« 續々・何か御質問は | トップページ | 正々堂々日本男兒 »

2006年12月 8日 (金)

言語と經濟

 

 經濟には言語と共通するところがたくさんあるやうに思ふ――予測できないやうに自己を形成すること以外にも、多くの共通點がありさうだ。言葉は何のためにあるか? もつともらしい答へでは、コミュニケーションのためだ。それだとコヨーテの鳴き聲やシロアリのフェロモンにも當てはまる。これは言葉の機能を正當に扱かつた答へではない。かういふのはどうか? 言語は、文化およびその他多くの目的の發展を可能とする過程において、學習と學習の普及のためにもある。まさに同樣に、經濟は物質的必要を滿たすためにある。だが、それならシカの食料あさりやハゲタカの腐肉あさりについても言へる。これは經濟の機能を正當に扱つた答へではない。言語と同じやうに、經濟生活によつて、われわれは文化や目的を實現するため多くの用途を發展させることができる。そして私の意見では、それがわれわれにとつて經濟の最も意義深い機能なのだ。(ジェイン・ジェイコブズ『經濟の本質』、香西泰・植木直子譯)

 ジェイン・ジェイコブズはアメリカ生れのカナダ人思想家。市場經濟と言語の類似性はハイエクやフリードマン等の自由主義的經濟學者も指摘してゐる。どちらも政府が計劃的に拵へたものではないにもかかはらず、いや、だからこそ、自律的に、精妙に機能する。社會主義經濟は崩壊したし、人工言語エスペラントは普及しなかつた。

 ジェイコブズは上記文章で言語と經濟の「最も意義深い機能」についても觸れてゐる。經濟は食ふ爲だけにあるのではない。「文化や目的を實現するため多くの用途を發展させる」事こそ、より重要な役割なのだ。人間はパンを超える存在を求めて生きるのだから。

 同じやうに、言語は「コミュニケーション」の爲だけにあるのではない。「文化およびその他多くの目的の發展を可能とする過程」において、「學習と學習の普及」を擔ふのである。同時代人同士の「コミュニケーション」の爲だけであれば、「現代仮名遣い」「制限漢字」でも構はないかも知れないが、歴史的に形成されて來た文化を學習するには時代的斷絶の小さい表記を撰ぶべきである。

|

« 續々・何か御質問は | トップページ | 正々堂々日本男兒 »

コメント

初めまして。EsperantistoのBarkituroと申します。

>歴史的に形成されて來た文化を學習するには時代的斷絶の小さい表記を撰ぶべきである。
という意見には私も賛同できます。

>どちらも政府が計劃的に拵へたものではないにもかかはらず、いや、だからこそ、自律的に、精妙に機能する。
ではトルコ語はどうでしょうか?確かにこれでも単語は使用者により精妙に選別されていますけれど、文字や新語作成はトルコ政府(言語委員会)により行われています。また現代ヘブライ語などの例もあります。民主的とは言えませんけれど。また

>社會主義經濟は崩壊したし、人工言語エスペラントは普及しなかつた。
と、相反する概念を対句で表現するのもおかしいと思います。確かに帝国主義的なものへの反発という点では共通していますけれど前者は「全体的な統制経済」であり後者は「言語の多様性のための橋渡し言語」なのですから。

以上の点を疑問に思ったので書き込みました。

投稿: | 2006年12月20日 (水) 10時30分

 こちらこそ初めまして。

>ではトルコ語はどうでしょうか?確かにこれでも単語は使用者により精妙に選別されていますけれど、文字や新語作成はトルコ政府(言語委員会)により行われています。また現代ヘブライ語などの例もあります。民主的とは言えませんけれど。

 トルコ語やヘブライ語は勿論、その他の言語にも專門的智識は無いのですが、政府の言語政策が言語の生理に忠實なものであれば、比較的上手く機能する可能性はあるでせう。しかし言語は本質的に少數のエリートがコントロール出來るものではありませんから、「官製言語」には何らかの歪みが出るのではないでせうか。

>確かに帝国主義的なものへの反発という点では共通していますけれど前者は「全体的な統制経済」であり後者は「言語の多様性のための橋渡し言語」なのですから。

 政治的意圖が違つたとしても、自然に發展すべきもの(經濟と言語)を人工的に造らうとした點では共通してゐます。

投稿: 木村貴 | 2006年12月21日 (木) 00時32分

返答ありがとうございます。
しかし木村さんの述べられる「言語の生理」というものがよくわかりません。私は、言語が人間の世界把握の投影であると考えております。しかし言語が生きている、とは考えられないので。むしろその言語が「人間の生理に忠實なもの」であれば、「官製言語」もうまく機能するのではないでしょうか?

>政治的意圖が違つたとしても、自然に發展すべきもの(經濟と言語)を人工的に造らうとした點では共通してゐます。

なるほど、了解しました。しかし経済に貨幣を持ち込んだのは為政者(貨幣には為政者の顔が刻まれる)ですし、市場を動かすのも人間です。そしてもちろん言語を話すのも人間です。これら本来的な“人工”物を、あたかも人間の手を離れて自律的に「自然に発展すべきもの」と表現するのは、occultのような気がしてなりません。

投稿: | 2006年12月21日 (木) 09時06分

>しかし木村さんの述べられる「言語の生理」というものがよくわかりません。私は、言語が人間の世界把握の投影であると考えております。しかし言語が生きている、とは考えられないので。むしろその言語が「人間の生理に忠實なもの」であれば、「官製言語」もうまく機能するのではないでしょうか?

 幸ひにも「人間の生理に忠實なもの」であれば、「官製言語」もうまく機能するでせう。しかし私は官製言語が人間の生理にそこまで忠實ではあり得ないと思ふのです。

>経済に貨幣を持ち込んだのは為政者(貨幣には為政者の顔が刻まれる)ですし、市場を動かすのも人間です。そしてもちろん言語を話すのも人間です。これら本来的な“人工”物を、あたかも人間の手を離れて自律的に「自然に発展すべきもの」と表現するのは、occultのような気がしてなりません。

 「官製」にしても「民製」にしても動かすのは人間ですが、前者は少數、後者は多數と云ふ違ひがあります。

投稿: 木村貴 | 2006年12月22日 (金) 02時29分

これはどうやら、言語を為す人間の数が人間の生理に忠実かどうかを左右しうるか?という問題に行き着きそうですね。

投稿: | 2006年12月23日 (土) 10時30分

>これはどうやら、言語を為す人間の数が人間の生理に忠実かどうかを左右しうるか?という問題に行き着きそうですね。

 補足しますと、この場合、「數」は「質」の問題でもあります。少數のエリートは人工的な言語を考案する事は出來ても、それに命を吹込む事は出來ません。言葉を生かすのはそれを自由に使ひこなす多數の人間です。林さんはこの相違を理解していらつしやるからこそ、言語を「考案する」事と「生かす」事とを故意に混同して、「為す」と云ふ不自然な表現(「言語を爲す」と云ふ日本語はありません)をお使ひになつていらつしやるのではないでせうか。

 社會主義經濟は、少數のエリートが正しいと考へる商品やサーヴィスを大衆に押し附けるものです。言語においても同樣の現象が見受けられます。その一例が戰後日本の國語國字改革です。エスペランティストは自らの言語を權力で強制しませんでしたから、日本の國語改革主義者に比べれば遙かに賢明だつたと云へませう。

 もしエスペラントが權力による強制無しに普及するのであれば、何も反對する理由はありません。寧ろ慶賀すべき事でせう。

投稿: 木村貴 | 2006年12月24日 (日) 04時12分

「言語を為す」というのはさすがに不自然でしたね。二つの件を強引にまとめたので分かりにくい表現でした。木村さんの解釈とほぼ同じ意味です。

私にとっては、日本語を「国語」と呼ぶことも国家権力の強制です。だからこそ木村さんのような旧仮名遣いを使う方もいて、そして私のような新仮名遣いを使う人間もいる、他民族語の学習も思うがままにできる、そんな言葉の多様さが世界規模で実現できれば良いな、と希望しています。私は強制する人ではなく希望する人esperantoなのですから

貴重な意見をありがとうございました。

投稿: | 2006年12月24日 (日) 10時20分

>私にとっては、日本語を「国語」と呼ぶことも国家権力の強制です。

 しかし政府は「日本語」と云ふ言葉を排除してはゐないやうですよ。文科省の文書にも屡々登場します(下記のurl參照)。
http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/18/04/06042520/001/001.htm
 一方、「國語」は完全に排除されてゐますね。

>だからこそ木村さんのような旧仮名遣いを使う方もいて、そして私のような新仮名遣いを使う人間もいる、他民族語の学習も思うがままにできる、そんな言葉の多様さが世界規模で実現できれば良いな、と希望しています。

 日本では國家権力が「旧仮名遣い」を排除し、「新仮名遣い」を事實上強制してゐます。林さんには是非、この現状に憤つて戴きたいと思ひます。

 ちなみに、世界で英語の使用者が増えてゐる事を「言語帝國主義」と呼ぶ人がゐますが、これは間違つてゐます。英語の使用はアメリカが政治權力で強制したものではないからです。

 言語についてどの程度の多樣性が適切なのか、誰にも判斷する事は出來ません。權力の介入を排し、自然に任せた結果こそが適切な多樣性であると私は考へます。

投稿: 木村貴 | 2006年12月24日 (日) 13時10分

柳田國男は、結構エスペラントに好意的だつたのですけれども、國字改革には批判的でしたね。

投稿: 野嵜 | 2006年12月24日 (日) 17時00分

木村様
>一方、「國語」は完全に排除されてゐますね。
なるほど。てっきり「国語」という科目名があるので、そうだと思い込んでいました。

>國家権力が「旧仮名遣い」を排除し
勿論憤っています。それから名前の漢字の制限や常用漢字などの規制はあってはならないです。私が中高生の時に、沖縄県の新生児の命名に「琉」の漢字が使用できなかったとの報道がありました。こんなことがあってはなりません。

>ちなみに、世界で英語の使用者が増えてゐる事を「言語帝國主義」と呼ぶ人がゐますが、これは間違つてゐます。

英語帝国主義とはアメリカ先住民の言語やウェールズ語などへの過去の圧迫を表しています。しかし、英語の使用者が増えることで圧迫されている少数言語があればそれは「言語帝国主義」(これ以外の適当な言葉は知りません)でしょう。例え政治権力が介入しなくても。自然に任せすぎて、言語に弱肉強食の原理が働いたために、言語が失われていくのは心の痛いことです。

野嵜様
柳田國男に関してはあまり知りませんけれど、欧州にいた際にエスペラントを学習したらしいですね。

投稿: | 2006年12月24日 (日) 19時33分

>英語の使用者が増えることで圧迫されている少数言語があればそれは「言語帝国主義」(これ以外の適当な言葉は知りません)でしょう。例え政治権力が介入しなくても。自然に任せすぎて、言語に弱肉強食の原理が働いたために、言語が失われていくのは心の痛いことです。

 言語の消失は學問的には惜しまれる現象かも知れませんが、或る言語から英語への「乗替へ」が個人の自由な選擇である限り、致し方無い事です。人間は言語學者や文化多元論者の爲に言語を使つてゐるのではないのですから。

 或る言語を天然記念物のやうに人工的に保護する事は可能かも知れませんが、それが生きた言語であるとは最早云へないでせう。

 尤も私自身は、言語の多樣性はさう簡單に無くなるものではないと考へてゐます。

投稿: 木村貴 | 2006年12月24日 (日) 22時49分

>英語への「乗替へ」が個人の自由な選擇である限り

自由な選択であればいいでしょう。

>人間は言語學者や文化多元論者の爲に

その言葉を使っている人間もいます。

投稿: | 2006年12月24日 (日) 23時07分

>その言葉を使っている人間もいます。

 その人間が自由に英語を選擇するのであれば致し方ないと云ふ事です。

投稿: 木村貴 | 2006年12月26日 (火) 02時00分

林さんの書込む目的は何ですか。

投稿: 野嵜 | 2006年12月26日 (火) 03時06分

木村様
>その人間が自由に英語を選擇するのであれば致し方ない

生活の必要に迫られる場合もあります。それを自由と呼ぶか否かについては意見が分かれそうですけれど。

野嵜様
>書込む目的
1まずは大学で岡田先生のことを知り、「旧字旧仮名遣い」で文章を書く、日本の身近な「少数言語使用者」の存在を知った。そこで話を聞いてみたくなった。

2岡田先生の「エスペラントに對する疑問 」を読んで、先生が「国語改革」という民族語内での問題と「国際語」という民族間の問題を混同していることに気付き、そのことに気付いて欲しかった。

3その後は2の岡田先生という対象を野嵜様に変更しての書き込み。

4「地獄の箴言」における書き込みは2とほぼ同じ理由。

 野嵜様が柳田國男のことをどう考えているかは分かりません。しかし「エスペラントを支持すること=国語改革」とはならない事例を野嵜様が書き込まれた時点で私は目的を達成したと思いました。野嵜様が「欲望を切替える場の区別」について信じていないまでも、その存在に気付かれたのでは?と考えたからです。

確かにエスペラントも国語改革も『1984年』の新語法を例に一様に批判される件ですけれど、この新語法の重要な点は「文法」ではなく「単語使用の制限」にあるのだと考えています。なぜなら文法批判は現存する民族語への偏見をも促すからです。だからこそ「意味が通じるならばtrinki(飲むこと)からmaltrinki(小便をすること)という新語を使ってもいい。」というエスペラントの単語の自由さを新語法では批判できません。もちろん民族語にはこんな自由さは無いでしょう。「ちょっと逆さ飲んでくる。」と言っても返答は「?」でしょうし、言葉の乱れとして批判されることでしょうから。

投稿: | 2006年12月26日 (火) 10時14分

>生活の必要に迫られる場合もあります。それを自由と呼ぶか否かについては意見が分かれそうですけれど。

 この場合、「生活の必要」が政治權力の強制によるものであれば自由な選擇とは云へませんし、政治權力と無關係であれば自由な選擇と云へます。

 「母國語を捨てて外國語を使はなければ生活に窮する」と云ふやうな状況が生まれるのは、大抵は政治權力が絡む場合でせう。より高い報酬を得る爲に外國語を使ふと云ふ程度の事であれば、強制とは云へません。

投稿: 木村貴 | 2006年12月26日 (火) 11時47分

目的を達したのなら結構だけども、兔に角林さんの言ふ事は訣がわからなくて困る。波江みたいに獨り合點して書いてゐるやうに見えるので、他人にも解るやうに書いていただければと。

エスペラント方面だか何處だかは知りませんが、林さんの文章には「内輪」でしか通じない「符丁」が矢鱈多くて、門外漢には何がなんだかさつぱりわからない。「欲望を切替える場の区別」とか言はれても。欲望を切替へるつて何ですか。「私は欲望を切替へました」なんて、世間では言ひませんからね。例へば小學生にも解るやうに書いて下さい。

投稿: の | 2006年12月26日 (火) 19時42分

木村様
政治権力からの圧力もあれば他の民族語集団からの圧力もあり、一概には言えないようです。

の様
>エスペラント方面だか何處だかは知りませんが、林さんの文章には「内輪」でしか通じない「符丁」が矢鱈多くて

そういうのはもっと前に言うべきことで、終わった後に言うことではありません。あと、の様の「波江さん」は充分に「符丁」だと思います。

>欲望を切替へるつて何ですか
民族語と人工語を同じように考えないことです。それを「欲望」と書き続けたのは、つられてしまった私の落ち度ですね。もし次回があったら、そのときは注意いたします。

投稿: | 2006年12月26日 (火) 22時09分

>そういうのはもっと前に言うべきことで、終わった後に言うことではありません。あと、の様の「波江さん」は充分に「符丁」だと思います。

言つて惡いのかよ!
大體、言はれる前に氣を附けるのが當り前だらう。なんで御前がそんな説教出來るんだ? 何か知らんけど、林氏は口調が偉さう。エスペランティストは自覺がないらしいが、如何にも傲慢な口調をしてゐる。何うしてかうも野蠻人を諭す「宣教師」みたいな口調をエスペランティストは使ふのだらう。聞いてゐて蟲酸が走る。

あと、「ここ」は俺なんかのテリトリだから、そこで俺等の符丁が出て來ても全く問題ない。「ここ」は俺等のテリトリなのだから、そこでだけ通用する言葉があるのは當り前で、そこに後から入つて來た「他人」は、既存の語彙を理解するやう努めなければならない。
一方の林氏は、他人のテリトリに入り込んで來て、そこで他人を説得しようとして、なのに自分にしか判らない言葉の使ひ方をする。それはをかしい。

と言ふか、「民族語の領域」にゐる野嵜が仲間内でのみ通用する符丁を使ふ事は正しいが、「國際語の領域」にゐる林氏が仲間内でしか通用しない符丁を使ふのは正しくない。エスペラントのやうな「共通語」を支持するのならば、誰にでも通じるやうに物を言ふやうにするのが正しい筈。

>>欲望を切替へるつて何ですか
>民族語と人工語を同じように考えないことです。

日本語の文章として「欲望を切替へる」の意味が「民族語と人工語を同じように考えない」になると本氣で思つてゐるのですか。さうだとしたら、あなたはをかしいよ。さうでないとしたら、あなたは無理な言ひ訣をしてゐるに過ぎない。

>それを「欲望」と書き続けたのは、つられてしまった私の落ち度ですね。もし次回があったら、そのときは注意いたします。

「つられてしまった」と言つてゐるのだから、「私の落ち度」だと本氣で思つてゐないのは明か。實に失敬な奴だ。

投稿: 野嵜 | 2006年12月26日 (火) 22時48分

>「國際語の領域」にゐる林氏

旧字旧仮名遣いと新字新仮名遣いという違いはあるけれど、「日本語」で書いているので書き込んでいる際の私は野嵜様と同じ「民族語の領域」にあります。

投稿: 野嵜 | 2006年12月26日 (火) 23時48分

>政治権力からの圧力もあれば他の民族語集団からの圧力もあり、一概には言えないようです。

 政治權力でない「他の民族語集団」からの壓力で、母國語を捨てて外國語を使はなければ生活に窮する實例を、何か擧げて戴けませんでせうか。ある民族語集團が他の民族語集團を征服するやうな場合、征服側は既に政治權力であると思ひますが。

>旧字旧仮名遣いと新字新仮名遣いという違いはあるけれど、「日本語」で書いているので書き込んでいる際の私は野嵜様と同じ「民族語の領域」にあります。

 これはちよつとをかしいですね。林さんはこの場では便宜上民族語(日本語)で書いていらつしやつても、本來は民族語を超える普遍的言語(エスペラント)を理想としていらつしやるのでせう。その理想に忠實である爲には、日本語でお書きになつてゐる時は日本人の誰もが理解出來る普遍的な表現をお使ひになるべきでせう。急にレヴェルを落とさないで下さい。

 生意氣を云はせて貰へば、日本人の誰もが理解出來る文章を書けない人に、世界中の誰もが理解出來る文章を書けるとは考へにくいのですが。

 實は、エスペラントなんぞ使はなくとも世界普遍の言語は既に存在します。それは「論理」と呼ばれてゐます。

投稿: 木村貴 | 2006年12月27日 (水) 02時47分

>投稿 野嵜 | 2006年12月26日 (火) 23時48分
お前は俺か。

投稿: の | 2006年12月27日 (水) 03時05分

野嵜様
すみません。ペーストする場所を間違えました。

木村様
>政治權力でない「他の民族語集団」からの壓力で(中略)生活に窮する實例

そのような例は無いでしょう。何かしら政治権力が関わってきますので。しいて言うならば少数の遊牧民族が多数の定住民族を支配した場合に稀に起こります。

>本來は民族語を超える普遍的言語(エスペラント)を理想として

いえ、私は自分の民族語を話せることを理想としています。そのための手段としてエスペラントを使っているだけです。エスペラントは木村さんの言うような理想ではありませんよ。楽しいことは楽しいですけれど。

>生意氣を云はせて貰へば、日本人の誰もが理解出來る文章を書けない人に、世界中の誰もが理解出來る文章を書けるとは考へにくいのですが。

誰もが理解できる文章とは難題ですね。私には難しいかもしれません。

>實は、エスペラントなんぞ使はなくとも世界普遍の言語は既に存在します。それは「論理」と呼ばれてゐます。

なるほど、普遍言語、もしくは完全言語と呼ばれていたものですね。

投稿: 林 | 2006年12月27日 (水) 12時05分

>>政治權力でない「他の民族語集団」からの壓力で(中略)生活に窮する實例

>そのような例は無いでしょう。何かしら政治権力が関わってきますので。

 それならばどうして「政治権力からの圧力もあれば他の民族語集団からの圧力もあり、一概には言えないようです」などとお書きになつたのでせう。「一概には言えない」と「そのような例は無い」は完全に矛盾します。

>しいて言うならば少数の遊牧民族が多数の定住民族を支配した場合に稀に起こります。

 「支配」は政治權力ではないのでせうか。

>いえ、私は自分の民族語を話せることを理想としています。そのための手段としてエスペラントを使っているだけです。エスペラントは木村さんの言うような理想ではありませんよ。楽しいことは楽しいですけれど。

 日本語を話す爲の手段としてエスペラントを使ふとはどう云ふ意味なのか理解出來ません。

投稿: 木村貴 | 2006年12月27日 (水) 12時34分

>一概には言えないようです」などとお書きになつたのでせう

木村様の意見に反論したのではありません。政治権力ばかりではなく、政治権力と民族集団の「無言」の圧力が合わさる場合もある、と意見を加えただけです。解かりづらい表現でした。

>少数の遊牧民族が多数の定住民族を支配した場合

この場合、ベルベルや鮮卑などの言語は、アラビア語と中国語という被支配言語に圧力を受けました。多数の民族集団の圧力の方が強かった例です。モンゴル帝国もその例に含まれるでしょう。しかし非常に稀で、しかも前近代的です。

>日本語を話す爲の手段としてエスペラントを使ふ

「国際化」という名目で英語やフランス語などの既存の国際語を国家の共通語にしようとしたり、自分の民族語を改造したりして「国際社会」での利便を図ろうとしたり、征服した土地で自民族語教育を強制したりしたのは、国際語と民族語が未分化であったからではないでしょうか?

確かに歴史上、国際語になったのはいずれも民族語でした。しかし私は、民族語は文化と伝統と言語共同体(同じ言語を話す集団)の維持のために、そして国際語は共同体間の伝達のために使うべきだと考えています。そして両者を区別するためには、民族語とは違う立場にある国際語を設けたら良い、と考えました。

ですから国際語はエスペラントではなく他の人工語や英語などの既に国際語となっている民族語でも良い訳です。しかし民族語を国際語として採用すればその民族語を話す共同体が有利になります。ですから私は人工語を、そして他の人工語よりも広まっているエスペラントを手段として選択したのです。

このように国際語の問題においてエスペラントは目的ではなく、国際語と民族語を分けるための手段に過ぎません。それは「エスペランティスト」が「エスペラントを話す人」だけではなく「言語問題に関心がある人」を含む場合もあることからもわかります。これによれば木村様も広義のエスペランティストになるわけです(笑

投稿: 林 | 2006年12月28日 (木) 11時09分

現状ではアメリカが國際社會で優位に立つてゐます。軍事力・經濟力その他の理由がある訣ですが、兔に角さう云ふ事實がある。
そこで日本人がエスペラントを使つたとする。それで何か意味があるのかと言へば、別にないでせう。日本人がエスペラントを使はうが使ふまいが、アメリカが國際社會で優位に立つてゐると云ふ事實は變りません。軍事面で優位にある、經濟力の點で優位にある――その事實に基いてアメリカ人が横柄に振舞ふ。當り前の話です。そして、さう云ふ横柄な態度をとれる國民が、わざわざ弱小民族に附合つてエスペラントを使用して呉れるか何うか。

投稿: 野嵜 | 2006年12月28日 (木) 22時46分

野嵜様
アメリカ合衆国やその国民がエスペラントに付き合うか否かは彼ら自身の問題です。しかし、そのような疑問は私よりもこちらに尋ねる方が早くて正確だ、と思います。
http://www.esperanto-usa.org/

投稿: 林 | 2006年12月28日 (木) 23時34分

それはあなたが尋ねて、囘答を報告するのが筋ではないですか。

投稿: 野嵜 | 2006年12月29日 (金) 00時26分

>民族語を国際語として採用すればその民族語を話す共同体が有利になります。ですから私は人工語を、そして他の人工語よりも広まっているエスペラントを手段として選択したのです。

 エスペラントはヨーロッパ語が元になつてゐるのですから、習得するには日本人よりも歐米人の方が「有利」です。民族によつて有利不利が生じないやうにする事が人工語採用の理由であれば、なぜエスペラントのやうにヨーロッパ側に偏つた言語をお撰びになるのでせうか。

 同じ民族の中でも、例へば日本でも、標準語として東京方言が採用されてゐて、東京出身者は東北や九州出身者よりも「有利」になつてゐます。林さんの理窟で云へば東京出身者が有利にならないやうに、どこの方言でもない「人工日本語」を標準語として考案しなければならなくなる筈ですが、それで宜しいのでせうか。

投稿: 木村貴 | 2006年12月29日 (金) 03時34分

木村様
まずヨーロッパ語系の流れを汲むエスペラントを選択したのは、ある程度に流布した人工語が現時点でそれしかないから。重要なのはどの言語に近いかではなく、それが民族語か、それとも人工の国際語か?ということです。ただし、もしエスペラントがヨーロッパ民族の民族語であれば、私も考えを改めなければなりません。

>どこの方言でもない「人工日本語」を標準語として考案しなければならない

私の理窟ならば、これは民族語の問題です。私は民族語の領域では個人の好きな言語・方言・俚言を話せばいい、また旧字旧仮名遣いだろうが新字新仮名遣いだろうが好きな字で書けばいい、と考えています。

文化・伝統の領域に人工語を入り込ませようとするのは、私の理窟に適いません。

投稿: 林 | 2006年12月29日 (金) 10時46分

「國際語」の領域では別に何語だらうと大して違ひはありません。「國際語」の領域は、飽くまで政治的な領域であり、どんな正義も相對化されます。英語だらうとエスペラントだらうと、「多くの人が使つてゐる」からと言つて「國際語」として採用されるのが當り前。それでよろしい。
一方、「民族語」の領域は、或種の正義が支配的であり得る狹い領域です。即ち、傳統・文化が正義として支配する事を許される領域です。「民族語」の領域に屬するから、國語においては傳統を守る事が重要である、と言ふ事が出來ます。


ところで。

>>欲望を切替へるつて何ですか
>民族語と人工語を同じように考えないことです。

言葉の意味を問ひ質したのに、林氏は「意義」を囘答してゐますね。ここで林氏は、飽くまで辭書的な意味に基いて文章を解釋する事が要求されてゐました。ところが林氏は「自分が言ひたかつた事」はどうたらかうたらと演説をしてしまひました。それがをかしい。どうしてかう云ふごまかしをやるのですか。をかしいのは、さう云ふごまかしを自分には許す癖、林氏は他人には辭書的な意味を執拗に尋ねる事です。

投稿: 野嵜 | 2006年12月29日 (金) 11時31分

>まずヨーロッパ語系の流れを汲むエスペラントを選択したのは、ある程度に流布した人工語が現時点でそれしかないから。重要なのはどの言語に近いかではなく、それが民族語か、それとも人工の国際語か?ということです。

 エスペラントが「人工言語」として中途半端な代物である事を認識していらつしやるのであれば、結構です。エスペラントの事を「民族によつて習得に有利不利がない人工言語」などと誤解されないやうにお氣をつけ下さい。飽くまでもヨーロッパ語の土俵の上にある事をお忘れなく。

 林さんが同好の士とエスペラントをお使ひになる事に文句を云ふつもりは全くありません。どうぞ思ふ存分おやりになつて下さい。

 私は英語を勉強したいと思ひます。英語はエスペラントと違ひ、英語を話す數億の人々と直ちに意思疎通が可能ですし、英語で書かれた多數の書物やインターネット文書を讀む事も出來ます。餘裕があればドイツ語やイタリア語や支那語も。そして私には――世間の多くの人と同樣――外國語の勉強に割ける時間はそれほど多くないのです。

投稿: 木村貴 | 2006年12月29日 (金) 14時29分

そもそも人工言語は、何時如何なる場合も「中立でない人間」が作るものだから、「完全に中立になる事」は絶對にあり得ませんね。

投稿: 野嵜 | 2006年12月29日 (金) 19時02分

木村様
>エスペラントが「人工言語」として中途半端な代物である事を認識していらつしやるのであれば、結構です。

木村様にエスペラントの学習経験があるとは気付きませんでした。

>外國語の勉強に割ける時間はそれほど多くないのです。

最後にこの言葉に勇気づけられました。お互い言語の分野で頑張っていきましょう!では、長々と付き合って頂きありがとうございました。

投稿: 林 | 2006年12月29日 (金) 22時55分

>木村様にエスペラントの学習経験があるとは気付きませんでした。

 いや特に無いんですけどね……

>最後にこの言葉に勇気づけられました。お互い言語の分野で頑張っていきましょう!では、長々と付き合って頂きありがとうございました。

 こちらこそ有り難うございました。

投稿: 木村貴 | 2006年12月30日 (土) 08時49分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/30565/12975521

この記事へのトラックバック一覧です: 言語と經濟:

« 續々・何か御質問は | トップページ | 正々堂々日本男兒 »