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2006年10月 4日 (水)

松原正論の註の註

 松原正先生の大阪講演會に就いて、前田嘉則さんが「私の松原正論の註」として感想をお書きになつてゐる。愚見は若干異なるので此處に「註」の形で記しておく。

 しかし、松原先生はやはり知識人に語り、知識人に書くべきだらうとも思つた。さういふ媒體がない不幸をあらためて感じた。先生の言動には空しさが漂つてゐた。

 「さういふ媒體がない不幸」に就いては同感だが、講演で先生の言動が空しいとは全く感じなかつた。理由は以下述べる。

 松原先生を信奉する人人とそんな話をしたが、彼らは、「空しいとは先生自身もおつしやるが、その一方で語り續け書き續けてゐる。空しいと言つてもそれを文字通り受け取つてはいけない」と語つてゐた。そんなことは私でも百も承知である。しかし、その空しさは、福田恆存の言つた「言論の空しさ」とは違ふ。松原先生は、知識人の批判しかしないが、福田恆存は知識人のみには語らない。『私の國語教室』のはじめに書かれてゐるやうに、誰に語つても通用するものを書いた。そして芝居を書いて庶民を相手にした。しかし、松原先生は、知識人しか相手にしない。

 知識人批判は庶民が讀んでも面白いものである。人間は偉さうな先生連中がやり込められるのを見聞きするのが好きである。芝居と變らない。
 

 知的怠惰を問はれるのは、第一義的には知識人である。しかし、昨日來てゐた人人は市井の人人である。さういう人人に、知識人の欺瞞を言つてどうするのだらうか。漱石の研究者に對して言へば、それは決して空しいものではないだらう。現在の漱石研究の水準を私は知らないが、反論であれ賞讚であれ研究者は反應してくれるだらう。しかし、研究者でも出版社の編輯者でもない私たちに、漱石の誤讀のされやうを批難してもあまり生産的ではない。

 「知的怠惰を問はれる」のは知識人が第一義で、庶民は〝第二義〟などと云ふ事はない。知的怠惰は萬人が戒めるべき事である。知識人の欺瞞を知る事は庶民にとつて「他山の石」となり得る。又、松原先生の講演會にわざわざやつて來る程の人は著作を通じ夏目漱石や文學一般にも關心を抱いてゐる筈で、漱石の話が退屈だとは思へない。

 誠實に生きてゐる人人を勇氣附ける(それは「いやし」などといふ卑しい言葉ではない)言葉があつても良いではないか。「庶民よ胸を張れ」さういふ言葉こそ、保守の言葉だらう。

 前田さんは庶民をやや持ち上げすぎのやうに感ずる。イエス・キリストを磔にせよと叫んだのは庶民である。

 福田恆存は、庶民に語り、庶民に書いたものが多い。庶民は、「知」だけで生きてゐない。だから、知的誠實よりも、優先するものを持つてゐる。どこかで福田恆存が書いてゐたが、列車の中で、福田が待つてゐる友人のための空席に帽子をおいてゐると、だれかが來て、その席を讓れと言つた。そのとき確か「この民主主義の世の中で」云云と言つたといふ話があつた。まさにインテリかぶれの人間である。それに對して、大學など行つてゐない御婆さんが何氣ない會話をしてゐる姿に教養を感じた、そんな話であつたと思ふ。

 婆さんが教養を感じさせるのは、婆さんに智慧があるからである。智慧の無い人間は輕佻浮薄な民主主義禮讚にすぐ踊らされる。前田さんは「知」の意味をもつと廣くお考へになれば良いと思ふ。

 庶民は、正しさよりも、愛を求めてゐる。生活の中で悲しみを抱へた人人である。さういふ庶民に福田恆存の言葉は屆いてゐた。もちろん、弟子を紹介する松原正先生の姿は、やはり愛の人であつた。となれば、市井の人人へ語る言葉にも、松原正先生の思想を展開してほしかつた。知的誠實と、正義を、大學教授でもない私たちが、自分の職場や家族に對して展開しても、それは不幸になるだけである。

 庶民が正しさをさつぱり求めないから「正字正假名」が全然復活せず、福田恆存は草葉の陰でさぞ殘念がつてゐるだらうと思ふが、それは兔も角、庶民に松原先生の言葉が屆かないのであれば、一體全體、どうして庶民揃ひの大阪講演會が十五年間も續いたのであらうか。又、知的誠實は他人に求めるものではなく、自分が默つて實行すべきものである。正義について云へば、松原先生は家庭や職場でそれを「展開」せよと仰つてはゐない。

 いみじくも、今囘は漱石の「こゝろ」を論じて、夫婦の愛を道義的に論つてゐた。明治の妻の立場を、平成の夫婦のあり方から語るのは、どうだらうか。

 松原先生は「平成の夫婦のあり方」に照らして漱石を批判したのではない。普遍的道徳に反すると考へたから批判したのである。私は先生の見方を是とするが、今は深入りする時間が無い。

 産經新聞の「正論」の筆者は、政治しか論じない。それに對して松原先生は「人は政治のみに生きるにあらず」と批判した。しかし、「人は知的誠實のみに生きるにあらず」でもある。愛によつて生まれ、愛によつて育ち、愛を殘して死んでゆくのである。先生が愛を語ることはないだらうが。

 愛と知的誠實は互ひに排除し合ふものではない。次元の異なるものである。男も女も人間たるもの須く知的たるべく努力せねばならぬ。勿論、知的とは學術論文を書く事でもなければクイズ番組で滿點を取る事でもない。

  「カエザルの物はカエザルに、神の物は神に」といふ聖句をしばしば松原先生は引用するが、先生の言葉はそのどちらなのだらうか。知的誠實といふのは、カエザルのものなのか。それが明確でないから、結局、自我の芯だけで言論を語り、空しくなつていらつしやるのではないか。松原先生の信奉者に言ひたかつたのは、そのことである。

 カエザルの物とは政治であり、神の物とは政治を超えるもの(道徳・信仰・藝術)である。知的誠實は「物」でなく「態度」であるから、このカテゴリー分類にはそもそも馴染まない。

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