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2007年1月 5日 (金)

前田さんの主張のどこがをかしいか(2)

 前田さんの主張についてもう一つをかしな點を再説しておきます。留守晴夫氏は雜誌で自著『常に諸子の先頭に在り』を紹介する際、初出媒體が「月曜評論」である事を明記せず、「あるミニコミ」と書きました。それについて憤つた前田さんはかう書いてゐます。

 留守先生が當該書を出すきつかけになつた媒體が『月曜評論』である以上、それを私なら明記する。さういふ感覺を大事にしたい、さういふことです。
 私には前田さんの「感覺」はよく分りませんが、それについてはもう書いたので割愛します。あの後私は、前田さんが本當にそのやうな「感覺」を大事にされてゐるのか疑問に感じるやうになりました。實物で説明しませう。前田さんのウェブサイトのプロフィールを御覽下さい。
 著書は、「文學の救ひ――福田恆存の言説と行爲と」。論文は、「神のゐない國のハムレット――尾崎豐論」「なぜ若者はオウムに走つたのか」「心的唯言論序説」「メタファーの行方――『海邊のカフカ』論」「近代文學のアルケオロジー」「言葉の救はれ・宿命の國語」など、多數。

 前田さんの著書『文學の救ひ――福田恆存の言説と行爲と』の初出媒體は「世界日報」です。ところがここにはそれが全く明記されてゐません。前田さん自身の主張に從へば、當該書を出すきつかけになつた媒體が「世界日報」である以上、それを明記すべき筈です。しかし明記してゐない。プロフィール以外のページにも見當たりません。これでは言行不一致もいいところで、前田さんに留守氏を批判する資格があるとはとても思へません。

 勿論、前田さんは『文學の救ひ』の「後書」では初出が「世界日報」である旨を明記してゐます。しかしそれは留守氏も同じです。『常に諸子の先頭に在り』の「跋文」で初出が「月曜評論」である旨を明記し、同誌編輯長に謝辭を述べてもゐるのです(それを知りつつ、まるで留守氏が恩知らずであるかのやうに指彈する前田さんの態度は極めて教條的・非寛容に見えます)。

 さらに云へば、前田さんのプロフィールには『文學の救ひ』の出版社名も明記されてゐませんし、他の論文の掲載媒體も書いてありません。前田さんが御自分の「感覺」を本當に大事にしたいと仰るのなら、世話になつた出版社や掲載誌の名を明記するのが自然でせう。雜誌と異なり、ウェブサイトに紙幅の制限は無いのですから。

 前田さんは松原正氏を批判した文章の中で、聖書の言葉を引いてゐます。しかしこれは前田さん自身が噛締めるべき言葉に外なりません。

 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。自分の目には梁があるのに、どうして兄弟に向つて、あなたの目からちりを取らせて下さい、と言へようか。僞善者よ、まづ自分の目から梁を取り除けるがよい。

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コメント

前田論、間然する所のない立論と敬服しますが、あえて一点。前田氏のサイトについて「単純なデータ観察」を行えば、前田氏が初出誌の記載を絶対視していない事が明らかになる、とは言えないでしょうか。前田氏の意図を、例えば「マスコミに初出を書く機会があるなら、雑誌名を出して欲しかった」という様に解する方が自然な気がします。その上で、その「感覚」の当否なり、その当否の検討抜きに憤って留守氏を批判した態度の正邪を問う、という議論の方が説得力をもつと思いますが。(破壊力は落ちても)

投稿: 松井 | 2007年1月 5日 (金) 23時37分

>前田氏のサイトについて「単純なデータ観察」を行えば、前田氏が初出誌の記載を絶対視していない事が明らかになる、とは言えないでしょうか。前田氏の意図を、例えば「マスコミに初出を書く機会があるなら、雑誌名を出して欲しかった」という様に解する方が自然な気がします。その上で、その「感覚」の当否なり、その当否の検討抜きに憤って留守氏を批判した態度の正邪を問う、という議論の方が説得力をもつと思いますが。(破壊力は落ちても)

 御指摘有難うございます。仰る通り、前田氏の眞意は「マスコミに初出を書く機会があるなら、雑誌名を出して欲しかった」と云ふ事なのかも知れません。しかしだとすれば、それは要するに「世話になつたのだからマスコミでは宣傳してやれよ。それ以外の場所に書くならどうでも良いけれど」と云ふ極めて世俗的な處世術の勸めに過ぎず、留守氏を道徳的に斷罪しないではおかぬと云はんばかりの前田氏の大仰な口吻とは落差が大きすぎるでせう。もし通俗的なサーヴィスを勸める程度の事なら、それに見合つた、世故に長けた書き方がある筈です。

 前田氏の眞意は世俗的なものなのかも知れませんが、あれだけ教條的な、道學者的な、相手を全否定するやうな書き方をした以上、それに見合ふだけの道徳的責務を自らも負ふべきです。さう考へた末、今囘のやうな文章にしました。

投稿: 木村貴 | 2007年1月 6日 (土) 01時20分

前田氏は留守氏を「ゴム人形」だと非難してゐるので「処世術の勧め」をしたかつたわけではないでせうね。
福沢諭吉の定義に従へば、処世にばかりかまける輩こそ「ゴム人形」といふべきですから。

何故、初出を明記しないと「ゴム人形」になるのか僕には理解できませんが、理由をお聞きしても先方は「わかつちやゐないね~」とつぶやくだけなのでどうしやうもありません。
発言の根拠を問はれて「わかつちやゐないね~」と返すのは、なかなか有効な処世術です。

投稿: 梅沢 | 2007年1月 6日 (土) 09時09分

靖國會舘での福田恆存氏に關する私の話のなかで、エリオットの評論を引用し、福田さんのやつて來られた仕事はエリオットその他の西洋の重要な作家達のそれと同樣、政治に先行する領域に關はる仕事だと言つたけれども、日本の文化傳統にはエリオットの言つてゐるやうな領域はないのであり、福田さんはその事をよくご存じだつたからカトリックの無免許運轉をやつてゐるとか、クリスト教のファンであるとか仰つたのだと言添えることを忘れてしまひました。(ああいふ話が不得手で大分混亂してゐたからです。)福田さんがご自分の政治的發言を常に本質論だと仰つてゐたのは、政治に先行する領域を持たぬ國の言論人だつたからであり、渡邊昇一を野郎自大だと斬つて捨てたのも、西洋文學をやつてゐながらさういふことが、詰り人間の何たるかが理解できなかつたからです。(話が下手くそで言ひたかつたことも巧く言へず慚愧に堪えず!!)臼井 平成二十一年十一月二十八日

投稿: 臼井善隆 | 2009年11月29日 (日) 01時24分

臼井先生、お立ち寄り下さり有り難うございます。興味深いお話を聽き逃し、殘念です。

仰せの通り、日本の文化傳統には政治問題を考へる際に指針になつてくれる「政治に先行する領域」が本當にありませんね。私はここ數年、政治・經濟における自由主義について勉強してゐるのですが、參考になる本はすべて歐米のものばかりです。自由主義は個人に對する政治の介入を嚴しく拒否するのですが、かうした發想は「アンティゴネー」やキリスト教を生んだ文化からしか出てこないでせう(東洋ではせいぜい老子ぐらゐでせうか)。

投稿: 木村 貴 | 2009年11月30日 (月) 22時43分

木村さん
私が貴方のサイトに投稿したのは前田氏が私の話に關するコメントをどこかのサイトに投稿してゐたので、そのコメントに答へるためでした。後で彼からもらつた名刺が見附かつたので、そちらのメールアドレスにメールを送り、「地獄の箴言」を見てくれるやうに言つておきました。貴方のサイトとは知らず、彼に連絡する方法がなかつたのでやつた事です。悪しからず。
いづれ又。
臼井 善隆

投稿: 臼井善隆 | 2009年12月 1日 (火) 11時31分

さう云ふことでしたか。了解しました。しかし前田さんもいきなり「前田さんの主張のどこがをかしいか」などと云ふ讀みたくもない文章が目に入つてしまつたわけですね……。私は構ひませんけど。

投稿: 木村 貴 | 2009年12月 2日 (水) 01時03分

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