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2007年2月24日 (土)

49の惡と51の善

 「言葉の救はれ」コメント欄より。

 政治は、たとへ49の悪を為しても、51の善を為せば良いと判断すべきものだと思ひます。

 ある政治の爲す事の善が51で惡が49であると、どのやうに判斷するのだらう(結局それは前田氏の主觀による他は無いと思はれる)。いつもの事だが、前田氏の主張は客觀的基準を全く缺いてゐる(前田氏の屬する學會ではこれで十分通用するのかも知れないが)。

 また、国会で議決された教育基本法にたいして、「悪法は法にあらず」といふ理解をお持ちなら、また別の議論が必要でせう。

 前田氏は「(原則として)惡法も法なり」と云ふ理解をお持ちのやうだ。ところで前田氏は、自分自身の價値觀と異なる法律が成立した時も「法律なのだから從へ」と同じやうに云へるのだらうか。さうは思へない。前田氏にとつて法律とは、自分が信奉する道徳的價値觀を盛込んだものであるべきなのだから。ユダヤ人虐殺は、當時のドイツ國内では合法だつた。この一事を以てしても、「惡法も法なり」と云ふ考へ方が誤りであり、「惡法は法に非ず」と云ふ考へ方こそ正しいと私は思ふ。

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コメント

御健筆ぶり、いつも拜讀してゐます。
ところで御説によれば、「ある政治の爲す事の善が51で惡が49であると」 の判斷は結局「主觀による他は無」く、そんな判斷は全うな世間には「通用」しない譯ですよね。
ところが、同じく御説によれば、或る法律が惡法かどうかの判斷もまた、「自分が信奉する道徳的價値觀」即ち主觀によるしかないやうで、しかしその方の判斷は堂々「通用」する、と説かれてゐるやうに私には受け取れるのですが、そしてそれを矛楯ではないか、と思ふのですが、私は何か勘違ひしてゐるのでせうか。御教示下さい。

投稿: 平成山人 | 2007年2月24日 (土) 10時00分

 山人樣、御指摘有り難う御座います。言葉足らずでした。

 私の考へる惡法の基準は二つです。

(1)個人の道徳的判斷に干渉する法律
(2)個人の生命財産を侵害する法律

 前者の典型は教育基本法や健康増進法、後者の典型はユダヤ人虐殺を正當化したナチスドイツの法律です。これら二種の基準は根本的には同じなのかも知れません。

 いづれにしても、これらの基準に該當するか否かは、かなりの程度、客觀的に判斷出來ると考へます。つまり私は「惡法か否かの客觀的基準は存在する」と云ふ立場であり、その基準は上に示した通りです。

 一方、前田さんは今囘の議論において、惡法か「善法」かの判斷基準を何も示してゐません。客觀的な基準も無しに、どうして「51對49」だか「49對51」だかの細かい計量が出來るのか不思議なのです。

 以上をまとめると、私の文章中の

 ある政治の爲す事の善が51で惡が49であると、どのやうに判斷するのだらう(結局それは前田氏の主觀による他は無いと思はれる)。

 と云ふ部分は、例へば次のやうに書くべきでした。

 ある政治の爲す事の善が51で惡が49であると、前田氏はどのやうに判斷してゐるのだらう。前田氏の文章から客觀的な基準は讀み取れない。前田氏はあやふやな主觀だけに基づいて發言してゐるのではないか。

投稿: 木村貴 | 2007年2月24日 (土) 13時14分

「(当時は)善を為そうとしたら(今になって反省してみたら)悪だった」というのが歴史の真相。

投稿: 森英樹(本物) | 2007年2月24日 (土) 23時36分

木村樣
御叮嚀な御教示、有難う御座いました。
しかし近頃、頭が惚けて來たせゐか、或いは生來の鈍根のゆゑか、今一つ、すつきりしません。
例へば木村さんの仰る「惡法の基準(1)」は、所詮、主觀的基準のやうな氣がしますし、また(2)には、刑法の罰則規定は全て該當しさうな氣がするのです。
それにまた、「惡法は法に非ず」と云ふのは、幕末の頃、薩摩の大久保一藏が言ひ放つたとか云ふ「不義詔敕は詔敕に非ず」と同じく、舊來の秩序を顛覆しようとする革命家の言のやうな氣もするのです。詰り、その「惡法」を覆す實力ないし武力を背景にしてゐない限り、全く虚しい言でもある譯ですから。
まあ、もう少しよく考へてみようとは思ひますが。

投稿: 平成山人 | 2007年2月25日 (日) 09時43分

 山人樣、有難う御座います。

>例へば木村さんの仰る「惡法の基準(1)」は、所詮、主觀的基準のやうな氣がします

 「個人の道徳的判斷に干渉する」か否かは客觀的に判斷可能です(判斷が難しい事例もあるとは思ひますが)。例へば先祖を畏敬するかしないか、自分の健康をどれほど大事にするか、と云つた事柄は個人の道徳的判斷にかかはる問題で、これについて國が云々する事は干渉になります。

>(2)には、刑法の罰則規定は全て該當しさうな氣がするのです。

 實は仰る通りで、私は刑法の罰則規定のみならず、税法(徴税行爲)も究極的には個人の生命財産を侵害する惡法であると、まだ朧氣ながらではありますが、考へてゐます。反國家主義(註・反日主義ではありません)を徹底するとそこまで行かざるを得ません。かうした議論は我ながらさすがに極端だと思ひますし、刑法や税法無しに國民生活が可能なのかと云ふ話を詳しく述べるには時間が必要ですので、現時點では「個人の生命財産を不當に侵害する」意味であるとお考へ下さい。

>「惡法は法に非ず」と云ふのは、幕末の頃、薩摩の大久保一藏が言ひ放つたとか云ふ「不義詔敕は詔敕に非ず」と同じく、舊來の秩序を顛覆しようとする革命家の言のやうな氣もするのです。詰り、その「惡法」を覆す實力ないし武力を背景にしてゐない限り、全く虚しい言でもある譯ですから。

 「惡法は法に非ず」と云ふ言葉の使ひ方が少しく亂暴でした。實力も武力も無い私個人としては、例へば飲酒運転の極端な取締りを惡法であり「こんなものは法と呼ぶに價しない」と思つてはゐても、道交法を破れば警察に捕まり、會社は首になるでせうから、大人しく從はざるを得ません。その意味では「惡法も法なり」と考へてゐます。

 しかし前田嘉則さんの「惡法は法に非ず」についての文章はやはりをかしいと思ひます。もう一度引用します。

>国会で議決された教育基本法にたいして、「悪法は法にあらず」といふ理解をお持ちなら、また別の議論が必要でせう。

 法案の段階であれ、成立した後であれ、ある法律の内容を批判する事は正當であり、完全に自由であるべきです。「国会で議決」されようがされまいが關係ありません。なぜ「別の議論」が必要なのでせうか。同一の議論しか必要ありません。前田さんの態度はまるで與黨の政治家か役人であり、言論人に相應しからぬものです。

 因みに、私は惡法を廢する方法として、武力(革命やクーデター)に頼るべきだとは思つてゐません。個人の生命財産を侵害するべからずと云ふ自分の主張と矛盾しない爲には、迂遠ながら平和的手續きによるしかありません。

投稿: 木村貴 | 2007年2月25日 (日) 13時14分

前田はアンチ松原だから、同じアンチ松原の加地を持ち上げて、松原信者を貶めたいだけだよ。

投稿: f | 2007年2月25日 (日) 17時32分

成程、(1)はさう云ふ意味でしたか。實は私は、例へば國旗國歌法を、個人の思想信條を侵すからとて排撃する連中の論法を、ふと思ひ浮べたものですから。

投稿: 平成山人 | 2007年2月25日 (日) 17時45分

>實は私は、例へば國旗國歌法を、個人の思想信條を侵すからとて排撃する連中の論法を、ふと思ひ浮べたものですから。

 正直申し上げると、國旗國家は法律で定めるべきものではないと私は考へてをります。「國旗國歌法を、個人の思想信條を侵すからとて排撃する連中」の大半は所詮、都合の良い時だけその種の主張をする輩に過ぎず、國旗が赤旗で國歌が勞働歌なら喜んで「國旗國家法」を支持するやうな連中ですから、山人樣同樣、私も彼らの事は全然信用してをりません。

 しかし本來、國旗國歌を愛する心は法の力で強制されるべきものではありません。道徳的行爲は個人の自由意思によるべきものであつて、強制の結果であれば、もはや道徳的行爲とは呼べません。國旗國歌への敬愛が眞に道徳的である爲には、法律で強制すべきではありません。左翼が支配的だつた戰後の教育史を考へれば無理はない面もあるかとは思ひますが、政治の力に頼つた瞬間、我々は左翼と同類になつて仕舞ふと思ひます。

投稿: 木村貴 | 2007年2月26日 (月) 04時17分

今見たらなぜか前田氏にコメントを削除されてゐました。
すみませんがこゝに再掲させてください。
僕は論点を拡散させるなと言ひ、次のやうに書きました。


>いゝですか。僕はかう言つてゐるだけなのですよ。
「燃えるゴミと燃えないゴミを分別すべきである」と主張する人間が「燃えないゴミの袋にビンを入れろ」と言ふのは矛盾ではないか、と。
それに対して前田さんは「燃えるゴミとは何か」だの「なぜ分別すべきなのか」だの「分別を主張した市長の言葉の意味を考へろ」だのと僕に迫る。
僕は「そんなあなたの自己満足につき合ふつもりはありません」。
イエスも道徳もへつたくれも無い。あなたは中学生にも分かる論理的矛盾を隠すために「高尚」な主題を煙幕代はりに持ち出してゐるのです。
口では「民衆は愛を求めてゐるのだから知的誠実を求めるな」などといひながらよくそんな知的詐欺ができるものだ。
しかし前田さんは議論を拒否するのですね?それなら仕方ない。
僕に議論を強制する権利はありませんから諦めます。
「言論は空しい」ですね。さやうなら。


以上が削除された僕のコメントの全文です。
敵はとんでもないスターリニストです。

投稿: 梅沢 | 2007年2月26日 (月) 04時26分

訂正。
×「燃えないゴミの袋にビンを入れろ」と言ふのは矛盾ではないか。

○「燃えるゴミの袋にビンを入れろ」と言ふのは矛盾ではないか。
焦つて失敗しました(笑)。

投稿: 梅沢 | 2007年2月26日 (月) 04時32分

 梅沢さんのコメントが急に消えて仕舞つたので不審に思つてゐましたが、あれはやつぱり前田氏が削除したのですか。とんでもない先生ですね。

 まあ「矛盾だ」と云へば加地伸行氏が馬鹿だと認める事になりますし、「矛盾でない」と云ふのはこの場合無理ですからね。仕方ないので相手に一方的に過重な義務(「聖書を讀め」だの「イエスの言葉の意味を考へろ」だの)をおつかぶせて逃げを打つたうへ、最後はコメント削除ですか。實に御立派です。

投稿: 木村貴 | 2007年2月26日 (月) 05時24分

實は、恥かしながら私は國旗國歌法を讀んだ事がないのです。が、それには「愛する心」だの「敬愛」云々だのが定められてゐるのでせうか。
だとすれば、それは惡法と云ふよりも寧ろ愚法ですよね。抑も内面の問題は法律に馴染まない。
では國旗國歌法とは何かと云ふに、それを讀まずして私は、國旗と國歌に關する儀禮ないし禮式の基準を定めたものと思つてゐました。
無論、本來ならばそれも不文法ないし慣習法で充分な譯ですが、さう云ふ良識が機能しない社會では、成文法に委ねる事も已むを得ぬ譯で。
詰り、精密に言へば心には關はらぬ、外面的な儀禮のみを定めた法律に、心の問題を絡めて反對を唱へるのは非論理である、と私は考へてゐたのです。
飽迄も、國旗國歌法を讀まずしての事ですが。

投稿: 平成山人 | 2007年2月26日 (月) 10時08分

恥づかしながら、私も國旗國歌法をきちんと讀まずにお答へして仕舞ひました。ウィキペディアによれば、

第1条 国旗は、日章旗とする。
第2条 国歌は、君が代とする。
http://ja.wikipedia.org/wiki/国旗国歌法

 御指摘の通り、又、私が何となく想像してゐた通り、別に「愛する心」だの「敬愛」だのが定められてゐる譯ではないやうです。従つて現状の國旗國歌法は私が問題にする「國旗國歌(への畏敬)を定めた法律」には當たらないと思はれます。

 しかしこの法律を根據に、運用上、日章旗と君が代への表敬が強制されるやうな事態になれば(現時點ではその恐れは無いとされてゐるやうですが)、實質的な「愚法」に堕す恐れは殘るでせう。戰後、右から左へ簡單に振れた日本人の事、逆の動きがいつ起きてもをかしくありません。いや、現に起きつつあるでせう。

 私個人としては日本の國旗國歌は日章旗と君が代以外にあり得ないと思ひますが、だからこそ政府による強制からは無縁の存在であるべきだと考へます。理想論に過ぎるかも知れませんが。

投稿: 木村貴 | 2007年2月26日 (月) 13時06分

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