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2006年10月 8日 (日)

庶民、庶民、庶民

 前田さん、コメント有り難う御座います。

 「こんな愛も希望も無い話をすべきでない」とは前田さんの御主張を私なりに端的に表現したもので、不正確でしたらお詫び致します。しかし以下のやうな一連の御發言は 「こんな愛も希望も無い話をすべきでない」と同義であると考へますが、如何でせうか。

 (1)研究者でも出版社の編輯者でもない私たちに、漱石の誤讀のされやうを批難してもあまり生産的ではない。誠實に生きてゐる人人を勇氣附ける(それは「いやし」などといふ卑しい言葉ではない)言葉があつても良いではないか。「庶民よ胸を張れ」さういふ言葉こそ、保守の言葉だらう。(「松原正先生の講演會について」)
 (2)庶民は、正しさよりも、愛を求めてゐる。生活の中で悲しみを抱へた人人である。さういふ庶民に福田恆存の言葉は屆いてゐた。もちろん、弟子を紹介する松原正先生の姿は、やはり愛の人であつた。となれば、市井の人人へ語る言葉にも、松原正先生の思想を展開してほしかつた。知的誠實と、正義を、大學教授でもない私たちが、自分の職場や家族に對して展開しても、それは不幸になるだけである。(同上
 (3)漱石研究の水準を知りませんが、この「發見」を學會で發表された方が良いと思ひます。/あるいは知識人批判と枕として使ふなら、論壇誌に書かれるべきだと思ひます。(上記記事へのコメント | 2006.10.01 08:25 午後
 (4)知識人でもない人人にそれを言つて溜飮を下げる(あるいはそれを聞いて溜飮を下げてゐる)のは、見てゐて氣持ちよくありません。/もつと、理想に向つて語るべきです。(「にもかかはらず 1」)
 (5)講演會の餘談でするのならともかく、それ[知的誠實=木村註]が[ママ]主題にするのはどうかと思ふ。違和感はそこにあります。(「にもかかはらず2――理想なくても批判有」)
 (6)知的誠實を知識人は求められるべきですが、知とは別次元の愛なり、希望なりを與へる文章ならば、どうして粗雜さも帳消しにされる「ことがある」と考へないのでせうか。(同上
 (7) なぜもつと理想を、理想的人物像を語らないのか。留守先生にとつての栗林中將のやうな人物をもつと語れば良い。惚れた作家のことを書けば良い。(同上
 (8)松原先生は知識人に語るべきことを庶民に傳へてゐる[。](「にもかかはらず3――話を振り出しに」)

 これらの文章から前田さんの御主張を一言で云へば、矢張り「(松原先生は「庶民」相手に)こんな愛も希望も無い話をすべきでない」と云ふ事になりませんか。若しさうであれば、前田さんの主觀とは裏腹に、前田さんは聽衆である「庶民」を愚弄した事になりませんか。前田さんは、御自分が聽きたい講演を聽いてゐる時に「このやうな話は『庶民』のあなたに相應しくない」と云はれたら、どんな氣持ちがしますか。前田さんはなぜ「庶民」の代理人のやうな顏が出來るのですか。「庶民」が聽くべき講話の主題を、「庶民」が讀むべき書物の内容を、なぜそれほど熟知していらつしやるのですか。なぜ「庶民」は「誠實に生きてゐる」だとか「正しさよりも愛を求めてゐる」だとか「生活の中で悲しみを抱へ」てゐるだとか、ためらい無く斷言出來るのですか。

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コメント

お返事ありがたうございます。
答へは簡單です。


が、その前に、私の引用は正確ですが、要約は違ふと思ひます。松原先生の講演の要約ほど正確ではありませんね。なぜでせうか。


私が庶民で、庶民の一人として書きました。木村さんも庶民として、私の考へを否定するのでせう。それだけのことではないですか。見解が違ふといふことです。それで良いのではないでせうか。
「愚弄してゐる」といふことを私は木村さんに言はれても、私は「違ふのにな」と思ふ程度で、木村さんが私を「愚弄した」とは思ひません。
いづれにせよ、對象を一括りすることは不可能なのに、言葉はそれを簡單にしてしまふ力があります。氣を付けます。

木村さん自身もあの會場にゐる人すべてに尋ねたわけではないでせうから、私の考へが庶民を愚弄したものかどうかは分かりませんよね。
私は、私の感じたことを庶民を代表して言つてゐるのではありません。一人の庶民として、そして講演會を御手傳ひした者として、どうしたら多くの人に來てもらへるかを考へて書いたまでです。


ところで、今私は、木村さんと何を求めて議論をしてゐるのでせうか。分からなくなりました。

辯解は、もうしません。私が庶民を愚弄したといふ結論を撤囘していただく必要もありません。ただ、私はしてゐない、とだけここに書いて、この件は終はりにします。

續きは、私のブログで。松原先生の講演テーマと觀客とのミスマッチについて、空しさの原因についてです。

聞いてほしい人に聞いてもらつて、どうして「空しさ」があるのですか。それとも松原先生は芯からニヒリストなのでせうか。ニヒリストの保守主義とは、いつたい何を保守するのでせうか。そこら邊りを議論したいですね。

投稿: 前田嘉則 | 2006年10月 8日 (日) 21時54分

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