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2007年5月17日 (木)

經濟の牙――西尾幹二氏の珍論

 関岡英之他編 『アメリカの日本改造計画』(イースト・プレス)と云ふ國粹主義的な本がよく賣れてゐるやうだ。掲載されてゐる論文や對談すべてを斬りたくなるが、とりわけ滅茶苦茶な西尾幹二「保守論壇を叱る――経済と政治は一体である」について書いておく。

 日本の経済には牙がない。私が言いたかったのはこのことだ。日本の経済が政治の代行をしていたというのは嘘である。経済が牙を持たない限り、すなわち経済が国家の権力欲や利己心を表現する政治の表現にならない限り、経済が自分を維持することさえ難しくなる隘路に、次第に追い込まれるだろう。

 經濟に牙なんぞあるわけがない。經濟行爲とは、少なくも日本におけるやうな市場經濟では、人間同士による自發的交換を意味する。例へば私がコンビニで二百圓拂つて缶ビールを買ふ。この時、私は二百圓を手放して缶ビールを手に入れ、コンビニの店主は缶ビールを手放して二百圓を手に入れる。この交換は政府や他人から強制されたものではなく、自發的である。そして互ひに自分の欲しい物を手に入れるのだから、雙方に利益をもたらす。交換は平和的である。もし相手を牙ならぬピストルで脅して缶ビールを手に入れたら、それは經濟行爲ではなく、犯罪である。

 それなら經濟行爲を通じて莫大な金錢的利益を蓄積すれば、牙になるのだらうか。否。世界一の大富豪たるマイクロソフトのビル・ゲイツ會長も、暴力による脅しを用ゐる事は勿論、客の頬を札ビラで叩いてソフトを買はせる事も出來ない。もしもビル・ゲイツが私に分厚い封筒を渡しつつ「これでVISTAに乘替へろ」と凄むやうな事があれば、喜んで從はうと思ふが、それでは商賣になるまい。私とマイクロソフトの雙方が互ひの利益を期待して自發的に合意しない限り、製品の賣買と云ふ經濟行爲は成立しない。それゆゑ西尾氏の次の記述も意味をなさない。

 日米間の関係が特殊になったのは、まずは貿易量のせいである。戦後の日本にアメリカが与えてくれたものは大きく、その寛大さが日本の対米関係の性格、片務性、依存性を決定的にした。しかるにアメリカの経済と政治は一体であって、政治だけでなく経済にも牙があるのだが、この当たり前なことが、牙に守られている内側にあった冷戦下の日本人には次第に意識されなくなった。

 たしかに戰後、日本はアメリカに大量の纖維や鐵鋼や自動車を賣つた。だがそれは斷じて「片務性」を意味しない。日本企業が大量の製品を賣る事が出來たのは、それらをアメリカ人が買ひたいと思つたからである。アメリカの競合企業や政府は日本の「集中豪雨的」な輸出を非難したが、アメリカの消費者は日本製品を集中豪雨的に買ひたがつたのである。「賣買」と云ふ言葉が端的に示すやうに、經濟行爲は常に雙務的である。「依存的」と云ふ批判もをかしい。依存と云ふ言葉を使ふなら「相互依存的」と云ふべきである。 

 ソ連との戦いにケリをつけた後のアメリカは、今度は牙を本気で日本に向け始めた。一九八九~九〇年の日米構造協議が「第二の占領政策」といわれ、二〇〇五年の郵政民営化問題にまでまっすぐにつながっているのは、アメリカ経済の牙が戦略的に日本経済を標的として見定めた一大契機となっているからである。アメリカは対日戦略に本腰を入れ始めた。

 冷戰と商賣の話を同列に論ずる論者は西尾氏に限らないが、これこそ平和惚けの最たるものである。アメリカが本氣で日本に牙を向けようと決めたのなら、テーブルを挟んでちまちま協議なんぞせず、キューバ危機の折にソ聯にやりかけたやうに、核ミサイルの一發もぶち込めば濟む話ではないか。將來有望な客を殺す馬鹿な商賣人がどこにゐるだらうか。

 小売店をやめて大店舖にせよ、などという流通改革から、社長の小遣いの出し入れまで問題にした人間の暮らし方への干渉は、日本再占領の趣きがあつた。系列における株の持ち合い、談合、行政指導、労使協調、年功序列、終身雇用といった無言の了解のもとに行われる日本的な「和」の経営法を、アメリカは一挙に破壊しようとした。

 同じ日本人である納税者の金を喰ひ物にする談合のどこに「和」の精神があるのか理解出來ないが、それは兔も角、アメリカが日本の商慣習に苦情を言つたのは事實だとしても、日本もアメリカの貯蓄率が低いだの財政赤字を減らせだのと文句をつけたではないか。関岡英之氏や小林よしのり氏が大騒ぎしてゐる「年次改革要望書」にしても、アメリカが日本に要望してゐるだけでなく、日本からもアメリカに要望してゐる。お互ひ樣ではないか。もしアメリカの要望が通りやすく、日本の要望が通らないとすれば、それは正しく彼我の政治力の違ひを示してゐるに過ぎない。日本は政治の領域において自らの「分際」を辨へなければならない。「經濟力に見合つた政治力を持つべきである」などと云ふ主張は完全に見當外れである。經濟「力」とは他人に對する「力」ではないからだ。 

 人間は經濟の領域にゐる限り、「牙」、すなはち他人への強制力を持つ事は出來ない。繰返しになるが、經濟行爲は自發的だからである。では「牙」はどこにあるのか。政治の領域にある。「政治經濟」などと云ふ言葉があるので、政治と經濟は同質だと誤解する人が少なくないが、兩者はある一點において根本的に異なる。經濟に權力はないが、政治にはある。ビル・ゲイツが稼いだ金のかなりの部分をアメリカ政府は合法的に奪ふ事が出來る。税金である。納税を拒否すればゲイツ氏でも監獄にぶち込まれる。政治が牙を剥き出す瞬間である。但し對内的な發動であるが。

 政府が國民の富を税金として徴收し、その金で例へば軍備を増強すれば、對外的な「牙」になる。だから經濟的に豐かな國ほど大きな「牙」を持ちやすいとは云へる。しかしそれは經濟の「牙」ではない。政治の「牙」である。經濟は國家に屬さない。西尾氏は政治と經濟の區別を理解してゐない。すなはち經濟を理解してゐない。それでゐて經濟について自信たつぷりに語る。アメリカによる改造計劃なんぞより、このやうな言論界の現状こそ憂ふべきである。

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コメント

西尾先生の文章を殊更採り上げなくてもいいんじゃないかな?
フォースターがエリオットを評して言ったように「エリオット氏は、怠け者、愚か者、雑駁などを相手にしない。(中略)エリオット氏はわれわれをもとめようとしない。われわれが参加すれば不毛を広げると思うのである。(中略)彼は何か恐ろしいものを見てしまったから難解なのであって、それを口に出すのを恐れたのである」『フォースター評論集』

かつて記憶が確かならば西尾氏はマキャベリの思想について「人間の半面の真理である」と言った。

マキャベリは「半面」ではなく「全面の真理」である。

また、どういう文脈か忘れたがフォークナーは「ヘイコラするより傲慢なほうがいい」と断言していた。

投稿: 森英樹(本物) | 2007年5月18日 (金) 20時38分

 エリオットほど人間が出來てゐないものですから。

投稿: 木村貴 | 2007年5月19日 (土) 00時14分

略字新仮名で失礼いたします。

経済と政治とを木村さんのおっしゃるように峻別するのは難しいのではないでしょうか。たとえばウォール街を本拠地とする金融業界は強力なロビー活動を通し、規制緩和や企業に対する訴訟の制限などを米財務省にはたらきかけていると聞いております。クリントン政権において財相をつとめたルービン氏は、GSの会長という経歴をもっており、それは彼の政策提言に色濃く反映されていました。

米政府からの年次改革要望書にしましても、米国企業が日本市場においてビジネスがしやすい環境ならしめることが目的、とはっきり書いてあります。その計画自体の是非はべつにしても、政治と経済が密接に結びついている証左といえるとおもいます。

投稿: ヨースト | 2007年5月21日 (月) 03時44分

 たしかに企業人の中には自由競争で正々堂々と勝負するのでなく、政治と結託する事によつて自らの立場を有利にしようとする不屆きな連中もゐます。その意味で、政治と經濟が密接に絡む場合がある、いや非常に多い事は否定しません。しかしそれは飽くまでも例外であつて、經濟活動の原則は政治から獨立した自由競争です。全ての企業が自由競争から離脱し政治に寄生するやうな國では、經濟は成立しません。富を創造する主體が不在だからです。寧ろ政治と結託した企業が長期的な成功を収める事は皆無と云つてよいでせう。

 政治と企業の結託を指して「政治と経済が密接に結びついている」と表現する事は間違つてゐません。しかしそのやうな企業の行爲はもはや經濟活動とは呼べません。政治活動です。密接に結びついてゐるからこそ政治と經濟と云ふ概念を峻別する事が必要なのであつて、西尾氏のやうに一緒くたに論じては混亂するばかりです。

 以下は蛇足ですが、アメリカの金融業界が米政府に「規制緩和」を働きかけてゐるとすれば、それは寧ろ政治と經濟の分離を示してゐるのではないでせうか。規制緩和とは、經濟活動を政治の介入から自由にする事ですから。ルービン氏に限らず、歴代のアメリカ政府の要人には企業出身者が多數ゐますが、その政策提言が出身企業・業界だけを有利に取扱ふやうな不平等なものであるかどうかがポイントでせう。年次改革要望書にしても、その要望の内容がフェアかどうか、日本の消費者にプラスになるかどうかで判斷すべきです。日本企業があれだけアメリカで稼いでゐるのですから、アメリカ企業が政府の壓力を使つてでも日本市場に入れろと云つて來るのも無理はないとは思ひますが。

投稿: 木村貴 | 2007年5月21日 (月) 05時25分

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