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2006年12月27日 (水)

不正確な表現で論理的な文章が書けるか

 小野田博一『13歳からの論理ノート』(PHP)より。小野田氏の本はどれも面白い。

 日本人は「説明が不十分だつたり不正確だつたりする文章」から書き手の意圖を汲み取る訓練を國語の時間に受けてゐるので、「表現が不正確な文章を讀んでも、不正確とは思はないし、自分で文章を書くときも、不正確な表現の文章を書きながら正確な表現の文章を書いたつもりでゐる」――そのやうな人が多いのです。[假名遣ひ・漢字表記は變更。強調は原文のまま]

 この後、小野田氏はクイズを一問出す。次の文章のどこが不正確な表現か、お分りになるだらうか。ちなみに私は分らなかつた。

 【文例A】インターネットでの檢索やEメールの送受信に費やす時間が1日に數時間にもなると……

 答。「Eメールの送受信は、ふつう數秒なので、加算する意味がないのです」。云はれてみればその通り、正しくは「インターネットでの檢索やEメールの讀み書きに費やす時間が…」であらう。讀者の中には「何だその程度の事」と思ふ人が少なくないかも知れない。しかし一事が萬事。細部の論理的缺陷に鈍感な人間に、大局的に筋道立つた文章を書ける道理が無い。小野田氏はかう強調する。

 「『Eメールの送受信』といふ不正確な表現でも『Eメールを書いたり讀んだりすること』の意は讀み手に通じるから、それでもいいんだ」などと考へたりしてはいけません。不正確な表現では間違ひなのです。

 松原正氏は論敵の文章表現の缺陷を屡々論ふ。それを「揚足取り」と非難するアンチ松原は少くないが、それこそ「表現が不正確な文章を讀んでも、不正確とは思はない」日本人の典型的反應である。事柄を正確に論ずるには正確な表現が必要である。粗雜な表現でも理解出來るやうな事柄は確かに存在するが、それは所詮論ずるに價しない些事なのである。

 さて小野田氏のクイズをもう一つ紹介しておかう。今度は不正確な表現が複數ある。

 【文例B】Eメールのおかげで、日本人は、面と向かつての對話や議論などをほとんどしなくなつた。それでなくても話し下手で通る日本人が、面と向かつてのディベート[中略]の機會を失つた結果、ますます口下手の度合ひを強めつつある。(同書111頁)

 囘答は各自、本で確認されたい。

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2006年12月20日 (水)

傳統と合理性

 マリー・ロスバードは所謂新オーストリア學派に屬するアメリカの經濟學者・哲學者であり、無政府資本主義と云ふ過激な自由主義の提唱者である。主著『自由の倫理學』の飜譯が勁草書房から出てゐるものの、日本では殆ど知られてゐない。知られればきつと「市場原理主義者」として非難されるに違ひないが、私自身は「市場原理主義」のどこが惡いのかさつぱり分からないし、眞理は往々にして極論に存するから、彼の文章を愛讀してゐる。そのロスバードがかう書いてゐる。

 しかしもし傳統の中で身動きが取れなくなつた場合、その傳統が如何なるものであれ、どうすればそれが善なのか、惡なのか、それともそのどちらでもないのかを知る事が出來るのだらうか。原理原則が無ければ、異なる傳統の善惡を判斷し決定する事は出來ない。そして原理原則を發見する爲の鍵は理性なのである。(「フランク・マイヤー論」、『自由と美徳』所收)

 例へば「部落差別は昔から續いて來たのだから日本の立派な傳統だ」と主張する人間がゐたとして、傳統主義者の一無名人氏はどう反論するのだらうか。歴史的に形成され存續して來た傳統は善である場合が多いとは云へても、常に善であるとは限らない。善惡を判斷するには理性の力、言換へれば合理的に考へる力が絶對に必要である。

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2006年12月14日 (木)

正々堂々日本男兒

松原正信者木村貴論(十一)「保守派と論理派」

 正字を完全表記出來ぬ環境化で、正字正假名遣の大事を唱へるのは「言行不一致」となるのかな。縱書き環境を整へて貰ふべく強く訴へる事は必要だらう。横書きで訴へるのは「言行不一致」と云ふのはどうにもをかしい。

 誰がそんな事を云ひましたか。私自身、横書き表示しか出來ない「ブログ」で「正字正假名遣の大事を唱へ」てゐる人間なのですから、そんな事で他人を批判する譯がないでせう。中村さん自身が技術的・便宜的理由から縱書きを實踐してゐないにもかかはらず、國語問題協議會の横書きを非難する、そのダブルスタンダードが許せないと云つてゐるのです。國語の傳統を愛する日本人を自稱するのなら、國語の讀み方をもう少し勉強して貰ひたいものです。

 それより、氣になるのは、縱書きは「國語の生理に最適な表記」との記述。傳統ではなく、生理なのか。それは協議會の總意なのかな。

 「協議會の總意」なんかではありません。だから自分の個人サイトに書いてゐるのです。ところで中村さんは福田恆存の『私の國語教室』を讀んだ事はおありでせうか。中公文庫版の50頁にかうあります。

 [「現代かなづかい」の]幾多の矛盾は暫定的・過渡的なものではありません。[中略]それは言ひかへれば、國民の心理がではなく、國語の生理が表音主義に謀叛してゐるからであります。表音主義であらうと、ローマ字であらうと、この國語の生理といふことには勝てません。それを出來うるかぎり生かすやうに努めること、それが歴史的かなづかひの原則にほかなりません。(強調木村)

 御覽のやうに、「國語の生理」とは協議會の創立者である福田恆存の言葉ですから、私が使つたからと云つて、協議會を破門になる事は無いと思ひますよ、多分。

 「論理的である事と傳統的である事は兩立可能」と云ふが、そんな巧い話があらうか。いやいや、それは保守派と論理派を共鬪、和合させんが爲の政治的な發言だな。

 うーん、合理性と傳統を共に擁護した福田恆存もきつと、「政治的」な人間だつたんでせうね。と云ふか、そもそも國語問題協議會とは政治的な團體ですから、政治的であつても何ら問題は無いのですが。保守派と論理派を「和合」させて何が惡いのでせう。

 滅びる心配はないと云ふが、正字正假名遣も滅びる心配はなかつたんぢやないのかな。どこかで、細々と生き殘るのも認めないのかな日本の權力は。

 何を仰つてゐるのか今ひとつ理解出來ませんが、政府が介入しなければ言語は滅びないと私は主張してゐるのでありまして、逆に政府が介入してゐる現状では正字正假名は滅びて仕舞ふと考へてをります。

 いやいや、待て。私は皇位の男系に依る繼承、正字正假名遣、縱書き、元號、これらを論理的だと吟味して守るべきものと判斷したのではなく、傳統だから守るのだと云ふのが前囘の私の主張するところだが、それは流されて仕舞つた樣である。

 「流されて仕舞つた」とは心外です。傳統は合理性を兼ね備へてゐると云ふのが私の主張ですから、わざわざ傳統の重要性を説くやうな贅言は不要と考へたまでです。

 

 論理的である事がいいと云ふなら、日本人より論理的だと云ふ歐米人の言語か、パソコン言語や數式を國語に採用すればよいのではないか。

 日本人に英語やフランス語を強制したりパソコン言語や數式で「文章」を書いたりする事が「論理的」だと中村さんはお考へなのでせうか。「論理的」と云ふ言葉の意味をよく調べて戴きたいものです。

 ところで、木村さん。私の本名を晒してゐますが、それはルール違反でせう。私がさう云ふ事を云ふ資格がないとか云ふ以前にこれはよくない。木村さんだからまあいいかとは思ひますが、自己責任でせうかね(苦笑)。

 眞劍勝負の時に名を名乘るのは日本人の床しき傳統だと思ひますが、中村さんのお考へは違ふやうですね。一度、日本人の倫理觀についてじつくり教へて戴きたいものです。知合ひから匿名で何かを聞き出さうとする行爲が如何に日本男兒として立派であるかと云ふ話を含めて。

 貴方本人らしい人物の顏寫眞付の文章がネット上にあるが、それをブログで紹介してゐない樣だからそれを私はさすがにリンクしないでゐるのだが、折角だから質問する。協議會のサイトのあなたの肩書は新聞社勤務とある。事務屋ならそれでいいだらうけれども、違ひますよね。何故公表しないのですか。

 會社の内規で、私的なウェブサイトに職業上の肩書を記す事を禁じられてゐるからです。大抵のサラリーマンが同樣の規制を受けてゐる事は常識だと思ひますが、中村さんの眼には、私が何だか物凄く卑怯な人間に見えるのでせうね。ふざけるな馬鹿野郎と云ひたいところですが、ぐつと我慢しませう。

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2006年12月 8日 (金)

言語と經濟

 

 經濟には言語と共通するところがたくさんあるやうに思ふ――予測できないやうに自己を形成すること以外にも、多くの共通點がありさうだ。言葉は何のためにあるか? もつともらしい答へでは、コミュニケーションのためだ。それだとコヨーテの鳴き聲やシロアリのフェロモンにも當てはまる。これは言葉の機能を正當に扱かつた答へではない。かういふのはどうか? 言語は、文化およびその他多くの目的の發展を可能とする過程において、學習と學習の普及のためにもある。まさに同樣に、經濟は物質的必要を滿たすためにある。だが、それならシカの食料あさりやハゲタカの腐肉あさりについても言へる。これは經濟の機能を正當に扱つた答へではない。言語と同じやうに、經濟生活によつて、われわれは文化や目的を實現するため多くの用途を發展させることができる。そして私の意見では、それがわれわれにとつて經濟の最も意義深い機能なのだ。(ジェイン・ジェイコブズ『經濟の本質』、香西泰・植木直子譯)

 ジェイン・ジェイコブズはアメリカ生れのカナダ人思想家。市場經濟と言語の類似性はハイエクやフリードマン等の自由主義的經濟學者も指摘してゐる。どちらも政府が計劃的に拵へたものではないにもかかはらず、いや、だからこそ、自律的に、精妙に機能する。社會主義經濟は崩壊したし、人工言語エスペラントは普及しなかつた。

 ジェイコブズは上記文章で言語と經濟の「最も意義深い機能」についても觸れてゐる。經濟は食ふ爲だけにあるのではない。「文化や目的を實現するため多くの用途を發展させる」事こそ、より重要な役割なのだ。人間はパンを超える存在を求めて生きるのだから。

 同じやうに、言語は「コミュニケーション」の爲だけにあるのではない。「文化およびその他多くの目的の發展を可能とする過程」において、「學習と學習の普及」を擔ふのである。同時代人同士の「コミュニケーション」の爲だけであれば、「現代仮名遣い」「制限漢字」でも構はないかも知れないが、歴史的に形成されて來た文化を學習するには時代的斷絶の小さい表記を撰ぶべきである。

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續々・何か御質問は

投稿者:kirokuro 2006/12/5 23:33

 ネット上という公の場で協議会を非難しておいて、協議会から叱責されたら何の説明もなく詫び入れて記事削除してお仕舞いってのは、どう考えても「知的誠實」とはほど遠い態度だとは思います。

 だから説明してゐますつて。質問も受附けてゐるのですが。尤も、「入手経路」の實名を明かす事が「知的誠實」だとは思ひませんがね。

 公の場で非難するんじゃなくて、はじめから協議会との間でやりとりすれば良かったんじゃないでしょうかね?

 御忠告有り難う御座います。以後氣を附けます。

 メロメロメローン氏の忠告を受け入れて、これ以上の言及はやめるけど。

 質問をどうぞと云つてゐるのに、何も訊かないまま、お仕舞ひですか。まあこちらは樂でいいけれど。

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2006年12月 1日 (金)

續・何か御質問は

 「「知的誠實」はまず己に問え」

 何でこの件が何時までも論われ続けるのかというと、それは日頃「知的誠實」だの「政治主義の悪」だのを論じている彼ら(この件の当事者達)が、この問題の顛末を自分達のブログやサイトの読者にきちんと説明せずに、「國語問題協議會」の内輪で政治的な解決を図ったという、知的不誠實かつ政治主義的な対応をとってお茶を濁したからである。/彼らが真に「知的誠實」を旨とするならば、適当に説明してお茶を濁すのではなく、きちんとガセネタの入手経路を明示し、「国語問題協議會」内部でいかなる応酬があり、結果書き込みや自サイトの一部コンテンツを削除し詫びを入れる事態になったのかを克明に説明すべきである。

 何度も説明してゐるのですが。

 「『國語問題論爭史』の出版に際して」

 何か御質問は

>きちんとガセネタの入手経路を明示し、

 人の文章をちやんと讀んで下さい。「ガセネタ」ではありません。「入手経路」は云へませんけどね。

>「国語問題協議會」内部でいかなる応酬があり、結果書き込みや自サイトの一部コンテンツを削除し詫びを入れる事態になったのか

 「応酬」と云ふほどのものではありませんが、フライングで書いて仕舞つたので、協議會の中で「駄目ぢやないか」と怒られて、お詫びして削除しました。

 以上、削除の直後、「情報の入手・公開の方法に不適切な面がありましたので削除致しました。關係各位には御迷惑をおかけ致しました。お詫び致します」と書いた通りです。その他、何か御質問は?

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