐた。介護ビジネスに何も良いところが無いのなら、そのやうな發言は出ない筈である。

 そもそも高村は同じ文章の中で、年金記録に關する社保廳の「むちやくちや」を糺彈したばかりではないか。年金は介護保険同樣、福祉制度の一種である。民間の保險會社でも保險金の未拂ひ問題などは起きてゐるが、さすがに記録漏れが「五千萬、六千萬にのぼる」と云ふ篦棒な不始末をしでかしたところは無い。高村の云ふ「むちやくちや」な行政に介護を任せ切りにすれば、その結果は必ずや「むちやくちや」となる筈で、介護報酬の不正請求どころで濟まなくなるのは火を見るよりも明らかである。

 馬鹿念を押しておくが、私は民間企業が完璧だなどと云つてゐるのではない。凡そ人間の行爲に完璧などあり得ず、必ず缺陷が伴ふ。問題はその缺陷を如何に小さくするかなのである。惡質な民間企業はあるだらうが、競争相手の自由な參入が認められてゐれば、利用者にそつぽを向かれていづれ淘汰される(役所は惡質でも淘汰されない)。「公」が「むちやくちや」ならば、それよりも多少(或いは遙かに)増しな「民」に任せるしかない。ところが高村はをかしな事を云ひ出す。

 では、「民」はどうか。郵便制度をはじめ醫療、大學、そして介護など、本來は「公」であるべき性格のものが、改革の名のもとに「公」から放り出され、いまや「民」の顏をしてゐるのだが、この「民」は國民ではなく民間企業である。ここでも本來の「民」すなはち國民はほとんど置き去りである。

 企業は「本來の『民』」である國民とは無關係だと高村は云ひたいらしい。無論、企業は人ではないから國民ではない。しかし云ふまでもなく、企業に資本を出してゐるのは國民だし、企業で働いてゐるのも國民である(高村が「民間企業の元サラリーマンには介護を受ける資格は無い」などと言ひ出さない事を祈る)。

 では高村が考へる「民」とは一體どのやうなものなのか。

 思ふに、福祉とはそもそも無償の善意がなすものである。家庭や地域社會が擔ふにしろ、人のいのちを慈しむのは、ひろく公共の善意をおいてないのであり、そこに營利目的が關はる餘地は基本的にはない。むしろ、この分野での民間企業は、たとへば介護タクシーや入浴サービスのように、地域社會での支へ合ひと「公」の間で、活用されるべきものだと思ふ。そしてもちろん、私たちはやはり、それなりの物理的負擔は引き受けなければならないのである。

  「家庭や地域社會」――。大家族で先祖傳來の土地に住み續けた時代ならいざ知らず、親子が遠隔の土地で暮らす事が當り前になり、轉居や轉勤が日常的となつた現代において、介護へのビジネスの關與を認めず、家庭や地域社會で擔ふなど土臺無理である。殘念ながら、たとへ相手が親や夫、妻であつても、「無償の善意」に基づき、長期間にわたり獨力で、己を殺して奉仕し得る人間は、さう多くはないのである。

 だから「公」に支へて貰ふしかない、と高村は云ひたいのだらう。結局、福祉とは原則「公」の仕事と云ふわけである。米歐のやうな自由主義の傳統を缺く我が國では、高村のやうに考へる知識人は多數派に違ひない。彼らにとつて介護や醫療や教育は、資本主義などと云ふ汚らはしい代物とは無縁であるべき聖職なのである。

 高村は別の箇所で、福祉ビジネスのサーヴィスを享受出來るのは高級老人ホームに入れる金持ちだけだと云ふ意味の事を書いてゐるが、老人ホームであれ介護であれ、需要と供給の法則により、參入する企業が増えれば競爭で料金は安くなるし質は高くなる。介護に求められるサーヴィスはそれこそ一人一人異なるものだから、非效率な役所仕事で滿足に實行できる道理が無い。一方で社保廳の年金問題を攻撃しつつ、他方で介護が「公」の仕事だと主張する高村は、官僚と云ふものの本質を、さらに云へば人間と云ふものの本質を、理解してゐない。官僚とは人間だからである。

 官僚は質の惡い介護サーヴィスを提供しても、ボーナスが減つたり首になつたりする恐れは無い。さう云ふ環境に置かれた人間が眞劍にサーヴィスの向上に取組む可能性はまづ無い。それでも一所懸命やる眞面目な役人は一部にゐるだらう。だがそれを多數に求めるのは無理と云ふものであるし、始末の惡い事に、眞面目であるがゆゑに相手が喜びもしない「サーヴィス」を無理矢理提供して滿足する獨善的な官僚も少なくないのである。

 介護疲れの果てに親や夫、妻を殺めたと云ふ悲慘な事件は後を絶たない。さうした境遇の者(すなはち潛在的には我々の大部分)にとつて介護ビジネスは助けになり得るし、現になりつつあつた。だが今後、高村薫のやうに「公」の介入を求める知識人やメディアの聲援を受けつつ、政治家と官僚は介護ビジネスに對する締附を強める事だらう。そして介護を受ける者やその家族は、いづれ年金問題と同樣の、或いはそれを上囘る犠牲を強いられる事だらう。

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2007年6月13日 (水)

警察も呼べない松原信者

 喜六郎さんより。

 野嵜氏は、「もう何も言はない」と宣言したにも関わらず、説明も何もなく何食わぬ顔で発言を再開ことを非難されると、「法には触れていない」と宣ったのである。/つまり、道徳的怠惰を指摘されたのに法を盾に自己正当化を図ったのである。/普段、「法と道徳の峻別」を何とかのひとつ覚えのように訴えていたのは野嵜氏ら松原信者ではなかったのか?/さらに野嵜氏の盟友である木村貴氏は、盟友の知的怠惰を批判することもなく野嵜氏擁護をする始末である。/「法と道徳の峻別」を唱えて、前田嘉則氏や加地伸行氏や私を居丈高に非難していたのは何処の誰でしたっけ?/自分たちの世間の外に居る人達には偉そうに批判して、身内の人間の知的怠惰は見て見ぬふり。/松原信者は西欧の「先進性」を称揚し、日本の「後進性」を痛罵するくせに、こういう世間べったりな所は実に日本的である。

 時間が無いので詳しくは後日論ずるとして、取敢へず喜六郎さんが何を勘違ひしてゐるか、そのヒントだけ擧げておきます。

 ●ウェブで「騙り」をはじめとする嫌がらせをさんざんやられたのに嫌気が差し、堪りかねて「もう何も言はない」と宣言した後、發言を再開する事は「道徳的怠惰」なのでせうか。例へば、喜六郎さんが好きなワーキングプアの人が職場でさんざん嫌がらせをされて、「もう二度と働かない」と周圍に宣言し、その後、再び働き始める事は「道徳的怠惰」なのでせうか。

 ●「道徳的怠惰」でもない事を「道徳的怠惰」呼ばはりする滅茶苦茶な輩に對し、自らの權利を守る爲に法律を持出す事は許されないのでせうか。例へば、日頃道徳と法の峻別を説くワーキングプアの人が「もう二度と働かない」と宣言して仕舞つたばつかりに、周りの人間から「お前云つたよな、二度と働かないつて云つたよな、それでまた働きますつて云ふのは、お前の常日頃指彈する道徳的怠惰だよな。さうだよな。二度と會社に顏出すなこのボケ!」と因縁をつけられた時に、勞働は憲法や勞働法で認められた權利であると主張する事は、言行不一致の怪しからぬ行爲なのでせうか。

 ●そもそも「法と道徳の峻別」「政治と道徳の峻別」を説く人間は、法的・政治的權利を主張する事自體がをかしいと喜六郎さんはお考へなのでせうか(さうとしか讀めませんが)。すると私や野嵜さんは強盜に遭つても警察を呼ぶ事は許されないと云ふ事ですか。もう一つ云へば、喜六郎さんはひよつとして、「峻別」と「否定」を同じ意味だと思つてゐませんか。

 ●塗炭さんが指摘されてゐるやうに、「法と道徳の峻別」と云ふ表現は誤解を招く恐れがありました。なぜなら、「法」には大きく二つの種類があるからです。すなはち自然法と實定法です。自然法とは「殺すなかれ」「盜むなかれ」に代表されるやうに、法律が出來る前から存在してゐた正不正の基準です。これは道徳に等しいと云へるでせう。實定法とは「自動車が右を走つたら道交法違反」「インサイダー取引は證取法違反」「無斷コピーは著作權法違反」のやうに、單に國會でさう決まつたから從へと云ふ類の法律、つまり行政法や經濟法の大部分です。これは政治に等しいと云へるでせう。従つて、政治と法と道徳との關係について深く考へた事もない喜六郎さんが誤解して譯の分からぬ事を書いて仕舞ふのも無理からぬ話で、これは私の反省材料です。誰でも分るやうな文章を書かないと。

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2007年6月 8日 (金)

みかんさん、宜しく

 「みかん」さんと云ふ人が偉い劍幕で野嵜さんに詰寄つてゐます。

 「もう何も言わない」といっていたのにまたしゃしゃり出て来た理由はなんなのだ。答えろ。

 これに對し野嵜さんが「一度默つたら二度と口を利いてはいけないと云ふ法が何處にあるのですか。典拠を御示し下さい」と仰つたところ、

 法ではない。ただウェブ上で公言したことはいわば読者に対する約束。要するに、野崎は約束なんか守ろうが破ろうが俺の勝手だ、知ったことか、と言っているわけだ。これでよく判ったよ。

 なるほど。みかんさんは、野嵜さんがウェブ上で公言した「読者に対する約束」とやらを破つた事が許せないわけだ。それぢやあ野嵜さんにそのうち試して貰ひたい事があるのですが、「言葉 言葉 言葉」のトップページに「これからは毎日更新する」と書いてみて下さい。一日でも休めば、みかんさんが「約束を破るな!更新しろ!」と矢のやうに催促して呉れる事でせう。我々讀者は大いに助かります。みかんさん、どうぞ宜しく。

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2007年6月 7日 (木)

をかしなをかしなニート批判

 「いちご」さんと云ふ人が、誠に勇ましいニート批判を書いてゐます。經濟學的な啓蒙に格好の素材なので、少しく詳しく論評しませう。

 生活保護受給世帯よりも低収入の「ワーキング・プア」が急増している。それらの人たちが国の世話にならずに、貧しいながらも働いているのは、ひとえに彼らの人間としてのプライドの故だろう。

 人間は何の爲に働くのでせうか。「プライド」などと云ふ腹の足しにならないものの爲よりも、より多くの收入を得て生活水準を高める爲でせう。ワーキング・プア諸氏が現在貧しくとも働いてゐるのは、さうする事によつて將來の收入を「生活保護受給世帯」以上に高め得ると判斷してゐるからでせう。御承知のやうに、仕事と云ふものは「兔に角やつてみる」事でしかスキルを高められないし、能力を認めて貰ふ事も出來ません。例へば、無名のロックバンドは、極端な話、ノーギャラでも良いから兔に角舞臺に立たない限り、聽衆に認知して貰ふ事すら不可能でせう。しかし一旦認めて貰へれば、スターにはなれなくとも、それなりのギャラを手にするチャンスが生れます。要するにワーキング・プア諸氏も、いちごさんや私同樣、普通の人間として自分なりの予測や期待に基づいて就勞と云ふ行爲を選擇してゐるに過ぎず、それを「プライド」などと云ふ言葉を使つて賞揚するのは、無用のおべつかであり、倒錯した「弱者崇拜」であり、まるで動物園のパンダ扱ひするやうな甚だ無禮な態度であるとさへ云へます。

 そういう人たちにこそ、手厚い救済策が施されるべきだ。その乏しい収入からも、容赦なく所得税は徴収されているのである。

 經濟に無知な論者に典型的な主張です。「手厚い救済策」の内容が何であれ、政策として實施する以上、原資は税金以外にあり得ません。覺えておいて貰ひたいのは、政府が民間からより多くの税金を取立てれば、その目的がたとへ貧者救済であらうとも、その徴収先がたとへ貧者以外であらうとも、結局は貧者自身をさらに貧しくすると云ふ事です。なぜなら政府が税金を徴收した分、企業は設備投資や技術開發に充てる資金が少なくなり、個人は消費に囘すお金が足りなくなり、全體として經濟が停滯する事になるからです。經濟全體が停滯すれば、勤勞者の取り分が小さくなり、その中でワーキング・プアの取り分が現在よりもさらに小さくなるのは火を見るよりも明らかでせう。ワーキング・プアから所得税が容赦なく徴收されてゐる事は確かに理不盡ですが、その理不盡をさらなる税金徴收で解決しようと云ふのは全くの見當違ひです。ワーキング・プアを救ひたいと本心から願ふのなら、ワーキング・プアを含むあらゆる人の税負擔を減らす方策を考へるべきなのです。


 その一方で、親のすねをかじりながら、「ワーキング・プア」が支払った税金で整備された社会資本の恩恵を、のうのうと享受するニートどもがいる。

 「ニート憎し」の感情のせゐか、論理展開がますますをかしくなつてゐます。まづ、すねをかじる行爲は、かじられる親とかじる子の合意の上に成立つてゐるのですから、他人がとやかく云ふ筋合ひのものではありません。ニート太郎やニート花子が親のすねをかじつたからと云つて、いちごさんや私の財産が減るわけではないでせう。次に、いちごさんはニートが所得税を納めてゐない事が氣に喰はないやうですが、働いてゐないのだから所得が無いのは當然で、所得が無ければ所得税を納めないのも當然です。どこが問題なのでせうか。ニートは所得税を納めないと云ふ利便と引換に、自由になる金が少ないと云ふ不便も甘受してゐるのです。もしもニートの經濟的境遇(利便と不便の差引)がそれほど素晴らしいものならば、そこそこの收入のある親を持つ日本人全員がとうの昔にニートに“轉職”してゐる筈ですが、さうなつてゐないのは、大半の人がニートの經濟的境遇を羨ましいと考へてゐない證左でせう。それから、「社会資本」(多分道路や橋やダムの事でせう)の整備に使はれた税金のうち、ワーキング・プアが納めた部分は恐らく微々たるものであつて、大部分は金持ちや中産階級が納めたものでせう。だとすれば、いちごさんが賞揚するワーキング・プア諸氏も、ニートほどではないにせよ、金持ちや中産階級の「税金で整備された社会資本の恩恵を、のうのうと享受」してゐる不逞の輩の一派と云ふ事になつて仕舞ひます。やはりいちごさんはワーキング・プアの事が本當は嫌ひなのでせう。

 奴らは言う。「俺は秋葉原で美少女アニメのキャラクターグッズをたくさん買って、その分消費税を支払っているんだ! 所得税だなんだとガタガタ抜かすな!」と。しかし、根本的に間違ってるよな。

 どこが「根本的に間違ってる」のでせうか。所得税も消費税も同じ税金です。賣つた商品が高級外車だらうがパソコンだらうがポルノ雜誌だらうが、その稼ぎから拂ふ所得税はすべて貴重な血税であるのと同樣、買つた品物が美少女アニメのキャラクターグッズだらうが有機野菜だらうが哲學書だらうが、拂ふ消費税はすべて血税です。

 そんな連中が一知半解の政治論議をネットで展開しても、説得力なんてまるでない。

 一知半解の經濟論議をネットで展開する手合ひは、ニートであらうがなからうが、困つたものです。

 日本国憲法で定められた「勤労の義務」も満足に果たせない連中が、現行憲法無効論などを主張するのだから笑止千万だ。

 いちごさんこそ、日本國憲法で定められた「言論の自由」について何も分つてゐないやうです。
 


 昔福田恆存が「弱者天国」という論文を書いていたはずだが、今の日本は「無職天国」「ニート天国」だろう。次の参院選では、これらの倒錯した労働環境の改善を目指す政党の躍進を望む。ニートは断じて、現代社会の犠牲者や被害者などではない。彼らを甘やかして遊ばせているその親たちの税金や保険料を値上げするなど、懲罰的な政策をぜひ実現に移してほしい。

 參院選ねえ……そもそも參議院て必要なんでせうか。いちごさんは餘程税金や政治や懲罰が好きなやうですね。私もニートが政治家や役人や一部の學者の出世の道具になりつつある現状を憂いてゐますが、それに對する處方箋はいちごさんと全く異なります。ニートを無理矢理働かせようとする政策など税金の無駄遣ひ。親の税金や保険料を上げれば經濟全體が停滯するばかり。働きたくない人は放つておけば宜しい。その代はり、税金による生活費補助などは一切やらない。そのうへで彼らがささやかな(親の收入によつては結構な額の)小遣ひで秋葉原に買物に出掛けて行つたとして、何を咎める必要があるでせうか。他人の世話を燒くのは止めて、自分の頭の蠅を追へ、と云つておきませう。

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2007年6月 3日 (日)

小西甚一氏死去

 時事ドットコムより。

 小西 甚一氏(こにし・じんいち=筑波大名誉教授、俳人)26日午前0時10分、肺炎のため東京都西東京市の病院で死去、91歳。三重県伊勢市出身。葬儀は親族のみで済ませた。喪主は妻晃子(あきこ)さん。/専攻は日本中世文学、比較文学。和歌や連歌、俳諧をはじめ、物語、能楽、漢詩文など幅広く研究した。主な著作に大佛次郎賞を受けた「日本文藝史」(全5巻)など。99年、文化功労者に選ばれた。

 以前、このサイトで小西氏の著作について書いた事がある。御冥福をお祈り致します。

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國家に子供を託せるか

 教育と國家・社會の關係について的確な指摘。

 戦前の日本では、国家のために死ぬことが賛美され、いいことだとさえ教えられていました。それが戦争に負け、連合国軍の占領下に置かれると、国民はみんな平等という考え方に変わった。[略]国家や社会の役に立つ人間をつくるのが教育の一側面だとすれば、もし価値観や時代の要請が正反対に変わると、当然、国や社会の目的も正反対のものになります。[略]つまり、教育の目的というのは、国や社会の変化によってコロコロ変わるのです。制度としての教育や価値観などは、国家や社会の都合で変わる。あやふやで不確かなものです。極端なことを言えば、とても信用できるものではありませんし、大切な子どもを託せるものでもない。(『日本の子どもを幸福にする23の提言』 94-95頁、改行省略)

 筆者は青色發光ダイオードの發明で知られる、カリフォルニア大學サンタバーバラ校教授の中村修二氏。古巣の日亞化學工業との特許を巡る訴訟に絡み、金の亡者のやうなイメージが流布された中村氏だが、それが全くの誤解である事は、中村氏自身の著作や小川雅照『父一代の日亞化學』を讀めば分かる。

 年金の運用管理を政府に任せきりにするとどうなるか、最近の報道が如實に示してゐる。それならなぜ、教育を政府に任せるのか。教育は個人にとつて年金と同等か、それ以上に重要な仕事の筈である。

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憲法九條を殘す道

 先日、太田光・中沢新一『憲法九条を世界遺産に』をこき下したが、私は九條を殘す事に必ずしも反對しない。但し條件がある。政府による軍備や戰爭を禁ずる代りに、個人による武裝や武器使用を認める事である。

 政府が個人に成り代はつて防衞の權利を行使する事を認めないのであれば、個人にその權利を直接保持させなければ筋が通らない。九條は「國權の發動たる戰爭[中略]は、永久にこれを放棄する」と述べてゐるだけで、「人權の發動たる自衞」の放棄を求めてはゐない。いや、生命身體の自衞こそは最も基本的な人權であるから、憲法と雖もその放棄を命ずる事は出來ない。要するに、憲法九條を殘したままで自衞の權利を政府から個人に移す事は理窟の上では可能だし、寧ろその方が九條の“理念”に近いと云ひたいのである。

 勿論、權利の保持と行使は別物であるから、中沢新一のやうな平和主義者は權利を行使しなくても構はない。丸腰のまま慫慂として自らの信念を貫いたならば、皮肉でも何でもなく、私は心から尊敬する事だらう。一方、太田光は九條擁護を主張しつつも、もし自分の家族が殺されたら殺した敵兵と敵國の指導者の二人を必ず殺すと述べてゐる。丸腰では無理だが、もし武裝の權利が個人に移管されてゐれば、實現可能性は高まるだらう。

 個人と云つても、一人よりも複數で集まつた方が自衞には好都合だから、武裝した自警團のやうなものがあちこちに出來るかも知れない。いやいや、素人が武裝するよりはプロに任せた方が良いと云ふ事になるかも知れない。防衞權が個人に移管された日本で自衞隊は解散してゐるが、優秀な元自衞官たちの作つた「防衞NPO」や「防衞會社」は引張りだこになる事だらう。事實上の自衞隊民營化である。

 國防が民營可能か否かは、リバタリアンと呼ばれる自由絶對主義者の間でさへ議論が分れてゐるから、ここで輕々に結論を出すのは控へよう。しかし自衞權移管論は、自衞權を政府にも個人にも認めない丸腰主義に比べれば遙かに人間の本性に即してゐるし、論理的整合性を有してもゐるのである。

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2007年6月 2日 (土)

木村は僞「松原信者」?

 どつちなんでせう。

>松原信者の巨魁、木村貴さん

>木村さんの言う「政治と○○の峻別」というのは、単なる規制緩和という意味でしかない。それを松原正風に言い換えることによって、持論が松原思想にさも忠実であるかのように装ってるだけである。

 私は「松原信者の巨魁」なのでせうか、それとも「松原思想にさも忠実であるかのように装ってるだけ」の新自由主義者なのでせうか。頭の良過ぎる人の議論にはついて行けません。苦笑。

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