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2006年10月 6日 (金)

理想無ければ批判無し

 前田嘉則さんの御發言より、拙稿に關はりのある部分について申し述べます。

 松原先生も、御弟子の方には、知的誠實さを追及するよりは、愛を先立てて許してゐるやうでした。他の知識人に對してあれほど嚴しく批判する方であるのにです。

 この部分を講演會當日の現實に即して解釋すると、松原先生は御弟子の留守晴夫先生が知的不誠實をやらかしたものの「愛を先立てて許して」差上げたと云ふ事になるのですが、さうだとすれば由々しき問題です。松原先生が愛弟子の知的不誠實を許すなどと云ふ事は、少なくも私の知る限り、あり得ないからです。前田さんはどうしてそのやうに御判斷されたのでせうか。

 愛と知的誠實とは別次元ですが、別次元であるからこそ、「知的誠實のみに生きるにあらず」でせう。知識人は社會的な役割として知的誠實を求められてゐる、彼らに對して知的誠實を求めるのは當然です。/しかし、知識人でもない人人にそれを言つて溜飮を下げる(あるいはそれを聞いて溜飮を下げてゐる)のは、見てゐて氣持ちよくありません。

 愛と知的誠實が別次元の事柄であるからこそ雙方を同時に追求出來るのです。同次元であれば「愛か、知的誠實か」と云ふ二律背叛の状況に追ひ込まれるでせうが、さうではないのです。又、繰り返しになりますが、知的誠實とは學者の狹い世界だけに必要な規律でなく、萬人が實踐すべき道徳です。松原先生は庶民の知的能力と眞摯を信ずるからこそ知的誠實の大事を諄いほど説くのだと私は確信します。

 もつと、理想に向つて語るべきです。ある人から言はれました。松原先生の愛讀者です。その人も、「松原先生は、何のために書いてゐるのか」と。何を目指してゐるのか、と。知的誠實が本質的な理想なのでせうか。福田恆存にはあつた理想が、どうにも見えません。松原先生の言論には、なにか空しさを感じるのは、さういふこともあるかと思ひます。

 松原先生は多くの著作で自らの理想について雄辯に語つてゐます。理想があるからこそ、その理想から外れた他者を批判せずにはゐられないのです。「愛」の總本山たるイエス・キリストは松原先生そこのけの勢ひでパリサイ人を「斬つて」ゐますが、それはイエスが理想を持つてゐたからに外なりません。ショーペンハウアーがヘーゲルを滅茶苦茶に罵倒したのは、ベルリン大學の教師時代にヘーゲルの「裏番組」の講座を敢へて撰び、慘敗した事への僻みもあつたかも知れませんが、それ以前に彼の明晰を尊ぶ哲學的理想がヘーゲルの晦澀主義と相容れなかつたからです。同樣にルターはローマ教皇を、チェスタトンはニーチェを、ポパーはマルクスを、それぞれ口を極めて罵つてゐますが、私は彼らの理想に賭ける情熱に感銘を受けた事こそあれ、「空しさ」を感じた事など一度もありません。「和を以て尊し」となす我が國では決して受容れられないだらうなと思ひつつ。

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コメント

今日は、結論だけにします。御許しください。「理想なくても批判有り」です。批判する人には理想があつたと過去の哲人をいくら擧げても、すべての人の「批判」の行爲に理想があるといふことの證據にはならないのではないでせうか。
問題は、そこです。
松原先生に、理想がないとは言ひません。しかし、いつしか理想を求めるよりも、文章の添削で終はることが多くなつてはゐないでせうか。

先日の講演會については、述べません。私も當事者ですから。これ以上は、思考を停止します。

投稿: 前田嘉則 | 2006年10月 6日 (金) 19時33分

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