正々堂々日本男兒
正字を完全表記出來ぬ環境化で、正字正假名遣の大事を唱へるのは「言行不一致」となるのかな。縱書き環境を整へて貰ふべく強く訴へる事は必要だらう。横書きで訴へるのは「言行不一致」と云ふのはどうにもをかしい。
誰がそんな事を云ひましたか。私自身、横書き表示しか出來ない「ブログ」で「正字正假名遣の大事を唱へ」てゐる人間なのですから、そんな事で他人を批判する譯がないでせう。中村さん自身が技術的・便宜的理由から縱書きを實踐してゐないにもかかはらず、國語問題協議會の横書きを非難する、そのダブルスタンダードが許せないと云つてゐるのです。國語の傳統を愛する日本人を自稱するのなら、國語の讀み方をもう少し勉強して貰ひたいものです。
それより、氣になるのは、縱書きは「國語の生理に最適な表記」との記述。傳統ではなく、生理なのか。それは協議會の總意なのかな。
「協議會の總意」なんかではありません。だから自分の個人サイトに書いてゐるのです。ところで中村さんは福田恆存の『私の國語教室』を讀んだ事はおありでせうか。中公文庫版の50頁にかうあります。
[「現代かなづかい」の]幾多の矛盾は暫定的・過渡的なものではありません。[中略]それは言ひかへれば、國民の心理がではなく、國語の生理が表音主義に謀叛してゐるからであります。表音主義であらうと、ローマ字であらうと、この國語の生理といふことには勝てません。それを出來うるかぎり生かすやうに努めること、それが歴史的かなづかひの原則にほかなりません。(強調木村)
御覽のやうに、「國語の生理」とは協議會の創立者である福田恆存の言葉ですから、私が使つたからと云つて、協議會を破門になる事は無いと思ひますよ、多分。
「論理的である事と傳統的である事は兩立可能」と云ふが、そんな巧い話があらうか。いやいや、それは保守派と論理派を共鬪、和合させんが爲の政治的な發言だな。
うーん、合理性と傳統を共に擁護した福田恆存もきつと、「政治的」な人間だつたんでせうね。と云ふか、そもそも國語問題協議會とは政治的な團體ですから、政治的であつても何ら問題は無いのですが。保守派と論理派を「和合」させて何が惡いのでせう。
滅びる心配はないと云ふが、正字正假名遣も滅びる心配はなかつたんぢやないのかな。どこかで、細々と生き殘るのも認めないのかな日本の權力は。
何を仰つてゐるのか今ひとつ理解出來ませんが、政府が介入しなければ言語は滅びないと私は主張してゐるのでありまして、逆に政府が介入してゐる現状では正字正假名は滅びて仕舞ふと考へてをります。
いやいや、待て。私は皇位の男系に依る繼承、正字正假名遣、縱書き、元號、これらを論理的だと吟味して守るべきものと判斷したのではなく、傳統だから守るのだと云ふのが前囘の私の主張するところだが、それは流されて仕舞つた樣である。
「流されて仕舞つた」とは心外です。傳統は合理性を兼ね備へてゐると云ふのが私の主張ですから、わざわざ傳統の重要性を説くやうな贅言は不要と考へたまでです。
論理的である事がいいと云ふなら、日本人より論理的だと云ふ歐米人の言語か、パソコン言語や數式を國語に採用すればよいのではないか。
日本人に英語やフランス語を強制したりパソコン言語や數式で「文章」を書いたりする事が「論理的」だと中村さんはお考へなのでせうか。「論理的」と云ふ言葉の意味をよく調べて戴きたいものです。
ところで、木村さん。私の本名を晒してゐますが、それはルール違反でせう。私がさう云ふ事を云ふ資格がないとか云ふ以前にこれはよくない。木村さんだからまあいいかとは思ひますが、自己責任でせうかね(苦笑)。
眞劍勝負の時に名を名乘るのは日本人の床しき傳統だと思ひますが、中村さんのお考へは違ふやうですね。一度、日本人の倫理觀についてじつくり教へて戴きたいものです。知合ひから匿名で何かを聞き出さうとする行爲が如何に日本男兒として立派であるかと云ふ話を含めて。
貴方本人らしい人物の顏寫眞付の文章がネット上にあるが、それをブログで紹介してゐない樣だからそれを私はさすがにリンクしないでゐるのだが、折角だから質問する。協議會のサイトのあなたの肩書は新聞社勤務とある。事務屋ならそれでいいだらうけれども、違ひますよね。何故公表しないのですか。
會社の内規で、私的なウェブサイトに職業上の肩書を記す事を禁じられてゐるからです。大抵のサラリーマンが同樣の規制を受けてゐる事は常識だと思ひますが、中村さんの眼には、私が何だか物凄く卑怯な人間に見えるのでせうね。ふざけるな馬鹿野郎と云ひたいところですが、ぐつと我慢しませう。
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コメント
中村氏の傲慢な口調を見てゐると、「保守派は『自尊史觀』の持ち主である」と云ふ非難に説得力があるやうに思はれて來ますね。
投稿: 野嵜 | 2006年12月14日 (木) 22時45分
呉氏の著書に引用された投稿が当時気になっていましたが、思いがけず現在の活動を知って、驚くとともに、堂々としてさわやかな論陣に魅せられました。思想、信条は必ずしも同じとはいえませんが、貴兄の敬愛する松原正氏の著作は是非読んでみたいと考えております。では、いっそうの活躍を祈っております。
投稿: 松井安彦 | 2006年12月19日 (火) 19時49分
有難う御座います。呉さんがコラムを書いていらつしやつた「噂の眞相」に投稿してからもう二十年餘。松原ファンになつてからもほぼ同じ年月が經ちました。お二方の思想には大きな違ひがありますが、共通するのは明晰で論理的な文章です。肖りたいと思ひつつ、なかなか實現出來ません。どうぞ今後とも御贔屓に。
投稿: 木村貴 | 2006年12月20日 (水) 02時15分
さっそくのご返事ありがとうございます。
未知の人と意思疎通できる喜びを感じますが、その一方、ネットに飛び交う言葉の多くにやりきれない思いを感じるのも事実です。私のように不案内な人間には、ネットという環境は、表記法の問題と同様に、言葉(批評)の生理を変質させてしまうような印象を受けます。責任主体から切り離された言葉が空転し、他者への批評が小手先の技術と化す・・・もとより素人の印象論にすぎませんが。
木村さんは、こうした修羅場をくぐりながら、毅然とした姿勢に乱れが感じられないのが不思議ですが、この問題についての考えを聞かせていただけたら幸いです。
投稿: 松井 | 2006年12月20日 (水) 20時59分
>ネットという環境は、表記法の問題と同様に、言葉(批評)の生理を変質させてしまうような印象を受けます。
文章とは今も昔も人間が書くものですから、紙であらうとウェブであらうと本質的な違ひは無いと思ひます。ウェブ上での遣取りは感情が直接ぶつかり合ふので、人間の地金が出やすいとは云へるでせうね。私も地金を出し捲つてゐますし。
投稿: 木村貴 | 2006年12月21日 (木) 00時39分
ありがとうございます。
最近のコメントを読んでいると、木村さんのいう「地金」が、思想上の骨格であることがよくわかりました。
ネットの初心者のくせに、漠然とした否定論を書きましたが、木村さんや野嵜さんの応酬を読むと、論戦で蓄えられた言葉の力を、まざまざと感じます。
遅まきながら、自分も勉強しなければ、という気分です。
投稿: 松井 | 2006年12月26日 (火) 23時41分