明々白々に語られた理想
前田さん、コメント有り難う御座います。ただ私自身を含めこの論爭に關心のある讀者は常に前田さんのブログを讀んでゐる筈ですので、ブログにお書き下されば大丈夫です。又、コメントにお書きにならなかつた私への言及もブログには有るやうです。従つて以下、ブログの記事「にもかかはらず2――理想なくても批判有」について論評致します。
「理想なくても批判有り」です。批判する人には理想があつたと過去の哲人をいくら擧げても、すべての人の「批判」の行爲に理想があるといふことの證據にはならないのではないでせうか。
理想も信念も無く徒に他人を貶めるとしたら、それはもう批判と呼ぶに價ひしません。その意味で前田さんが「批判」と鉤括弧で括つていらつしやるのは的を射た表現です。もつと直截に云へば「言ひ掛り」でせう。しかし松原先生の漱石や正論言論人に關する發言は言ひ掛りなどでなく、理想に支へられた立派な批判です。これについては後述します。
問題は、そこです。/松原先生に、理想がないとは言ひません。しかし、いつしか理想を求めるよりも、文章の添削で終はることが多くなつてはゐないでせうか。
松原先生は言論人を批判する際、相手の文章作法の杜撰をよく指摘しますが、それを「揚げ足取り」と呼ぶ人々がゐる事は知つてゐます。前田さんも同樣の感想をお持ちなのでせう。これは具體的な例をお示し戴かないと精確に論じる事は出來ませんが、松原先生の指摘は決して單なる「文章の添削」ではなく、文章の杜撰は思考の杜撰を端的に物語ると云ふ信念に基づくものです。
先日の講演會については、述べません。私も當事者ですから。これ以上は、思考を停止します。
さうであれば、その講演會について「松原先生も、御弟子の方には、知的誠實さを追及するよりは、愛を先立てて許してゐるやうでした。他の知識人に對してあれほど嚴しく批判する方であるのにです」などとお書きになるべきではありませんでした。これでは、松原正は他人には厳しいのに弟子には甘いと云ふ惡しき印象だけが殘つて仕舞ひます。
ついでながら、「愛と知的誠實」とは別次元といふことについても觸れておきます。/私は、知識人と市井の人とを分けます。當然でせう。すべての人間において果たすべき道徳ならば、もちろん共通ですが、知的誠實は「道徳」とは違ひます。職業倫理とでも言ふもので、ノーブレス・オブリージュと言ふことです。それは徹底的に追及して良いと思ひます。しかし、それはその本人に言ふべきです。講演會の餘談でするのならともかく、それが主題にするのはどうかと思ふ。違和感はそこにあります。
ここが前田さんと私(と松原先生)とで決定的に意見を異にする點です。知的誠實は、或いは知的怠惰からの脱却は、萬人がそれに向つて努力すべき目標です。斷じて學者だけの「職業倫理」なんぞではありません。小學校の先生ですら、生徒に「友達を大切にしなさい」と教へると同時に「自分の頭でよく考へなさい」と諭すではありませんか。「庶民」に知的努力を勸める事を前田さんがどうしてそこまで嫌はれるのか、不思議に思ひます。
さて、ここで松原先生の理想を一つ擧げる事が出來ます。「萬人が知的怠惰から脱する事」です。それは先生が講演の締め括りに一際眞劍な眼差しで仰つた「大事な事柄については、どうかよく考へるやうにして欲しい」と云ふ一言に明らかです。講演を素直に聽いた人の大半はさう理解したと思ひます。知的努力を庶民の徳目としてお認めにならない前田さんから御覽になれば、松原先生の理想は理想と呼ぶに價しないのかも知れません。しかしだからと云つて、松原先生に理想が無いと云ふ事は出來ません。理想は個人によつて異なるのです。松原先生に理想は有る。前田さんにそれが理想として見えないに過ぎません。
愛については、それなくしては存在できないものですから、むしろこちらの方が萬人が考へなければならない問題です。事實、松原先生も愛に引きずられて、大阪まで15囘も講演に來られたわけでせう。知的誠實を全うするために來たといふより、そこでの人間關係を大事にしてきたといふことではないでせうか。木村さんでも遠くから來られたのは、さういふ松原先生に御會いしたいといふ思ひがないとは言ひ切れないと思ひます。
「御會いしたいといふ思ひがないとは言ひ切れない」どころか、お會ひしたいと云ふ滿腔の思ひと共に新幹線に乘り込んでゐます。またぞろ繰り返しになりますが、「愛か、知か」ではなく「愛も、知も」なのです。私が愛知縣に住んでゐるからかう思ふのかどうか分りませんが、兔に角そんな私にとつて、松原先生の講演會は一粒で二度美味しい、名古屋辯で云へば誠に「お値打ち」な行事だと云へます。愛と知の愉しみを一度に滿足させられるのですから。
松原先生に、愛について語れと申してゐるのではありません。やはり根本は「空しさ」です。先生が空しいと言つてゐるのは、人を斬りながらも、その刀が相手に屆いてゐないからではないでせうか。添削に終始して、その本質を斬らないからこそ、相手が反論して來ない、さういふ風に御考へになることもできるのではないでせうか。
松原先生の言論人批判は的外れではないかと云ふ事ですね。これも具體例で論じないと不毛ですので、取敢へず「さういふ風にお考へにならない事も出來るのではないでせうか」とだけ申し上げておきます。
松原先生は、「粗雜な文章を書く奴に、良い作品が書けるはずはない」(私なりの要約)と言ひますが、本當にさうでせうか。もちろん、知的誠實を知識人は求められるべきですが、知とは別次元の愛なり、希望なりを與へる文章ならば、どうして粗雜さも帳消しにされる「ことがある」と考へないのでせうか。
「粗雜」の程度にもよりませうが、松原先生の言を俟つ迄も無く、一般的に粗雜な文章は思考が整理されてゐない證左であると云はれます。整理されてゐない思考で幾ら愛だの希望だのを説いても、讀者には傳はらないのではないでせうか。況はんや、松原先生の理想とする「良い作品」には遠く及ばないでせう(ここにも松原先生の理想が存する譯です)。前田さんの仰る、文章は粗雜だがそれを帳消しにするほど愛や希望を與へて呉れる文章とは、例へば誰の何と云ふ文章なのでせうか。
なぜもつと理想を、理想的人物像を語らないのか。留守先生にとつての栗林中將のやうな人物をもつと語れば良い。惚れた作家のことを書けば良い。
惚れた作家について、『夏目漱石』をお書きになつてゐます。尤も、惚れた相手が完璧ではなかつたので先生は途中から執筆に散々苦しまれたのですが、寧ろさう云ふ「失敗」こそ人間的な愛に相應しい。又、留守先生は栗林忠道を理想的人物として描くと共に、その理想に外れた軍人や知識人を假借無く批判してゐます。この批判は空しいでせうか。
主人公と作者とを完全に同一の存在として論じることにも違和感がある。主人公の不道徳に氣附いてゐないから、それは作者が氣附いてゐないからだといふ反論を受けたが、それは正氣だらうか。私は、「こゝろ」の先生が奧さんに自殺の理由を話さないことを不道徳とは思はない(思ひ出してほしい、ここで「人は知的誠實のみに生きるにあらず」と書いたことを。先生の妻への愛と言へるかもしれないではないか)が、もしそれが不道徳だとしても、漱石の不道徳といふ風に一直線に結びつけるのは間違つてゐる。
何から何まで楯突くやうで恐縮ですが、この御意見にも承服出來ません。しかし反論には相當骨が折れさうですし、既にかなりの長文となつて仕舞ひましたので、續きは日を改めて書く事に致します。
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