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2006年10月25日 (水)

まぁ反論は出來ないでせうが

 喜六郎氏、どうしてうちのコメント欄に書かないのだらう。滅多に見ない2ちゃんねるのどこにあるやら分らないスレッドの926番目だかに書かれても、氣附かないのだから反論のしやうが無い。存在を知らない批判には御釋迦樣だつてイエス・キリストだつて反論出來ない。どこでどんな松原批判を書かうと自由だが、それに「松原信者」が氣附かないからと云つて「まぁ、言うまでもなく彼らは非難しないでしょうが」などと得意顔をするのは知能指數の不自由な人のやる事である。

 それでは、知能指數の不自由な人が書いた松原批判及び「松原信者」批判を木端微塵に粉碎する。

 言葉遣ひに几帳面だつた森鴎外と異なり、夏目漱石の文章には好い加減な宛字が隨分出て來る。「坊つちやん」で云へば「瓦落多(がらくた)」「八釜(やかま)しい」「六(む)づかしい」等。それから論理性にも無頓着な所があつて、同じく「坊ちやん」の冒頭、西洋ナイフで指を切つてみせようとする插話で「右の手の親指の甲をはすに切り込んだ」とあつて、右の指を切るには左でナイフを持つ左利きでなければならず、何かの伏線かと思はせるのだが、結局物語の展開上、坊ちやんが左利きである必然性は何も無い。

 さて、以上のやうな部分的缺陷を理由として、松原正氏は「坊つちやん」を全體として駄目な作品と斷じるだらうか。否。それどころか漱石の作品中、最も高く評價してゐる。講話などで漱石の表記は好い加減だと指摘した事はあるが、「部分が駄目なら全體が駄目」とて「坊つちやん」をこき下ろした事なぞ一度も無い。

 では「部分が駄目なら全體が駄目」と云ふ主張を掲げつつ、部分的缺陷の存在する「坊つちやん」を高く評価する松原氏の態度は矛盾してゐるのか。これも否。常識で考へてみよ、一體全體どこの世界の批評家が、高々宛字の多用や物語の本筋に關はらぬ插話の不整合と云つた程度の部分的缺陷を以て、或る文學作品の「全體が駄目」などと斷定するものか。

 このやうに書いて來れば、普通の思考力を持つ讀者なら「ははあ松原氏の『部分が駄目』とは、どうやら單に『誤謬や誤字脱字が存在する』と云ふ意味ではないのだな」と理解する事だらう。普通の思考力があれば。

 要するに、松原氏は控へ目に「部分」と云つてゐるものの、これまで批判の対象になつた西尾幹二やら西部邁やらの文章を一讀すれば明らかなやうに、「部分」なんて生易しいものぢやあない。もうそこら中に杜撰な言葉遣ひが目白押し(量的杜撰)で、しかもその杜撰の中身は彼らの主張の本質に關はるもの(質的杜撰)なのだ。例へば松原氏が批判した西尾幹二の文章

 なぜ私にことさらにこの質問を? と反問したら、つねづね傳統價値を主張している日本人に、日本社會で使われてきた暦が消えていくことによってその暦で培われてきた文化が失われていく危險性を感じていないかを知りたいためだ、といふ應答である。こう言われると私は、さりげなく、たいして氣にもかけてゐませんよ、と本能的に防戰する構えになる。

 具體的「缺陷」がどこかは松原氏の批判を參照して貰ふとして、この短い文中、松原氏が指摘しただけで三箇所もある(量的杜撰)。一頁中、一論文中は推して知るべし。そして杜撰な日本語を大量に使つて平氣でゐる事は、「傳統價値」を主張する西尾の立場と完全に矛盾する(質的杜撰)。かつ引用元の西尾の論文は全體としても支離滅裂である。これぞ正しく「部分が駄目なら全體が駄目」と云ふ言葉が意味するところなのである。そして西尾のこの文章に限らず、松原氏が「添削」しながら斬り捨てるのは、杜撰を質量ともに露呈した救ひやうの無い極め附きの駄文ばかりなのである。斬る前にまづ斬るべき相手の「全體」を見定め、然る後に相手が本質的缺陷をさらけ出した「部分」を衝く。だからこそ間違つても宛字を種に漱石を斬るなどと云ふ勘違ひをやらかす事は無いのである。以上、アンチ松原派が鬼の首を取つたやうに囃し立てる「松原正の添削は單なる揚足取り」と云ふ「誤謬」を正した。證明終。

 さて、最後にやつとこさ本題である。喜六郎氏が2ちゃんねるに書いたと云ふ文章を全文引用する。

926 :吾輩は名無しである :2006/10/24(火) 17:32:49  松原の「人間通になる読書術」にこういう記述がある。/『が孔子は時に激しく怒つた男なのだ。「樂しんで以て憂を忘れ」るのみならず、時に「憤を發しては食を忘れ」た男たのだ。』/論語の「発憤亡食」つうのは、松原が言うような「怒りのあまり食を忘れる」じゃなくて正しくは「(学問に) 発憤して食を忘れ」というのが正しい解釈。このことは呉智英が指摘しているし、岩波文庫から出てる「論語」にも普通に記載されている。 /「一部分が駄目なら全体が駄目である」という松原の持論に照らし合わせれば、「人間通になる読書術」 は駄本ということになる。

 慥かに「発憤亡食」は「(学問に)発憤して食を忘れ」と云ふのが正しい解釋で、「怒りのあまり食を忘れる」と云ふ意味ではない。随つて松原氏の解釋は誤りである。しかし、だから何なのだ。第一に松原氏の文章には、殆ど毎行の割合で誤りをやらかす西尾のやうな量的杜撰はない。第二に松原氏の誤謬は、主張の本質に關はる質的杜撰ではない。孔子は食事こそ忘れなかつたかも知れないが、「時には激しく怒つた男」である事は、それこそ「論語」に明らかではないか。天下に道が行はれぬ事を憤り、講義中に晝寢をしてゐた宰予を叱責し、顏淵の若い命を奪つた天を恨んで叫んだ。「怒りを遷さず(八つ當たりをするな)」とは云つたが、怒りそのものは否定しなかつた。随つて「『人間通になる読書術』 は駄本ということになる」と云ふ喜六郎氏の主張は誤りである。

 私は松原信者なので、本質的な事柄にしか關心が無い。少なくとも關心を向けぬやう努めてゐる。あり得ない事だが、萬が一、松原氏が西尾西部のやうな質量共に杜撰な文章を或る日突然綴り始めたら、勿論全力で批判する。しかし喜六郎氏が得意氣に指摘したやうなドウデモイイ間違ひを材料に松原氏を大眞面目に攻撃したりすれば、私は馬鹿ですと世間に宣傳するやうなものである。隣近所の手前もあるのでそれだけは勘辨して貰ひたい。本質的な誤りと非本質的な間違ひを區別出來ない馬鹿にだけはなりたくないものだ。

 蛇足だが、喜六郎氏には今後、同じアンチ松原派の「誤謬」をきちんと批判して貰ひたいと思ふ。まぁ、言うまでもなく彼は非難しないでしょうが。

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コメント

木村さん、ご無沙汰いたしております。本当に久しぶりに書き込みます。

 私はもはや松原正という人物に関心がないので、彼への批判の当否についてはここでは論じません。ただ、木村さんにとっては物事の「本質」と「瑣末(本質でないもの)」というのが簡単に分けられる、あるいは簡単に判別できるとお考えなのですね。
 
 坪内祐三についてトリビアばかりなどと以前書かれていたのもそういう考え方に基づいてでしょう。ただ少なくとも私はそう考えておりません。両者は表裏一体で交じり合っているかもしれない、少なくとも簡単に分けられるものではないと考えております。人間にとって何が大切で何がどうでもいいかはさほど簡単にわかるものではない、ということです。

 坪内氏の処女作のタイトルだる「ストリートワイズ」という言葉はあらかじめ何が本質か何が瑣末かを分けてしまう考え方への拒否、そういう精神の表れであったと考えており、私は決して坪内氏と考えがすべて一致するわけでありませんが、この精神には大いに共感しています。木村さんはここで喜六郎なる人物の指摘を「本質的なミスでない」と退けておられるようですが、「それは本質的なミスだ」という反論だって十分可能で、両者の白黒なんて簡単につけられないと思いますよ。

 誤解してほしくないのですが、私はここで木村さんを批判しているわけではありません。福田恆存の言うように、「思想とは本来、論争するものではない」「思想は自らの弱点は弱点として自らを完成するもの」だと思います。たまたま今回の文章で考え方の違いを改めて実感したので書き込んだまでです。

 福田氏は論争のとき、相手の自分と食い違う意見にも常に「あなたの言うことも正しいのだ」と考えてしまう人でした。私も「木村さんの言うことも正しい、だが、私の考え方とは違う」と思っております。だが木村さんはどうやら両者の白黒を簡単につけられると思ってしまう方らしい。だからネット上でつまらない喧嘩ばかりされているのではないでしょうか。

投稿: あまカラ | 2006年10月25日 (水) 22時58分

論爭と論戰は違ふのであり、論戰ばかりを挑んでくる「アンチ」が惡いと思ひます。

投稿: 野嵜 | 2006年10月26日 (木) 00時16分

「あらかじめ何が本質か何が瑣末かを分けてしまふ考へ方への拒否」をすると云ふ、「さういふ精神」に共感なさるあまカラさんが、なぜ木村さんの喧嘩を「つまらない喧嘩」と云ひ切れるのか不思議なのですが。
それは「何が本質か何が瑣末かを分けてしまふ考へ方」なのでは?
「それは本質的な喧嘩だ」といふ反論だつて十分可能で、両者の白黒なんて簡単につけられないと思ひますよ。

・・・と、このやうに僕には「さういふ精神」は不毛な相対主義そのものに思へます。

しかし、「自分と食ひ違ふ意見にも常に「あなたの言ふことも正しいのだ」と考えてしまふ」と云ふのは何だか情けない態度ですねえ。
僕の福田恆存像はその真逆なんですが。

投稿: 梅沢 | 2006年10月26日 (木) 02時03分

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自分がよく出入りする2ちゃんねるの某スレッドにて、以下のような書き込みを行いました。 926 名前:吾輩は名無しである 投稿日:2006/10/24(火) 17:32 松原の「人間通になる読書術」にこういう記述がある。 『が孔子は時に激しく怒つた男なのだ。「樂しんで以て憂を忘れ」るのみならず、時に「憤を發しては食を 忘れ」た男たのだ。』 論語の「発憤亡食」つうのは、松原が言うような「怒りのあまり食を忘れる」じゃなくて正しくは「(学問に) 発憤して食を忘れ」というのが正しい解釈。 このこと... [続きを読む]

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