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2006年10月26日 (木)

人間に議論は可能か

 アメリカの哲學者であり批評家のジョージ・サンタヤナは、今世紀末に書いた評論『シェイクスピアの宗教不在』の中で、シェイクスピアの世界は〈人間社會だけを扱つてをり彼には宇宙觀がない〉、さらにシェイクスピアは〈實に華やかで變化に富んだ人間生活を描いてはゐるが、その生活は背景と切り離されてゐるため無意味なものになつてゐる〉と苦言を述べてゐる。實際このシェイクスピアに對する見方はしばらくの間一般に廣まつた見解であつたが、その後の研究や調査の結果、これは必ずしも誤りがないわけではないといふことが判明した。[中略]本質的にはキリスト教的なものを含んでゐる宇宙觀について多少の智識をもたなければ、シェイクスピアの作品の解釋は誤つたものとなるであらう。(M.M.バダウィ『シェイクスピアとその背景』、69頁、河内・兼谷譯)

 シェイクスピアの作品世界が全く世俗的なものであると云ふジョージ・サンタヤナの主張は、その後の學問的成果に照らせば「誤り」である事が判明した。サンタヤナは馬鹿な男である。彼にとつて「瑣末」にしか見えなかつたシェイクスピア劇の宗教的要素は、實は「本質」的なものであつた。「性急に正邪を判定しよう」とせず、じつくりと學問の進歩を見極めてゐれば、このやうな誤りを書かずに濟んだのに――。

 ……と云ふ言ひ草こそ「誤り」である事にあまカラさんも同意されると思ふ。假に誤つてゐたとしても、サンタヤナは自分なりの根據を擧げつつ持論を展開したのである。もしそのやうなやり方で「正邪を判定」する事すら輕率で慎むべき行爲であるとするならば、全能でもなければ不死でもない人間が「正邪」について書いたり議論したりする事はそもそも不可能である。

 何だか當り前の事を大袈裟に書いて仕舞つた氣がするが、あまカラさんと私との「考へ方」の違ひを明確にする爲には、このやうな云はずもがなの事も書いておいた方が宜しからうと。

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