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2006年10月10日 (火)

反論とは何か――「愚弄」について一言

 かつて福田恆存は「賣文業者をたしなめる」で渡部昇一を批判してかう書いた。

 あなたの正體は共産主義者と同じで、人間の不幸はすべて金で解決出來ると一途に思詰めてゐる野郎自大の成上がり者に過ぎぬではないか。

 これに對し渡部昇一はすかさず「反論」した。以下はその全文である。

 私は共産主義者ではないし、「人間の不幸はすべて金で解決出來ると一途に思詰めてゐる野郎自大の成上がり者」でもない。

 急いで白状するが、これは私が拵へた架空の「反論」であつて、渡部昇一が書いた文章ではない。しかし假にこれが渡部の書いた「反論」だつたとしたら、讀者はどう反應するだらうか。「こんな物、反論になつてゐないぢやないか」。さう嗤ふに相違ない。福田は渡部を「共産主義者と同じ」「夜郎自大の成上がり者」と罵倒するに先立ち、その客觀的根據を明確に述べてゐる。若し渡部が福田に反論するのであれば、福田の述べた根拠を論理的に論破しなければならない。「私は共産主義者ではない」と主觀的に否定するだけでは反論と呼べないのである。

 私の知る限り、渡部が福田の批判に應へる事は無かつた。完璧な論難に返す言葉が無かつたのか、「共産主義者」「成上がり者」と云つた無禮千萬な表現に立腹したのか、福田の批判が「文章の添削」の如き詰まらぬ内容だつたので無視したのか、それは分らない。分らないが、渡部は反論しなかつた。そのやうな「黙り」は我が國の論壇では珍しくない。斯くの如き「論」壇に福田恆存は「空しさ」を感じざるを得なかつたし、弟子の松原正もやがて同樣の「空しさ」を痛感する事に相成つた。

 渡部昇一が自らを「夜郎自大の成上がり者」と認めてゐた筈が無いのと同樣、前田嘉則さんも自らが「庶民」を「愚弄」してゐるなどとは露ほども思つてゐないだらう。當然である。誰しも主觀的には善意の人なのである。

 前田さんのブログの副題は「保守の言説の再生をはかるために」である。保守の敵は誰か。革新であり左翼である。しかし左翼の思想的親玉であるルソーもマルクスも、主觀的には竝外れて善意の人だつたのである。前田さんが「保守」を自認するのであれば、ルソーやマルクスが犯した過ちに、すなはち善意を善と取り違へる過ちに、人一倍敏感でなければならぬ筈である。福田恆存はさうした主觀的善意、詰まり獨善を常に警戒してゐた。だから客觀的論證に言葉を盡くした。論理を突詰め、修辭を驅使し、誰の眼にも物事の筋道が分るやうに説いた。私はさう云ふ福田恆存を尊敬する。

 私は議論の焦點を誰の眼にも分りやすくする爲に、又、失禮を承知で前田さんを敢へて挑撥する意圖もあり、論理的内容を歪めない範圍で最も「どぎつい」表現を使つた。「愛も希望もない話をすべきでない」や「愚弄」はその一部である。「共産主義者」「成上がり者」と罵詈を浴びせられた渡部昇一同樣、前田さんも隨分氣を惡くされた事だと思ふ。前田さんが温厚な紳士である事は百も承知であり、正直云つてこちらとしても心苦しい。しかしそのやうな方だからこそ、主觀的善意を絶對視するやうな今囘の議論の仕方には強く異を唱へざるを得ない。又、これは誠に勝手な言ひ分だが、前田さん御自身もブログを訪れた梅澤さんに對し「正氣だらうか」と相當「どぎつい」言葉を浴びせていらつしやつた(それに對する梅澤さんの鷹揚な對應は立派であつた)のだから、私の暴言も大目に見て戴きたいと思ふ。

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