« 松原正論の註の註 | トップページ | 理想無ければ批判無し »

2006年10月 5日 (木)

主張の正否は中身で決る

 言論人が嫉妬や私怨を動機として他の言論人を批判したからと云つて、その批判が誤りだとは限らない。

 例へば、名人に嫉妬する将棋指しが相手に屈辱を味ははせたい一心で名人に挑み、見事負かしたとする。誰も「この勝ちは私怨に基づくものだから無効」などとは云はないだらう。勝負は本當に詰んだかどうかと云ふ結果で判斷すべきであつて、動機を云々するのは無意味である。

 同樣に、論壇を干された言論人が他の言論人を嫉妬に基づき批判したからと云つて、その批判内容が誤りだと斷ずるのはをかしい。主張の正否はその内容を論理的に吟味して判斷すべきであつて、動機は無關係である。

 ところが日本の論壇や論壇ゴシップを好む連中の間では、この手の「動機に基づいて主張内容を評價する」傾向が甚だ強い。松原正氏による言論人批判について、「あれは論壇から干された僻み」だの「ルサンチマン」だのと得意顏に解説してみせる人物に何人出遭つた事だらう。教へて貰ひたいものだが、若しさうだとしたら、一體どこが問題なのか。主張の正否は動機でなく中身で決るのだ。

 松原氏とて人の子、嫉妬が皆無と云ふ事はあり得ない。しかし假にさうだとしても、それで松原氏の言論人批判が的外れと云ふ事にはならない。的外れだと思ふ者は的外れであるゆゑんを論理的に述べるべきだし、述べれば良いだけの話だ。若し嫉妬の感情ゆゑに主張が非論理的になつて仕舞つてゐると云ふのなら、その論理的缺陷を指摘すべきであつて、嫉妬を、それも想像に基づいて、指摘するだけでは何の論證にもならない。

 思ふに、主張の正否を論理的に判斷するのは知的に骨の折れる作業であるが、僻みだの私怨だのは想像を逞しうしさへすれば馬鹿でも口に出來る。特に日本人は正面からの議論を避けたがる一方、「裏話」が大好きである。だから動機ばかりに興味を寄せる出歯亀的論評が多數を占めるのだ。素晴らしき哉、「美しい国」の言論。

|

« 松原正論の註の註 | トップページ | 理想無ければ批判無し »

コメント

初めまして。木村さんの文章いつも楽しく拝読してをります。
成程、確かに考へて見れば怒つてゐる時、それが私憤か義憤かなんぞ自分でも判断できなかつたりしますから、他者の動機を忖度するなど詮無い事ですね。仰る通り論ふべきは専ら「ロゴス」に尽きます。

しかし松原先生の文章はその激しさから「拒否反応」を起こす人がやはり多いのでせう。
松原先生がぐうたら言論人を斬る文章は、怒りながらもユーモアがあり僕などは読んでゐて笑つてしまふ事もあるのですが、余りさういふ見方はされないやうですね。
「笑ふ」と云ふのは優れて論理的な行為なので、論理的な文章はしばしば諧謔的ですが、この「美しい国」ではギャグはともかくユーモアは馴染まないのかも知れません。

投稿: 梅沢 | 2006年10月 5日 (木) 11時21分

 こちらこそ初めまして。前田さんのブログで御投稿を拜讀してをりました。松原先生の言論人批判にユーモアを感ずるとの御指摘、全く同感です。

 ユーモアと云へば、以前先生がオスカー・ワイルドのこんなエピソードを樂しさうに語られた事があります。ワイルドは勤め人時代、遲刻の常習犯だつた。ある日、いつものやうに重役出勤して來たワイルドに業を煮やした上司が「隨分來るのが遲いぢやないか」と詰め寄つたところ、ワイルド即答して曰く「ええ、でも早く歸りますから」。

 松原先生は、當意即妙の冗談を云へるワイルドは實に頭の良い男だと仰つてゐました。ある文章でバーナード・ショーを引き合ひに出し、文人のユーモアを理解するイギリスの國民性が羨ましいとお書きになつた事もあります。

投稿: 木村貴 | 2006年10月 5日 (木) 13時31分

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 主張の正否は中身で決る:

« 松原正論の註の註 | トップページ | 理想無ければ批判無し »