續・あまカラ氏の誤解
あまカラさんのコメントにこちらで囘答します。
木村さん、ご無沙汰いたしております。本当に久しぶりに書き込みます。
こちらこそお久しぶりです。
私はもはや松原正という人物に関心がないので、彼への批判の当否についてはここでは論じません。ただ、木村さんにとっては物事の「本質」と「瑣末(本質でないもの)」というのが簡単に分けられる、あるいは簡単に判別できるとお考えなのですね。
全てを「簡単に分けられる」「簡単に判別できる」などとは考へてゐません。どうしてそんな「簡単に」私の考へを決め附ける事が出來るのか理解に苦しみます。私は、判別が困難な場合、判別が簡單な場合、及びその中間の樣々な難易度の事柄があると考へてゐます。今囘の場合、判別は比較的簡單だと考へたに過ぎません。あまカラさんは、あらゆる場合に於いて本質と瑣末の峻別は同程度に困難だとお考へなのでせうか。
坪内祐三についてトリビアばかりなどと以前書かれていたのもそういう考え方に基づいてでしょう。ただ少なくとも私はそう考えておりません。両者は表裏一体で交じり合っているかもしれない、少なくとも簡単に分けられるものではないと考えております。人間にとって何が大切で何がどうでもいいかはさほど簡単にわかるものではない、ということです。
簡單に分からない場合もありますが、比較的簡單に分かる場合もあります。少なくとも私はさう考へてをります。さもなければ、例へば新聞記者が限られた行數で何を書くかと云ふ判斷はいつまでたつても不可能です。「何が大切で何がどうでもいいかはさほど簡単にわかるものではない」などと惱んでゐるうちに締切時間を過ぎて仕舞ふでせう。少なくも私にとつて、今囘喜六郎氏に論駁する上で必要な本質と瑣末の區別は、締切の定まつた新聞記事と同程度に容易でした。その區別の仕方が杜撰だと仰るのなら、具體的に指摘して戴かなければ議論になりません。
坪内氏の処女作のタイトルだる「ストリートワイズ」という言葉はあらかじめ何が本質か何が瑣末かを分けてしまう考え方への拒否、そういう精神の表れであったと考えており、私は決して坪内氏と考えがすべて一致するわけでありませんが、この精神には大いに共感しています。木村さんはここで喜六郎なる人物の指摘を「本質的なミスでない」と退けておられるようですが、「それは本質的なミスだ」という反論だって十分可能で、両者の白黒なんて簡単につけられないと思いますよ。
繰り返しになりますが、「『それは本質的なミスだ』」という反論が「十分可能」であると云ふ事を具體的に示して戴かない限り、返答のしやうがありません。だつて私は、そんな反論は決して「十分可能」でないとそれなりの根據を示して主張してゐる譯ですから、何の論據も示さず「十分可能」と云はれたつて困ります。「樂で良いなあ」とは思ひますが。
「何が大切で何がどうでもいいかはさほど簡単にわかるものではない」と云ふあまカラさんの主張は一般論としては成り立つかも知れませんが、個々の議論に於いては「さほど簡単に」分かる場合もあると云ふ事を前提に私は議論してゐるのです。特定の議論で本質と瑣末を比較的簡單に區別したからと云つて、微妙な問題に於いても亂暴な區別をやらかす單細胞のやうに云はれては堪りません。
誤解してほしくないのですが、私はここで木村さんを批判しているわけではありません。福田恆存の言うように、「思想とは本来、論争するものではない」「思想は自らの弱点は弱点として自らを完成するもの」だと思います。たまたま今回の文章で考え方の違いを改めて実感したので書き込んだまでです。
それは奇遇ですね。私も論敵をやつつけるためだけの論爭をしてゐる積もりは全く無いのです。己の弱點を克服する修行の場だと思つてやつてゐます。只の喧嘩にしか見えないとすれば不徳の致すところです。一つだけ云ひたいのは、「さほど簡単にわかるものではない」と云ふ信條を力説する人が、他人の言論活動の動機や意圖をさう簡單に斷定して貰つては困ると云ふ事です。
福田氏は論争のとき、相手の自分と食い違う意見にも常に「あなたの言うことも正しいのだ」と考えてしまう人でした。私も「木村さんの言うことも正しい、だが、私の考え方とは違う」と思っております。だが木村さんはどうやら両者の白黒を簡単につけられると思ってしまう方らしい。だからネット上でつまらない喧嘩ばかりされているのではないでしょうか。
「木村さんの言うことも正しい、だが、私の考え方とは違う」と云ふのはあまカラさんの信條ですね。他人に自分の信條を當て嵌めて、「喜六郎さんの言ふことも正しい、だが、私の考へ方とは違ふ」と云ふ態度をとらない木村を「つまらない喧嘩ばかり」してゐる奴と決め附けるのは、如何なものでせうか。あまカラさんはそのやうな御自分の態度が正しいと「簡単にわか」つた上で御發言されてゐるのでせうか。
不可知論・價値相對主義を己の信條として掲げる人が他人にその價値觀を押し附ける姿は、誠に皮肉ですが、屡々眼にする光景であります。「あなたの考へは正しい」と云ひながら、實は正しくないと云ふ本音を忍び込ませる語り口は、「あなたの考へは正しくない」と明確に主張する態度に比べ、甚だいかがはしいものだと思ひます。
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コメント
価値観を「押し付ける」というほどのものじゃないんですが、木村さんとの考え方の違いを明確にするために書いただけです。私はそう性急に正邪を判定しようとは思いません。
木村さんが「つまらない喧嘩」をしていると思っていることは事実ですが、別に喜六郎なる人物などそもそも相手にしなければいいじゃないか、という程度の意味です。
まあこのへんでやめておきます。
投稿: あまカラ | 2006年10月26日 (木) 09時08分
あまカラさんが「喜」印に何も言はず木村さんにはいろいろ文句を言つたと云ふのは、「喜」印に甘く木村さんに辛く當つたと云ふのでなく、全然逆で、「喜」印をスルーして木村さんをスルーしなかつた、と、さう云ふ事である訣ですか。
日本人の腹藝とか云ふものを理解するのは難しいですね。
投稿: 野嵜 | 2006年10月26日 (木) 19時29分