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2006年11月25日 (土)

道徳と文學

「道徳と文学ゥゥゥゥ!!」

 人間には道徳的な部分と、反道徳的な部分(たとえば、誰かを殺したいという衝動にかられたりとか、いい女を犯してみたい、とか…)があると、自分なんかは思うんだけど、そういう人間の「負の部分」を「正確に描」いたら、野嵜氏が言うところの「道徳的に正し」い文学になるんだろうか?/文学に疎い自分には、とんと理解不能。/大学の文学部では、そういう風に教えるんだろうか? 教えて偉い人。

 別に「偉い人」ではありませんが、御參考迄。

 例へば「罪と罰」と云ふ作品は、主人公の青年による金貸しの老婆殺しと云ふ「人間の負の部分」を實に「正確に描」いてゐます。これだけで終れば唯の犯罪小説でせう。しかし作者ドストエフスキーは寧ろ殺人をやり遂げた時點から出發して、主人公の道徳的煩悶を克明に描いてゐます。だから「罪と罰」は、道徳とは何かを眞摯に追究した文學であり、言ひ替へれば道徳的に正しい文學なのです。

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明確な根據

言葉の救はれ――宿命の國語119

 斷言は、明確な根據がなければ單なる啖呵を切つてゐるに過ぎない[中略]。

 激しく同意。

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2006年11月18日 (土)

いぢめ論批判に應へる

木村貴氏のいじめ論を検証

 塾にいじめが無いのは、単に塾というものが「勉強するだけの場所」だからに過ぎない。 「勉強するだけの場所」であるから、塾では人間関係というものが成立しにくいのである。

 だからこそ、學校が「勉強するだけの場所」になりさへすれば、いぢめで自殺する子供は減るだらうと申上げてゐるのです。但し學校がすべて塾になつても、人間らしい關係が失はれるとは思ひません。會社は「仕事をするだけの場所」ですが、樣々な人間關係が立派に成立してゐます。それと同じ事です。

 公立学校を全廃して私立のみにすれば、いじめが無くなるなどと木村氏は本気で考えているのだろうか?あまりに牧歌的な認識である。/木村氏は公立の子供はいじめをするような馬鹿ばかりで、私立の子供はいじめをしない優秀な子供だと思ってるのかな?

 いいえ。いぢめが「無くなる」などとは申してをりません。いぢめで自殺する子供が減るだらうと申してをります。馬鹿だらうと優秀だらうと人間はいぢめが好きな動物ですからいぢめが無くなるとは思ひませんが、少なくも逃げ場が無くて自殺する子供を減らす事は出來ます。その理由は前囘書いた通り、「惡質ないぢめをやらかす不良を退學させる事も出來ない。いぢめられる子供が自由に轉校する事も出來ない」と云ふ制約が無くなるからです。

 經濟的問題は、學費を拂へない家庭に政府が直接補助金を出せば解決するし、その方が税金の再配分より餘程安上がりになる筈だ。
 「筈だ」?/曖昧な言い回しが嫌いな木村氏にしては、ずいぶんと曖昧な言い回しですな。

 別に曖昧な言ひ方で誤魔化してゐる譯ではありません。社會科學上の理論は自然科學と異なり實驗が不可能ですから、飽く迄も推論で「筈だ」としか云へないに過ぎません。しかしこの場合、それほど複雜な問題ではありません。國民の資産の一部を税金として一旦徴收すれば、直接補助金を出す場合に比べ少なくも徴收に關はるコスト(具體的には税務署に關はる費用)は餘分にかかります。随つて直接補助金を出す方式の方が安上がりになる「筈」です。念の爲、專門家の意見を紹介しておきます。
 

 今年最も注目を集めたなぞなぞ:公立學校はどこがアメリカ郵政公社と似てゐるか? 答へ:兩方とも非効率的で、年を追ふごとに費用がかさむものであり、果てしなく續く不満のタネであるが、それについてはいまだ何も爲されてゐない。[中略]簡単な解決法が存在してゐる。それは、政府が學校を助成する代はりに教育費を助成すると云ふものである。(デイヴィド・フリードマン『自由のためのメカニズム』、森村他譯、原著初版1973年)

 因みにデイヴィド・フリードマンは本日逝去が報じられたノーベル賞受賞經濟學者、ミルトン・フリードマンの子息であります。

 で、この記事を読んだ感想なんだけど、木村氏は単にいじめ問題をネタに毎度おなじみの「政治主義批判」を展開してるだけなんじゃないだろうか?

 正にその通り。教育だらうが何だらうが全て政治で解決出來ると思ひ込む事、すなはち政治主義は危險な病理であると申上げたいのです。政治主義批判は弊サイトの主要テーマの一つであります。

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2006年11月17日 (金)

「ミニコミ」のどこが惡いか

 前田嘉則さんが譯の分らない事に腹を立てていらつしやいます。

  『諸君!』11月號の「本の廣場」に、留守晴夫先生が自著『常に諸子の先頭に在り』の紹介を書いてゐる。この本は、多くの人に讀まれるべきであるし、『諸君!』が本書を紹介しようとすることを喜んだが、中にひとつ不愉快なことがあつた。/それは、本書がもともと『月曜評論』といふ月刊誌に連載されたものであることを、「あるミニコミニ[ママ]連載した」と書いてゐたことである。『月曜評論』と明記することに何か不都合でもあるのだらうか。私は、留守先生が「あるミニコミ」などと書いたことをいぶかしく思つたし、憤りさへ感じた。

 この文章から想像するに、前田さんの立腹の原因は以下の二つのうちいづれかであると思はれます。

 (1)初出媒體の固有名詞を出さず匿名にする事は不適切である
 (2)初出媒體の固有名詞を出さない事は構はないが、それを「ミニコミ」と書く事は不適切である

 まづ(1)についてですが、文脈上、初出媒體に特別の意味がない限り、「ある雑誌」「ある新聞」等で濟ませる事に何の問題も無いどころか、濟ませる事こそ正しい文章作法であります。書評欄の讀者は『常に諸子の先頭に在り』の初出媒體がどこかと云ふ事なんぞでなく、著作の内容に關心があるのですから、書下ろしでなくどこかの雜誌に連載したものだと云ふ事實さへ分かれば十分でせう。不要な事柄に關する詳しい情報は讀者にとつてノイズでしかありません。もし「月曜評論」と云ふ名を出せば、その雜誌を講讀したいと思ふ讀者を慮つて「今は廢刊となつた」と云ふ文言も加へざるを得ず、ノイズがますます増えて仕舞ひます。本質に關はらない事柄については極力省略するのが正しい文章作法であります。特に文字數の限られた原稿の場合は。

 では(2)はどうでせう。「月曜評論」はどう見てもマスコミではありません。ミニコミです。ミニコミをミニコミと書く事のどこに不都合があるのでせうか。世間には數は少なくとも立派なミニコミがあり、「月曜評論」はその一つでした。前田さんの文章を拜讀する限り、「ミニコミ」をまるで差別語のやうに考へていらつしやるとしか思へないのですが、そのやうな發想こそ「マスコミは立派だがミニコミは駄目だ」と云ふ差別意識に基づくものであると愚考致します。黒人を黒人と呼ぶ事が差別でないのと同樣、ミニコミをミニコミと呼んでも差別ではありません。

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2006年11月14日 (火)

國語も然り

 そして國語も教育同樣、政治が關はるべき事柄ではない。標語的に云へば「國家は國語に手を出すな」。國家と政府は嚴密には別の概念だから、飽くまで語呂を重視した標語に過ぎないが。

 愚考するに、國語正常化運動の目標は唯一つ、國語への政府の介入排除である。それゆゑ、所謂國語問題とは政治問題であり、それ以上でも以下でもない。

 政治の介入を排除すれば、言語は自律的進化を遂げるものだし、事實、遂げて來た。随つて、國語問題に取組む多くの人々から非難されるかも知れないが、所謂「ら拔き言葉」は少なくも日常的な話し言葉として使はれる限り、問題は無いと私は考へる。「ら拔き言葉」は政府の介入の結果生れた表現ではないからである。

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教育は政治の仕事に非ず

 いぢめで自殺する子供相次ぐ。

 何かと云ふと惡者扱ひされる塾だが、塾でのいぢめが原因で子供が自殺したと云ふ話は聞いた事が無い。この事から分るやうに、教育は「官」でなく「民」の仕事なのだ。西洋流に云へば「皇帝の物」でなく「神の物」なのだ。教育を民主政治なんぞに任せるから融通が利かず、惡質ないぢめをやらかす不良を退學させる事も出來ない。いぢめられる子供が自由に轉校する事も出來ない。

 愛國心がどうとか子供の人權がかうとか云ふ以前に、「教育基本法」などと云ふ代物を國會で議論してゐる事自體、異常である。政治に人間を育てる事は出來ない。文科省は勿論、公立學校も小學校を含め全廢し、全て私立にすべきだ。私學は矜持を以て補助金を返上すべきだ。政府が各種のアメとムチを握つてゐる現状では難しいのかも知れないが。

 經濟的問題は、學費を拂へない家庭に政府が直接補助金を出せば解決するし、その方が税金の再配分より餘程安上がりになる筈だ。いや出來れば政府の紐附きの金なんぞでなく、篤志家の寄附が望ましい。政府の判斷は常に劃一的だが、篤志家は個人だから樣々な價値觀から子供を支援する事が出來る。その爲には篤志家の税金を輕くする必要がある。

 ……と云ふやうな論議をして呉れれば國會中継をもつと熱心に視るのだが。しかし政治の本能的慾求は自らの權限を膨張させる事だから、そんな日は永久に來ないかも知れない。

 政府が本當に子供の自殺を減らしたいのなら、今すぐ教育から手を引く事だ。だが政府にそんな覺悟があり得る筈もない。文科省の役人も公立校の教員も、大半は親方日の丸の安定を手放す氣は無い。かくして表面上だけ子供を慮る振りをした議論が果てしなく續くのである。

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2006年11月 7日 (火)

またぞろ次囘に期待

 前田さんによる松原正論の第二囘とみられる文章が公開されました。しかし今囘も松原氏の文章に對する具體的な言及はありませんでした。

 前田さんは松原氏の師である福田恆存氏と松原氏自身とを對比して論ずるお積もりのやうです。次囘以降、兩者の相違點が具體的かつ客觀的に論じられるものと思はれます。期待致しませう。

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2006年11月 2日 (木)

「松原正僞善者論」始まる

 前田嘉則さんの松原正論が始まつたやうです。

 聖書にはかう書いてあつたはずだ。「口からはいるものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである」と。知的怠惰を論ふことが、自身の知的誠實を示す證據にならない。知的誠實は、むしろ批判に向つて營まれるよりも、創造に向つて用ゐられることを願はれてゐた。「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。自分の目には梁があるのに、どうして兄弟に向つて、あなたの目からちりを取らせて下さい、と言へようか。僞善者よ、まづ自分の目から梁を取り除けるがよい。」

 「僞善者よ、まづ自分の目から梁を取り除けるがよい」。前田さんの松原論は「松原正僞善者論」とでも云ふべきものになりさうです。松原ファンとしては座視する譯に參りませんが、今のところ何とも反論のしやうがありません。今囘の文章は前田さんの主觀的印象ばかりを書き連ねたもので、松原氏の主張に對する客觀的・具體的批判が何も無いからです。次囘以降に期待致しませう。

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2006年11月 1日 (水)

何か御質問は

 喜六郎さんより。

 「國語問題協議會問題」っつうのは、要するに木村氏が何処からか提供されたガセネタをロクに検証もせずに、それを元に協議会を例の調子で偉そうに非難した問題のことである。/自分はこの問題を追及する立場ではないが、日頃「知的誠実」だの「政治主義の悪」だのを声高に主張する木村氏が、この問題について口をつぐむのは解せない話である。 「協議會」問題を追及されるのがそんなに嫌ならばさっさとアカウンタビリティしてスッキリすりゃいものを、木村氏には、どうやらそれだけの度量も無いらしい。

 別に口をつぐんではゐませんが。弊サイトに上げた土屋道雄さんの文章をお讀み下さい。これが全貌だと云ふ意味で轉載したものです。土屋さんが出版社の意嚮で原稿の一部削除を余儀無くされた事は「ガセネタ」ではありません。土屋さんがそれを御自身で公表されるお積もりだと云ふ事を知らず、カッとなつて「フライング」で書いて仕舞つた事が私の失態だつた譯です。その他何かお知りになりたい事があれば可能な範圍でお答へ致します。

 そもそも、なぜこういう問題が出来したかといえば、それは木村氏の「無闇矢鱈に人を攻撃したがる性格」に由来する。/彼らのいう「知的誠実」というのは、「自分の知的な欲望(他人を攻撃したがる欲求)に誠実になる」という意味なのだろうか。

 うーん、慥かに私は攻撃的な性格かも知れません。お願ひだからこれ以上攻撃しないで下さい。

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一無名人氏の言行不一致

 日出づる國の一無名人こと中村義勝さんが「しばらくネットから離れ」るさうなので、改めて苦言を呈しておきます。

 協議会がをかしいと判断するなら躊躇せず復帰後再開しなければ嘘だが、例へば私はブラウザはFirefoxを利用してゐて勘違ひしてゐたのだが、協議会の旧サイトのトップページは縦書き表示であつたが、IEでは正しく表示されるもののFirefoxでは正しく表示されされなかつた。新サイトが立ち上げられた時、Firefoxでは左横書き表示。当然、IEでもさうだらうと思ひ込んでゐた。御存じの様に野嵜氏は縦書きを重んじない人である。しかも騒動がなければサイト作成を任せられてゐたらしいから、彼の思惑が反映してゐるのか、彼と同様な意見を持つ幹部が少なくはないのかと私は心中穏やかならぬものを抱いてゐて、そのうちブログで取り上げようと思つてゐたのだが、たまたまIEで観たら縦書き表示されてゐた。私は安堵した。協議会は縦書きも守るべき文化だと認識してゐるのである。この「発見」以前、親王殿下御誕生の折、協議会はお祝ひコメントを書くのか注目してゐた。書かなければ批判する心算であつた。縦書きも重んぜず、親王殿下御誕生のお祝ひコメントも書かぬとあつては、私が望む協議会ではない。

 實務を知つてゐる人間の一人として申上げると、國語問題協議會のウェブサイト(「傳言板」ではない本サイト)は刷新に伴ひ、ウェブ文書に於ける「正統表記」を極力遵守する方針を立ててゐます。國語に於ける「正しさ」を主張する組織は當然、ウェブ文書に於ける「正しさ」も尊重すべきだからです。随つて縱書き指定が可能なインターネットエクスプローラー(IE)については縦に讀めるやうに設計してゐますが、縱書きに對應してゐない他のブラウザ(中村さん御使用のファイアフォックス、私が日常使用するオペラ、或いはネットスケープ等)向けに無理矢理縦に讀ませるやうな「正しくない」記述は敢へてしてゐません。そのやうな不自然な作りでは、「Firefoxでは正しく表示されされなかつた」と云ふ中村さんの經驗が物語る通り、閲覽環境によつて肝腎の内容が判讀出來なくなり、本末顛倒でせう。

 中村さん同樣、縱書き表示は日本語の生理に適した表記だと私も思ひますが、同時に、一定の技術的制約の下に於いては犧牲にしてもやむを得ない特性だとも考へてゐます。上に述べたやうに、あらゆるブラウザで縦に見えるやうな不自然かつ醜惡なhtml文書を公開する事は、表記の「正しさ」や美を重んずる協議會の主張に反しますし、實務的にも「讀めない」文書を公開して仕舞ふ事になりかねない。IE以外では潔く横書きに甘んずるのが現在の技術環境では最善の選擇で、これには中村さんも同意されるでせう。

 そもそも、どうしても縱書きで讀みたい讀者にはそうする手段があります。まづファイアフォックスやオペラでなくIEを使ふ。或いは縱書き表示ブラウザの「影鷹」を使ふ。又はワープロソフトに複寫して縱書き表示する。縱書きに至上價値を見出す中村さんのやうな方は、これらのうちどれか一つの手段を撰んで戴ければ濟む話なのです。

 ところが――ここからが聲を大にして述べたいところです――中村さん御自身はIEでなくファイアフォックスを使つてゐて、だからIEで縱書き表示される事に氣附かなかつたと。一體全體、どう云ふ事ですか。縱書きがそれほど大切な日本の傳統だと信ずるのなら、意地でも縱書き表示されるブラウザを使ふべきではありませんか。自分は横書きブラウザの技術的利便を十分に享受しつつ、他人には傳統文化を守るため横書きは許さぬと云ふ。どうかしてゐるとお思ひになりませんか。しかも中村さん自身のブログは完全な横書き表示です。縱書きが大切だと信ずるのなら、技術的制約から横書きしか出來ないブログなんぞ手を出さず、縱書き可能な「ホームページ」で文章を公開すべきではありませんか。誰の眼にも明白な言行不一致。こんな人が主張する傳統だの文化だの、私には全く信用出來ません。

 だがそれは杞憂であつた。これは木村論の最後で書かうと思つてゐたのだが、かういふ事態となつたから今書く事にした。何故、正字正仮名遣を守るのか、野嵜氏と私とでは根本的に違ふ。論理的だから守るのではない、伝統文化だから守るのである。皇統の男子継承も同じ、元号もまた然り、これ等とパソコンの表示記号なんぞと同等にあつかへるわけがない。正統表記も皇室も元号もその他の伝統文化も掛け替へのない文化だから守るのである。

 「伝統文化だから守る」つて中村さん、上で書いた通り、あなたは口先で大切だと主張する縱書き表記を全然實踐してゐないではありませんか。恥を知れと云ひたい。

 論理的である事と傳統的である事は兩立可能です。特に文字言語は表記に於いて保守的である事が同時に合理的である場合が全てだと云へます。だから論理性を強調したからと云つて表記に於ける國語の傳統が損はれる氣遣ひはありません。同樣に縱書き表記も國語の生理に最適な表記ですから、政府が横書きを強制でもしない限り、滅びる心配はありません。事實、かなり前から官廳や企業で横書き文書が氾濫してゐるにも關はらず、書籍・新聞・雜誌に横書きは殆どありません。政治が妙な介入をしない限り、言語は變化と不變を共に含む總體として十全な進化を遂げるものです。だからこそ政府による「新かなづかい」の押し附けや漢字制限に反對すべきなのです。

 休んでゐる間に、いろいろお考へになるが宜しいでせう。復歸後は縱書きサイトを期待してゐます。それでは。

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