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2007年2月21日 (水)

國家が人間を作る

 前田嘉則氏(私は批判する相手を「誰かさん」などと呼ぶ高尚な趣味は無いので實名で失禮させて戴く)に以下反論する。

 加地伸行氏は、「道徳と法とを峻別せよ」と語つた。そして教育基本法に「先祖を敬愛せよ」との文言がないことを批判した。先日、書いた通りである。/このことにたいして、道徳と法とを峻別せよと言ふ人間が、教育基本法には道徳的價値を盛込めとは何事か、「加地氏は馬鹿だ」といふことを自身のブログで書いた御仁がゐる。私はさういふ言ふ方をする人を好きではないが、「馬鹿だ」とは書かない。その御仁の好きな「知的怠惰」といふ言葉を使はうと思ふ。その人は、自身のロジックに醉つてゐるのである。醉つ拂ひに「知」を求めてもしかたないけれども、「知的怠惰」に違ひはない。その人が敬愛する松原正先生も、多分相手にしまい。

 ここまでは單なる前置きである。加地伸行氏に對する私の批判がなぜ「知的怠惰」であるのか、前田氏は以下で十分な根據を擧げつつ論陣を張る筈である。續きを讀まう。


加地氏は、民法の次のやうな規定を使つて説明してゐた。

民法第3章 相続の効力 第1節総則
■第896条[相続の一般的効力]
 相続人は、相続開始の時から、被相続人の財産に属した一切の権利義務を承継する。但し、被相続人の一身に専属したものは、この限りでない。
■第897条[祭祀供用物の承継]
(1) 系譜、祭具及び墳墓の所有権は、前条の規定にかかわらず、慣習に従って祖先の祭祀を主宰すべき者がこれを承継する。但し、被相続人の指定に従って祖先の祭祀を主宰すべき者があるときは、その者が、これを承継する。
 前項本文の場合において慣習が明らかでないときは、前項の権利を承継すべき者は、家庭裁判所がこれを定める。

ここからは、私の考へ。


 ちよつと待つて貰ひたい。「ここからは、私の考へ」と云ふ事は、加地氏の主張の紹介はここまでで終りなのか。一體全體、加地氏は民法の條文を引いて何をどのやうに説明したのか、さつぱり分らない。前田氏は自分が熱心に聴いた筈の加地氏の話を要約する事すら出來ない。それでゐて他人を「知的怠惰」だなどと呼ぶ。困つたものである。

 祖先の祭祀を主宰する行爲とは、道徳といふ次元でもなく宗教的行爲である。無神論者なら、内心の自由を侵すものである、などと文句を言はれかねない行爲である。それに對して、民法はそんな個人的な考へとは關係なく、最終的には家庭裁判所がこれを定めるとまで言ふ。

 前田氏が何を力説してゐるのだかよく分らないが、上の條文を讀めば明らかなやうに、民法897條は祭具や墳墓の承繼者を決める遺言も慣習も見當たらない時に、仕方ないので家庭裁判所が何らかの方法で決めると云つてゐるだけである。祭具や墳墓の所有を勸めたり、祖先の祭祀を推獎したりしてゐる譯ではない。民法には金の貸し借りに關する規定が山ほどあるが、金の貸し借りを推獎してゐる譯ではない。それと同じ事である。

 もちろん、憲法の定める信教の自由の範圍内においてではあるものの、祭祀といふものの繼承をこれだけ嚴格に決めることができたといふことは、日本人の價値の中にすでにかういふ先祖への畏敬は十二分に滲透してゐるといふことを示してゐる。

 これも譯が分らない。あるルールが存在しても、そのルールの對象となる事物事象が健在であるとは限らない。ある土地で野球の詳しいルールブックを見つけたからと云つて、そこで野球が現在盛んだとは限らない。特に法律と云ふものは使はれなくても廢止される事は滅多に無いから、民法に祭祀に關する條文が存在するからと云つて、「日本人の價値の中にすでにかういふ先祖への畏敬は十二分に滲透してゐるといふことを示してゐる」などとは到底斷言出來ない。念の爲斷つておくが、私は先祖敬愛に反對してゐるのではない。前田氏の議論の進め方は滅茶苦茶だと云つてゐるに過ぎない。滅茶苦茶な議論からは滅茶苦茶な結論しか導かれ得ない。現に、前田氏の云ふやうに、日本人に「先祖への畏敬」が「十二分に滲透してゐる」のであれば、そもそも法律に「先祖への敬愛」をしやかりきになつて盛込む必要なんぞ無いではないか。

 したがつて、新教育基本法に先祖への畏敬を盛込まなかつたといふことは、法律と道徳とを峻別したからではなく、

 「法律と道徳とを峻別したからではなく」なんて、餘りにも當然の事を強調しないで貰ひたい。日本の政治家や役人が法の領域と道徳の領域とを峻別してゐるのであれば、そもそも教育基本法なんて代物を作らうと考へる筈が無い。誰もが知つてゐるやうに、今囘の法改正は政治的妥協と打算の結果に過ぎない。だが一方で法と道徳の峻別を持ち出して他人に説教を垂れる加地氏が、他方で法に己の支持する道徳的項目が盛込まれなかつた結果を殘念がるのは自己撞着である。自己撞着に氣附かぬ「御仁」を世間では「馬鹿」と呼ぶのである。もし加地氏が法と道徳の峻別に首尾一貫して反對するのであれば、それはそれで別の批判に價するものの、私は「馬鹿」とは呼ばない。

 核となる價値を内包できなかつた腑拔けの改正にすぎないといふことを意味してゐるのだ。

 「核となる價値」は道徳とどう違ふのか。違ひはしない。道徳を「内包」しない法律は「腑拔け」であると前田氏は云つてゐるのである。要するに加地伸行氏も前田嘉則氏も、「法と道徳の峻別」と云ふ言葉だけは知つてゐても、その意味するところは全く理解してをらず、都合の良い時だけ引張り出すものの、守るべき規準だとは露ほども考へてゐない。それは前田氏の文章の最後に明らかである。

 國家は、日本人を作るために教育基本法を定めるのである。その際、日本人がどう生きて來たかが一番大事なことである。/さうであれば、堂堂、教育基本法に道徳的價値觀を盛込めといふのが、知的誠實といふものであらう。

 國家が日本人を作る――。端的に云つて、このやうな事を書いて思はず背筋が寒くならないやうな神經の持主に、道徳の領域に於いて政治を拒否する大事を幾ら説いても徒勞だと思ふ。前田氏は共産主義者と何も變らない。

 「それぞれの組織、團體には、それを一つの共同體として成り立たしめる爲の教育が必要である。」福田恆存

 福田恆存は注意深く「組織」「團體」と云つたのであつて、「國家が人を作る」などとおぞましい事は口走らなかつた。だから國家主義者の清水幾太郎を厳しく批判したのである。

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コメント

木村君が正しい。

投稿: 森英樹(本物) | 2007年2月21日 (水) 20時56分

だからさあ。
前田氏も政治家ではないのだからハッキリと「私は政治と道徳を峻別しているが、私以外の国民は馬鹿だから法律に組み込んだほうが後々のためである!」と言えばいい。
言ったから松原氏は村八分になったがね。今更なんで猫撫で声で国民のご機嫌なぞを取る必要があるのか?

投稿: 森英樹(本物) | 2007年2月21日 (水) 21時08分

「私も紛れも無い日本国民の一人である」なんて空々しい事を言って寛容な人間でも演じたいのかな?

投稿: 森英樹(本物) | 2007年2月21日 (水) 21時10分

こんにちは。書き込みさせていただくのは初めてです。

森さん、はじめまして。森さんのコメントに気になる部分があります。

「私以外の国民は馬鹿だから」
「法律に組み込んだほうが後々のため」

これらいずれの文章にせよ、松原氏が
「言った」とはとうてい私には思われません。
松原氏の著作、講演、講義などの、どの部分を元にこの要約を導かれたのか。よろしければお教えください。

投稿: 東海林 | 2007年2月22日 (木) 14時29分

無いです。松原氏は少なくとも前田氏の様に可愛い子振りはしない御仁だと思うが。私の傲岸不遜な言葉と思ってくれていいです。ただ漱石の『こころ』批判は苦しいが。

投稿: 森英樹(本物) | 2007年2月22日 (木) 20時46分

硫黄島なんて高級な事は知らないが占領軍にゴミのように扱われた日本人なら知ってる。俺は元々博打打ちだ。

投稿: 森英樹(本物) | 2007年2月22日 (木) 21時26分

前田は「アンチ松原信者」だから、同じアンチ仲間に受けるやうに「松原信者」の發言を馬鹿にしてゐるだけ。

投稿: f | 2007年2月24日 (土) 21時45分

アンチという立場からの発言か。主義だなあ。

投稿: 森英樹(本物) | 2007年2月24日 (土) 23時32分

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