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2007年4月19日 (木)

「銃社會」は亂射事件の原因か

 三十二人が殺害されたヴァージニア工科大での銃亂射事件をきつかけに、「銃社會アメリカ」を批判し、銃規制の強化を求める聲が高まつてゐる。しかし銃所有は本當に亂射事件の原因なのだらうか。アメリカのある自由主義的コラムニストは、寧ろ銃規制こそが今囘の悲劇を惹起こしたのだと論ずる。

 二〇〇六年、ヴァージニア州の州立大學の學生と職員に銃の攜行を認める法案が、州議會で否決された。ヴァージニア工科大の代表者は「廢案によつて、保護者、學生、教員、訪問者はキャンパスが安全だと感じるだらう」と述べた。/多分、多くの人が安全だと感じたのだらう。だが今や皆が明白な事實として認識しなければならないのは、犯罪者は法に從はないと云ふ事だ。殺人を禁ずる法に服する氣の無い者は、武器の攜行を禁ずる法の前でたじろいだりしない。銃規制で銃を一掃出來ると云ふ考へはお伽噺に過ぎない。實の所、銃規制は法に從はうとする人から武器を取上げ、犯罪者に對して無防備にして仕舞つてゐる。銃規制は學生を無力にし、殺人者を食ひ止めるには何の役にも立たなかつたのである。(アンソニー・グレゴリー「保護・武裝解除・大虐殺」)

 そもそも自らの安全確保は個人の基本的權利である。その權利を政府が人々から奪ひ、個人による自衞を許さない事を多くの市民は不思議に思はないが、それはをかしな事ではないか。アンソニー・グレゴリーはかう續ける。 

 今日、アメリカ人は政府が自分達を守つてくれると信じてゐる。だがそれは全くの見當違ひだ。一九九九年、コロラド州コロンバイン高校で二人の生徒が十二人のスクールメイトと一人の教師を射殺した時、犧牲者が失血死しそうだと云ふメモを生徒が窓に掲げてゐたにもかかはらず、警察特殊部隊は建物に突入するまでの重要な時間、二の足を踏んでゐた。「9.11」の同時テロでは、ハイジャックに遭つた犧牲者らが勇敢に反撃し、被害の擴大を防いだが、乘取られた四機の乘客乘員は皆武器の攜行を許されてをらず、カッターを持つた數人の狂信者に對して不利に立たされた。ヴァージニア工科大でも英雄的な個人はゐたが、彼らは法など氣に懸けぬ犯罪者に對し不利であつたにもかかはらず、生命を救ふため力を盡くしたのである。

 コロンバイン高校の生徒や教師が規制で銃の攜行を禁じられてゐなかつたら、ハイジャックされた飛行機の乘客乘員が武器を持つてゐたら、そしてヴァージニア工科大の學生や職員に銃があつたなら、少數の無法者に對しもつと有利に立ち向かふ事が出來た。それ以前に、無法者が犯罪行爲そのものを思ひ留まつた可能性もある。グレゴリーは「銃規制は虐殺を無くさない。虐殺を可能にするだけだ」と言ひ切る。正しい指摘だと思ふ。

 アメリカにもコロンバイン事件を題材に映畫を撮つたマイケル・ムーアをはじめ、銃規制を叫ぶ言論人は少なくないが、我が日本では銃批判以外の言論を見た事が無い。ましてや今囘のやうな亂射事件が起きたりすると、忽ちどのメディアも金太郎飴のやうな銃社會批判一色となる。いづれ馬鹿な保守派知識人が「だからアメリカは野蠻國で日本は文明國」などと書いたりするだらう。

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コメント

確かに一般学生が自由に銃を携帯できてゐれば今回のやうな惨事は防げたかも知れませんね。
政治的には国民全員に銃を開放するか、国家権力が銃を独占するかどちらかしかないでせう。
アメリカは今さら後者には出来さうに無いし、突き詰めれば子供の時から銃の使ひ方を教へて、銃とうまくつき合つていく方法を学ぶしかないやうな気がしますね。国同士の核兵器のやうに。
でも、それはそれである種の犯罪は増えさうですね。持つてゐる力は使ひたくなるのが人情ですから。

投稿: 梅澤 | 2007年4月20日 (金) 20時32分

 個人的な自衞の權利を行使出來ないと云ふ理不盡に對する怒りの度合ひが、アメリカ人と我々日本人とでは大きく異なるやうです。私も軟弱な現代日本人ですので、銃で自分や家族を守れと云はれたら正直困りますけれども、筋としては彼ら(アメリカ人の多數を占める銃所持贊成派)の言ひ分は間違つてゐないと思ひます。

 たしかに銃所持を自由にすると惡用される恐れはありますが、それでも丸腰のまま撃ち殺されるよりはずつと増しだと云ふのがあちらの國の多數派の考へ方なのでせう。それは別段奇矯な思考ではないと思ひます。我々の御先祖樣にも、一部とは云へ、大小二本の物騒な兇器を携行してゐた人々がゐた譯ですし。これは彼我の國防意識の違ひにも通ずる話かも知れません。

投稿: 木村貴 | 2007年4月21日 (土) 03時47分

あーネット規制をやつても犯罪者の粘着とか喜六郎とかは法に從はないですからな。しかしでは規制しなければ犯罪者集団は抑へ込めるのかと云ふとそんな事もないでせうな。犯罪者連中は人間が腐つてゐますからな。制度がどうであれ人間が駄目なら全部駄目。

投稿: n | 2007年4月21日 (土) 17時01分

 「粘着」やらネットストーカーやらが滅びる事は未來永劫あり得ないでせうから、ネット規制の議論も簡單に片はつかないでせうね。

 私は、「粘着」その他の規制はやらない方が良いと思ひます。(1)「適度な規制」程度では粘着その他は無くならない(2)すると「過度な規制」をやらざるを得なくなる(3)すると粘着その他は減るかもしれないが副作用が大き過ぎる(正當な批判も粘着とみなされる恐れがある)――と云ふのが理由です。

 業腹ですが、粘着やネットストーカーやネット上での誹謗中傷は道徳的に輕蔑するに留め、法で規制するのは止めておいた方が得策ではないでせうか。

 いや、ネット上に限らず、誹謗中傷の類を政府が法で規制する事自體、無理があります。その意味で現行の刑法はすでに行き過ぎだと云へます。

投稿: 木村貴 | 2007年4月22日 (日) 06時20分

まー大体粘着とかの頭のおよろしい連中は、規制が強化されてもそれを利用して気に入らない人間を潰しにかかるでせうな。自分たちは、粘着専門ブログを立上げて言掛りをつけつづけるとか悪辣なことをやっても、とにかく規制からは完全に免れる。一方で、木村さんとか気に入らない人間が何かを言ったら、異常な解釈で言葉を歪曲して、何とかして規制にひっかかる様にする。犯罪者どもは頭がおよろしいですからな。
しかし、道徳的にどうとか、そんなの意味ないですよ。頭が良くて他人の発言の誤りを毎度毎度ご丁寧に指摘してくれる喜六郎や日出づる國の一無名人みたいに、粘着専門ブログを立上げて全然恥しくない人間も存在するんですから。あれなんか、自分は常識人でまともなつもりですが、粘着して他人のサイトを潰すのを目的にブログを作ったのだから異常人格者なのは火を見るよりも明か。なのにそれがわからない。道徳的も何も、喜六郎はそんなことが根本的に認識できないんです。そこで道徳なんて抑止力として何の意味もない。ではどうするか。どうにもならない。人間社会なんてどうにもならんですよ。ウェブでは目立つ真似をしない、実社会では表に出ないで家に鍵をかけて閉籠る、そんな風にしなければ、安全に生延びるなんてことはできやしません。

めりけんなんかは、他人が何らかの被害に遭って困った様子ならば、正義感が強いから直ぐに手助けしようとするし、銃には銃で対抗しますよ。でも、日本では駄目ですね。日本人は他人が困っても、自分がよければそれでいい、「見て見ぬふりをできるのが大人」です。銃を持てても日本人は駄目。喜ぶのは右翼だけ。政治的に利用できるものを利用するのが日本人で、正義とか言ったら最後、そいつは「中二病」ですよ、侮辱されるのが当然の存在になる。これで世の中良くなるわけがありません。
根本的に日本人は精神構造があっちの人とは異なる。日本人は本質的に自分だけ良ければ良いんです。「正しい」「正義」といった観念を日本人は徹底的に馬鹿にするし、その癖、自分だけは正しいと心から信じて他人の人格を侵害して、それで恥ることなく寧ろ威張る。喜六郎とか日出づる國の一無名人とか、恥を知らない正義感どもを見ればわかることです。

どうにもならないですよ。日本人はどうにもならない。

投稿: n | 2007年4月23日 (月) 04時17分

全く関係無いのであるが最近、福田恒存を読み返したら西部邁が清水幾太郎にそっくりに思えました。

投稿: 森英樹(本物) | 2007年4月28日 (土) 10時52分

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