續・何か御質問は
何でこの件が何時までも論われ続けるのかというと、それは日頃「知的誠實」だの「政治主義の悪」だのを論じている彼ら(この件の当事者達)が、この問題の顛末を自分達のブログやサイトの読者にきちんと説明せずに、「國語問題協議會」の内輪で政治的な解決を図ったという、知的不誠實かつ政治主義的な対応をとってお茶を濁したからである。/彼らが真に「知的誠實」を旨とするならば、適当に説明してお茶を濁すのではなく、きちんとガセネタの入手経路を明示し、「国語問題協議會」内部でいかなる応酬があり、結果書き込みや自サイトの一部コンテンツを削除し詫びを入れる事態になったのかを克明に説明すべきである。
何度も説明してゐるのですが。
>きちんとガセネタの入手経路を明示し、
人の文章をちやんと讀んで下さい。「ガセネタ」ではありません。「入手経路」は云へませんけどね。
>「国語問題協議會」内部でいかなる応酬があり、結果書き込みや自サイトの一部コンテンツを削除し詫びを入れる事態になったのか
「応酬」と云ふほどのものではありませんが、フライングで書いて仕舞つたので、協議會の中で「駄目ぢやないか」と怒られて、お詫びして削除しました。
以上、削除の直後、「情報の入手・公開の方法に不適切な面がありましたので削除致しました。關係各位には御迷惑をおかけ致しました。お詫び致します」と書いた通りです。その他、何か御質問は?
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コメント
そもそも連中は、野嵜や木村さんの主張を歪曲してをり、その歪曲された(彼らにとつて都合の良い)「野嵜や木村さんの主張」と、これまた歪曲された「野嵜や木村さんの態度」とに「矛盾がある」と言つてゐるに過ぎません。ありのまゝの野嵜や木村さんの主張と態度とには矛盾がありません。だから、彼等の批判は批判として無效です。
投稿: 野嵜 | 2006年12月 1日 (金) 19時25分
喜六郎なんかは、因縁をつけて何かを要求してゐるのですよ。やくざと同じです。
投稿: 野嵜 | 2006年12月 1日 (金) 19時27分
「政治主義的な対応」なんて喜六郎は言つてゐるけれども、松原氏の著書を讀んでゐるならば「松原信者」の「政治主義」の定義を喜六郎は知つてゐる筈で、それなのに喜六郎、「一般的」な意味での「政治的」の意味で「政治主義的」と言つてゐる。
この手の「聯想ゲーム」式の故事つけで喜六郎なんかの「アンチ野嵜」「アンチ松原信者」の連中は、野嵜なんかの言つてゐない奇怪な主張を適當にでつち上げて、それをやつつけて「野嵜本人・松原信者本人をやつつけた」と大々的に宣傳してゐるのだけれども、何なのでせうかねえ。本當に「アンチ」の連中は頭が惡いですねえ。
投稿: 野嵜 | 2006年12月 1日 (金) 22時34分
>松原氏の著書を讀んでゐるならば「松原信者」の「政治主義」の定義を喜六郎は知つてゐる筈で、それなのに喜六郎、「一般的」な意味での「政治的」の意味で「政治主義的」と言つてゐる。
政治主義の定義も松原先生の言葉を引いて説明した筈なのですが、喜六郎さんは讀んでゐないやうです。
産經新聞の「正論」の見出しを見ると、殆ど例外なく、政治しか語つてゐない。曰く「小泉流の政治手法が残したもの」「抗議より独自開発の着手こそ重要」「新政権がアジア外交で心すべき事」等々。筆者の知識人達は、凡そ政治にしか關心を持たず、語るに價ひするのは政治のみであると信じてゐる。これを「政治主義」と云ふ。(「二つの大切な問題」)
http://kimura39.txt-nifty.com/hell/2006/09/post_f567.html
投稿: 木村貴 | 2006年12月 2日 (土) 01時31分
大體、我々は國語問題協議會を非難したのではないのですからねえ。喜六郎、何時もの事ですが、勘違ひして人を罵つてゐるのです。
投稿: 野嵜 | 2006年12月 8日 (金) 01時34分