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2007年1月 5日 (金)

前田さんの主張のどこがをかしいか(1)

 前田嘉則さんの主張のどこがをかしいのか、改めて述べておきます。

 知的怠惰を問はれるのは、第一義的には知識人である。しかし、昨日來てゐた人人は市井の人人である。さういう人人に、知識人の欺瞞を言つてどうするのだらうか。漱石の研究者に對して言へば、それは決して空しいものではないだらう。現在の漱石研究の水準を私は知らないが、反論であれ賞讚であれ研究者は反應してくれるだらう。しかし、研究者でも出版社の編輯者でもない私たちに、漱石の誤讀のされやうを批難してもあまり生産的ではない。誠實に生きてゐる人人を勇氣附ける(それは「いやし」などといふ卑しい言葉ではない)言葉があつても良いではないか。「庶民よ胸を張れ」さういふ言葉こそ、保守の言葉だらう。

 そんな事云つたつて、事實として毎年數十人(!)もの「庶民」が松原氏の講演に足を運んでゐるのですから、彼ら(私を含む)に餘程倒錯した趣味でもない限り、松原氏の話を有益で面白いと感じてゐるとしか考へられません。實際、講演後の懇親會で「面白かつた」「爲になつた」と云ふ感想を前田さんもお聽きになつた筈です。まあ御世辭もあるかも知れませんが、全部が全部御世辭だと斷ずる理由もありません。松原氏不在の場で、「本音ベース」で面白いと云ふ感想も直接間接に澤山聞いた事がありますし。相當の「庶民」が面白いと感じてゐるのであれば、講演をやる意義はある筈です。前田さんは何を根據に「松原氏の話は庶民にとつてあまり生産的でない」(←正確な要約)などと斷言出來るのでせう。

 ……と先日も問ひ詰めたのでしたね。さうしたら前田さんの御囘答はかうでした。「私が庶民で、庶民の一人として書きました」。何だ、要するに單なる個人的感想ではありませんか。個人的感想は堂々と書いて下さつて結構ですが、それならどうして「さういう人人に、知識人の欺瞞を言つてどうするのだらうか」などと、庶民全員の心の内を知り盡くしたかのやうな事をお書きになるのですか。

 そんな方式が通用するのなら色々な事が云へます。例へば「そんな思想は日本人にとつて有益でない」。自分は日本人である。自分はこの思想は有益でないと思ふ。従つて日本人の大多數はかう思ふに違ひない――。「そんな思想はプロレタリアートにとつて有益でない」でも良いでせう。些細な事に拘泥するやうにお思ひでせうか。しかし己の主張を敷衍した時にグロテスクな論理的歸結を招かないかどうか、我々は常に注意深くあるべきです。たとへ問ひ詰められた末の苦し紛れで書く言ひ譯にしても。

 ついでに云へば、庶民が「誠實に生きてゐる人人」だなどと、どうして斷言出來るのでせう。そのやうなステロタイプな人間觀は文藝批評を志す方として如何なものでせうか。また、前田さんは御自身を庶民と規定していらつしやいます。すると「俺は誠實に生きてゐる」とインターネットで天下に公言した事になりますが、それは少しく羞ぢらひを缺く行動ではないでせうか。些か意地惡ですが、論理的にはさうなります。要するに、「庶民」を自らの身方に附けようとした前田さんの主張は、論理的無理が祟つて壊滅的に破綻してゐるのです。

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