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2007年2月28日 (水)

教育と政治を分離せよ

 「君が代のピアノ伴奏命じた校長の命令は合憲」と最高裁判決。

 東京都日野市立小学校の99年の入学式で「君が代」のピアノ伴奏をしなかったとして戒告処分を受けた女性音楽教諭が、都教育委員会を相手に処分取り消しを求めた訴訟の上告審判決が27日、あった。最高裁第三小法廷(那須弘平裁判長)は「伴奏を命じた校長の職務命令は、思想・良心の自由を保障する憲法19条に反しない」との初判断を示し、教諭の上告を棄却した。5裁判官中4人の多数意見で、藤田宙靖(ときやす)裁判官は反対意見を述べた。 http://www.asahi.com/national/update/0227/TKY200702270392.html

 私自身は「君が代が過去の日本のアジア侵略と結びついている」と主張する原告音樂教諭の「歴史観・世界観」には全然同意しないし、校長によるピアノの伴奏命令が「特定の思想を持つことを強制・禁止したり特定の思想の有無の告白を強要したりするものではない」との多數意見は妥當な線なのだらうとも思ふ。しかし只一人反對意見を述べた藤田裁判官が完全に間違つてゐると言ひ切るだけの自信も無い。藤田裁判官はかう述べたと云ふ。

 藤田裁判官は「君が代斉唱の強制自体に強く反対する信念を抱く者に、公的儀式での斉唱への協力を強制することが、当人の信念そのものへの直接的抑圧となることは明白だ」として、審理を高裁に差し戻すべきだと述べた。

 そもそもなにゆゑ教育現場を舞臺として幾度と無く違憲訴訟が起るかと云へば、教育、特に義務教育を政府がほぼ一手に取仕切つてゐるからである。違憲訴訟の對象は政府機關に限られる。今囘の問題も東京都日野市立小學校で發生し、被告は東京都教育委員會であつた。

 日本の場合、私立も補助金行政を通じて政府に首根つこを押さへられてゐるものの、公立に比べれば學校經營者の裁量は自由だらう。義務教育と大學では事情が異なるが、例へば、私立の國士舘大學や拓殖大學で君が代のピアノ伴奏を教師が拒否して問題になつたと云ふ話は聞いた事が無い。教員が大學の教育方針を承知の上で雇用契約を結んでゐるからだ。「式典の際は君が代を伴奏する事」と云ふ文言を契約書に豫め盛込んでおけば、後から問題になる氣遣ひは無い(私人同士の契約にも政府が理窟をつけて介入する場合があるので安心は出來ないが)。さうさう、今思ひ出したが、ミッション系の大學や小中學校で信教の自由が問題になつた事も無い。但し眞の自由を得るには、税金で賄はれる學校では駄目だ。

 教育方針を完全に自由にすれば、君が代は生徒に絶對歌はせないし、日章旗は絶對に掲げないと云ふ小中學校も出て來るかも知れない。一向に構はないと思ふ。それでも保護者の信頼を得るのであれば隆盛を誇つて行くだらうし、駄目な學校であれば潰れるだけの話である。逆に、幾ら君が代斉唱や日章旗掲揚に熱心でも、肝心の知育が疎かな學校は相手にもされまい。

 今囘の判決が專門家からみて妥當なのか不當なのか、私には分らない。しかし教育を政治の手から取戻さない限り、不毛な法廷闘争は何時までもあちこちで繰返され、生徒とその親達は迷惑し續ける事だらう。

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コメント

今回の裁判が、反法精神から起こされたものであることは明白であり、いかにも法律に従う振りをしながら、後ろを向いて法にベロを出している原告どもの厚顔が目に見えるようです。
本来は、裁判所の門前で「帰りなさい。」と言うべきを、それが言えないのは憲法の欠陥であり違憲審議制度の欠陥であるのだが、その欠陥を改修しないのは、法制度などというものを上から下まで全く信じていない、何よりの証拠でしょう。
さすがに、舐められた最高裁がこの野郎とばかりに舐め返してやったのだが、驚いたことに、舐め返さなかった裁判官が一人いたということを、恥ずかしながら、木村さんに教えてもらって始めて知りました。
原告どもは、行政を相手取っているかのように装いながら、実際は司法を相手取っているのです。「相手取る」ことが目的なのです。故に、裁判所が原告どもを相手にしなければならいないところで、既に、原告どもは半分勝っているのです。この狡知が見抜けぬような裁判官は裁判官ではなく、多分ただの阿呆か余程の悪です。このただの阿呆か余程の悪のおかげで原告どもは実質完全勝利したのです。ああ!情けない。裁判所というからには、「当事者不適格」という用語くらい知っておいて欲しいものです。少なくとも、その裁判官には後見人が必要であると判断して欲しい。

投稿: 世留 | 2007年2月28日 (水) 12時54分

僕も世留さんの仰る通り、政治運動に裁判を利用されぬやう法を整へたらいゝと思ふのですが、「政治運動が目的か否か」といふ判断は、なかなか難しさうですね。
件の教師も、あくまで個人の権利の問題だと言ひ張るでせうから。
まあ「官」相手だからかういふ輩が跋扈するわけで、木村さんの言はれるやうに「政治と教育の分離」が一番いゝのでせう。
しかし、そのためにはまづ、日本人の「お上頼り」の根性のはうを叩き直さなければなりませんね。
これもまた難事業です。お上に「先祖敬愛」を唱導して貰はうとする先生も、をられるくらゐですから。

投稿: 梅沢 | 2007年2月28日 (水) 18時06分

>「政治運動が目的か否か」といふ判断は、なかなか難しさうですね。

梅沢さん、こんにちわ。
梅沢さんを信じて、敢えて申し上げますが、「なかなか難しい」などという脆弱な精神がいけません。
何故、完全無欠を求めるのか?それは虚無との裏表です。
コツコツと整えてゆけばいいのです。間違えてもいいのです。いや、間違えることこそ人間の限界を示すものであり、それだけで素晴らしい。冤罪を恐れて、「冤罪」を増やす。そういうことは止めにしたほうがいい。
それが、法を取り戻す道だと思うのです。

六法を読む気にはならないが、見張ることくらいは出来るぞ、と!

投稿: 世留 | 2007年2月28日 (水) 19時33分

梅沢樣

>しかし、そのためにはまづ、日本人の「お上頼り」の根性のはうを叩き直さなければなりませんね。

 その通りです。

>これもまた難事業です。お上に「先祖敬愛」を唱導して貰はうとする先生も、をられるくらゐですから。

 何せ、他人に聖書をよく讀めとお説教する先生を含め、我々日本人は「人の上の神」ならぬ「人の上の人」を戴く民族ですからね。

世留樣

>間違えてもいいのです。

 さうですね、間違ひでもいいからどんどん派手にやつて貰ひたいですね。私が關係ない裁判であれば。

投稿: 木村貴 | 2007年3月 1日 (木) 01時12分

世留様。

ご指摘の通り、法は相対的な基準に過ぎませんから、「コツコツと整へて」ゆくのがいゝと思ひます。
さういへば件の藤田裁判官は法に「完全無欠」を求める人かもしれません。
社会から「信念そのものへの直接的抑圧」を完全に無くさうといふのだから。
僕など毎日生活してゐるだけで、さういふ抑圧ばかりでして「脆弱な精神」が悲鳴をあげてをります。

投稿: 梅沢 | 2007年3月 1日 (木) 01時32分

>抑圧ばかりでして「脆弱な精神」が悲鳴をあげてをります。

正直に申し上げます。
梅沢さん、私もです。喉が嗄れています。

投稿: 世留 | 2007年3月 1日 (木) 18時34分

マスコミで女教師の名前を出したところがない。悪い事をしたのではないのだから名前を出して報道したら良いのにと思つた。

この教師、政治的思想・信条を理由に生徒が授業を拒否したらどうするのかな。

投稿: f | 2007年3月 1日 (木) 21時10分

マジで?
福田が何を言っただの、松原が何を言っただの、小林秀雄が言ったのので!

投稿: 森英樹(本物) | 2007年3月 4日 (日) 23時00分

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