樂して物を書くな
反應を期待されてゐるやうなので反應します。
>木村貴氏の事を松原信者だと呼ぶのは、惡意あつての事だらうと思ふ人もゐるだらうが、木村氏はさう自稱してゐるのであつて、この樣な表題としたのは木村氏は「信者」を自稱して嘯く、いささか違和感を抱く人物だと云ふ意味を籠めての事であつて惡意あつての事ではない。私怨も當然ながらない。揶つて樂しむと云ふやうなそんなさもしい精神も持ち合せてゐない。そんな暇もない。結婚して子供もゐるから、實生活で樂しむ事は幾らでもあるのである。
いや私は正眞正銘、自他共に認める松原信者ですから、松原信者と呼ばれたと云ふそれだけで腹を立てたりはしません。「松原信者」と云ふ呼び方に揶揄する意圖が強く認められる場合は別ですが。
>ところで、木村氏は野嵜健秀氏を高く評價して年下ながらいたく尊敬してゐる樣であり、木村氏を「信者」と云ふ言葉を使つて表現するなら、福田恆存教松原正宗野嵜健秀派信者と云ふ事が出來よう。「信者」はそもそも宗教の信徒を指す言葉であつた樣だから、「信者」を自稱すると云ふ事は當然乍ら宗教信者に擬せられるのも覺悟の上だと思ふがさてどうか。それとも福田教松原宗の信者であるとは云へても野嵜派にはあらずと云ふのであらうか。
年上だらうが年下だらうが尊敬すべき人は尊敬するし軽蔑すべき人は軽蔑すると云ふのが私の信條です。「年下ながらいたく尊敬してゐる樣」などと云ふ言ひ草は誠に下らぬと思ひます。私は福田恆存ファンであり松原正ファンであり野嵜健秀ファンでありますが、さう公言すると世間の人は何故だか「信者」呼ばはりするのです。「ファン」を「信者」と呼ばれてカチンと來たこともありましたが、今では「まあ別に良いぢやあないか、ファンを信者と呼んでもあながち間違ひではないし」と「覺悟」してをります。中村さんが私を「野嵜派」とお呼びになりたければ御自由に。
>確かに私も彼が登場した時は、松原氏の教へ子であると云ふ事で期待したが、過大評價であつた。一方で違和感が徐々に増幅して行つたが、彼の云つてゐる事が正しいのではないかと云ふ思ひもあり、複雜な思ひを抱き、混亂してゐた。實際、舊サイトを立上げてゐた時も彼に對する批判文を書き投稿しようとした事もあつたが、それは途中で止めてしまつた。私が以前のネット活動で唯一悔んでゐるのは、私の掲示板で野嵜氏に絡まれた人を援護出來なかつた事である。野嵜氏の過大評價等反省すべき點は色々あるが、悔んでゐるのはそれだけであると云つてもいいだらう。
これについては私から云ふべき事は何もありません。「云ひたいことがあるのなら、別に今からでも遲くはないから云へば良いぢやあないか」と思ふだけであります。
>野嵜氏も最初は謙虚な人であつたと思ふが、あの樣な増上慢にした責任の一端は過大評價して必要以上に持上げ過ぎた私にもあるのではないかと思ふが、もしさうならば、これまた悔まれる事になるが、それは考へ過ぎであらうか。
「あの樣な増上慢」とは具體的に何なのでせう。根據も無しに他人にレッテルを貼るだけならどこの馬鹿にでも出來ます。
>さて、今囘、「論爭史」騷動の纏め頁を公開しようと思つて野嵜氏の日記での私の批判文や當ブログのコメントへの反論文を書かうと思つて讀み直してみたが、餘りにも酷過ぎる。十分な檢證もせず、自分本意で感情の趨くままに「脊髓反射」的に書いてゐる。しかも品がない。木村氏のブログに據ると福田恆存は感情的になつて書いたと指摘される樣な文章も話を面白くする爲にさう書いてゐるのであると云ふ事だが、なるほどさすがはニヒリスト。野嵜氏も肖つた方がいい。
中村さんが野嵜さんを「十分な檢證もせず」と非難するのであれば、少なくも御自分は「十分な檢證」を示した上で野嵜さんを非難すべきだと思ひますが、中村さんの文章を讀む限り、どこにも檢證の過程は示されてゐません。これでは他人を非難する資格はありません。
>話が横に外れて仕舞ふから軌道修正。野嵜氏の發言が餘りにも酷いので當ブログでのコメントのみを纏め頁に掲載する事にする。いや、立派な文章だよと云ふ人がゐたら指摘して結構だが、野嵜氏のホーム側の人でこのコメント群を評價する人がゐるならば正氣を疑ふ。
或る文章が「非正氣」かどうかは、その文章のどこがどのやうにをかしいか具體的に指摘しない限り、誰も判斷出來ません。他人の主張の缺陷を具體的に指摘する事は結構骨の折れる作業ですが、この苦労を厭ふ人間に物を書く資格はありません。もし中村さんが他人を根據無く「非正氣」呼ばはりするとすれば、その報ひは即座に自分に返つて來ると云ふ事をお忘れなく。例へば中村さんのブログに、一讀者が特に根據もなく「貴方は生きた化石ですね(笑)」と云ふ感想を寄せても、説得力のある反論は出來なくなります。
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コメント
「信者」を自称する以上宗教信者に擬せられても仕方ない、とは中村氏「潔癖」なお方ですね。
前に僕は、前田氏のブログで木村さんに倣つて、つひ「松原信者」を自称してしまひましたが、実際は単なるミーハーファンの域なので随分気後れしました。
僕も早く教義をしつかり理解して堂々たる「松原信者」の称号を得て布教、折伏に努めたいもんです。
その内、正字習得のため写経でもしようかと思つてゐます。
あと、来年こそは早稲田巡礼を果たし御尊顔を拝して御説法を賜りたいと。
…ここまでいくと中村氏に、「いささか」どころか相当な「違和感を抱く人物」と認定されさうです。
いや「危機感」かな。
「松原信者は云々」と云ふ文章は殆ど悪口ですが、結局「信者」と云ふ事で「客観的な見方ができない人」と云ふ印象だけを与へたいのでせう。
「何の信者であつても論理的に正しい事を云ひ得る」と云ふのが道理ですが、我が国では道理を説くよりも印象操作の方が効果的なのだから、嗚呼「言論は空しい」。
今は只管、新たなる聖典の刊行を天与のマナの如く待ち侘びてをります。アーメン。
投稿: 梅沢 | 2006年10月31日 (火) 21時52分
梅沢樣
横レスで恐縮ですが、「つひ」はついついの「つい」かと。遂には「つひに」ですが。
投稿: 渡邊 建 | 2006年10月31日 (火) 23時49分
渡辺様
御指摘ありがたう御座います。
仰る通り「突き」の音便ですから「つい」でしたね。
しかも前にも一度同じ間違ひをやらかした記憶があります。
頭には入れてゐたつもりでも、日常的に書いてゐないと、なかなか習得できません。
やはり「信者」を名乗るのはまだ早いやうです。
投稿: 梅沢 | 2006年11月 1日 (水) 02時08分
何を隠さう私も以前、「どうしよう」と書くべき所を「どうしやう」、「いらつしやる」を「ゐらつしやる」などとやらかしてゐました。忘れて下さい。
投稿: 木村貴 | 2006年11月 1日 (水) 03時33分
梅沢樣、木村樣
私もたびたび間違へます。うるさく言はないのが「正かな」のよいところと思つてをりましたのに、どうも濟みません。
ついでに。鴎外の「ぢいさんばあさん」(「全集著作篇」第六卷、昭和廿六年)の最初の頁に、「這入る(はひる)」が三箇所もでてきます。「這ふ」「入る」は、先行のかなづかひが優先するといふ例でせうが、鴎外自身がつけたルビかどうか、確認できません。
投稿: 渡邊 建 | 2006年11月 1日 (水) 09時44分