いぢめ論批判に應へる
塾にいじめが無いのは、単に塾というものが「勉強するだけの場所」だからに過ぎない。 「勉強するだけの場所」であるから、塾では人間関係というものが成立しにくいのである。
だからこそ、學校が「勉強するだけの場所」になりさへすれば、いぢめで自殺する子供は減るだらうと申上げてゐるのです。但し學校がすべて塾になつても、人間らしい關係が失はれるとは思ひません。會社は「仕事をするだけの場所」ですが、樣々な人間關係が立派に成立してゐます。それと同じ事です。
公立学校を全廃して私立のみにすれば、いじめが無くなるなどと木村氏は本気で考えているのだろうか?あまりに牧歌的な認識である。/木村氏は公立の子供はいじめをするような馬鹿ばかりで、私立の子供はいじめをしない優秀な子供だと思ってるのかな?
いいえ。いぢめが「無くなる」などとは申してをりません。いぢめで自殺する子供が減るだらうと申してをります。馬鹿だらうと優秀だらうと人間はいぢめが好きな動物ですからいぢめが無くなるとは思ひませんが、少なくも逃げ場が無くて自殺する子供を減らす事は出來ます。その理由は前囘書いた通り、「惡質ないぢめをやらかす不良を退學させる事も出來ない。いぢめられる子供が自由に轉校する事も出來ない」と云ふ制約が無くなるからです。
經濟的問題は、學費を拂へない家庭に政府が直接補助金を出せば解決するし、その方が税金の再配分より餘程安上がりになる筈だ。「筈だ」?/曖昧な言い回しが嫌いな木村氏にしては、ずいぶんと曖昧な言い回しですな。
別に曖昧な言ひ方で誤魔化してゐる譯ではありません。社會科學上の理論は自然科學と異なり實驗が不可能ですから、飽く迄も推論で「筈だ」としか云へないに過ぎません。しかしこの場合、それほど複雜な問題ではありません。國民の資産の一部を税金として一旦徴收すれば、直接補助金を出す場合に比べ少なくも徴收に關はるコスト(具體的には税務署に關はる費用)は餘分にかかります。随つて直接補助金を出す方式の方が安上がりになる「筈」です。念の爲、專門家の意見を紹介しておきます。
今年最も注目を集めたなぞなぞ:公立學校はどこがアメリカ郵政公社と似てゐるか? 答へ:兩方とも非効率的で、年を追ふごとに費用がかさむものであり、果てしなく續く不満のタネであるが、それについてはいまだ何も爲されてゐない。[中略]簡単な解決法が存在してゐる。それは、政府が學校を助成する代はりに教育費を助成すると云ふものである。(デイヴィド・フリードマン『自由のためのメカニズム』、森村他譯、原著初版1973年)
因みにデイヴィド・フリードマンは本日逝去が報じられたノーベル賞受賞經濟學者、ミルトン・フリードマンの子息であります。
で、この記事を読んだ感想なんだけど、木村氏は単にいじめ問題をネタに毎度おなじみの「政治主義批判」を展開してるだけなんじゃないだろうか?
正にその通り。教育だらうが何だらうが全て政治で解決出來ると思ひ込む事、すなはち政治主義は危險な病理であると申上げたいのです。政治主義批判は弊サイトの主要テーマの一つであります。
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