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2007年4月 6日 (金)

戰爭・平和・英雄

史上最悪のプロジェクトに挑む~硫黄島決戦と栗林中将から学ぶ・その1

「唯一可能な方法」を合理精神で追及~硫黄島決戦と栗林中将から学ぶ・その2

過去の教義を捨て、新戦術を編み出す~史上最悪のプロジェクトに挑む・その3

 「近代科學を生み出した西洋の思想的・文化的基盤の本質」は西欧のあらゆる領域に浸透しており、太平洋戦争や硫黄島における米軍の活動にも同一の本質が伺える。というより、戦争という一大プロジェクトにおいて、思想的・文化的基盤の本質が色濃く出る。一方、日本には同一の基盤は当時も今もない。「都合の良い各分野を個々別々に撮(つま)み食ひ」して戦争に臨んだが、米国に完膚なきまで叩かれた。61年後の今、日本は米国と戦争をせずに済んでいるが、経済や技術の領域では激しい競争を繰り広げている。しかし、「豊かになつた今も、本格的な近代化を沮(はば)む宿命的な要因が残存」したままである。玉砕したとはいえ、栗林中将と硫黄島守備隊は、米軍と互角に渡り合った。最悪の状態でなぜそのようなことができたのか。その本質を考えてみることが戦死者2万人への供養と思う。

 是非御一讀を。ところで法哲學者の森村進は「戦争は民間人を含む多くの人にとって、平和時には不可能なような英雄的行為をなしとげる機会を提供し、そして現実になしとげる人もいる」(『自由はどこまで可能か』)と書いてゐる。これは正しい。栗林中將はそのやうな「英雄的行為」を見事に實行した人である。だが森村は直後に續けて「だからといってそのことは、平和よりも戦争を選ぶ理由にはならない」とも指摘する。これも正しい。

 これら二つの正しい指摘の關係について深く考へて行く事が、自分の課題の一つだと思つてゐる。

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コメント

戦争時には英雄行為が分かり易いだけじゃない?
平和時には何が英雄行為か分からないね。
一つの行為に「あ~でもない!こ~でもない!」って暢気なことが言える暇があるからなぁ。

投稿: 森英樹(本物) | 2007年4月 6日 (金) 20時31分

 いや、やはり戰時は生命を賭けざるを得ない場面が平時よりも多いですからね。

投稿: 木村貴 | 2007年4月 7日 (土) 02時55分

平和時は頭=思考力が鈍感になります。
感覚も?
敵がハッキリしませんから。

戦時も平和時も最大の敵は自分だけど。

言うは易し行うは難し。

投稿: 森英樹(本物) | 2007年4月 7日 (土) 17時24分

人を一人殺せば犯罪者だが、人を大量に殺せば英雄か。
お笑い種だな。

投稿: 天国の戯言 | 2007年4月 7日 (土) 19時26分

まぁ俺だったら小便漏らして敵前逃亡だね(笑)。

投稿: 森英樹(本物) | 2007年4月 7日 (土) 19時37分

>人を一人殺せば犯罪者だが、人を大量に殺せば英雄か。
>お笑い種だな。

 いや、例へば地下鐵で毒物を撒いて「人を大量に殺」しても英雄にはならないでせう。

投稿: 木村貴 | 2007年4月 7日 (土) 21時10分

同じ「殺人」であつても、個人が勝手な理由でやらかせば犯罪であり、一方、殺人をやらかした犯罪者に課せられる死刑は制裁である。同樣に、同じ「戰爭」であつても、自分勝手な理由で起された戰爭は「犯罪」であり、一方、「犯罪としての戰爭」に對して課せられる戰爭は制裁である。

――とは「國際法」を論じてケルゼンが『法と国家』で述べてゐる事。

投稿: n | 2007年4月15日 (日) 21時06分

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