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2007年5月24日 (木)

自由の哲學 讀書案内

 木村は新自由主義者であるなどと一部で怪しからぬ事を云ふ人がゐるやうです。

 人聞きの惡い。違ひます。私は自由主義者です。

 私の好きな自由主義者を擧げませう。ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスフリードリヒ・ハイエクヘンリー・ハズリットマリー・ロスバードウォルター・ブロックアイン・ランドミルトン・フリードマンデヴィッド・フリードマンスティーヴン・ランズバーグラッセル・ロバーツポール・ヘイントマス・ソーウェルなど。え? そいつらこそ新自由主義者だつて? ああさう。

 ところで、彼らには共通點があります。彼らの本を讀みもせず、朝日新聞とか世界とか文藝春秋とか正論とかゴーマニズム宣言とかを片手に、「新自由主義は怪しからん」などと云つてゐる連中に比べ、話にならないほど頭が良い事です。上に擧げた中にはノーベル賞を貰つた人もゐますしね、約二名。頭の良い人の話には一度じつくり耳を傾けてみては如何でせう。推薦圖書は人名をクリック。

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2007年5月17日 (木)

經濟の牙――西尾幹二氏の珍論

 関岡英之他編 『アメリカの日本改造計画』(イースト・プレス)と云ふ國粹主義的な本がよく賣れてゐるやうだ。掲載されてゐる論文や對談すべてを斬りたくなるが、とりわけ滅茶苦茶な西尾幹二「保守論壇を叱る――経済と政治は一体である」について書いておく。

 日本の経済には牙がない。私が言いたかったのはこのことだ。日本の経済が政治の代行をしていたというのは嘘である。経済が牙を持たない限り、すなわち経済が国家の権力欲や利己心を表現する政治の表現にならない限り、経済が自分を維持することさえ難しくなる隘路に、次第に追い込まれるだろう。

 經濟に牙なんぞあるわけがない。經濟行爲とは、少なくも日本におけるやうな市場經濟では、人間同士による自發的交換を意味する。例へば私がコンビニで二百圓拂つて缶ビールを買ふ。この時、私は二百圓を手放して缶ビールを手に入れ、コンビニの店主は缶ビールを手放して二百圓を手に入れる。この交換は政府や他人から強制されたものではなく、自發的である。そして互ひに自分の欲しい物を手に入れるのだから、雙方に利益をもたらす。交換は平和的である。もし相手を牙ならぬピストルで脅して缶ビールを手に入れたら、それは經濟行爲ではなく、犯罪である。

 それなら經濟行爲を通じて莫大な金錢的利益を蓄積すれば、牙になるのだらうか。否。世界一の大富豪たるマイクロソフトのビル・ゲイツ會長も、暴力による脅しを用ゐる事は勿論、客の頬を札ビラで叩いてソフトを買はせる事も出來ない。もしもビル・ゲイツが私に分厚い封筒を渡しつつ「これでVISTAに乘替へろ」と凄むやうな事があれば、喜んで從はうと思ふが、それでは商賣になるまい。私とマイクロソフトの雙方が互ひの利益を期待して自發的に合意しない限り、製品の賣買と云ふ經濟行爲は成立しない。それゆゑ西尾氏の次の記述も意味をなさない。

 日米間の関係が特殊になったのは、まずは貿易量のせいである。戦後の日本にアメリカが与えてくれたものは大きく、その寛大さが日本の対米関係の性格、片務性、依存性を決定的にした。しかるにアメリカの経済と政治は一体であって、政治だけでなく経済にも牙があるのだが、この当たり前なことが、牙に守られている内側にあった冷戦下の日本人には次第に意識されなくなった。

 たしかに戰後、日本はアメリカに大量の纖維や鐵鋼や自動車を賣つた。だがそれは斷じて「片務性」を意味しない。日本企業が大量の製品を賣る事が出來たのは、それらをアメリカ人が買ひたいと思つたからである。アメリカの競合企業や政府は日本の「集中豪雨的」な輸出を非難したが、アメリカの消費者は日本製品を集中豪雨的に買ひたがつたのである。「賣買」と云ふ言葉が端的に示すやうに、經濟行爲は常に雙務的である。「依存的」と云ふ批判もをかしい。依存と云ふ言葉を使ふなら「相互依存的」と云ふべきである。 

 ソ連との戦いにケリをつけた後のアメリカは、今度は牙を本気で日本に向け始めた。一九八九~九〇年の日米構造協議が「第二の占領政策」といわれ、二〇〇五年の郵政民営化問題にまでまっすぐにつながっているのは、アメリカ経済の牙が戦略的に日本経済を標的として見定めた一大契機となっているからである。アメリカは対日戦略に本腰を入れ始めた。

 冷戰と商賣の話を同列に論ずる論者は西尾氏に限らないが、これこそ平和惚けの最たるものである。アメリカが本氣で日本に牙を向けようと決めたのなら、テーブルを挟んでちまちま協議なんぞせず、キューバ危機の折にソ聯にやりかけたやうに、核ミサイルの一發もぶち込めば濟む話ではないか。將來有望な客を殺す馬鹿な商賣人がどこにゐるだらうか。

 小売店をやめて大店舖にせよ、などという流通改革から、社長の小遣いの出し入れまで問題にした人間の暮らし方への干渉は、日本再占領の趣きがあつた。系列における株の持ち合い、談合、行政指導、労使協調、年功序列、終身雇用といった無言の了解のもとに行われる日本的な「和」の経営法を、アメリカは一挙に破壊しようとした。

 同じ日本人である納税者の金を喰ひ物にする談合のどこに「和」の精神があるのか理解出來ないが、それは兔も角、アメリカが日本の商慣習に苦情を言つたのは事實だとしても、日本もアメリカの貯蓄率が低いだの財政赤字を減らせだのと文句をつけたではないか。関岡英之氏や小林よしのり氏が大騒ぎしてゐる「年次改革要望書」にしても、アメリカが日本に要望してゐるだけでなく、日本からもアメリカに要望してゐる。お互ひ樣ではないか。もしアメリカの要望が通りやすく、日本の要望が通らないとすれば、それは正しく彼我の政治力の違ひを示してゐるに過ぎない。日本は政治の領域において自らの「分際」を辨へなければならない。「經濟力に見合つた政治力を持つべきである」などと云ふ主張は完全に見當外れである。經濟「力」とは他人に對する「力」ではないからだ。 

 人間は經濟の領域にゐる限り、「牙」、すなはち他人への強制力を持つ事は出來ない。繰返しになるが、經濟行爲は自發的だからである。では「牙」はどこにあるのか。政治の領域にある。「政治經濟」などと云ふ言葉があるので、政治と經濟は同質だと誤解する人が少なくないが、兩者はある一點において根本的に異なる。經濟に權力はないが、政治にはある。ビル・ゲイツが稼いだ金のかなりの部分をアメリカ政府は合法的に奪ふ事が出來る。税金である。納税を拒否すればゲイツ氏でも監獄にぶち込まれる。政治が牙を剥き出す瞬間である。但し對内的な發動であるが。

 政府が國民の富を税金として徴收し、その金で例へば軍備を増強すれば、對外的な「牙」になる。だから經濟的に豐かな國ほど大きな「牙」を持ちやすいとは云へる。しかしそれは經濟の「牙」ではない。政治の「牙」である。經濟は國家に屬さない。西尾氏は政治と經濟の區別を理解してゐない。すなはち經濟を理解してゐない。それでゐて經濟について自信たつぷりに語る。アメリカによる改造計劃なんぞより、このやうな言論界の現状こそ憂ふべきである。

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2007年5月 9日 (水)

官立遊園地の悲劇

 大阪萬博公園のジェットコースターで死亡事故。遊園地「エキスポランド」の運營主體は民間企業の泉陽興業だが、所有者は財務省管轄の獨立行政法人、日本萬國博覽會記念機構である。ネット上の情報によれば泉陽興業と云ふ會社自體、政治的な色彩を帶びてゐるやうで、それはそれで問題だが、それ以上に、そのやうな會社に運營を「丸投げ」してゐた行政の責任を問ふ聲が少ないのは不可思議である。

エキスポランドを運営する「泉陽興業」とは (大阪民国NEWS

 民間の遊園地でも事故は起きる。但しそれが官立の遊園地と決定的に違ふ點は、深刻な事故を起こせば客が來なくなり、下手をすれば倒産すると云ふ事である。官立企業は絶對に倒産しない。そのやうな樂な環境に置かれた經營者や社員が眞劍に利用客の安全を考へる筈が無い。今囘の事故を受け、政府は遊園地への規制を嚴しくするらしいが、無意味であり税金の無駄遣ひである。官立企業が官立である限り、類似の過ちは必ず繰返される。過ちの囘避を最優先する動機がないからだ。民間企業はそのやうな規制がなくとも、長期的な費用と收益を天秤に掛けて自主的に安全対策を実施する。

 民主主義國家に於いては政治家の票になる法令しか作られないから、票にならない分野のルールは放置され放しになる。今囘の事故の遠因も、遊園地にメリーゴーラウンドくらゐしかなかつた時代の古い安全基準が、「絶叫マシン」全盛の現在に到るまで見直されないままだつた事にある。こんな事は民間企業ではあり得ない。政府は全ての官立遊園地を公正な手續きで民間に売却し、遊園地事業から手を引くべきである。政府に個人の安全の面倒を全てみて貰ふと云ふ發想から、日本人は好い加減に拔出さなければならない。

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2007年5月 5日 (土)

檢察の暴走

 平成山人さんのブログで紹介されてゐた魚住昭『官僚とメディア』(角川ONEテーマ21)を買つて來た。「特搜檢察はいまブレーキの壊れた車のやうに暴走し始めてゐる」と云ふ一文で始まる第六章「檢察の暴走」では、ライブドア・村上ファンド事件を取上げてゐる。魚住氏はかう指彈する。

 一見華やかでも、搜査の中身は疑問だらけだ。これほど無理筋の經濟事件は戰後檢察史にもほとんど例がない。新聞やテレビではあまり報じられないが、「強制搜査に値する犯罪が本當にあつたのか。特搜の權力濫用ではないか」と言ふ法曹界や經濟界の關係者は多い。今や、檢察の公正さに對する信頼は音を立てて崩れつつあると言つてもいい。(130頁)

 搜査の具體的な問題點について、「證券取引法の專門家として知られる大學教授」はかう語る。

 檢察はライブドア側が投資事業組合で先行取得してゐたのを隱してゐたとか、買收時の價格算定が不公正だつたとか言つてますが、投資事業組合で先行取得しておいて、その後で株式交換して傘下に収めるのがいけないといふルールはどこにもありません。買收の價格算定にしても、ついこの間までみづほグループの三行統合のやうに合併比率を互ひのメンツを尊重して一對一對一などとやつてゐたわけでせう。それに、今の東證のTDネットに開示される各社のニュースリリースのうち嚴密な意味で完璧なのがどれだけあるんですかね。あの程度で僞計とか風説の流布と言ふのは無理があるんぢやないでせうか。(135-136頁)

 また、元特搜檢事で桐蔭横濱大學コンプライアンス研究センター長の郷原伸郎教授はかう指摘してゐる。

 特に起訴事實の中心となつた(1)[“自社株食ひ”と呼ばれる會計處理]は、從來の刑事處罰の對象となつてきた粉飾決算事件とは明らかに性格が異なつてゐます。要するに『儲かつたか、儲からなかつたか』『財産が増えたか、減つたか』ではなく、『儲けた金をどう會計處理するか』といふ會計處理上の技術的な問題なのです。しかも、最近のファイナンス理論では、自社株賣却益も本業による利益と本質的な違ひはなく、売り上げとして計上することも必ずしも違法ではないといふ考へ方もあり得ます。こんな會計處理上の微妙な問題について、法律や會計が專門ではない堀江[貴文]被告が違法性を認識してゐたことを立證するのは容易ではないでせう。(138頁)

 魚住氏のこの著作や大鹿靖明『ヒルズ默示録・最終章』(朝日新書)などを讀む限り、ライブドア・村上ファンド事件における檢察の主張には、やはり相當無理があるやうである。根據も無く「妥当な判決だと思う」などと斷言して仕舞ふ人は、マスコミに洗腦されてゐる可能性が大なので御用心。

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2007年5月 1日 (火)

神としての憲法九條

 人間がある信念を奉ずる事は自由である。しかしその信念は飽く迄も個人として貫くべきであり、他人に政治的に強制してはならない。日本國憲法九條に基づく平和主義を道徳的信念、いや宗教的信念として鼓吹する『憲法九条を世界遺産に』(集英社新書)の二人の著者のうち、中沢新一はさうした道理に全く氣附いてゐないか氣附かない振りをしてゐる。太田光は多少氣附いてゐるがそれ以上考へる努力を抛棄してゐる。

 己の個人的信念の爲に他人が死んでもよいと云ふ主張ほど道徳的におぞましいものはない。端的なのは中沢の次の發言である。

 中沢 [略]日本が軍隊を持とうが持つまいが、いやおうなく戦争に巻き込まれていく状態はあると思います。平和憲法護持と言っていた人たちが、その現実をどう受け入れるのか。そのとき、多少どころか、かなりの犠牲が発生するかもしれない。普通では実現できないものを守ろうとしたり、考えたり、そのとおりに生きようとすると、必ず犠牲が伴います。僕は、その犠牲を受け入れたいと思います。覚悟を持って、価値というものを守りたいと思う。(146-147頁)

 「僕は、その犠牲を受け入れたいと思います」と中沢はさも神妙さうに語る。だが中沢自身、「多少どころか、かなりの犠牲が発生するかもしれない」と述べてゐるやうに、その「犠牲」は中沢個人に留まらない。中沢をはじめとする平和主義者が憲法九條の護持に成功し、その結果、彼らが敵國に攻撃されるがままに死んでゆくとしても、それは正しく「覚悟」の上なのだからやむを得ない。しかし爆彈は人間の政治的信條を區別して落ちてはくれない。戰爭になれば、九條護持に反對した日本人やその子供らも殺されてゆくのは必至だが、それについて中沢はどう考へるのか。

 上の引用部分で、中沢は「かなりの犠牲」を「受け入れたい」とはつきり語つてゐて、これは字義通りには「自分の信念の結果、他人が卷添へになつて死んでも仕方ない」と云ふ意味にしか取れない。これではオウム眞理教と同じである。かつて麻原彰晃を賞賛した中沢だけに、これが正しい解釋なのかも知れないが、幾ら何でも非人間的な主張だから、本意は異なると信じたい。だが滿足すべき囘答は、この本のどこにも見當たらない。それどころか中沢は「憲法九条は修道院みたいなもの」(75頁)だとか、「北朝鮮が日本人を拉致した。こんな国家的暴力にどう対処するんだと憲法に問いかけても、憲法は沈黙するばかりです。いつだって神々は沈黙するんですよ」(79頁)だとか、文字通り神がかつた發言を繰返すばかりで、何だか背筋が寒くなる。

 相手方の太田も「日本国憲法の誕生というのは、あの血塗られた時代に人類が行った一つの奇蹟」(56頁)などと、すつかり醉拂つて仕舞つてゐる。冷めた頭の「お笑い芸人」であれば、例へばかう「突込む」べきだつた。「僕達のように憲法九条を守ろうと決意した人間が殺されるのは仕方ないけれど、そうでない人たちにまで『殺される覚悟』を求めるのは酷だし、傲慢ではないでしょうか」。さう云ふ平和主義の根幹にかかはる問ひが皆無の本書は、「稀に見る熱い対論」(カバー見返しの文章)どころか、ぬるいだけの仲良し對談であり、戰爭と平和を考へる上で裨益するところは何もない。

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