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2006年10月18日 (水)

英語は學びたい者が學ぶべし

 やや舊聞に屬するが、伊吹文明文部科學大臣が小學校での英語必修化に否定的な見解を示し、贊否兩論を呼んだ。或る人は英語よりも先づ國語をしつかり身に附ける事が先決と云ふ文相の意見に贊意を示し、或る人は語學の習得は幼少時に始めるに如くは無いから小學校での英語教育を飽く迄も實現すべきだと云ふ。私にはどちらの議論も片手落ちに見える。

 義務教育であらうが「高等」教育であらうが、英語を學ぶか學ばないかは子供自身及びその親が決めるべき事である。勉強したければすれば良いし、したくなければ止めれば良い。その結果、或る子供らや親は「英語を勉強して良かつた」「英語以外の勉強に時間を割いて良かつた」と喜ぶかも知れないし、別の子供らや親は「英語を勉強しておけば良かつた」「英語なんぞ勉強せず他の勉強に時間を割けば良かつた」と悔やむかも知れない。しかしそれで良いではないか。誰も他人の人生に責任を負つては呉れない。一度しかない人生を生きるのは自分自身しかゐない。「後悔するかも知れない」と云ふ恐れを常に抱きつつ、覺悟を決めて何かを撰び取る行爲の連續、それが人生に外ならない。

 教育の内容や學校は自由に撰擇出來るやうにすべきだ。現在の義務教育制度では學區が定められてをり、學校を撰ぶ事が出來ない。引越でもしない限り、どんな「偏向」教師や不良生徒がゐる學校でも我慢して通ひ續けなければならないし、どんな好い加減な學校でも公立なら潰れる事は無い。學校を公費で運營するのでなく、家庭に教育費を直接支給し、公立私立を含めた樣々な選擇肢から好きな學校を撰べるやうにすべきだ。それが眞の「個性尊重」ではないか。

 英語を教へる教へないも、學校によつて考へ方の違ひがあつて良い。英語を勉強したい生徒は英語の授業のある學校へ行けば良いし、他の科目に時間を割きたい生徒は他の學校を撰べば良い。さうすれば少なくとも「英語を教へるべきか教へないべきか」などと云ふ不毛な議論を國會で延々としなくて濟むやうになる。いつその事、教科書檢定などと云ふ代物も無くし、教科書を學校や學級で自由に撰べるやうにすれば、政府が「近鄰諸國」から教科書の中身について文句を言はれる心配も無くなるだらう。

 教育「制度」は政治の領域に屬する事かも知れないが、教育そのものは道徳の領域に屬する事である。どんなに立派な制度、校舍、教科書を揃へても、立派な教育が出來る譯ではない。だから義務教育を含め、政府に教育を任せるのは間違つてゐる。

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