六月二十日附中日新聞夕刊「社會時評」で、作家の高村薫が「『公』の姿、『民』の顏」と題する混亂した文章を書いてゐる。
たとへば、私たちが營々と納め續けてきた國民年金や厚生年金の掛け金が、社會保險廳のコンピューターにきちんと記録されてをらず、宙に浮いてゐる件數が五千萬、六千萬にのぼるといふだけで、そんな役所はもはや信用に値しないし、そんなむちやくちやな行政を放置してきた政治も信任に値しない[略]。
高村はこの箇所の直前に「もうそろそろ見限るべきは見限り、この國のていたらくにノーを突きつけるときかもしれない、とも思ふ」と書いてゐるのだが、現在の自公聯立政權が「ノー」を突附けられ、例へば民主黨が取つて代はつたとしても、「むちやくちやな」役所や行政が改善する見込みなど無い。社會保險廳に限らず、役所とは政權の別にかかはらず、本來非效率で無責任な存在だからである。民間に任せるべき業務を役所の手から奪はない限り、同樣の問題は何度でも起きる。
また、生活に直結した不信では、介護保險制度の現状も例外ではない。折しも大手の訪問介護サービス會社が介護報酬の不正請求で處分されたが、そもそも營利の追求を目的とする民間企業の參入は、福祉の本質と相容れないのではないか。
民間企業が福祉と相容れないと云ふのは事實に反する。世間には介護同樣、人間の生命に關はる仕事でも、民間が立派に擔つてゐる例は多數存在する。例へば人間は毒物を喰ふと死ぬ恐れがあるが、食品は民間の食品メーカーや商社によつて供給されてゐる。大病をして手術をしないと命にかかはるが、醫療機器は專門のメーカーによつて製造されてゐる。介護だけを特別扱ひして民間企業を排除する理由は無い。事實、コムスン問題に關する報道を見る限り、同社のサーヴィスの利用者らは口々に「ヘルパーが來なくなると困る」と不安を訴へてゐた。介護ビジネスに何も良いところが無いのなら、そのやうな發言は出ない筈である。
そもそも高村は同じ文章の中で、年金記録に關する社保廳の「むちやくちや」を糺彈したばかりではないか。年金は介護保険同樣、福祉制度の一種である。民間の保險會社でも保險金の未拂ひ問題などは起きてゐるが、さすがに記録漏れが「五千萬、六千萬にのぼる」と云ふ篦棒な不始末をしでかしたところは無い。高村の云ふ「むちやくちや」な行政に介護を任せ切りにすれば、その結果は必ずや「むちやくちや」となる筈で、介護報酬の不正請求どころで濟まなくなるのは火を見るよりも明らかである。
馬鹿念を押しておくが、私は民間企業が完璧だなどと云つてゐるのではない。凡そ人間の行爲に完璧などあり得ず、必ず缺陷が伴ふ。問題はその缺陷を如何に小さくするかなのである。惡質な民間企業はあるだらうが、競争相手の自由な參入が認められてゐれば、利用者にそつぽを向かれていづれ淘汰される(役所は惡質でも淘汰されない)。「公」が「むちやくちや」ならば、それよりも多少(或いは遙かに)増しな「民」に任せるしかない。ところが高村はをかしな事を云ひ出す。
では、「民」はどうか。郵便制度をはじめ醫療、大學、そして介護など、本來は「公」であるべき性格のものが、改革の名のもとに「公」から放り出され、いまや「民」の顏をしてゐるのだが、この「民」は國民ではなく民間企業である。ここでも本來の「民」すなはち國民はほとんど置き去りである。
企業は「本來の『民』」である國民とは無關係だと高村は云ひたいらしい。無論、企業は人ではないから國民ではない。しかし云ふまでもなく、企業に資本を出してゐるのは國民だし、企業で働いてゐるのも國民である(高村が「民間企業の元サラリーマンには介護を受ける資格は無い」などと言ひ出さない事を祈る)。
では高村が考へる「民」とは一體どのやうなものなのか。
思ふに、福祉とはそもそも無償の善意がなすものである。家庭や地域社會が擔ふにしろ、人のいのちを慈しむのは、ひろく公共の善意をおいてないのであり、そこに營利目的が關はる餘地は基本的にはない。むしろ、この分野での民間企業は、たとへば介護タクシーや入浴サービスのように、地域社會での支へ合ひと「公」の間で、活用されるべきものだと思ふ。そしてもちろん、私たちはやはり、それなりの物理的負擔は引き受けなければならないのである。
「家庭や地域社會」――。大家族で先祖傳來の土地に住み續けた時代ならいざ知らず、親子が遠隔の土地で暮らす事が當り前になり、轉居や轉勤が日常的となつた現代において、介護へのビジネスの關與を認めず、家庭や地域社會で擔ふなど土臺無理である。殘念ながら、たとへ相手が親や夫、妻であつても、「無償の善意」に基づき、長期間にわたり獨力で、己を殺して奉仕し得る人間は、さう多くはないのである。
だから「公」に支へて貰ふしかない、と高村は云ひたいのだらう。結局、福祉とは原則「公」の仕事と云ふわけである。米歐のやうな自由主義の傳統を缺く我が國では、高村のやうに考へる知識人は多數派に違ひない。彼らにとつて介護や醫療や教育は、資本主義などと云ふ汚らはしい代物とは無縁であるべき聖職なのである。
高村は別の箇所で、福祉ビジネスのサーヴィスを享受出來るのは高級老人ホームに入れる金持ちだけだと云ふ意味の事を書いてゐるが、老人ホームであれ介護であれ、需要と供給の法則により、參入する企業が増えれば競爭で料金は安くなるし質は高くなる。介護に求められるサーヴィスはそれこそ一人一人異なるものだから、非效率な役所仕事で滿足に實行できる道理が無い。一方で社保廳の年金問題を攻撃しつつ、他方で介護が「公」の仕事だと主張する高村は、官僚と云ふものの本質を、さらに云へば人間と云ふものの本質を、理解してゐない。官僚とは人間だからである。
官僚は質の惡い介護サーヴィスを提供しても、ボーナスが減つたり首になつたりする恐れは無い。さう云ふ環境に置かれた人間が眞劍にサーヴィスの向上に取組む可能性はまづ無い。それでも一所懸命やる眞面目な役人は一部にゐるだらう。だがそれを多數に求めるのは無理と云ふものであるし、始末の惡い事に、眞面目であるがゆゑに相手が喜びもしない「サーヴィス」を無理矢理提供して滿足する獨善的な官僚も少なくないのである。
介護疲れの果てに親や夫、妻を殺めたと云ふ悲慘な事件は後を絶たない。さうした境遇の者(すなはち潛在的には我々の大部分)にとつて介護ビジネスは助けになり得るし、現になりつつあつた。だが今後、高村薫のやうに「公」の介入を求める知識人やメディアの聲援を受けつつ、政治家と官僚は介護ビジネスに對する締附を強める事だらう。そして介護を受ける者やその家族は、いづれ年金問題と同樣の、或いはそれを上囘る犠牲を強いられる事だらう。
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